−ひねもす。4 −1 2 3 4 (全)

<4>


 目が覚めて、最初に見えたのは左之助の膝だった。
 胡坐をかいた膝の片方が、横向きに丸まった剣心のちょうど目の前に、岬のようにせり出してある。
 そして壁に目を転じて、あれ、と思った。まだ日付も変わっていない。
 あんなこと言ってたのに。なんだ、じゃあ別にそんな怒ってないんだ。やれやれ。
 もう一度目を閉じて、とろりとした気だるさにたゆたう。
 そうして、投げ出された自分の手が、左之助のくるぶしあたりに乗っていたことに気づいた。指先は左之助の手に包まれている。
 薄目を開けてうかがうと、左之助も目を閉じていた。だが、首はしっかりと伸び、顔は真っ直ぐ前を向いている。眠っているわけではなさそうだ。
 瞑想する表情が、今度はあの名前のない不安と愛しさと哀しさを剣心にもたらす。
 できることが何もない。だが左之助をその厳しくて険しそうなところに一人にしておけず、といって声もかけられず、寝ているふりをして、額を膝にすり寄せた。
「ん……」
 指先にあった左之助の手が少し動いて、片方が離れた。そして頭にのせられる。ゆっくり頭を撫でる手は、さっきとは別人のように優しい。
 嵐の最中はただただ過ぎるのを待つ以外に何を考える余裕もないが、台風一過のこのぬくもりは、嫌いではない。
 御苑でまどろんでいたときの感覚に、少し、似ている。
 新緑の中から降ってきた笑顔を思い出して身じろぎしたとき、現実から声が降ってきた。
「なあなあ。今まで行ったとこで、どこが一番よかった?」
「え?」
 と返したつもりが、喉がかれていて、声にならなかった。
 乾いた咳をしてから、なんだ突然、と言い直すと、左之助はくすくすと笑った。
「すんげー声」
「お前が言うな。変態、鬼畜、ケダモノ」
「可愛い剣ちゃんはタヌキだし?」
「…………」
「なあなあなあ」
「……コーン」
「それキツネ。そんで、どこ?」
 右手で頭を撫でながら、左手で剣心の手を揺すりながら、左之助が甘い声でせがむ。
 剣心がごそりと動いて笑う。
「陸で? 海で?」
「海、海」
 んー、と、剣心は目を閉じて左之助の膝に鼻を擦りつける。
「ナニしてんの」
「タヌキ考えるのポーズ」
 左之助が声を立てずに笑うと、触れ合っているところからその振動が剣心に伝わってきた。
 首を起こし、頭を膝に乗せて、顔を見上げる。
「やっぱサイパンかな」
「サイパン」
「グロット」
 グロット。
 と、サイパン屈指の、否、世界屈指の海中洞窟の名を、左之助が繰り返す。口の中で噛んで含んで、目を閉じる。そうすれば何かが見えるとでもいうように。
「水がさ。青いんだ」
 剣心が天井のさらに上を見つめて、言葉を続けた。
「ほんとにすっごい青で。なんべん潜ってもびっくりするくらい、もう、とにかく青くて………」
 その透き通る深い濃い、無二の青をどう言えばいいのか、剣心にはわからない。
 群青。瑠璃色。紺碧。コバルトブルー。サファイアを溶かしたマリアナブルー。
 どんな言葉も足りない。
 それはそうだろう。名前が色をつくったのではなく、海が先にこの世にあったのだから。
 剣心は言葉を失って、もどかしさに眉をひそめた。
 左之助の瞼が開いて、剣心を見た。
 濡れた黒の、それもまた海のひとつの色だった。
 剣心の知るもっとも深くて暗くて冷たくて残酷な、にもかかわらず無限に受け入れる、絶対の海。
 見つからない言葉を捜すのをやめると、素直な気持ちがこぼれて出た。
「きれいなんだ。 すごく。 ………涙が出るくらい」
 一語一語を切り、踏みしめるように、剣心が言う。
「お前に見せてやりたい。きっと感動する。ガガーリンもびっくりだ」
 言った自分がくすりと笑って潤んだ目を細め、手は左之助の脚をやさしく叩いた。
 左之助はそれを掌で受け、もう片方の手で剣心の頬を包む。
「今度行こうな。一緒に。つか、ダレだよそれ」
 と、笑いながら薄い肩をトンと突いて、剣心の身体を仰向かせた。
 斑痕が痛々しいほどに赤く浮いた胸に人差し指をさまよわせて、首を傾げる。
「どのへん? サイパン。 こう………日本があるとして」
 こう、と言いながら、喉のくぼみから右胸にユーラシア大陸を描き、何本目かの肋骨のあたりに指先を止めた。そこが“日本”である。
「こそばいって」
 剣心が身をよじって笑い、よいしょ、と起き上がった。
 お返しとばかりに、今度は剣心が左之助の胸に地図を描く。
「えっとな、こう………日本があるとしてだな」
 左之助はやはりくすぐったそうに笑いながら、降参のポーズをとって引き締まった腹をさらし、剣心にキャンバスを提供した。
 剣心の胸に描かれたそれよりも、“日本”の位置が随分首に近い。
 白い指先がおもむろに、へそを横切る横一文字の線を、浅黒い肌に引いた。
「赤道」
「おお、赤道」
 意外だったらしく、軽く目を見開き、続きを待つ顔になる。
 それを上目遣いに見やった剣心が、小悪魔めいた微笑を浮かべ、
「香港?」
 と、右の乳首を指先で押した。
「わ」
 コラ、と頭を狙う手をつかんで制し、右の脇腹を、途中を背中まで回りこんで地図を描く。
「インドシナ半島。マレー半島。ボルネオ」
 そして一転、指を飛ばして、「ハワイ」と、反対側、左腕のさらに外の空中に止めた。左之助は途中から「へえぇ」の形に口を開いて、とんぼのように剣心の指を追っている。その目を指で引き戻して剣心がそっと笑った。
 みぞおちに唇で触れる。
「サイパン」
 囁いて、そのまま似たようなあたりに軽いキスを重ね、テニアン、ロタ、グアム、パラオ、ヤップ、トラック……と、マリアナ、ミクロネシアの島々を印していく。その背中に左之助が掌をそえると、剣心がつと顔を上げて目を合わせ、左の脇腹のある一点に唇を置いた。
「ポナペ………」
「ポナペ」
 と、左之助が呟いた。
「ブラックマンタか………」
 自分を見つめる左之助の目に映っているもうひとつの映像が、剣心には見える。
 左之助が初めてマンタを見たのは一年ほど前の夏、比古に随伴した尖閣諸島クルーズだったが、その時は海上からちらりと見ただけだった。本当の意味でそれと邂逅したのは、二月のモルディブだった。北マーレから南マーレ、そしてアリ、ラスドゥと、環礁から環礁を巡る七日間のダイブクルーズの初日、軽いウォーミングアップのはずの一本目。エメラルドグリーンの海の、珊瑚と熱帯魚の花畑に、忽然とそれは現れた。
 振り返って、巨大なマンタの威容を目にした瞬間、剣心は空っぽになった。目の前の映像をただただ受け止める一つの感覚器官になった。
 ぽっかりと開けた海中の広場の上空を飛来する巨大なマンタ。
 なぜそんな場所に、そんな時間に、そんなものが来たのか、判らない。
 体長五メートルを超え、想像を超え、人智を超えて、悠然と、そして豪然と、向かってくる。
 無限の一瞬。
 興奮に血が逆流して鳥肌立つのと、全身が左之助を呼ぶのが同時だった。
 考える前に脚が動いていた。それの反対側に回り込みながら左之助を振り返ると、彼は身体をねじったままの姿勢で、身動きも呼吸も奪われてマンタを凝視していた。
 剣心は大きく大きく迂回して、マンタの背後についた。追い込むまでもなく、マンタは彼らのグループの方に向かっていた。無理に追い立てて偉大な生物を煩わせてはいけない。ゆっくりと、脅かさないよう距離をとって、ついていった。
 その頃になってようやく、衝撃と興奮が頭で理解できてきた。
 どくどくと高鳴る鼓動を全身で聞きながら、左之助の姿を目で追う。
 左之助は少し外洋寄りに位置取っている。チームの他のほとんどは珊瑚礁の根の上にいる。そのちょうど間をすり抜けるコースを、マンタはとっていた。だが、突然強まった流れが、グループの排気エアーを運び、マンタの片翼を下から直撃した。
 下、つまり腹への刺激を、マンタはひどく嫌う。ぶるんと大きく身震いして翼をたわめ、突風にあおられた凧のように急旋回した。二、三度はばたいて直角に曲がり、急スピードで深みへと滑降するマンタは、左之助のすぐ頭上をかすめていった。巻き起こす強い水流で左之助の態勢を崩し、マスクを弾きとばすほど至近を。
 見ていた剣心さえ、息を呑んだ。手で触れられる近さで見たことはあるが、向こうから突っ込んでこられたことはない。ましてあんなに野生を剥き出しにしたマンタは珍しい。
 左之助はもんどりうちながらもマスクを捕まえ、それまでずっと止めていた息を吐き切り、そして早い呼吸を繰り返しながらマスクを装着した。
 剣心が傍に行ったのは、ちょうど上を仰いでマスクの中の水をクリアし終えた左之助が、マスクのストラップを掛けたときだった。目が充血していた。海水が入ったためか、他の理由かは、結局聞いていない。
 そしてすっかりマンタマニアになった左之助が、帰国後、世界のマンタポイントを調べる中でもっとも興味を持ったのがポナペだった。
「ブラックマンタだって、ブラックマンタ」
 通常のマンタは、上面つまり背は黒く、腹は白い。だがブラックマンタは、その名の通り全身が真っ黒で、腹も黒い。
 しかも剣心がうっとりした表情で「おなかが黒いだけでどうしてあんなにかっこいいんだろう」などと言うものだから、普通のマンタよりもはるかに珍しいその黒い生物に出遭える貴重な海に、ますます興味をかき立てられたらしい。
「お前、ポナペも行ったことあんの?」
 何気なく訊ねた左之助に、剣心がなんとも嬉しそうに笑って言った。
「ナン・マドール遺跡っていう、謎の巨石文明の遺跡があってさ。しかも黒いのがうじゃうじゃいてさ。世界不思議発見って感じの島」
 それを聞いて、左之助は歯をきしませ両手両脚を振り回し、駄々っ子のように悔しがった。



「なあなあなあ。南の島暮らしとクルーズ船の船長だったら、どっちがいいと思う?」
 ふいに左之助が声を弾ませて言った。剣心が脇腹を舐めていた舌をおさめて、首を傾げる。
「んー。一般論? 具体論?」
「オレ論」
「んじゃ、どっちもアウトに一票」
「なんでだよ、なんだよそれ」
 途端に不機嫌になるのが分かりやすくて可笑しい。
「だってお前、蛇とかムカデとか素手でつかめないって言ってたし」
「関係ないし。てか、普通つかまねーし」
「キャビンのベッドすぐ落ちるし」
「だから」
「天井で頭打ちまくるし」
「だからそういうことじゃねーっつの!」
 手足をバタつかせる姿は、やはり大きい駄々っ子以外のなにものでもない。
 それを見て剣心が笑い、左之助はさらに暴れる。
「真面目に言ってんだろ、バカ。どっかポーッとしたの南の島でさ、ダイビング三昧、毎日が夏休み、みたいな。サイパンでもモルディブでもポナペでも、どっか他んとこでもいいし。それかタローさんみたいに」
 と、二月に乗ったクルーズ船の船長の名を挙げた。プロの水中カメラマンからガイドに転向し、今は奥さんと一緒にモルディブクルーズの船を運航している。
「クルーズ船とかもいいよなーって。そんで、老後はやっぱどっかのちっこい島でのんびり」
「そんないいことばっかりじゃないぞー。病気んなった時とか大変だし、日本みたいに安全でもないし。強盗もいるしクーデターも起こるし。前にモルディブでさ、首の骨、折れてんのに、水上飛行機が三日後までないとかって」
「つーかそれ、普通死んでねー?」
「いや? 首の骨って意外と折れても大丈夫だから」
「お前、俺のことバカにしてるだろ。つか、んなこたいいからさ」
 本格的に面白くなさそうに顔をしかめる左之助に、剣心が声を立てて笑った。
「してないって」
 と、両頬をつまんで横に広げ、ぷるぷると揺する。
 剣心の目がふっと和んだ。
「うそうそ、どっちでも大丈夫だよ、お前なら。頑張れな」
「ひへーへ」
 同じように仕返そうと伸びてくる長い腕を右に左にとかわしていると、ふいに強く抱きすくめられた。頭に左之助の顎が乗り、それがゴリゴリと動く。
「ヒトゴトみたいに言ってんな、バカ。お前も一緒に行くんだよ」
 左之助の胸の中で剣心がもぞもぞと身じろぎして、頭上を仰ぐ。
「………そうなのか?」
「たりめーだろ。ナニ言ってんだ。そんで毎日潜りまくりの食いまくりのヤりまくり」
「うっわ、欲望の権化」
「そ。剣ちゃんも毎日ご満悦」
「いや、それはいいから。俺もうトシだし。ていうか、お前はまず英語。そんでからなんかもいっこくらい喋れるようになっとかないと」
「まかしとけ。二年で英語クリアして、次の二年で次クリアして、五年後には余裕でバイリンガルな計画」
「って時点ですでに無理そうな計画」
 バイリンガルは二か国語、三か国語ならトリリンガル、と、間違いを指摘され、左之助は、細かいこと気にしたらハゲる、と見当違いに開き直った。
 何年も先のいつか。
 ずっと先のいつか。
 そのもっと先のいつか。
 左之助が語る将来は、剣心にはあまりに遠すぎて、あまりに夢のようで、かえってなんでも想像できた。
 左之助の鼻先に人差し指を立てて、剣心が言う。
「じゃあ俺はお客さんと遊ぶの担当するから、お前は海ガイドとショップ経営と現地交渉と炊事洗濯と貯金担当な」
「すっげー公平な仕事配分。つか貯金ってナニ」
「だって海外いたら、健康保険も国民年金もないんだぞ? 病気んなったらお金かかるし、老後資金も自分で貯めんといかんし」
「……お前ってときどきすんごい所帯じみるよな」
「現実的と言え」
 左之助が剣心の頭をかき回し、剣心が左之助の肩を叩く。
 また柔らかい目になって、剣心が言った。
「がんばれよ、左之」
 大丈夫。左之助は大丈夫だ。わかっている。
「大丈夫だよ。お前なら」
 それに自分も大丈夫だ。それも、わかっている。
 左之助が黙って剣心の前髪をかきあげ、唇でそっと額に触れた。
 何かを誓うような静かなそれを、剣心は胸の奥深くにしまう。
 大丈夫、わかってる。
 そんな夢は見ない。
 今だけだ。
 男同士だし、歳も離れてるし、彼には将来も未来もあるし、女の子にももてるし、みんなに好かれるし。それにこう見えて努力家だし。
 いつかまた一人になるときがくる。そのときに大丈夫なように、今からちゃんと慣れておかないと。
 でも。
 だから。
「なあ左之。とりあえず、次、どこ行きたい?」
 肩に頭を預けたまま見上げると、左之助は「そうだなあ」と、口をつぼめた。
「クルーズならガラパゴス。島滞在ならサイパンかポナペ? てか、まあ、時期次第って感じ?」
 海には海の季節がある。乾季、雨季、潮流、透明度、生物相の変化、産卵、回遊といった魚の生態サイクル。世間の旅行シーズンとの兼ね合いもある。
「だな」
 剣心は頷いて、身体を離した。そして目を合わせたまま、舌先で左之助の“サイパン”と“ポナペ”を交互に舐めた。繰り返し舌を這わせていると、左之助が小さく笑って声を低めた。
「足りませんかセンセイ」
 剣心は答えず首を傾げて微笑み、指先で左之助のへその斜め下、左の脇腹と押さえていく。
「バリ。ニューカレ………オーストラリア?」
 指が、つつつ、と這い下りて、すっかり元気を回復して上を向く、その先端を突付いた。
 剣心がぺろりと唇をなめ、左之助の目を見ながら、ゆっくりと頭を下げていく。のぞかせた舌先が左之助に触れる直前、左之助が掌でその顎をすくいあげた。その舌の先を啄ばんで、角度を変えてさらに何度かキスしてから、怖い顔を作って言った。
「先、フロ」
「お前してるじゃん」
「オレはいーの」
「じゃ俺も」
「ダーメ」
 と、軽い身ごなしで左之助はベッドを飛び降りた。
 剣心に背中を向けて膝と腰を曲げ、両腕を逆手に伸ばした、これはいわゆる――。
「なんで、おんぶ?」
「や、なんとなく」
 さんざん嬲られた後でその体勢はちょっと辛いような気もしたが、目の前の背中の誘惑に負けた。
「といやー!」
 勢いをつけて飛び乗ると、驚いた左之助が悲鳴を上げて数歩よろめき、だがなんとか踏みとどまって、コノヤロ、と背中の剣心を揺り上げた。
「ひゃ」
 今度は剣心が悲鳴を上げる番だった。密着した背中が、思いがけない具合に身体を刺激するのだ。
 左之助が面白がって家の中を走り回りながら何度も同じように揺り上げ、剣心は左之助の首に必死でしがみつく。二周ほども回られ、身体が随分火照ってきた頃、剣心が腕で左之助の目を塞いだ。
「わっ」
「い、いいかげんにしろっ」
 早い息をつきながら剣心が言い、左之助が逆手でお尻をぺちぺちと叩いて抗議した。
「バカ、見えねーって。危ねーって」
「見なくていい」
「お前、ムチャクチャ」
「お前は俺が言う通りに歩けばいいの」
 剣心が言って、方向と歩数を指示した。
「とりあえず取り舵。そのまま四……いや、三歩かな。はい、ストップ、次、面舵」
 言われるままに前に出す足は、自然と泥棒じみた抜き足差し足になる。地面を探る伸びた爪先が、上から見ている剣心の目に健気に映って、微笑を誘った。
 ようやく洗面室に辿りつき、負われたまま浴室に連れ込まれる。
 二人で突付き合いながら熱いシャワーを浴び、きれいに洗って洗われて、ついでに左之助をすっきりさせてやって、風呂を上がった。
 左之助がまた剣心に背中を向けて腰を曲げた。
「気に入ったのか?」
 剣心が訊くと、左之助は「ちょっとな」と、横顔で笑った。
 その背にとび乗って、また目を塞ぐ。
「んじゃ、ちょっと散歩でも」
 そのまま、右、左、二歩、五歩、と家の中を歩き回り、途中途中に、剣心の指示で、さばの味見をしたり、シーツを取り替えたり、くるみパンを冷凍したり、歯を磨いたりと、寄り道をする。
「家庭内オリエンテーリング」
 左之助が笑った。
 そしてリビングで剣心を背負ったままスクワット体操をさせられている最中に、思い出したように訊ねた。
「なあなあ。そんでタカさんのリクエストって何だったんだ?」
「へ。なんだ、突然」
「や、なんとなく」
「んー。やっぱナイショ」
「なんだよ、いいだろ」
「ダーメ」
「ケチー」
 と、言われても。
『あたしが膝まくらしなくても済むような何か。あれって、いいんだけど脚がしびれてしんどいのよねえ。座枕とか買ってみるんだけど、ハジメちゃんが気に入らなくってダメなのよぅ』
 剣くんとこはそんなことない?
 あるある、そうそう。などと口が裂けても言えはしない。あの聡い時尾を相手に「わかんないけど、なんか考えてみるよ」と答えた声が普段通りだったことを祈るばかりなのである。
 そうしてぐるぐる歩いているうちに左之助の足取りは随分きっぱりしてきていた。
 爪先で先を探りながらの抜き足差し足だったのが、静かな摺り足になり、今はほとんどいつも通りに踵から力強く踏み出すようになっている。剣心が言うまま指示するまま、何の躊躇も不安も見せずにずんずんと歩を進めていく。
 それが、どうしてそんなに哀しいのか、自分でもわからない。
 広い背中に背負われて、熱い頭を胸に抱えて、剣心はまた、言いようのない、そしていわれのない、寂しさと苛立ちに襲われる。
 シャンプーの匂いのする髪は、まだ完全には乾いていない。
 湿り気の残る頭に口をつけて黙っていると、左之助が剣心をゆさゆさと揺すった。
「おーい。次どっちだー」
「…………」
「けーんしーん」
「…………」
 黙ってしまった大きな子どもを、今度はゆうるりと横に揺ってあやす。
「どした?」
「…………」
「ホラー。俺、見えねんだから、お前が教えてくんねえと歩けないだろ? 次、どっちにどんだけ? ん?」
「……いちいち人に訊くな。自分で考えろ」
「……………。お前やっぱ壮絶ムチャクチャ」
 しばらくの沈黙の後で、呆れたようなため息まじりの、それでも甘い声が、そんなことを言った。
 そして左之助はゆっくりと歩き出した。
 いたのはリビング、バルコニーの窓際だった。
 左足の指で周囲を探って掃き出しの窓枠を捉えた左之助は、それを端まで辿ってから、収納壁づたいにキッチンを発見し、さらに回り込んでリビングと廊下を隔てる室内ドアに到着した。足の指で蝶々結びができるという特技をもつ器用な足で、ハンドルを操作する。ドアを開けて廊下に出れば、すぐ左手が寝室である。半分開いたままの内開きのそれを足の裏で押し開けて、二歩。ベッドの位置をまた足で確認してから、剣心を背負ったまま清潔なシーツに倒れこんだ。
「到着ー」
 脇にかかえていた脚を離しながら横向きに転がり、背にあった身体を胸に抱き取った。剣心の顔を両手で挟み、コツンと額を合わせて言う。
「情緒不安定なトシゴロか?」
 手の中の顔を優しく揺らして、まつ毛を唇に挟む。長いまつ毛は、しとしとと、今にも雨が降り出しそうに濡れていた。
 剣心は黙って左之助の首に両腕を回し、首筋に顔を埋めた。左之助の腕が小さな身体をすっぽりくるみこむと、腕の中の剣心が、すんすんと鼻を鳴らして、耳の下から鎖骨にかけてのリンパの筋を辿って上下しはじめた。動物じみた甘えたしぐさに、左之助の咽喉がくすぐったそうに震える。
 剣心も同じように咽喉で笑いながら耳朶をくわえ、そしてそっと囁いた。
「なんか楽しい一日だったな」
「そだな。楽しかったな」
「………寝よっか。明日もあるし」
「おう。つか、もう二時じゃん。お前、大丈夫?」
「大丈夫大丈夫。ちょっと寝たし、まだ三時間寝れるし。いざとなれば昼寝もできるし」
「イザってたとえば?」
 そこで突っ込まなくていいから、と、剣心が左之助の胸を叩き、二人で笑いながら布団にもぐりこんだ。そっと触れるだけの、おやすみのキスをして、目を閉じる。
 つないだ手に、身体にかかる息に、挟んだ脚に、互いの体温を感じながら、真綿のぬくもりに沈んでいく。
―――筍おこわに青椒肉絲ちんじゃおろーすはないよな、やっぱり。
 眠りに浸る直前、ふと、そんなことを思った。



了/2005.06.16
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謹呈 「雪月亭−YK BRAND−」 まきの雪さまへ

50,000hit&6周年のお祝いと、日頃の感謝をこめて。ありえないくらいにそのまんまな話でごっめーん(笑)。しかもお馬鹿ちゃん、馬鹿すぎ・・・・(´ー`)  でもおかげで楽しかったです。書かせてくれてありがとうvv  呆れてご笑納いただければ幸いですm(_ _)m   ようこ拝









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