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 出町柳にある出町商店街は、全長二百メートルにも満たない小さな商店街である。小規模ながら、生鮮や各種食材店をはじめ、餅屋、惣菜屋、蕎麦や寿司の飲食店や洋品店などが並び、地元の台所的存在として、昨今の商店街不況もどこ吹く風の活況を見せており、賑わいは市場のそれに近い。どの店にも季節の色が濃く、スーパーとは品揃えの系列がちがう。剣心も、毎日の食材は近くのスーパーで調達するが、旬の味覚や乾物類はここまで足を伸ばすのを日常としていた。
 自転車は少し手前の路肩にとめ、徒歩でその喧騒に分け入り、乾物屋で昆布とだしじゃこと豆を、鮮魚店で生わかめと干物を、八百屋で木の芽とわらびとぜんまいを買った。そして最後に米屋の前で少し迷ってから、背後でいくつかの袋を提げている左之助を見上げて一人で合点し、もち米を四キロ。
「袋、二重にしときますよってな」
 米屋の老婆が顔見知りの親しさで話しかけた。
「あ、すいません、助かります」
「そやけど、自転車どっしゃろ? 大丈夫ですか?」
「今日は荷物持ちがいるんで」
「ああ。そら、よろしな」
 背後に立っていた左之助ににこやかに笑いかけて、老婆はうんうんとうなずいた。
 米屋を後にして、左之助が訊いた。
「なあなあ、お前ってもしかしてこのヘンでけっこうカオ?」
「へ? なんで?」
「だってみんなツレっぽいじゃん」
「っていうか、まあ長い付き合いだし?」
「そうなん?」
「ああ。前の職場がすぐそこで、買い物ほとんどここだった」
「へえー」
 もち米の袋は左之助の荷台にくくりつけた。
 次はコーヒー豆。今出川河原町を少し南下したところにあるコーヒー豆と輸入菓子の専門店に行く。
 今では剣心以上に左之助が偏愛しているその店のオリジナルブレンドをペーパーフィルター用に挽いてもらい、その間に店頭サービスのコーヒーでひと休み。試飲とはいえ、きちんと磁器のカップで、しっかり一杯分の容量がある。普段飲まないブルーマウンテンブレンドに二人して目を細め、はからずも同時にふうと息を吐いた。
「けっこう走ったなあ」
「おー。ハシからハシまでって感じ。いやあ、オイシイ。あ、そういや、メシどうする? つか、あと何があんの?」
「いや、とりあえず用事は終了。おなか空いたし、どっかでなんか食べて帰ろっか」
 時計は正午を回っている。
「賛成」
 河原町通りを丸太町に向かって南下し始めて間もなく、左之助が急停止して剣心を呼び戻した。
「どうした?」
「ココ、ココ。ココ、どうよ」
 嬉しそうな顔で路面の店をのぞきこんでいる。
「ここ? って、パン屋さん……か?」
 店の周りにはパンの焼ける小麦色の香りが漂っているが、表に看板はなく、ただ扉のガラスに小さく店名がレタリングされているのみ。フランス語かイタリア語か、ともあれ英語ではない。通行人に訴えようという意欲をまるで感じない。中をのぞくと、小さなショーケースにパンが数種類と、「予約済」の紙が揺れる棚に食パンがずらりと並んでいる。
 だが何がそんなに左之助の心を惹きつけたのだろう。
 見上げて目で訊ねると、「ほら、アレ」と、店の奥を指差した。
「あ」
 大きな、人が入れるほど大きな、石窯だった。床には所狭しと薪の束が積み上げられている。
 石窯の焼き立てパンの店だったのだ。
「行っとく?」
「当然!」
 こんちはー、とガラスの引き戸を開けると、さらに圧倒的な至福の香りに包まれる。
「いらっしゃいませー」
 若い女性店員が、鈴の鳴るような声で迎えてくれた。
 どれにするかを相談するまでもなく、二人の目は、チリチリと蠱惑的な声で囁きかけるフランスパンに注がれる。その籠を見つめたまま、左之助が剣心に訊く。
「バゲット? バタール?」
「バゲット」
「と、クロワッサンと……エピ!」
「と、辛いカレーパンとオレンジのパン」
「と、コレ」
 最後に左之助がケースの上に並んでいるパンプディングを指した。
「ちっちゃいスプーンとかあったらつけといて」
 お互い考えていることは同じらしい。
 目で笑い合い、店員がパンを用意してくれる間に、ガラス張りの向こうの石窯を見物する。
「すごー」
「でけー」
 ちょうど雪国のかまくらのようなフォルムで、足元が煉瓦、上は素焼き。四畳半の部屋ほどもありそうに大きく、てっぺんは天井ぎりぎりまである。店ができてどれほど経つのか、すでに随分煤が回っていた。
 ふと、ガラスに張られた張り紙が目についた。
『灰さしあげます。』
「?」
「?」
 二つの頭がほぼ同時に傾き、左之助が訊いた。
「なんで灰? んなもん、欲しがるヤツ、いんの?」
 突然話しかけられた娘は、左之助を見上げて口ごもりながら言った。
「あ、あの、えっと、肥料にいいんだそうです。園芸の。ここを始めてすぐの頃に、そういうお客さんがいて、それで」
「へえー」
 感心した返事と共にまともに見つめられて、娘の白い頬がみるみる赤くなった。
「う、うちじゃ、捨てるだけのものですから、役に立つならって……。えっと、あの」
 うっとり。
 と、形容されるべき顔に、異性を意識した媚笑が広がった。
「ご入用なら言ってくださいね」
 しかし全くどうしてこうも無神経なのか―――と、その様子を見ながら剣心は思う。
 中身はともかく、黙っていれば充分二枚目で通じる見てくれをしているのだから、自分が人に、とくに女の子に与える影響くらい、もう少し自覚できないものか。一見の店員さんでさえこうなのだから、「海屋」の女性客にはさぞかし被害者も多いことだろう。そうでなくとも、スクーバ・ダイビングもまた、あらゆるスポーツの例にもれず、インストラクターやスタッフだというだけで三割から五割増しでよさげに見えるものだというのに。
 と、そこまで考えたところで、「いやいや、これは違うからな」と、自分で自分に弁解した。
 別に妬いてるとかそんなんじゃないからな。ただ、誤解させられる女の子が可哀想だし、ストーカーみたいなのにつきまとわれたりしたら困るし、ただそれだけのことであって。
 不毛な弁明は、当の左之助の声に破られた。
「おい、どした。行くぞ」
「え、あ、ああ」
 後を追って店を出ると、左之助はうれしそうに紙袋に鼻を差しこんでいる。
「まだ熱いぞ、ほら。んまそー。やっぱ河原? コンビニどこが近い?」
 焼きたてパンで、ピクニックランチ。
 この季節、この天気、このロケーションで石窯焼きのパン屋さんとくれば、他に選択の余地はない。
 だが、ほくほく顔で東を指差す左之助に、剣心が反対を指して言った。
「それより御所ごしょ行こう。あっちのが広いし、落ち着くし」
「御所?」
 彼らがいる河原町荒神口こうじんぐちは、南北で言えば今出川通の少し南で、東西で言えば鴨川の西。一筋西に入れば、すぐに広大な京都御苑が広がっている。
 その中枢をなすのが、京都御所―――室町時代の南北朝統一以来、明治の東京遷都までの約五百年にわたって天皇の住まいとされてきたかつての皇居であり、市民は親しみをこめてこの国民公園そのものを「御所」と呼び習わしている。
 東西七百メートル、南北一・三キロメートルに及ぶ巨大な方形地。
 その東側の中ほどに位置する清和院御門から苑内に入る。
 高く巡らされた白塀と重々しい木造の門は、威圧するというほどではないが、他人の縄張りに足を踏み入れるような落ち着かなさを覚えさせる。
 慣れた剣心は速度も緩めず平然と潜ったが、左之助は門の手前で足を止めた。が、剣心が止まって振り返ると、すぐに左之助も続いた。それに剣心が声をかける。
「真後ろついてこいよ」
「?」
 理由はすぐにわかった。
 道幅は乗用車が四、五台横に並んで走れるほどに広いが、御所の道はすべて砂利敷き。自転車には不向きなその粗い砂利道に、幅三十センチメートルほどの獣道ならぬ自転車道ができているのだ。その部分だけ石が薄く跳ねられ、平坦に均されていて、深い砂利にタイヤを取られずにすむ。
 右手はひたすら続く御所の塗塀。遠近感を失いそうな大きな風景の中を進んでいくと、緑の海の中に淡い鴇羽色の霞があった。
 桜だった。
 花期の遅い八重桜の数本に重たげな花の実が成り、その下には幾組かの親子連れがシートを広げて花見に興じている。それを横目に走り過ぎながら、左之助が感心したように言った。
「つーか、よく知ってんなー」
 植物相の豊富な京都御苑では、三月下旬に京都でもいち早く開花する近衛邸の糸桜を皮切りに、染井吉野、枝垂、八重と花は続き、遅い年なら五月のゴールデンウィークにかかる頃まで、ひと月近くにわたって、敷地のどこかで何かの桜が咲いている。今の時季ならあの桜が、と、慣れた地元住民は広い緑地を移住するが、左之助は御苑に入るのが初めてである以前に、そもそも桜にそんなに種類があることを知らない。四月も下旬のこの時期に満開の桜が見られることも驚きなら、そこにしっかり花見客が群れていることも驚きだった。
 整理された敷地を、さらにどんどん奥に入りこみ、何度か角を曲がったところで、剣心が止まった。
「このへんでいいかな」
「おう」
 ゆったりと木の植わった芝生の区画。砂利道の端に駐輪し、パンと飲み物を持って、松の巨木の根方に陣取った。見れば、うららかな陽射しのなか、あちこちのベンチや芝生に、思い思いにくつろぐ人影がある。スーツ姿の会社員に、犬を連れたお年寄り。中には、太極拳をするグループや、ノートを広げて勉強している若者もいる。
 冷めないうちにと早速パンを取り出した。
「お」
「おお」
 美味しかった。
 薪窯、焼き立てを差し引いても、抜群に美味しかった。とくに、噛めば噛むほど旨味の広がるフランスパンが絶品で、結構な量のパンはあっという間になくなった。
 思いがけないご馳走となった昼食を終え、左之助が大きく伸びをして、どさりと芝生に大の字になった。
「気――持ちい――い!」
 若い草の絨毯が心地よく肌をくすぐる。
 街路のほこりっぽい空気や、耳障りな都市の生活音や、グロテスクな人工建造物から解放され、代わりに、木々のざわめきや鳥のさえずりが聞こえる。遠くで子どもがはしゃいでいる。澄明な大気は草と木と風の匂いで満たされている。
 目を細めて、左之助が呟いた。
「色がちがう」
 走り回る子どもたちを目で追っていた剣心が左之助を見る。そして彼の視線を辿って頭上を仰ぐ。
 生い茂った松に向かって若い紅葉が腕を伸ばし、老成した深い木賊色と萌える新緑がハッとするほど鮮やかな対比を見せていた。
「ほんとだ………」
 呟いて、剣心も寝転がった。
 頭と頭をこつんと合わせると、バラバラに見えていた紅葉と松がぴたりと重なった。同じ植物の緑に、こんなにも豊かな彩りがあるとは。
 頭蓋骨に左之助の体温を感じる。左之助の汗の匂いがする。
 そうして二つの緑に縁取られた空の眺めを共有していると、そのまま空に落ちていってしまいそうな感覚を覚える。
 足の先に何かが当たった。見ると、左之助の爪先が振り子のように左右に揺れて、剣心の爪先にとんとんとちょっかいを出している。こつんと当て返すと、振りが少し大きくなった。
 こつん。
 またこつん。
 さらにこつん。
 爪先の応報は次第にヒートアップし、二人同時に弾かれたように笑い出すまで続いた。
「なあなあ、来週どっか潜り行かね?」
 腕の反動で起き上がった左之助が、笑いの続きに言った。
「え、休み取れんのか?」
 春、ゴールデンウィークを前に、ダイビング業界はピークシーズンに入ろうとしている。しかも「海屋」ではそこに斎藤が引率する海外ツアーが重なり、しかもそんな時期になぜか比古は悠長に旅行に出かけてしまったりで、多忙をきわめている。実は、そのあまりのどうにもならなさぶりに時尾が二日間の臨時休業を独断し、それでも雑用処理に丸一日を要して、ようやく今日の休日だったのである。
「おう。つーか取るったら取る。アイツらばっか呑気に遊びに行きやがって」
 比古はともかく斎藤は仕事なのでそう呑気でもないのだが、残留社員にとって大差はない。
「クソー、俺も潜らせろー!」
 こんな陽射しの下で自然の匂いのする風に吹かれていると、たまらないほどに海が恋しくなるのが、ダイバーという生き物のさがである。
 暮れにダイブマスターの資格を取った左之助は、秋までにインストラクターの講習を受講することになった。そこまではよかったが、計算外だったのは、それに備えてオープンウォーター講習の補助ばかりになったことだった。
 だから、海には入るが、潜ったと言えるようなダイビングを、久しくしていない。二月に剣心と行ったモルディブクルーズが衝撃的だっただけに、その鬱憤はなおさらだった。
「丁稚の宿命だな」
 言って剣心も起き上がり、首を傾けて覗き込む。
 言葉はすげないが、見上げる目はそうではない。
「でも行けるんならさ、俺、あそこ入ってみたい。ガマ」
「おー、いいねえ。久々に行くか、操んとこ」
 ガマはすさみにあるダイビングポイントのひとつで、大きな洞窟とその中の魚群が見物である。だが漁との兼ね合いでダイバーに開放される期間は限られている。春が三月一日から四月末まで、そして夏が六月一日から十月末まで。去年は結局行きそびれた。
「やっぱ行っとかないと。穴好きの俺としては」
 声を弾ませた剣心に、左之助がニヤニヤと笑った。
「ほー、アナズキ」
「変な意味じゃなく! ケーヴとかトンネルとかの話。やめんか、こんなとこでそんな顔。みっともない」
 頬をつねろうと伸ばされた手を左之助が軽くかわし、しばらく揉みあった。
「そういや、あの店って、タカさんご指名?」
 ひとしきり暴れた後、思い出したように左之助が訊ねた。
「へ?」
「祇園の座布団屋さん。つーか何屋さんかわかんねーけど」
「一応染め屋さんかな? けど、なんで?」
「だって普通引越し祝いで座布団って、なくね?」
「んー。かな。別にあそこの座布団って言われたわけじゃないけど、まあでも、そうっちゃそうっていうか」
「なんだよ、ハッキリしねえな。じゃあ何って言われたんだ?」
「さあ。なんだろうな」
 思わせぶりに笑って身をひねり、頬をつつく指から逃れる。
 時尾がなにを欲しがったのかを左之助に教えるつもりはない。
「ま、結婚祝いもしてないし、ちょっと頑張っとこかなーと思って」
 話を変えるついでに、ふと思い出したことを口にしてみた。
「そういやさ。俺、天使のかっこさせられるとこだったんだ」
「なにそれ」
「時ちゃんが結婚式するなら天使のかっこでスピーチするって。勢いで約束させられたんだけど」
「天使?」
「ていうか、キューピッド? 俺が取り持ったようなもんだからって。いやあ、危ないとこだった」
 だが、剣心はずっと行方不明だったし、時尾は披露宴はしなかった。
 「シーウィード」が店じまいをした後、斎藤が欧州に行ったと聞き、時尾は家出同然に彼の元に押しかけた。犯罪に手を染めていることは周囲も知っていた。祝福されない選択のために時尾は血縁を失った。めんどくさくなくていいんだけど。さらりと笑って話す時尾が歳の離れた弟をことのほか可愛がっていたことを、左之助は知らないが剣心は知っている。
「お前って絶対口で身を滅ぼすタイプな」
 左之助が呆れたと言いたげな顔になった。
「なんで」
「だってすぐ安請け合いするじゃん。人の話、聞かねえし。キレると何するかわかんねえし」
 と、このあたりは右喜の卒業式の件を言っている。
「お前に言われたくないって」
 左之助の脇腹に軽くパンチを入れてから、今度は剣心が大の字に寝る。
 晴れわたった空の高さにくらくらした。下界に目を転じると、足を投げ出して座る左之助の腕と背中。体重のかかった腕に血管が浮いている。中を血が流れている。あらためてそう考えると、それは何かの奇跡のように思われた。
 この平凡で貴重な充足をなんと呼べばいいのか、剣心にはわからない。しあわせ、と、大きな言葉でくくってしまうには、あまりにささやかで、儚く、代えがたい。だが、名などなくても、今ここにあるこの静かな時間に変わりはない。自分の中にある喜びと痛みに名前がないのと同じように。
 やわらかな微笑のとどまる横顔を見上げながら、人差指で左之助の小指の爪を撫でてみる。長い指の先の爪は、指と同じで、意外にすらりと細い。
 左之助の目が剣心を見た。
 視線を絡めたまま、薬指の爪に移る。それから中指。人差し指。そこまできたところで、左之助の指が剣心の下から抜け出し、上に乗ってきた。していたように、今度はされて、剣心がくすぐったそうに笑う。
 すると左之助が二本の指を足のようにして、剣心の腕をとてとてと行進しはじめた。指先から手の甲へ。腕から肩へ。すくめた首をとびこえて、鼻から額へ。
 その間も、左之助の目は剣心のそれに据えられたまま笑っている。楽しそうな光にときどき深い色が混じるのを、剣心は見る。
 剣心は目を閉じた。目を閉じると周囲が真っ白になった。
 うねるような浮遊感が、少し、海の中に似ている。
 その髪に左之助の指が戯れる。
 やわらかい、陽のぬくもりに、沈んでいく。



 つかの間、とろとろとまどろんだだけだと思ったが、気がつくと横向きに体を丸めていた。下側になっている方がやや湿っている。寝汗も少しかいている。そして四肢には熟睡の後のけだるい爽快感。
 左之助は、と思って見回すと、背中側にいた。逆光のなか、なぜか向こう向きで仁王立ちになり、腰に手を当てている。
「………さの?」
 少し舌足らずな寝起きの声に、左之助が振り返る。
「おー。おはようさん」
 左之助がしゃがむと、むきだしの陽ざしが目を射した。
「わ」
 咄嗟に目を覆って気づいた。日よけになってくれていたのだ。
「………サンキュ」
 礼を言うと、よく灼けた顔がにぱっと笑って、
「んーじゃ、ゴホービ?」
 と、唇を啄ばんでいった。
 剣心は驚いて周囲に目を走らせる。
「馬鹿、人いんのに」
「見てねえって。つか、お前が可愛すぎ。自転車もだけど」
「へ? 自転車が何って?」
「え。だから自転車サイコーって」
「?」
 どうも話が通らない。自分がねぼけているのか、左之助が支離滅裂なのか、あるいはその両方か。
 だが、いずれにせよ、そろそろタイムリミットだった。
「しゃーねー。帰るか。ま、それはそれでオイシイからいいけどな」
 相変わらず食欲大魔神な発言に、剣心はふと思いついた。
「そうだ。梨の木さん、寄っていこう」
「ナシノキサン? 何?」
「いいからいいから」
 行けばわかる、と勿体ぶっておいて、また砂利の海に漕ぎ出した。
 京都御苑の東塀に沿う細い道を梨木なしのき通りという。
 御苑の中ほどで東に折れて寺町通りに合流する、その突き当りに、梨木神社がある。
 明治維新の功臣、三条実万さねつむ実美さねとみ親子を祀っており、明治十八年創建と、建都千二百年を誇る京都にあっては「新しい」と称される神社である。
 観光コースからは外れたひっそりした神社だが、ここに水が湧く。
 京都三名水のひとつ、「染井の名水」。それが自由に汲めるようになっているのだ。毎朝早くから、地元の住人がペットボトルやタンクを持って列を作る。寺社仏閣や文化・芸術がこの町の歴史と伝統の象徴なら、このような情景は日常と生活の象徴と言える。
 この日も、午後に入って人が少なくなっていたとはいえ、それでも数人の男女が順番を待っていた。
「うっわ、すっげー。マジ飲めんの?」
 左之助が目を丸くして言った。
 どこの神社にもあるような手水舎ちょうずや。その四角い石造りの鉢の隣に、もうひとつ石の囲いがあり、竹を組んだ覆い板が被せられている。これが染井の井戸である。側面にステンレスの蛇口が取り付けてあり、水はそこから出るようになっていた。
 立て札と張り紙があり、水の来歴や取水の心得などが書いてある。
『一人五リットルまででお願いします』
 誰が見張っているわけでもないが、皆、きまりを守って、ペットボトル四、五本を満たすと、「お先ぃ」と声をかけて、次の人に譲る。水は無料だが、ほとんどの人が小さな賽銭箱になにがしかの小銭を入れていた。
 へー、へー、と連発している左之助に、
「こっちこっち」
 剣心が声をかけた。
 手水鉢に伏せてある柄杓をじゃぶじゃぶと洗い、注ぎ口の水を受ける。管は、染井の井戸から伸びていた。
 杯に満たしてくいっと飲み干し、二杯目を左之助の眼前に差し出した。
 物珍しそうに見つめつつ、左之助はそれを口から吸いにいった。
 ズズズッ。
 ごくんと飲み下し、しばし考える。
「…………水だ」
 それを聞いて剣心が笑った。
 笑いながら、今度は両手を満たして顔を洗う。ぷはあ、と、気持ちよさそうに、濡れた顔を左右に振る。
 動物みたいだ、と思いながら、左之助は柄杓を取ってもう一度水を口に含んだ。
 やはり、水だった。劇的に旨くもなければ、無論甘くもない。
 変哲のない水。だがどこまでも澄み切った水。潔い水。
 無色透明の液体は、体の隅々に運ばれ、細胞のひとつひとつに、沁みわたっていく。
 清涼で、爽快だった。
 思い思いに喉をうるおし、手や顔を洗い、そして梨木神社を後にする。

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「雪月亭−YK BRAND−」 まきの雪さまに捧げます。









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