−左之助の災難 3− 1 2 3 4 5 6 (全)

<3>


 右喜念願の貴族の朝ごはん風昼食が済み、剣心は三人に後を任せて一度家に帰った。家事や雑用や何やかやをしていると、あっという間に夕方の出勤時間となる。
 自転車で片道二十分の通勤路を疾走し、午後四時ちょうどに東谷家に着いた。
 家には央太ひとりだった。
「お姉ちゃんは布屋さんに行ってる。晩ごはんまでに帰るって。お兄ちゃんはごはんいらないって。今日は帰らないかもって言ってた」
 今日の実験を早速まとめていたという央太が、二人の伝言を剣心に告げた。
「あ、うん、わかった。ありがとう」
 増しこそすれ、薄れることの決してない罪悪感が剣心を刺す。
 「かも」でないのは知っている。
 左之助は剣心の家に居る。来たのは三時前だったか。
 家で皆でいる時と二人でいる時と、どちらかが本当でどちらかが嘘というわけでもないだろう。
 だが、ラグに転がって目をつぶった様子がひどくくつろいで見えて気になった。
 無理をしているのかと訊くと、そういうわけではないと言う。
「ちょっと疲れっけどな」
 ほろ苦い微笑に、それを無理というのだとは言わなかった。
 それ以上とくにこれといった話をするでもなくごろごろして、気がつくと二人ともうとうとしていたらしかった。起こさないようにそっと離れて家を出た。
 いつになく歯を食いしばるようにしていた寝顔を思い出す。影の落ちた目の下が、これも左之助には珍しく、うっすらと黒ずんでいた。
 時尾が三人目を身ごもっている。
 現在妊娠六か月で、じき産休に入る。それと前後して、秋には本店だった神戸店の方を閉め、大阪店に一本化する予定だという。
 「海屋」は転換期にあるのだ。
 今は比古と斎藤が「さよなら神戸店スペシャル・比古社長と潜り倒そう!怒涛のシパダン&カパライツアー」とやらで店を留守にしているらしいが、帰国後はさまざまなことが一気に動き出すだろう。
 去年の秋にインストラクターになってもうすぐ一年。「将来」が、今では厳然たる現実となって左之助の前にある。
 どうするのだろう。どうなるのだろう。そして自分はどうしたらいいのだろう。
 少しぼんやりしていたらしい。
 いつのまにか右喜が帰っていたのに気づかなかった。
「どしたの剣ちゃん。またムズカシイ顔して」
「んー? いや、台風来ないといいなーと思って」
 咄嗟に誤魔化して取り繕ったのだが、思いがけない反応が返ってきた。腰に手を当てて胸をそらした右喜が、チッチッチッと指を振って言ったのだ。
「いかんよ緋村クン。考えても変わらない事なら考えないことだ」
 誰かを真似ているのだろうが、生憎剣心には元ネタが判らない。
「キミがいま考えないといけない事は他にあるだろう? 明日の打ち合わせの準備とか、次の企画のこととか、現場のリサーチとか。もっと実際的になりたまえ」
 なるほど、オリジナルは職場の上司か。判らないはずだ。
「って、あたしがいつも言われてることなんだけど」
 と、「右喜」に戻って、からりと笑った。
「でも結構そうだなーって思うわけよ。自分の仕事は自分でしないとさ、泣いても逃げてもやるまで終わらないけどさ、どんだけ考えたって意味のないこととかってやっぱあると思うのね。ほら、明日の天気とか台風の進路とか……」
 と言って少し考え、しかつめらしく眉を寄せて、
「台風の進路とか、台風の進路とか?」
 三回目を言いながらぷっと噴き出した。つられて剣心も笑う。
「今日ごはんナニ?」
「んっとねー、豚冷しゃぶのビネガーソースと、夏野菜のコンソメスープ」
 右喜が訊き、剣心が笑いの残る声で答えた。
「きゃん、おいしそう。準備するー」
 右喜は急ぎ足で手を洗いに行く。
 その背中を見る剣心の中に、黒い染みが小さく残った。


 食卓の用意がほぼ済んだ頃に上下衛門が帰宅した。烏の行水が終わるのを待って夕食となる。
 右喜が時計を見上げて上下衛門に訊いた。
「ニュースつけていい? 台風来てるって」
 この家では、食事時はテレビをつけない。
 父が頷くのを見て右喜がテレビのスイッチを入れ、ニュース番組にチャンネルを合わせると、すでに七時のニュースが始まっていた。
 キッチンから何気なくテレビに目をやった剣心の動きがぴたりと止まる。冷蔵庫のドアに手をかけたまま、呆けたように固まった。
『―――には複数の日本人が含まれていると見られ、政府は情報の収集と人質の安否確認を急いでいます』
「………え?」
 画面が切り替わる一瞬の空白に、剣心のものとも思われないほど細くしわがれた声は異様に大きく響いた。無意識に口からこぼれた声にこもった何か普通でない気配が、食卓の三人の目をキッチンに吸い寄せた。剣心は茫然とした表情で画面に釘付けになっている。
 右喜が口元をひきつらせて言った。
「ってウソ、まさか関係ないわよね。だって……」
 答えない剣心の硬い視線に促がされるように、全員の目がテレビに戻った。
 映像はすでに切り替わり、画面には台風進路予想図が映し出されているが、彼らの目には数秒で消えた先の字幕が離れない。
『マレーシア海域に海賊 邦人ダイバー10数名拘束か』
 剣心の手は無意識のうちに冷蔵庫のハンドルをきつく握り締めていた。
「ってだって海賊ってなによ。今どきそんなのいるの? なんで。冗談。映画? ありえない」
「ありえねえのはおめえだろ」
 渋面で娘を指したのは上下衛門だった。
 海賊という呼称が異なる印象を与えているだけで、実体は海洋テロリストである。使う船舶はもちろん帆船などではなくエンジンを積んだ高速船で、多くは重装備の武器武装をしている。
 一九九九年のアロンドラ・レインボー号事件をはじめ、過去に日本関係の貨物船がハイジャックされた凶悪事件もあり、一部では記憶に新しい。
 だが、それはあくまでも一部の特別な人にとっての話である。
 現代日本で暮らす多くの日本人にとって、それは遠い世界のどこかで匿名の誰かの身の上に起こった出来事にすぎない。
 一般市民である自分の生活には関係しないはずの、報道の中の事件のはずだった。無論ない、と答えられればよかった。怖いね、と眉をひそめて言い合えればよかった。
 だが。
「海屋のツアーが、シパダンに行ってる」
 誰にともなく呟く声が、自分でもわかるほどに震えていた。
「シパダン? どこ?」
「ダイビングで有名な島だ。マレーシアの。何年か前に………海賊がダイバーを、拉致した」
 ダイニングに重い沈黙が落ちる。
 ニュースの前半を聞き損ねた。事件がマレーシアのどこで起こったのかがわからない。右喜が慌ててチャンネルを回したが、他局でニュース番組はなかった。
「ネット! あたし見てくる!」と、右喜が自室に走った。
 もう食事どころではない。
 突っ立ったままの剣心の背後で、上下衛門が央太に「左之助は」と訊ね、央太が彼の伝言を伝えている。
「電話してみます」
 硬い背中を向けたままそう言って、剣心は携帯電話の電源を入れた。
 数回の呼び出し音の後に「おーどしたー? あ、もしかして何回か掛けてっか? 充電中で電源切っててよー」と、呑気な声が聞こえた。
 剣心が事態を説明している間に、右喜が白い顔で戻ってきた。
「シパダン。そこ。でもちょっと前に速報出たとこみたいで、詳しいこととか全然わかんない」
 剣心は右喜に目で応えて、それを電話の向こうの左之助に伝えた。
 ツアーの宿泊先はシパダン島からボートで十五分の海上にある水上リゾート施設カパライである。だが、これは数年前からシパダン島での宿泊ができなくなったためのいわば代替策で、日中はシパダン島を訪れ、ダイビングはリーフ、インターバルはビーチでの休憩となる。海賊がダイバーを人質にしている以上、巻き込まれた可能性は極めて高い。
 さらに何度か言葉を交わして電話を切ろうとしたとき、上下衛門の合図が見えた。
「待て。東谷さんに換わる」
 「とりあえず店に向かうそうです」と言いながら電話を手渡す。
 今日は時尾がひとりで店番をしていたはずだ。店はもう終わる時間だが、この非常事態にそれどころではない。しかし、よりにもよって身重のこんな時に。
 「誰が行ってんだ」と訊ねるところは聞こえたが、あとはよく聞こえない。二人のやりとりは短かった。
 そして携帯電話を返しながら、上下衛門が言った。
「剣心さん」
 あらたまった声、真剣な目つき。
 滅多に見ない顔だった。
「はい」
 思わず背筋が伸びた。
「あんた知ってんだろ、海屋の社長さん。斎藤さんも」
 剣心は電話を受け取った手もそのままに、じっと上下衛門を見つめる。
 だが、深い色の目に、感情は読めない。
「えっ、ほんと? うそ、あたし聞いてないわ?」
 背後で右喜の声がした。
 当然だ。
 言ったことはない。
 なぜそれを上下衛門が知っているのだ。
 左之助が漏らしたか。いや、それはない。
 責めるわけではない、だが容赦のない視線を見返し、肚を決めた。
義父(ちち)です」
「お?」
「比古は、おれの養父です」
 さすがに予想の範疇になかったのだろうか、上下衛門は黙って目を瞬かせて剣心を見る。
 そしてひと呼吸おいて、「道理で」と、顎をさすった。
“道理で”―――?
 今度は剣心が意表を突かれてせわしなく瞬いた。
 ちょっと待て。ここは納得するところではない気がするのだが。
 現に反対側では右喜が「お父さんってナニ!」「どうして黙ってたの」と、もっともな科白を一人で担当している。
「道理でって、どうして……。ご存知だったんですか」
「いんや? だがまあ普段の話きいてりゃあ、何となくはよ。それにあんたらそっくりだしなあ」
「は?」
 そっくり?
 とは一体?
「あんたあ人当たりのいい小型比古さんみてえだし……。そうかい、なるほどねい。いやあ、古い知り合いだとは思ってたが、しかしまあ親子とはなあ」
 上下衛門はひとり得心顔で頷いている。
 軽い眩暈がして、剣心の身体がゆらりと傾ぐ。
 なにがナルホドだ、てやんでえ。
「似てるなんて、そんなこた、生まれて初めて言われましたけど。ていうか血は繋がってませんから」
 つられて妙な似非江戸っ児言葉になった剣心を、上下衛門が短く笑う。
「氏より育ちってえわけかい。しかしまあ」
 とまで言って口を噤み、すっと真顔に戻った。
「っと、そんなこと言ってる場合じゃねえ。おい、あんたら他に家族は。親戚は。早いとこ連絡してやんねえ。それからアレだ、警察……でもねえな、なんでえ、どこだ?」
「えー、大使館とか?」
 剣心の間延びした答えに、右喜が後ろから鋭く突っ込む。
「大使館ってなんで。っていうかどこのよ。やっぱ警察……あ、自衛隊? それかなんだろ、テレビ局とか」
 わけもなく右往左往していると、しばらくして剣心の携帯電話がウイーンウイーンと唸りだした。
 他にかかってくる当てのない電話だ。表示を見もせずにボタンを押す。
「はい」
 意識してだろうか、いつもよりゆっくりと左之助が話す内容を、復唱しながらメモに取った。
「ああ、そうか、外務省か。お前よく気付いたなあ。え、時ちゃん? そっか、さすが。おれ達、警察かなとかそれは違うかなとかって………え? お前んち。いいんだ、話した。うん」
 最初の衝撃が去ってみれば、意外と落ち着いているらしいことに気づく。
 電波を通して聞く左之助の声は、現実のそれよりも少し平板で音が割れる。
 悠長にそんなことを考えながら、メモ用紙と鉛筆を手元に置いた。
「で、なに、どこって。ちょ、聞こえ……お前電車か? いかんだろ、電話なんか。デッキ? 新幹線じゃないんだから。ていうかなんで電車? は? ああ……」
 足の怪我をかばってかと思えば、そうではなく、さっきの電話で上下衛門に言われたのだという。
 ちらりと後ろを見ると、その上下衛門は、右喜と「ああ、外務省」「なるほどね」と言い合っているところだった。
 剣心の手にある鉛筆の先がメモ用紙の余白に二等辺三角形を塗りつぶしていく。
 鉛筆の先は少し丸い。鉛筆。この家には鉛筆があるのかと、今さらながら新鮮に感じた。ずっとシャープペンシルばかりで、木の鉛筆など久しく使っていないのではないだろうか。
「そうだ、ウラムラさんてどんな字? いや、だってなんとなく。“裏表のある人”の裏かな、“壇ノ浦”の浦かな、とか」
 そういえば壇ノ浦といえば何とか水軍が来たとかなんとかいう話だった気がする。
 海賊による拉致拘束。
 非常事態だと頭では理解しているつもりだが、どうも非常事態すぎて感情がついてこないらしい。
「何ってあるだろ平家物語とかさ。え、知らないのか? 日本育ちのくせに……は? ああ、いる。けどなんで?……ハイハイハイ了ー解」
 と、顔を上げた剣心が、右喜に電話を差し出した。
「左之」
 右喜も首を傾げながら受け取り、耳に当てる。
「もしもし?」
 声に疑念が出た。少し目を泳がせ、うろうろと歩きながら短く受け答えをする。
「え、どうって別に普通……えー、わかんないけど、でもだってそんなこと言われたって。あ、うん、もうそんな忙しくないし、央太も夏休みだし。なによ、そんな言い方ないでしょ。ていうか、いない人にそんなこと言われたくありませんー!」
 捨て科白を残し、ぷりぷりと怒りながら今度は上下衛門に電話を回す。
「おう。なんだ」
 こちらは端的なやりとりが何度かあって、上下衛門の話は終わった。
 携帯電話を受け取りながらまともに視線が突き刺さる、さっきとよく似た状況に既視感を覚える。
「剣心さん、あー、あんたもアレだ、あっちに―――海屋に詰めといたらどうだ」
「は?」
「いや、あっちの方が情報も早いだろうしよ。あの馬鹿一人じゃ手も頭も回るめえ、手伝ってやってくれりゃ」
「え、でもだって別にそんな」
「剣ちゃん、仕事とかなら気にしないで。こっちはあたしするから。そんなに忙しくないし、央太も夏休みだし」
「っていうかだって……」
 二人の口調になにか違和感を覚えて口をつぐんだ。そういえばさっき右喜は電話でもさほど忙しくないとか、夏休みだしとか、そんなことを言っていた。
 父娘のなにやら切迫した表情をぼんやりと見つめ返す。
 はて、と首を傾げたとき、節の立った硬い手が剣心の肩をがしりと掴んだ。
「おい、大丈夫か」
「え?」
「どっかからの連絡に備えて家にいた方がいいのかもしれねえが、居場所がわかってりゃ構わねえだろう。海屋でもここでもいいから、とにかくあんた一人でいるのはよくねえ。な」
 さっき以上に真剣な強い視線を見ているうちに、自分の指先が冷たく震えていることに気付いた。膝も固まっている。肩を掴んでいる手を、とても力強く感じた。
 しわ深い顔は多分左之助に似ている。違うものを見て、違うことを考え、違う人生を生き続けて、それでもなお似ている。思えばそれは凄いことのような気がした。
 固く目を瞑り、ゆっくり三つ数えて目を開ける。
 深く息を吸って下腹に力を入れた。
「店に行きます。時ちゃんも心配ですから」
「高木さんも知ってんだな」
「おれが取り持ったんです、あの二人」
 そうか、と答えた目尻に小さな笑い皺が数本できた。
「っし」
 上下衛門の両手が剣心の肩をぱんと叩いた。
「ひとりで大丈夫か?」
 まるで子ども扱いだ。
 なんとか笑いながら頷く。
「すみません。何か判ったら連絡します。あ、そうだ、桃。冷蔵庫に桃が冷えてるから、デザートに食べて」
 桃、と言いながら右喜に目を移してそう言うと、右喜は呆れた顔をつくって、「了解」と敬礼の真似をした。そして、何かを思いついた様子で「ちょっと待って。央太」と弟を連れて自室に走った。
 ひとしきり騒がしい物音がして、戻ってきた右喜の手には大ぶりの紙袋。
「これ」
 と、既にかっぽう着を脱いで準備も終えていた剣心に、その紙袋を持たせた。
 なにやら色々と入っているらしくそこそこ重いが、袋が二重で中身は判らない。
「なに?」
「玉手箱。ねえ剣ちゃん、お兄ちゃんにも言っといて。考えても変わらないことは考えない。キーワードは実際的。オケー?」
「………」
「どツボったら、二人でこれ開けて?」
 真剣だった顔に、いつものおてんばな笑いが浮かんだ。雲の晴れ間のように鮮やかな、少し兄に似た強気な笑顔。その姉の横で、物問いたげだった央太の顔も小さく緩んだ。子どもらしいような大人びたような、それもまた誰かを思い出させる。
「気に入ったのあったらあげる」
「え?」
「それとこっちは気にしないで休んで。あたしするから。ね?」
 心強い三人の眼差しに送られて、東谷家を後にした。
 生温い夏の夜を抜けて一旦自宅に帰り、必要そうなものを手当たり次第に鞄に放り込んで家を出る。マンションのエントランスを出たところでふと思いつき、着替えを取りに戻って、今度こそ駅に向かう。

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