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たまには怒ったり叫んだり泣いたりなんかもしてほしいとは思っていたし、緋村さんとこうなりたいとも思っていた。思っていたというか、考えることといえばそんなことばっかりだったが、そんなのおれみたいな年頃の健康優良男児には普通のことだ。男なんて所詮そういう生き物なのだ。というか動物としてそれでいいのだ。そして緋村さんとの今回のこれはある意味では瀬戸際の勝負だから甘いことを言ってはいられないとも思ってはいた。
とはいえ、こんな風に泣かせたかったわけではなかったのに。
あれだけ充分(すぎるほどに)準備をしたにもかかわらず、そして緋村さんもできる限り努めてくれたにもかかわらず、どう向いてもどこから挑戦してもうまくいかなかった。
たとえばこれが新品の生ジーンズなら、他人の手を借りてでも強引に身体をねじこんでジーンズフックなり何なりでボタンを留めてしまえば、最初は苦しくてもじきになんとかなる。初めは硬くてキツキツで膝も上がらなくて痛いほどでも、履いて動いているうちに身体に馴染んで自分仕様にこなれていく。
けれど相手は人間で、しかも緋村さんなのだ。
そんな強引な力わざで痛い思いをさせるようなことはしたくない。
なかった。
なかったのだが、おれがもはや今日は諦めるしかないのかと思い始めたのを察した緋村さんに怒られたのだ。ついでにお説教までされた。「人生一事が万事」だそうだ。どうやらおれたちの初体験はどこまでいってもコントらしい。
そんな年上ぶった場違いなことを言いながら、それでもさすがにちょっと青い顔をしているのは気づかなかったことにした。
しかし実はおれの方も負けず劣らず決死だったようで、本当ならそこからが頑張りどころだというのに、ようやく最初の段階をクリアしたところで二人して思わずほっとしてため息をついてしまって目が合った。
やっぱりコントだ。ほら、緋村さんも笑ってる。
表情の少ない緋村さんだが、それでも一番見る機会が多いのは笑った顔だ。
嬉しいとき、楽しいとき、ごくごくそっと、とてもきれいに笑う。
だがこんな笑顔は見たことがない。
さっきからとにかく泣き通しというか泣かされ通しの緋村さんは、涙やら汗やら何やらで顔中ぐちゃぐちゃで髪もさんばらばんでまるで時代劇の落ち武者だったが、そんなことは関係なく、これまで見たどんな緋村さんとも違っていた。
白でも黒でも表でも裏でもフェイズワンでもツーでもなんでもかまわない。そんなのもうどうでもいい。そしておれは力いっぱい緋村さんを抱きしめる。
ところで、サッカーの試合で三対一なら勝ちは三だし、マラソンで一と三なら一の勝ちだが、こういう場合の一対三はどっちが勝ったということになるのだろうか?
緋村さんはそれが年の差だと言った。
おれは気合いと意気込みの問題だと思う。
ま、そんなことはそれこそどうでもいいか。
「そうだろ? 剣心」
ほとんど気を失うように崩れ落ちた緋村さんから応えがないのは承知のうえで、口移しに訊いてみた。
*
「緋村さん?」
泣きはらしたまぶたがぴくんと動いて、持ち上げるのさえ大儀そうに半ばで止まった。
潤んでにじんだクロマトグラフィーがおれを見る。
「おれってそんなにひとりごと多い?」
こっくりとうなずく仕草がぐずり疲れた幼児のようで、さっきまでの奔放さが嘘のようだ。
「寝言も?」
こくん。
頬はまだほの熱かったが、白く乾きかけた涎の跡は軽くこするとパリパリと剥がれた。
「そっか……」
寝ながらよく喋っているとは言われていた。話しかけるとちゃんと返事もするらしいが、多くの場合自分では無意識だったり夢だと思っていたりするので、それをネタにからかわれることもしばしばだ。
「入れてくれって?」
少し間があって、またこくり。
「“挿入れてくれ”だと思ったんだ?」
今度はぱあっと頬を染めて、緋村さんは小さく小さくこっくりをした。
………あれ?
かすかな違和感が頭をもたげる。
「でもずっと言いまくってたのに? おれはされたいんじゃなくてしたいんだって」
「でもさのは……寝言のが、ほんとだから……」
言い出しかねて無理にそう主張しているか、あるいはおれ自身も気づいていない潜在意識の本心が寝言に現れたのだと考えたらしい。
「だからおれ……む、むりやりみたいな方が……さのが、気持ち的にラクだと思って……」
まちがいない。
フェイズスリーだ。
こんな初々しいような可憐で純朴な恥じらいも、あどけないような子どもっぽい口舌も、これまでの位相には存在しなかった。
一体いくつまであるのかは大いに気になるところだが、多分本人も知らないだろうから、それは訊いても詮がない。
「それであれ?」
くだんの緋村さんおれ強姦未遂事件である。論理の飛躍がさすが緋村さんではあるが。
「つうか緋村さんその考え方ってかなりやばいし」
あんなどうとでも取れる片言を論拠にそこまでするとは。
思い込みで犯罪に走るタイプだ。絶対そうだ。
「でもじゃあなんで途中でやめたわけ?」
もう高校は卒業していたし、おれは本当に身動きもできない状態で気も動転して硬直したままパニックの真っ只中にいたというのに。
それにしてもこのフェイズスリーの緋村さんを標準モードの緋村さんが見たらどう思うだろう。きゅっと唇を噛み込んで目をしばたたく仕草も、はにかみながら顔を背ける様子も、舌足らずな口振りも、平生の緋村さんの対極のさらに彼方の地平にある。
見惚れている間にかすかな呟きを聞き逃してしまった。
え? なんて?
「………った」
は?
「わか……なか…た」
え?
“分からなかった”?
何が?
何が。
何がって、もちろんナニがだ。
どうやら事前に「勉強」しようとしたが正視に耐えず、よくわからないまま犯行に及んだらしい。やってみれば何とかなるかと出たとこ勝負で挑戦してみたものの、やはりわからず仕舞いに終わったという。
すごい。
すごすぎてリアクションに困る。
「ていうか緋村さんさー。そもそもおれ相手に、えーっと……」
やるとか勃つとか突っ込むとか掘るとかいうような表現への嫌悪感が著しいのはフェイズワンの緋村さんだけなのかもしれないが、逆にこのフェイズスリーのひとにそんな言葉を投げつけるのはおれが無理だ。
「つまり……ムラムラしたわけ?」
スキンシップやキスが嫌いでないのは感じていたが、だからといってそれがおれのように下半身に直行しないのも薄々知ってはいた。眉を寄せて首を傾げた様子から察するに、やはりとりたてて強い欲求があったわけではなさそうなのだが。
「んー。ていうか……」
ふわりと開いた目がおれに向く。
おれの大好きな目の不思議できれいな輝きは、言動が変わっても変わらない。
目頭についた目ヤニをそっと拭ってやると、触れた方の目だけが下まぶたから少し細まった。
「よく判らないけど……でも、さのがそんなに……し、したいならって……」
それがお前の望みなら叶えてやろう。
あのときあの緋村さんもそう言った。
今なら判る。
積極的に興味はなくとも、映画を見たり小説を読んだりしていれば、目にもつき知りもする。昔のエキセントリックなキスに似てタックルじみたスパルタご奉仕だったのは、耳学問の見よう見真似だったからだ。
フェイズツーの緋村さんは積極的で奔放で情熱的ではあったが、実はイケイケのバリバリなのだとういう黒相楽くん説は完全にデマだった。
男はもちろん多分女も知らない人が、されたことさえないそんなことをいきなり実行したのだ。あの堂に入った捨て台詞からは想像もつかないショッキングな心理状態下にあったにちがいない。
―――やばい。感動しすぎてムラムラしてきた。
「……さの?」
もしもし三人目の緋村さん? 今のおれにそんな首を傾げて上目遣いとかはやめた方がいいと思うんですけど?
「あの、今度は交代な?」
「………ハ?」
今度? 交代? なにが?
「ほ、方法さえ分かればおれも大丈夫だと思うし」
だからなにが?
ぼんぼりが灯ったようにぽっと頬を染めた緋村さんは劇的に可愛く魅惑的ではあるのだが……。
「だってほら」
―――嫌な予感がする。
「せっかく男同士なんだし」
“せっかく”?
“せっかく”とは?
なぜそこで“せっかく”?
「だからさ、別に、ど、どっちでも……」
「…………」
「オッケーなんだって……思って」
―――“せっかく”?
「……だろ?」
「…………」
「別にこれで決定ってしなくてもさ」
い!い!え!
いいえいけません! 決めます決めなければなりません! というかもう決まってます決まりました決定事項です変更はできませんのでご了承ください!!
ていうか、じゃなきゃさっきのあの奇跡の大学合格以来のおれの奇跡的頑張りはどうなるんだ!
「でも何事も経験だってお前いつも言ってるじゃないか。高校んときから煙草もお酒も他にもいろいろ悪い遊びもしてたしさ。こういうのもなんか……すごい慣れてるみたいだけど。でも、こ、これも結構悪くないもんだぞ?」
悪くないなら全然いいじゃないですかこのままで!
「だからお前にも教えてやりたいんだろー。ほら、綺麗な景色とかに出会ったらさ、あー左之にも見せてやりたかったーって思うし。美味しいもの見つけたり、映画とか面白かったりとか、今度左之と一緒にって思うし。……おれだけか? 左之はそんなこと思わないのか?」
思う思う、思います。つうか、そんなんいっつもめっちゃ思ってます。
そしてあの無表情アイスエイジの緋村さんが能面下でいつもそんな風に思ってくれてたなんて、こんな状況でさえなければ有頂天ラリホーな科白なんですけど、でも!
「だろ? ほら、だからそれと一緒でさ」
ちが―――う!
全っ然ちがう!
それとこれとはちがうんだよう緋村さん……。
頼むからそんなあどけない顔してそんな恐ろしいことを言わないでくれ。
ああもう。
だからあの時あんなに念を押したのに。
土壇場に及んで改めて
諾わせはっきりそう言わせたのは、これが勝負だったからだ。結果を成り行きに流してしまいたくなかったからだ。根負けして乞うまで粘ったのは、後から「どさくさだった」とか「よく覚えていない」だとかいう口実で問題を白紙に戻されては困ると思ったからだ。助平根性で悪戯ごかしに強いたわけではない。断じてない。
実を言うと、少し過ぎたかと良心の呵責を覚えていた。
緋村さんはさっきからくったりと力なく横たわったままで、ごくわずかに身じろぎするだけでもいちいち顔をしかめている。しかも強く押すだけでも跡の残る多感な肌には赤黒い斑文がたくさん散っていて、きれいな桜色だった乳首は真っ赤に腫れて、片方など微かに歯形まで残っていて、肘や膝もこすれて赤くて、それにあちこち色々とにかくベタベタで、もう見るからに痛々しい。何もかも初めてだった緋村さんにいきなりあんな凄……酷いことをしたりさせたりするなんて、いくら情熱的なフェイズツー仕様に自制を剥がされた部分もあったとはいえ、もしや実は黒相楽くんの方がおれの本当の姿だったんじゃないかと軽い疑心暗鬼と自己嫌悪に陥りかけていた。
しかもこのフェイズスリーの緋村さんはあんまり純朴で初々しくて、おれの罪悪感にさらに拍車をかけてくれる。
んが。
まとう風情がどんなにあどけなくても可憐でも、やっぱり緋村さんは緋村さんだった。
「ごめん、けど今は無理……」
ひとの話を聞けー!
「また今度な……」
今度はいいから!
……いやそうじゃない、よくはない。
“今度”はいる。いっぱいいる。いくらでもいる。いつでもいる。ただし交代はなしでよろしく、だ。
えーっと。
「緋村さん?」
「?」
「いやじゃなかった?」
「?」
「こういうの」
「こういう……?」
「うん、こういうの」
ゆるく開いた唇に触れるだけのキスをする。
少し乾いてカサついていた。
「すごい疲れたけど……いやとかはない」
「でもおれ、酷いこといっぱいした」
「ああ、それはされた」
「………ごめん。謝んねえけど」
「まったく。これだからお子さまは」
矛盾したおれを緋村さんは鈴の音のような笑い声で許してくれた。
仕方ないなあーというように眉を下げた緋村さんは、子どもっぽいくせにお兄さんぶって見えた。
「痛そうだったし」
「あ……と、うん、まあそれは……。けどでも……」
またぱあっと恥ずかしそうに染まったのは、その「痛かったけどでも」なさっきのことを思い出したからか、「でも」の続きに浮かんだ言葉のせいか。
とりあえず確実なところとして、少し色がおさまったところでちょっと怒った風になったのは、これは多分照れかくし。
「…………じゃなかったら、交代とか言わない」
「…………」
「ちょっと寝る……」
「え、あ、うん、おう、そりゃ。あ、でもえっと、風呂とか入る?」
「ん、後でいいや」
「ベタベタして気持ち悪くね? あれだったらおれ運ぶしさ」
おれがそう言うと、緋村さんは天使の微笑みでぷるぷると首を振った。
もしかしてこのフェイズスリーはフェイズツー以上に悪魔な位相なんじゃないだろうかという思いがさっと頭をよぎったのは、次に緋村さんがこう言ったのを聞いたときだ。
「じゃあ、後で一緒に入ろ」
そしておれの親指を握るとゆっくり目を閉じ、雪がとけるようにそっと寝入った。
そうやって眠るとどの緋村さんも同じになる。
人間離れして美しい。あの強烈な目が閉ざされて感情が消え、俗なものを寄せつけない超越したものになる。
おれは感動していた。
何に?
何にって、何もかもにだ。
いつも「少し」だと思っていた緋村さんは本当は「すごく」だった。クールで理性的なだけでないさまざまな面があった。いつもは抑えて出せない自分をおれに吐露してくれた。緋村さんもおれを求めてくれた。
無下にねじ伏せられたと思ったのは誤解だった。ただおれの欲求を満たしてくれたいがために、多分決死の覚悟で為されたことだった。そのために、結局正視もできないようなものを見ようとまでして。そして今ではおれがそう望むからではなく、緋村さん自身がおれに触れることを望んでいる。
どうしよう。
嬉しくてたまらない。
たしかに、普段の緋村さんは表情や感情表現が少なく、話し方は書いた文章のようだ。勘違いな思い込みでおれを強姦しようともした。かと思えば、とても素晴らしい体験だったから次は交代しようなどという斬新な提案を持ち出して度肝を抜いてくれたりもする。
だが、このひとのそんな的外れな愛情表現が、普通の一般的な愛の告白や甘い触れ合いなど比較にならない程たまらなく愛おしいとしたら、これはもしかしておれも緋村さんに感化されて一般常識の範疇を逸脱しつつあるということだろうか?
「緋村さん?」
静かに眠る毛先に触れながら息差し程度の音量で呼ぶと、ゆるくほどけていた唇がかすかに動いた。声は聞こえなかったが、口の動きはおれの名を唱えたと思う。そして小さく身じろいで、握り込んだままのおれの指を大事そうに引き寄せた。愛おしさがこみ上げる。
「なあ、剣心……。セックスってさ、快楽じゃなくて
幸福だったんだな」
この世のすべてに感謝を捧げたいほどの。世界の平和を祈りたくなるほどの。
「知らなかった……」
「なにを今さら」
「わ」
熟睡していると思ったから話しかけたのに、底知れないクロマトグラフィーがいきなり口をきいた。
「ラブイズピース。ジョンとヨーコは出会ったんだ……」
「………は?」
言ったと思ったらぱちりとまぶたは閉じ、緋村さんはすやすやと眠り続けている。
これですか。これが寝言で会話ってやつですか。
なるほどたしかに興味深い。深いが、しかし今の緋村さんはどの緋村さんだったろう?
毅然と断言したようにも夢想の流出にも聞こえた。少し舌がもつれていたが、それは寝言だからかもしれない。言葉遣いが文語風だった気もするが、判じるには片言すぎる。不思議に深い目の光はどの位相も変わらない。
つかみどころのなくなった寝顔に手がかりを探りながら、ふと思った。
そういえば去年の夏の間ずっと見ていたのはこんな風な緋村さんだった。無表情で無反応で得体が知れなくて、つかみどころがなかった。
手が届かないから憧れたのでなかったことは、知れば知るほど自覚した。
夢は見るものでロマンは追うもの。だが叶えて悪いわけではない。
次に目覚めたらどんな緋村さんなのだろう。
とりあえず風呂に誘ってみよう。もしかしたら一緒に入れるのかもしれない。
端整で水際立った寝顔を飽きず眺めて、おれは静かな眠りの番人になる。
END/2006.08.16
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