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ひねもす。


 お疲れさま、おやすみ、という、いつもの挨拶に送られて、職場を後にする。
 駐輪場から愛車を漕ぎ出して、妙に緊張している自分に気づいた。
 自分の家に帰るだけだというのに、不甲斐ない。
「ああもう、うっとしい!」
 ふんっ!と気合いを入れてペダルを踏み込み、ひとの家に我がもの顔でのさばっているであろう小生意気な助平小僧の顔を頭から追い払うべく、前方に意識を集中した。

 途中までは悪くなかったのだ。
 ぐずついた花冷えが一週間近くも続いた後の、久々のきれいな朝だった。
 軽快に自転車を走らせて東谷家に出勤した剣心は、朝の仕事を手際よく済ませ、定時の午前十時を少し回って職場を出た。
「そんで、どこ行くって?」
 斜め後ろを並走する左之助が訊いた。
「んっと。時ちゃんのひっこし祝い買い行って、あと、いろいろ買い出し。乾物とか、パンとか、コーヒーとか」
 要するに単なる日用雑事なのだが、一緒にいる時間の少ない二人にはそれさえが非日常である。叫びあう声が二つとも弾んでいた。
 新年度の始まりは、やはり何かと慌ただしい。ばたばた続きだった剣心もさることながら、とりわけ「海屋」では何かと用事や行事が立て込み、左之助にいたっては実に三週間ぶりの貴重な休日だった。
 もうすぐ十時というときに剣心が部屋をのぞくと、左之助はしあわせ全開で朝寝を満喫していた。あまりに気持ちよさそうな寝顔に、見ている方まで顔がほころぶ。声をかけるのも忍びなく、剣心はそっと帰る用意を始めたのだったが、置手紙を書こうとしているところへちゃっかり左之助が起きてきて、結局一緒に出かけることになった。
 東谷一家の住むマンションは、市の西部、嵐山の近くに位置している。桂川河畔が近く、緑にも恵まれた静かな住宅街で、小さな田畑が点在するのどかな風景は、いわゆる古都京都のイメージからは程遠い。
 四月も半ばを過ぎて、陽春を絵に描いたような元気な日和。
 こんな日の京都は自転車に限る。走ると、陽射しと土と緑の匂いの風が体を吹き抜けて、思わず声に出るほど気持ちいい。
 蒸暑凍寒の盆地の、短く美しい季節である。
 桂川にかかる上野橋かみのばしを渡れば、西京区から右京区に入る。川を渡る風は、一段と水の気配が濃い。もっと風を感じたくて、剣心は髪をほどき、ペースを上げた。後ろで左之助が負けじとペダルを漕いでいるが、細い歩道の電柱を避け、段差を迂回し、少ないとはいえ歩行者を退かせながらの煩雑な道に、慣れた剣心のようにはいかず、遅れがちになっている。
 察した剣心がややペースを落とした。
 だが、振り返って見てみると、左之助はいたく楽しそうな様子で、しかもなぜか携帯電話を掲げている。
「メール? 止まるか?」
「え? や、いい、いい。ちょっち記念撮影。もう獲ったし。つか、すげー。オイシイなー自転車って」
「気つけろよ。危ないし」
 と、諌めつつも、左之助のくつろいだ表情につられてか、剣心の声は柔らかい。
 そのまま走り続けていくと、しばらく行ったところで、左之助が声を投げてきた。
「なあ! オヤジの会社ってこのへんだっけ?」
「そう。もういっこかみの道をずーっと戻ったとこ」
 それ全然場所ちがうし、と笑われ、そういえばそうだと剣心も笑った。
 市西部のこのあたりには、引き染めなどの地染めを行う小さな会社や工房が多い。今日は取引先の山に筍掘りに呼ばれて早くから出かけているが、上下衛門の勤める引き染め工房もそのひとつである。これが市中に向かうにつれて、型染め、手描きの色さしと、友禅の工程を遡るかたちで同じような職種がかたまって移ってゆくのが、京都の染織の分業体制を物語っている。そして中心部に入ると今度は、刺繍、縫い、そして問屋と、商品の完成から販売へと緩やかに流れて、最後が室町界隈。中でも烏丸通りから三本を西に入った衣棚ころものたな通りは、通りの名自体が、まさに「衣の棚のよう」であった道のありように由来する。
 ほどなく西大路をすぎ、大通りから中の道に入って、一気に家並みが古くなった。道幅の狭い京都市内は一方通行が多い。ドライバー泣かせだが、歩行者、自転車にはありがたい。余裕のできた左之助は、黒ずんだ町屋格子に鉢物の並ぶ町なみを興味深げに見回している。
 その、この一年で幾分線の太くなった横顔を盗み見ながら、剣心はそれとなく速度を緩めた。
 生まれ育ちは東京、職場は大阪で、京都市に住民税を払ってはいても、いわゆる「京都」を見る機会はあまりない。しかも週末は仕事で海へ泊りがけ。とはいっても、遊びではなく仕事だし、少ない休みはたいがい剣心と家で過ごしている。アウトドア派かインドア派かと問われたら返答に困るくらいなのだ。
 などと考えていると、左之助が何かに目を引かれたように向こうを向いた。
「お? なんだありゃ。おい剣心、アレ!」
 振り返ると、左之助の手が、とある格子戸の横の木箱を指していた。すぐ後方に流れてしまってよくは見えなかったが、かなり大きく、しかも郵便受けなどよりうんと長く厚く、だが幅の狭い、あまり思いつかない形状をしているのは分かった。
「何?」
「消火器って書いてあった」
「消火器!? でも木じゃなかったか?」
「おう、しかも超ボロ。だからスゲーって思ってよ」
 木肌が色づいたか塗装が剥げたか、いずれにせよ地味な焦茶色に変色した木製の消火器箱。存在を主張するという本来の役割を果たさない以前に、おそらくとても火に好かれるはずだ。一体、中身は入っているのだろうか。
 走り慣れた道だが、今まで気づかなかった。
 今度ははっきりとペースを落として横並びに位置取った剣心がそう言うと、左之助が、
「じゃあ、アレは?」
 と、斜め前方を指した。
 指を辿った視線の先に、色褪せた看板。
「げ」
 驚いた剣心が低い声で呻いた。
『産婆 ・ 刃物砥ぎ ・ のこぎり目立て』
 ありえない併記である。
 しかも、そもそもどれをとっても、いまどきそれで生計が立つとは思えない。
 意識して見てみれば、ある家の門口には「忌」と筆書きされた白い紙が菱形に貼られていたし、別の家の軒先には「デンワ・デンポウ」の剥げかかったブリキの看板が吊るされていた。電報を打ちに人が夜道を急いだような時代から、あるいはそれよりも以前から、その家はそこにあったのだろうと思わせる。とはいえ、そんな郷愁を誘われる家々からときどき出てくる人は普通のおじさんやおばさんや子どもで、当然ながら着物姿でもなければ髷でもない。そしてところどころに二十四時間営業のコンビニエンスストアや小洒落た洋菓子店が挟まっていたりもする。
 新旧の間に融和はない。だが隔絶もない。日常としての混在が対比を一層強めている。
 それが二人の目には新鮮だった。
「知らなかった。おもしろいんだな、このへん」
「つーかよ。大体なんでこんなトコに商店街?」
「ああ、それな」
 左之助に訊かれて、剣心は頷いた。
「俺も前から思ってたんだけど、京都の商店街って突然なんだ」
 駅前でも寺社の門前でも街道の辻でもない住宅街に、忽然と商店街が始まり、終わる。
 いつ頃、そしてなぜそこに店が集まったのかを、当の店主連も知らないことがままある。
「今日行く出町とかも………っとと、わちゃー」
 剣心がいきなり失速して、コインパーキングの前で止まった。
「え? どした?」
「チェーン外れた」
 言いつつ、下りてスタンドを立てる。
「かしてみ」
 左之助が自転車を下りて戻ってきたが、その時にはもう剣心は勢いよく自転車をひっくり返している最中。
「大丈夫大丈夫。慣れてるし」
 と、ハンドルとサドルで逆立ちさせ、あっという間にチェーンをはめ終えてしまった。
 手をはたいて元に戻そうとしたところで、左之助が今度は強引に割り込んで、フレームに手をかけた。
 剣心が二歩退く。
 ふとフレームを握る左之助の手に目がいった。
 順手に持って伸びた指の長い手の甲に筋が浮き、皮膚の下で筋肉が隆起する。影が出来て、消える。肩が少し盛り上がって肘が曲がり、そして「うりゃ」という掛け声と共に自転車は軽やかに回転した。
 そのとき唐突に想像がやってきた。
 くっきりした筋肉の感触。熱くなった肌の硬さ。
 いきなり思考を占領した生々しい発想に「こらこら」と自分を戒めて視線を外したとき、また突然に至近距離から声が聞こえてギョッとした。
「男前なお姉ちゃんや。彼氏の出る幕あらへなんだな」
「え」
 コインパーキングの隣の荒物屋の店主だった。
 が、振り返った剣心を見て、間違いに気づいたらしい。
「あれ。すんまへん。お姉ちゃんかと思たら、お兄ちゃんや。堪忍え」
 気難しそうな顔が、笑うときゅっと中心に集まって、好々爺に変わる。
 だが剣心は日頃から性別を問いたげな目で見られることが極めて多いだけに、むしろ滅多に言われることのない“男前”の形容詞がくすぐったい。
「いえ、全然」
 やはり、職業柄、目が鍛えられているのだろうか。それに、その老人のすがすがしくもあたたかい雰囲気はなんとも言えず心地好かった。
 店はいかにも荒物屋然としている。
 アルミのやかん、魚焼き網、プラスチックの洗い桶、コンロの飛び跳ね防止アルミカバー、急須の茶こしアミなどのキッチン用品。とりどりの長さのほうき、ちりとり、亀の子たわし、とぐろを巻いたホース。さらには、浴槽のふたや高齢者向きの手押し式ショッピングカート、果ては洗濯板まで吊るされ、しかも店構えはお誂えむきの古い町屋拵え。
 昭和を彷彿させるその佇まいを感心しながら見ていた剣心の目が、店先のあるものに吸い寄せられた。
「うわあ」
 と、心の呟きを口にはしなかったのだが。
「ええ鍋どっしゃろ」
「欲しいのか?」
 前後から同時に言われて、ややうろたえた。
「え。あ、いや。っていうか、大きいなあって思って」
「重宝しますえ。竹の子ゆでたり、ぼうだら炊いたりな」
 さすが商売人、偶然にしても鋭い。そして、春と暮れ、それぞれの京都を象徴するその二つをまず挙げたところがいかにも地の人らしい。剣心の顔に微笑が広がった。
「そうなんです。ちょうど今日、家の人が掘りに行ってて」
 上下衛門が、山持ちの上得意に招かれ、染色工房総出で朝の六時から掘りに出かけている。
 せっかくの朝掘り、今日のうちに茹で上げておきたいところだが、時間のかかる仕事でもあれば、夕食の準備もある。全ては無理かもしれない、いっそ持って帰って家で、などと考えていた。だがこれだけ大きい鍋なら、大概多くても二度、うまくすれば一度で用が足りるだろう。
「欲しけりゃ買えば?」
 いつのまにかすぐ横に左之助がいる。
「や、いや、でも……」
「オッチャンがうたろか」
 職場で覚えたのだろうが、似非な関西弁のイントネーションが大変胡散臭い。
 小さく噴き出して、剣心は手を振った。
「馬鹿。大体、滅多に使わないし、しまうとこないし」
「どうにかなるなる」
「ちゃあんと蓋もついてますしな」
「最悪、店に持ってきゃいいし」
「こんだけ大きかったら産湯も使えますえ」
 今度は店主に軽く笑わされ、つられて価格を訊ねると、耳を疑うほど安い値段が帰ってきた。
「ええっ!?」
「マジで? つか、いい、俺が買った」
 左之助が陽気に叫んでポケットから取り出した千円札を主人の手に押し付けた。
「毎度おおきに、ありがとございます」
 店主の顔がきゅっと寄った。そして左之助につり銭を渡しながら剣心に訊いた。
「糠、おますか? うち、ようけえあるさかい、よかったら」
 「え、ほんとですか。じゃあぜひ。助かります」と剣心が言い、「なんでヌカ?」と左之助が言った。
「筍ゆでるときに入れるんだ。あく抜きに」
「へえー」
 左之助の料理の腕も今では相当に上達してはいる。だが、なんと言っても即戦力養成コースのため、ときどき意外な基本が抜けている。
「今の時期ならスーパーとかでも売ってるけど、結構入れるから」
 などと言っているうちに、奥さんと思しき小さな女性が米ぬかを用意してくれた。
 ぴかぴかの黄色いアルミ鍋は、剣心の腕でひとかかえに近い。後部荷台のかごに立ててロープで結わえ、ようやくしっかりおさまった。
 そのとき、背後で、異様な声がした。
「お―――――い。お―――――い」
 低く太い、地を這うような唸り声。
 しかもひとつではない。
 ふたつ、みっつ、と、こだまのように呼び合い、響き合って、繰り返される。
「お―――――い。お―――――い」
「お―――――い。お―――――い………」
 剣心と左之助が何事かと振り返ると、そこに托鉢の僧たちがいた。
 墨色の衣に網代笠をかぶり、素足に草鞋、手には鉢。
 それが、数メートルほどの狭い道の両端に分かれて、一人、また一人。前の者と一丁ほども距離を開け、総勢五、六人だろうか、最後尾の雲水はまだ小指ほどに遠い。それが順々に、呪文を念じてでもいるような長い低い声を響かせながら歩いてくるのだ。ものすごい速度である。墨染めの袖と裾が音を立てて翻り、先頭の雲水はみるみる近づく。
 初めてみる光景はドラマか映画のワンシーンのように非現実的だった。
 二人してぽかりと口を開け、ほとんど突進と言っていいほどの勢いで向かってくる雲水の列を見つめていると、店の奥から子どもが二人、走り出してきた。兄弟らしい。上は央太ほどの男の子、下は小学校に上がるか上がらないかの女の子。
「おーさん、はった?」
「来はった来はった」
 ヒソヒソと囁き合い、店の口から顔だけのぞかせて僧らを見ている。妹が兄に訊く。
「行くで?」
「ジャマしたアカンで」
「わかってるもん」
 可愛く口を尖らせると、少女はさっと駆けだし、ペコリとお辞儀をして先頭の僧を見上げ、お布施を差し出した。若い雲水は、深々と、直角どころか網代の笠が地面につきそうなほど深くゆっくりと頭を下げた。それから空いている手を面前に立てて鉢に布施を受け、もう一度同じ深い礼をする。女の子がかすかに頬を染めて青年を拝んだ。そして歩き去る後ろ姿に長いお辞儀をする。
 時間にすればわずか数秒。だが、見ている者の背筋が伸びるような、あるいは頭が下がるような、そんな透明な光景だった。
「お―――――い。お―――――い」
「お―――――い。お―――――い」
「お―――――い。お―――――い………」
 托鉢僧の一行はあっという間に通り過ぎて行く。間近く迫ると、唱える声は空気がびりびりと震えるほど大きく太かったが、それもどんどん遠ざかってこだまのようになっていく。
 二人が呆然とそれを見送っていると、
「珍しおすか?」
 店主が、やわらかい顔で訊いてきた。
 見交わした目に同じものを見てとって、左之助が言った。
「ナニ、坊さん?」
「さいです。私らは“おーさん”てお呼びしてますけどな」
 相国寺しょうこくじ、大徳寺といった禅寺の若い修行僧で、下腹に響く独特の低い声はお声明しょうみょうという、と、主人は教えてくれた。
 二寺は共に臨済宗各派の本山で、由緒もあれば規模も大きい。前者は京都御苑の北側に、後者はさらに北西、西陣を北に抜けたあたりに位置している。そこから、それぞれに日を決めて托鉢に出ているらしい。
「年中あの格好かっこやさかい、大変やと思いますわ」
 へええ、と感心しつつ、礼を言って、自転車のスタンドを跳ね上げる。
 荒物屋を後にし、走り始めて少ししてから剣心が左之助に言った。
「なんていうか、わかりやすいネーミングだよなあ。……っていうか、どうかしたか? さっきから」
 最前から妙にまとわりつく視線を感じて、気になっていたのだ。
 訊かれた左之助がまたじっと剣心を見つめる。
 なんだ、と、重ねて質そうとしたとき、左之助の顔に短い微笑が閃いた。すぐに消えて、同じくらい煽情的な声が続いた。
「後でな」
 剣心はびっくりして、強くブレーキを握った。
 動揺を隠そうと、鞄から虫除けの伊達眼鏡を取り出して、そのために止まった風を装おうとしたが、必要以上に慌ただしくもたついた両手のせいで、まるで逆効果になってしまった。
 そんな自分の様子に左之助が目と口の端で笑ったのには気づかないふりをして、剣心は勢いよく自転車を漕ぎ出し、左之助を追い越した。
「いくぞっ」
 あんな清らかな情景を見た後だというのに、左之助ときたら全くもって清らかの対極である。後ろにいるので見えないが、きっとあの目で見られているのだ。そう思うと、背中がムズムズして落ち着かない。
 さっきの―――と、早まる鼓動をなだめながら剣心は考えた。
 もしかして気づかれていたのだろうか。
 まさか。たまたまだ。
 いやでも。
 だが。
「えい!」
 いまいましい。
 だが、遮二無二こいでいると、後ろから楽しそうな歌が聞こえてきた。
「お嬢さんー、お待ちーなさいー、クマさーんーがー、ついてーくるー」
 思わず場面を想像して噴き出した。
 実は歌詞が混乱しているのだが、この際そんなことは気にしない。
「だれが」
 笑いながらチラリと後ろを見るや、いきなり中腰になって全速力で逃げ出した。
「待つかっ!」
 そのまま子どもじみた抜かしあいを繰り返しながら、碁盤の目の市街の細い道を東に直進し、五条の橋で鴨川を越えた。人の多い街路を避け、土手を降りて川沿いの遊歩道へ。鉄道と店舗と人の集中する四条、三条の混雑を高低差でかわし、三条通りの二本かみにあたる御池通りで上がれば、目指す店まではすぐだった。
 祇園の中ほどにある染めの老舗。自然布と植物染めにこだわる小さな専門店で、剣心は時尾の、つまり斎藤家の新居に贈る座布団を求めた。上品な京言葉を操る女性店主がおっとりとした口調で生地や染めについて説明してくれる。迷った末に、化学薬品を使わず灰汁あくと日光だけでさらした白い麻地を五枚、柿渋で焦茶まで染めたのを一枚、計六枚に決めた。
 発送を頼んで店を出たところで、左之助が嘆息した。
「たっけ――」
 全部で彼のささやかな月給の半分に近い。いくら手のかかった品とはいえ、そこまでの価値が、たかが座布団にありえるのだろうか。
 それを聞いて、剣心がほんのりと笑った。
「でもお前も気に入ってるじゃないか」
「へ?」
「うちの黒いの。ここのだぞ?」
「うっそ、マジ!?」
 てんやわんやだった右喜の卒業式のしばらく後で、物の少ない剣心の家に座布団がひとつ増えた。それを、これまた物に執着しない左之助が珍しくいたく気に入り、ほとんど専有している。とはいえ、その用法は本来の目的を外れているのだが。
「……俺、めっちゃヨダレ垂らしたかも」
「なにー、弁償しろー」
 と笑う剣心が、よもやそれも考慮して濃い色を選んだとは、左之助には思いもよらない。ましてや自分が、それが時尾の難しいリクエストに適う品かどうかの試験台にされていたとは、さらに想定外のことである。
 川端通りを北上し、ほどなく出町柳に着いた。碁盤の目の北東の角にあたるが、その叡山電車の駅前に、剣心行きつけの小さなパン屋がある。そこでくるみパンを十個買い、例の鍋の中に収めた。
 一個八十円也のそのくるみパンは、店の看板商品らしく、二坪ほどの古い小さな店の、五つしかない棚のうち、一つがまるまる全部その丸パンで埋められていた。
 たしかに美味しく、左之助も好んで食べるが、しかし何の変哲もないといえばない、そんなおとなしい美味しさである。にもかかわらず、来る客来る客、皆が申し合わせたように必ず一つ以上のそれをトレイに取っていく。
「なんつーか、京都の値段ってわかんねー」
 鍋のロープをかけ直してやりながら、左之助が言った。
 びっくりするほど安かったり高かったり、かと思えば、値段も普通だが物も普通としか思えないものが熱烈に支持されていたりもする。一体その基準はどこにあるのかと首を傾げさせられる。
 そして次なる目標に向かって鴨川を西に渡る。

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「雪月亭−YK BRAND−」 まきの雪さまに捧げます。









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