−ひねもす。3 −1 2 3 4 (全)

<3>


「もっかい沸かす?」
 左之助がキッチンから顔をのぞかせて訊いた。
「そう。沸騰したら弱火。今度は四十分くらい。そんで、そのまま冷ます」
「ういっす。米ヌカは?」
「入れる。さっきより少なめ」
 取り込んだ洗濯物を片手に、剣心がバルコニーから首だけ出して答える。
 了解、と歯切れよく返した左之助が、今買ってきたばかりの例の鍋に水を注ぐ。
「おっとぉ、ここに水が入りましたぁ! さあどうなる、タケノコゆで選手権。いよいよです、第二ラウンド、ゴング、カ――ン!」
 ぴかぴかの大鍋の中に、立派な筍が五本と、親切な店主が分けてくれた米ぬかが三つかみ。それを五徳にのせてバランスをとりながら、緊迫した実況中継が続く。
「なんと、これはタケノコごはんでしょうか、若竹煮でしょうか! あっ、ちがいます、こ、これは! これは………えーっと、あと何があるっけ?」
 と、途中でいきなり普通の口調になった。大量の筍をどう食べるか考えていて、即座にネタが尽きたらしい。
 なるほどな、と思って、剣心は掃き出しの網戸を閉めた。こたつを片付けたばかりのリビングで洗濯物をたたむ合間に、キッチンに立つ優秀な生徒を盗み見た。
 時尾から「左之っちにお料理教えてあげて」と言われた時はてっきり冗談だと思ったのだが、意外にも当の左之助が真面目に取り組み、すでに「海屋」の仕事で客を泣かせることはない。それどころか、持ち前の遊び根性を発揮してツアー中の調理や配膳をイベント化し、ゲストに面白がられているという。「タマネギきざみコンテスト」だの「みそ汁伝言ゲーム」だの「モーニングバーベキュー大会」だの、左之助にかかれば何でも遊びになってしまうらしい。たいがい遊び上手の時尾が、「あれには敵わないわ」と、感心したように言っていた。
 湯が沸いて、左之助が真剣な顔つきで火加減をのぞく。かがんだ伏目の影が遠目にも濃く、思わず見入った。
 その凝視に気づいたか、左之助が顔を上げて、瞬いた。
「どした?」
「……ち、青椒肉絲ちんじゃおろーす
「チンジャオロースー?」
 鸚鵡返しに言った左之助が、剣心をじっと見る。剣心が口走る。
「た、筍、筍。入れるだろ」
「いや、入れるけどさ。つか、普通タケノコでチンジャオロースとか思いつかねーし」
「つくんだよ。っていうか、なんか中華な気分なんだよ。今晩、酢豚だし」
「っていうか、なんかスキスキな気分なんだよ」
「………」
「って顔してたけど?」
 片頬をきゅっと上げた小憎らしい笑顔を、剣心が睨みつける。
 無視して洗濯物をしまいに行こうとしたが、キッチンから出てきた左之助が行く手を阻んだ。文句を言う間もなく口を塞がれ、そのまま壁に押しつけられた。
 しばらくしてようやく解放された剣心が壁にもたれて荒れた息を整えていくのを見ながら、左之助が言った。
「ほー。珍しいじゃん、ここだと嫌がんのに。さてはスキスキじゃなくてムラムラっすかー」
「阿呆かっ」
 時間外だから大目にみただけ、と剣心は続けた。
 定時の四時にはまだ少しある。
 本当は時間の問題ではなく、頑なに拒否する剣心の反応を左之助が楽しんでいることに、多少はおとなしくされてやっていた方が総体的に被害が少ないことに、そして上手く逆手にとれば便利に使役することも可能だということに、一年近くも経った今頃になってようやく気づいたためなのだが、そんなことは教えない。それに、得意なはずのポーカーフェイスが、なぜか左之助には最初の頃から通じなくて、何かとどぎまぎさせられっ放しなのだが、そんなことも、無論、教えない。
 腋の下を潜って逃れようとするのをさらに止められ、いいかげん反撃に出ることにした。膝頭で脇腹を狙う。失敗だったのは、腕に抱えた洗濯物が予想以上の距離を作っていたことだ。
「わ」
 空振りした勢いで、逆に左之助の腕に突っ込んでしまった。
「いらっしゃいませー」
 科白とは真逆の押し込み強盗が、口の中を根こそぎ漁っていく。
「んっ」
 くそう、これさえ持ってなければ。
 半ば恨みがましく、日の匂いのする繊維群を、剣心は強く抱き締めた。ぱっちり見開いた左之助の目が、自分の眉間の縦皺が薄れていく様子を観察しているとは知りもせず。背中の力が抜け、重心が肩から腰へと落ちていく。震える指がタオルに食い込み、やがて弛んでいく。
 職場だというのに、もうすぐ仕事の時間だというのに、冗談ではすまなくなりそうな気配に、剣心の一部が焦っている。だが残りのほとんどは、とろりとした海に引き込まれかけている。
 いか――ん!
 意思を振り絞ろうとしたしたとき、玄関から鍵の回る音が聞こえた。
「………っ!!」
 火事場のなんとやら。
 どうやって逃れたのか、気づいたときには洗面所にいた。洗濯機に乗せたタオルの山に突っ伏し、太陽の匂いをかぎながら、ふと気づいた。
「……あれ?」
 そういえば、こんな時間にだれが? 央太が帰ってくるまでにはまだ時間があるはずだ。
 ちょうど廊下のドアが勢いよく開き、上下衛門の声がした。
「おう、剣心さん、早……お?」
 そういう自分こそ早いどころではない時ならぬ帰宅なのだが、部屋に足を踏み入れた上下衛門は、キッチンに剣心ならぬ左之助が立っているのを見て、目を瞬いた。
「どうした、クビか?」
 と、これは左之助のへらず口。
「なんだ、てめえもいやがったのか」
「つーか、俺がこの大量のタケノコゆでてんじゃねえか。いたのかじゃねえっつーの」
「丁度いい。これも頼むわ」
 上下衛門が膨らんだ紙袋をどすんとカウンターに置いた。
「“も”って、またタケノコかよ。つか、掘りすぎ。限度を知れ、限度を」
「てめえには言われたかねえやな。大体こっちは貰いもんだ。時期だからなあ」
 左之助がゆでているのは、上下衛門が今朝掘ってきた分。山持ちの上得意に招かれ、工房総出で早朝から掘りに出かけた、その戦利品が九本。昼の間に一旦置きに帰ったらしく、午後に戻ったときには、ぬれ新聞にくるまれて、台所のシンクに置かれてあった。そして、たった今、上下衛門が持ち帰った四本は、別の取引先が自分の竹林で掘り出したもの。旬のおすそわけ、と渡されれば、ありがたく頂戴しないわけにはいかない。名産、京都は長岡の筍だけあって、いずれ見事で、香りも勢いがある。だがしかし、都合十三本ともなれば、さすがに多い。
「店にでも持ってくか」
 左之助が紙袋の中身を取り出しながら首をひねった。
「ああ、そうしろそうしろ。いつも迷惑かけてばっかりだ」
「るせーって」
「お、お帰りなさい」
 剣心が洗面所からひょこんと顔を出した。
「おう、すまねえな、面倒かけて」
「いえ、そんな」
 瞬く目がまだ甘くうるんでいるが、上下衛門は気づかない。
「よかったら剣心さんも持って帰ってくれ」
 そう言い置いて、上下衛門は仕事に戻った。
 打ち上げの前に筍を置きに来ただけだったらしい。鍵の閉まる音を聞いて、剣心は深い深いため息をついた。しゃがみこんでうなだれた頭を左之助がつんつんと突付く。目だけで見上げて、その手をうるさそうに払いながら、剣心はもう一度深い息を吐く。
 一気に疲れた。
 懲りずにまとわりついてくる手を掴み返し、それを手すり代わりに身体を引っ張り上げながら、思わず呟きが漏れた。
「勘弁してくれよ、もうー」
「とか言って。メロメロだったくせに」
 顎をすくわれ、視界を覆った獣性むきだしの含み笑いに言葉を失う。
 こいつって二重人格?
 左之助が聞いたらきっと剣心にだけは言われたくないと思うであろうようなことを考えながら、結局、なすすべもなく唇と舌を受け入れた。
 意識が真っ白に溶け落ちる、その瞬間だった。
 さ、おシゴトおシゴト。
 そんな声が、聞こえた気がした。
 唐突に引き剥がされて、芯の抜けた身体は膝から崩れた。
 揺れる頭を仰のけると、思いがけず真面目な顔が剣心を見下ろしている。
 目を強く閉じて深呼吸をし、また開ける。濡れた唇が気化熱で冷えていく。
「………さの?」
 問う調子が不足をなじっているという自覚は、剣心にはない。
 が、左之助はたしなめる顔になった。眉をひそめて、神妙な声で言う。
「もう仕事の時間だろ。ワガママ言わねーの」
 たしかに四時を数分回っていた。八時まで四時間の夕方勤務が始まっている。
 それはたしかにそうなのだが。
 だが、どうして今日に限って左之助はこんなに聞き分けがいいのだろう。
 いや、聞き分けがいいというよりも、これは自分の方が諌められてはいないだろうか。
 いまいち働かない脳が、かすかな違和感を訴える。いや、違和感ではない。危険信号だ。
 警戒警報。
 誰に対する? もちろん、目の前の害獣に対する、だ。
 だが、何に対して?
 ふらつきながら立ち上がる剣心の首が、無意識に傾く。
 そのとき、左之助の顔が豹変した。
 豹変。
 実は本来、良い方への切り替えが早いことを言う。君子豹変とは、過ちを潔く認め改める英明さのたとえで、豹の毛が季節ごとに抜け変わり斑紋が美しくなることに由来する。現在では悪い方への変化の比喩として使われる場合が多いのだが、しかしこの場合、それは比喩ではなかった。少なくとも剣心の目には、比喩でも抽象でもなく、即物的かつ写実的に「豹変」した左之助の姿が映った。
「後でっつったろ」
 深海から突然浮上する捕食者。
 麻酔薬にも似たその作用に、いつまで経っても、慣れるということがない。
 背中がチリチリと焙られる。
 やはり無意識のうちに腋をしめた剣心の、無防備に伸びた喉を指の背で撫で上げて、左之助が薄く笑った。
「夜まで焦れてろ」
 絶対二重人格だ。
 家で待ってる、と言い残して、左之助は家を出た。
 出がけに玄関で振り返ったときには、今度は何かと身構えたが、飛んできたのは、
「このタケノコ、あっちでゆでとくし」
 という、生活感あふれる言葉だった。
 見ると、手には上下衛門が持ち帰ったばかりの紙袋を持っている。
 ぺたりと座り込み、半ば呆然と、外の廊下を遠ざかる足音を聞いた。
「くそう、むかつく!」
 気分転換に、氷水を作って顔を洗った。ついでに両手を肘まで浸し、頭も冷えろとばかりに、痛いほどの冷たさに意識を集中した。
 ふう、と、ため息をつき、夕食の準備にとりかかる。今日の献立は酢豚と卵スープ、それからトマトともやしのサラダに、胡瓜の即席ピリ辛漬け。多少の下準備と炊飯の用意をしておけば後は直前でいい。中華料理は段取りと勢いが勝負だ。
 豚肉に下味をつけ、米をとぎ、ざるに上げる。
 だが、不埒者がしたい放題をしていったせいで、余計なことばかりが頭に浮かび、作業ははかどらない。
 豚肉の軟らかい手応えや、米をかき回す自分の手や、濃いとぎ汁や、そんなどうということのないはずのものにまで、いちいちハッとし、ギョッとし、その度に、必死になってあらぬ妄想を追い払わねばならなかった。
「くっそ、むかつく。集中集中!」
 これではあの阿呆の思うつぼだ、と、判ってはいるのだが。
 いつもより随分手間取りつつも、なんとか事前準備をクリアした。
 洗った手をタオルで拭く剣心の口が、フグ目カワハギ科の魚のように尖っている。
「っていうかさあ」
 家事というのはひとりごとを誘発する仕事なのだろうか。ひとりで炊事、洗濯、掃除をしているときにブツブツと何事かを呟いているのは、剣心にとって比較的日常である。
 アイロンがけをしながら、やっぱり呟きが口からこぼれる。
「大体、まだ二十いくつだかのくせに、おかしいよな、あいつ」
 生意気っていうか、と言いかけてシャツをハンガーにかけたところで、ふと、手が止まった。
 十歳の年齢差。
 十代までならいざ知らず、大人になってしまえば、それは数字通りのものではない。大きくも、小さくも、なる。そんなことくらい、判っている。だが判ってはいても感情は別物だ。
 それに―――。
 ときどき、年齢不相応な深みを、左之助に垣間見ることがあった。
 何によるものかは知らないが、それに触れるたびに剣心は表現しがたい感情に襲われる。
 哀しさと愛おしさとわずかな苛立ちの綯い混ざった、それもまた、剣心の中の名前をもたないものの一つだった。
 いわれのない不安を煽るそれを見ないために、剣心は問題をすり替えた。
「なんていうかさ、とりあえずエロさがオヤジすぎ。どんな性遍歴だ。まったく」
 呆れ半分、腹立ち半分のぷりぷりした声を作って呟き、言った自分の言葉にまた破廉恥な妄想が始まり、またたっぷり後悔することになる。
 だが、先に立たないから後悔なのである。



 それから八時までの勤務時間を、よくもそつなくこなしたものだと思う。
 「よく頑張った。えらいぞ、俺」
 またまたひとりごちつつ、水色のデイパックを胸に抱えて棟を出た。暗い駐輪場に入り、人目を気にせず息を吐いて、ようやく少しホッとした。
 だが、すぐに別の緊張が取って代わる。
 通いなれた道を走りながら、必死で意識を外に飛ばそうとした。
 しかし、思考は振り払えても、感覚神経をだますことはできない。
 懸命の努力にもかかわらず、脳神経と脊髄神経は感覚器から得た刺激を神経中枢に伝える。それは交感神経を刺激し、分泌腺や血管や内臓に作用を起こす。
 生体の意志とは無関係に機能する彼らの仕事ぶりには、猶予も容赦もない。
 東谷家から剣心のマンションまでは、自転車で約二十分。
 風をはらむTシャツの下の肌や、カイロでも張り付いていそうな背中や、硬いサドルにあたる骨や肉や、ペダルを漕ぐ脚の筋肉や。それらがそれぞれに訴えたのだろう。
 帰り着く頃には、なかなかのっぴきならない事態に陥っていた。
「ああもう!」
 むかつく、と、夕刻以来、本日何度目かもわからない悪態を繰り返しつつ、自転車を施錠するのももどかしく自室を目指す。エレベーターの箱の中にいる数秒の間に、どくどくと脈打つ血がみるみる沸騰していくのがわかった。
「あの阿呆が。しょうもない煽り方しやがって。くっそ、責任取らせてやる」
 まさに左之助こそ言いそうな科白を言い終えると同時にドアを開け放った。
 家に帰ればこっちのもの。先手必勝。とばかりに意気込んで飛び込んだだけに、予想もしなかった状況に面食らった。
「………へ? なんだ?」
 家中においしそうな匂いが立ちこめていたのである。
 醤油、いや、味噌か。ともあれ、魚が煮え、ごはんが炊けている。これぞ日本の食卓と言わんばかりに嗅覚に訴える。
 出鼻を挫かれた剣心は、気の抜けた顔で靴を脱ぎ、部屋をのぞいた。
「……ただいま」
「おう、おかえり。お疲れさん」
 壁付けのキッチンの前で振り返る左之助は、剣心と色違いの赤いチェックの割烹着姿で、手にはおたま。夕方のあんなことがなければ、なかなか殊勝な、とも思えたのだろうが。
「食う? サバの味噌煮。今日はカンペキ」
 朗らかすぎる笑顔が不気味だった。
 不審が顔に出たのだろうか。空いている方の手をつないで、ただいまのキスを頬にし合いながらそっと窺うと、気づいた左之助が少し怒った顔になって言った。
「ちゃんとナマサバ使ったっつーの」
 初秋、左之助が料理を始めて間もない頃だった。剣心ご推薦の定番料理レシピブックで和食の練習をしていた左之助が、ある日、さばの味噌煮を作った。味付けも照りつけ具合も申し分なかったが、いかんせん、使った鯖が悪かった。傷んでいたわけではない。塩さばだったのだ。「料理人が教える基本の料理」という魅惑的なタイトルのその本は、なにせプロの指南だけに、味噌の指示は「仙台味噌(赤味噌)」と詳細だったが、「鯖一尾分」が生とは教えてくれなかった。
 だが、目下の問題は鯖が正しく生かどうかというようなことではない。
「えっ、あ、ああ、うん」
 しきりに瞬きながら、無意識にもじもじと身体を揺する剣心の様子に、左之助がこらえかねたようにくつくつと笑い出した。
「お前、今日マジ可愛すぎ」
 またからかわれていたと、さすがに気づいて、剣心の全身が真っ赤になる。
「………!!」
 左之助がついと身をかがめて、その小さく開いた口に唇で触れた。そして触れたまま、目で笑いながら囁く。
「サバより俺がいい?」
 至近距離で少しのあいだ見つめ合って、剣心は目を閉じる。軽く触れ合っていただけの指先に少し力を入れ、舌で充分答えてから顔を離すと、左之助の目も艶めかしく濡れていた。
「………風呂、入ってくる」
 言って剣心が踵を返し、絡み合っていた指先が名残惜しそうに離れていく。
「よう、剣心」
 左之助が思い出したように呼んだ。
 剣心が洗面所から顔だけのぞかせると、
「ぜぇーんぶキレイにしてこいよ」
 そんなことを言いながら、またあの背骨に響く顔で笑っている。
「ばーか。もうその手にのるか」
 と、笑い飛ばしてはやったものの、気持ちに反して心臓はちゃっかりのせられてしまったらしい。
 ばくばくと騒ぎ始めたのを叱りつけ、慌てて水栓をひねり、ひねる方向を間違えた。そしていきなりシャワーから噴き出した冷水を頭から浴びて思わず悲鳴をあげ、そのことでさらに心臓は暴れ出す。そのせいか、シャワーを使う間にまた何度も余計な想像に頭を占領され、結局また誰かさんの思うつぼにはまってしまった。


「ふうぅー………へ?」
 それでもさっぱりとした心持ちで風呂を上がったところで、また戸惑った。濃厚な和食の匂いはそのままに、だがリビングもキッチンも電気が消えて真っ暗だったのだ。
「今度はなんだ?」
 首をかしげつつ、寝室のドアを開ける。
 いた。
 ベッドに入って枕元のサイドランプで雑誌を見ていた左之助が顔を上げる。
 挑むような目で剣心を見つめながら本を脇にやり、掛け布団を持ち上げて無言で呼ぶ。
 何も着ていない、引き締まった肉体に、スタンド照明の赤い光が濃い陰影をつくっている。
 ドアからそこまでのわずか三歩で、脈拍はさらに倍ほどにも速くなる。
 ベッドに片膝をついた途端、左之助の下に引き込まれた。
 密着する身体の重みに、剣心の口から、ほう、と息が漏れる。
「なんでパジャマなんか着てんだよ」
 熱い手で両手をベッドに押さえつけられて、剣心の胸が反る。
「だってまだ時間早いし。お前さば炊いてるし」
 言うと、左之助は喉の奥で笑った。
「期待して帰ってきたのに?」
 笑う低い声が少し掠れて、鼓膜をくすぐる。
「そ、そんなこと」
 ない、と言いかけて、開き直った。
「わかってんならさっさとしろ、馬鹿!」
 だが、力を抜いて身体を投げ出し、「おれ今日まぐろ」と目を閉じると、
「おもんねー」
 不機嫌な声が降ってきた。
「せっかく可愛かったのに」
 目を開けると、妙に子どもっぽい顔ですねている。
 今度は剣心がふきだした。
「ばーか。可愛いのはお前だよ」
「でもよかったろ、オアズケごっこ。焦れ焦れで」
「ていうか、ごっこなのか?」
 笑いながら唇をつつきあう。
「そ、ごっこ。昼間ずっと生殺しだったからさ、その間にいろいろ考えてて。エロエロ剣ちゃんには、どんなオアズケしてやったら効くかなーって」
「馬鹿すぎ。お前、そんなことばっか考えてたのかよ」
 剣心は呆れた顔になって、それからおもむろに首をかしげた。
「………生殺し? なんの話だ?」
「だからオイシイごちそう目の前に、青少年はムズムズウズウズしてましたって話」
 そういえば何度か「オイシイ」と口にしていた。てっきり食べ物の話だと思っていたが、どうやら違ったらしい。
 ぱちぱちと瞬いた剣心の目の前で、子どもが悪ガキになった。
 話の間に、上ははだけられ、下も半ばむかれかかっていたが、左之助はその残骸と下着を一気に引き抜くと、腕を交差させて細い足首をつかんだ。そして、今度は何事が始まったのかと呆気に取られる剣心に、ニヤリと攻撃性の笑いを見せつけた。
「せっかくだし、もちょっとドキドキさせてやるよ」
「わっ!」
 ぐんと足を引かれて、身体が浮いたと思ったらうつ伏せにされていた。
 そして左之助は、楽しそうな声で機械を真似たような変な効果音を出しながら、ことさらゆっくりと持ち上げた両脚を広げていく。
「ウイ――――ン」
「ちょ、おい馬鹿、やっ」
 慌てて逃れようと剣心はもがき、腕を突っ張る。
 だが、上体伏臥反らしのポーズで後ろを振り向いて、真っ赤になって突っ伏した。
 この若いバディは剣心の探究に大変熱心かつ懸命である。おかげで剣心は一年足らずの間に信じられないくらい大概のことを経験してきたし、一旦快楽につかまってたが・・が外れてしまえば、以前の自分なら想像するだけでも体中の血液が蒸発したであろうようなすごい事もとんでもない事も、多分、している。今さら恥ずかしいもへったくれもないはずなのだが、それでも、ほとんどしらふのこんな状態で後ろから身体を開かれるのは、やっぱりかなり困る。行為に溺れきっていてさえ苦手だというのに。
「イヤだって! 左之!」
 いつも、剣心が本当に嫌がることは、左之助はしない。
 なのに今日は割れた悲鳴さえ無視してさらに脚を押し開く。
「左之っ!!」
「ウィン、ガチャン」
 馬鹿げた擬音とともに膝が前に押し出され、腰を突き出した姿勢にされた。
 シーツに顔を埋めて身を震わせていると、秘密めかした声で左之助が囁いた。
「でもずっとこんなだったぞ?」
「………?」
 まだ泣いてはいない顔で剣心が振り返ると、いじめっ子の目に光が踊っていた。
「こーんな風に」
 と、がっしり握りこんだ足首を交互に前後させる。
「えっ! ちょ、や、やめ……」
 脚を動かされる度に、高く上がった臀部が右に左に上下する。
「ハヤクハヤクーモットモットー」
 シーツを握り締めて背を丸める剣心の尾てい骨に、左之助が舌を這わせた。
「――って。お前、自転車こいでるときって、ずーっとこんなだって知ってた?」
「し、知るか阿呆! ていうか、それ絶対お前がおかしいだけ!」
「なんで」
「だって普通自転車乗ってんの見てそんなこと思いつく奴いないし!」
「思うって。普通に」
「思わない!」
「思うね」
「んなわけあるか馬鹿っ!」
「あっそ。んじゃ、どっちがバカか見せてやる」
「………?」
 すごんだ声に不穏な匂いを嗅いだ気がして、剣心は恐る恐る後ろを振り返った。
 四つん這いを強いられた自分の状態を見るのはたまらないが、なにやらごそごそしている左之助が何をしているかわからないのはもっとたまらない。
 だが、振り返って、さすがに目を疑った。
 剣心の口がぱっかりと開き、思考が停止する。
 そして視神経から伝達された情報が脳で解析された瞬間、本領発揮の怒りが爆発して、剣心に力を与えてくれた。
「………!」
 どこにそれだけの力が残っていたのかと後で自分でも感心したほどのものすごいパワーで、普段なら絶対に振りほどけない左之助の拘束を振り払い、ついでに本体を蹴り倒し、それでもしっかりと右手に握り締められていた携帯電話をむしり取ってベッドを飛び降りた。
 後ろで盛大な音がしている。左之助が壁にぶつかった拍子に何かに当たって一緒くたに床に落ちたのだろう。
 勝手に落ちてろ!
 手足がぷるぷる震えているのは、怒りのあまりだ。
 思い切って振り返って、足首を膝で器用に固定した左之助が空いた手で携帯電話を掲げているのを見たとき、最初、それが何を意味しているのかわからなかった。だが、自分の方に向けられているのがカメラのレンズだと気づいて、気が遠くなりそうになった。その向こうで、携帯電話の画面ではなく、ぽかんと口を開けた自分の顔を見てニヤついている阿呆面に、意識は一気に呼び戻された。
 信じられない!!
 ドタン、バタン!
 大きな音を立てて閉まったドアの内側で、左之助はベッドから逆さまに落ちた状態で呻いている。
「イッテー。つか、やっぱアイツありえねえ」
 呟く左之助の耳に、盛大な物音が聞こえる。
 ドタドタ、バタン、ガタン、ザアァ―――――ッ………。
 身体を起こしてゴキゴキと首をひねっていた左之助の動きが止まった。
「………は?」
 ぽかんと口を開けた、さっきの剣心にも似た顔が、みるみる強張っていく。
「え? ザァー……って、ちょ、おい、なんだよウソだろおい!」
 耳に馴染んだ、日常的な流水音。
 慌てて跳ね起き、廊下に飛び出した。
「おい剣心! お前まさかオレのケータイ……!!」
 もちろん、そのまさかだった。
 開けっぱなしのトイレは、真っ暗な家の中でそこだけが煌々と明るい。そのドアの陰から、剣心が無手で現れた。
 愕然とする左之助を睨みつけ、
「流したし!!」
 肩で息をしながら大きく喘いで言い切った。
「………ありえねえ」
「どっちが!」
「んなもん冗談に決まってるだろバカッ!」
「知るか」
「オレの電話帳! メルアド! 朝撮ったお前のケツ!!」
「知るかっ!!」
「オレのケータイ……」
 左之助が切ない目で便器をのぞきこむ。流したと言ってもさすがにそんな物体が流れ去るわけもなく、哀れな携帯電話は小さな湖にぷかぷかと浮かんでいる。意を決してそれを取り出し、タオルで拭こうとするのを、非情な家主は「汚い」と遮った。どうせ水没している。左之助は便器の水洗レバーを倒し、付属の手洗いで、せめてもときれいにしてやった。
「………」
 手の中の亡骸を見つめるうちに、呆然と脱力していた左之助の表情が、徐々に険しくなっていく。
「そ、そっちが悪いんだからな! 俺は謝らんぞ!」
 言い捨てて離れようとした剣心だったが、じろりと見下ろしてくる顔が明らかにキレていて、うかつに動けない。どうしよう、と手を握り締めた瞬間、胴を逆さにすくわれて米俵か材木か何かのように肩に担がれた。
「ぼぼぼ暴力反対! ドメスティックバイオレンスだー! セクハラだー!」
 両手両足で暴れてみたが、そんな状態での攻撃がこたえるわけもない。背中を殴った分だけ、子どものようにお尻を平手で叩かれて、悲鳴を上げた。
「サイテー! マジでサイテー!!」
 叫びつつ、少し不安になってきた。
 さっきから自分が喚くばかりで、左之助は一言も口をきいていない。
 そんなにまずかっただろうか。でもあれは笑えないし。あんな冗談する左之助もいやだし。
 動線効率のいいマンションの二LDKで、トイレから寝室までは五歩もない。部屋に連れ戻される肩の上の数秒の間に、怒りは緊張に負け、全身がざわざわと粟立っていく。
 案の定ベッドに放り出され、咄嗟に身を起こそうとしたが、首を片手で掴まれ、締め付けるようにマットに押さえつけられた。
「………!」
 同じような方法で気絶させられたときの感覚の記憶が剣心を硬直させ、咽喉からひゅっと乾いた音がした。ビクンと弾んだ身体が左之助の影に入る。
「お仕置き“ゴッコ”ですむと思うなよ」
 冷酷な顔で見下す左之助を、剣心は唇を引き結んで見上げる。
 かなり追い詰められた剣心には、まさかその左之助が本当は大して怒っているわけでもなく、それどころか青ざめて目に涙さえ溜めて震える剣心の様子に悪ふざけがすぎたと少々悔やんでさえいたとは、そして「すむと思うな」と言いながら、実は単なるお仕置きごっこの口実を得て楽しんでいるだけだったとは、そのうえ剣心を怯えさせるためにわざと冷たい表情をつくって見せていたとは、それはもう想像さえできず、結局、どれだけ分かと思うほどさんざっぱら泣かされ叫ばされ謝らされ、やっと釈放された瞬間には、ほとんど気を失うように真っ白い眠りの底に墜落した。

前頁次頁

「雪月亭−YK BRAND−」 まきの雪さまに捧げます。









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