<4>
コンロには水の入ったケトルが載ったままだった。
そうだ。ここでコーヒーを淹れようとしていたときに首を絞められて、串本まで連行されたんだったっけ。
思い出すと、笑いがこみ上げてきた。なんて無茶苦茶な。無性に可笑しくて仕方がない。
「どうした?」
「いや、お前、妙なとこで律儀だと思って」
きょとんとした左之助に、剣心は別のことを言った。
「コーヒー。あの状況で冷凍庫にしまってくれたんだ。しかもフィルターに入れてた分まで」
「だって! お前、そういうのうるさいじゃねえか。冷凍庫から出して放っとくとダメになるとかって」
伊達に半年も仕事ぶりを見てはいない。
「そうだけどさ」
「笑いすぎ!」
膨れ面の左之助に小突かれ、剣心はなおも笑いながらコーヒーを淹れる。ほどなく、ほろ苦い香気がキッチンに漂い始めた。
高速を飛ばし、京都南のインターから深夜の市街を一気に抜けて、剣心のマンションに着いた頃には十二時を回っていた。荷物を車から降ろして帰ろうとした左之助を引き止めたのは剣心だった。
思いがけず引き止められた左之助はさっきから借りてきた猫のように落ち着かない。今は掃除の行き届いたラグに胡坐をかいて座り、そわそわと部屋を見回している。
「お前んちっていつもこんな片付いてんのか?」
一人で暮らすには充分すぎる二LDKの家に、家具はほとんどなかった。
リビングダイニングには大きな一枚板の座卓がひとつ。毛足のあるラグが広めに敷いてある以外、ソファも椅子もない。雑多な生活用品はおろかテレビさえ見当たらないのは、壁一面の収納棚に格納されているためだという。
「っていうか、あんまり物とかないから」
「いやー、俺もないけどさ。全然片付かないぞ?」
「お前のは単にだらしないだけ」
相も変わらずの毒舌。言い返す言葉に窮したところへ、剣心が蕎麦猪口を手にしてきた。
「ごめん、揃うのこれしかなくて」
「え、いや全然」
なぜか膝を揃えて座り直した左之助がコーヒーをすする。
ズズズズッ。
つられて正座した剣心が、向かいで染付の器を傾ける。
ズズ。
「……お、ほんとだ。おいしい」
「あ、だろ? 普通のブレンドなんだけど、これが一番好きでさ。冷めても酸いくならないし」
「へえ……」
ズズズ。
「…………」
「…………」
ズズズ、ズズズズズ……。
「あっ、そうだ。あのさ、ひょうちゃんクッキーって知ってるか?」
言って剣心はそそくさと立ち上がり、キッチンの吊戸棚をゴソゴソと探りだした。
「ひょうちゃんってアレだよ、
崎陽軒の醤油入れ。ほら、焼売に入ってる。妙な形の。っていうか箸置き? アレの形したクッキーなんだけど、なんか変にブサイクでおもしろくてさ。クッキーじゃなくてサブレだったか? あれ? たしかここに……」
独り
言ちながら爪先立って棚にセットしたかごを出したり入れたりしていた剣心の手が止まった。
背中に痛いほどの気配を感じる、この感覚は、知っている。こんなことが前にもあった。それは確かつい今朝の出来事だったはずなのだけれど、なんだかものすごく遠いことのようで、でもあのときは……。
乾物の入ったプラスチックのかごを持った右手が、小刻みに震えている。その手をひとまわり以上大きな手がすっぽりと覆い隠すのを、ひとごとのようにぼんやりと見た。上の手が下の手にかごを押し戻させる。
「いいから剣心。もう、いいから」
低い声が耳孔に流れ込んで背骨を駆け下りたのは、震える手が包み込まれたのと同時だった。びくりと痙攣した体に左之助の腕が回る。
今朝と同じ。でも今度はちがう。背中に触れる身体はやっぱり熱くて、抱き締める腕はやっぱり力強かったけれど。抱き取られた胸の中から見上げると、黒い光が降ってきた。そして目の前が真っ白に溶ける。次第に深くなっていく口づけに眩暈を覚えながら、左之助から与えられる甘く痺れる感覚だけを夢中になって追い始めた。
長いキスに酔わされている間にベッドに運ばれたのだけはかろうじて意識にあるが、いつシャツを脱がされたのかわからない。気がつけば左之助の手がジーンズに這い込もうとしている。身を竦ませた直後、下着越しに触られた。
「うわった、ちょっと待った―!」
「でっ!」
場違いな叫び声と共に剣心ががばっと跳ね起き、左之助に思い切り頭突きをくらわせる格好になった。
「ってー。てか、お前、ありえねー」
「ご、ごめ……。いやでもさ左之、やっぱあの」
と、後退ろうとするのに全身で圧し掛かり、左之助は剣心を掌中に収めた。
「ありえねえって言ってるだろ」
「う」
ドスの効いた声ですごみながら、そのくせひどくやさしく触れてくるのが、剣心を落ち着かなくさせる。居ても立ってもいられないような、身の置き所のないような、なんだかよくわからない気分に押し潰されて、何もかも放棄してしまいそうになる。負けまいと思うのに喉が詰まって、肺が痙攣しはじめた。
頭を撫でていたもう一方の手が、髪をすいたり耳を触ったりしていた大きな手が、剣心の顔を塞ぐ硬い拳を包み込んで、外させた。頬に軽くキスをした左之助が涙のにじんだ目を覗き込む。
あの黒い瞳が、これまで見たことのない優しい色をしていた。胸が騒いで思わず目を閉じると、左之助が唇を啄ばみにきた。飽きずに繰り返す、そのくすぐったさが妙に心地よくて、剣心も同じように返してみる。
戯れ合っているうちに、左之助の手が剣心の服を剥ぎ取り、官能を揺り起こしていく。
浅く早い息で身をよじり、淡い靄がかかった目で左之助を見つめる剣心の体は、いつしか熾った炭のようにほとほとと火照っていた。
「あ」
指が早まり、陶然とした目に狂おしさが増す。
だが、左之助がすっと身体を沈めたのを見て、剣心はハッと我に返った。
「待っ、ちょ、ストーップ!」
左之助はかまわず膝を割る。
いきなり口に取られて、背骨が抜けたかと思った。
「ひあっ……く、う」
身体を硬直させて耐えようとした。が、すでに感覚は開ききっている。抗えるはずがない。左之助が口をすぼめると、剣心は掠れた声を喉にからませて他愛なく達した。
脱力して横たわった背中に左之助の手が回る。円を描く手が背骨を伝い下り、谷間を割った。剣心の身体がびくりと竦んだ。
「い」
異様な感覚に、溶けていた身体が硬くこわばり、大きく見開かれた瞳が懼れに染まる。
「……やっぱナシ! ごめん!」
「だからありえねーって」
だが、細かく首を振る剣心の身体は、カタカタと震えている。
「さの、頼むから……おね…がい……」
キスさえも拒んでおこりにかかったように痙攣を起こし始めているのを見て、左之助は指を抜いた。退く指にぞろりと擦られて剣心が身震いする。白い肌に一気に脂汗が噴き出した。わななく息がひゅーひゅーと鳴る。
左之助はしばらくそっと抱き締めてあやすように背を撫でてから、剣心の手を取り、震える指先に軽い音を立てて口をつけた。
「ピンポーン。緋村さん、書留でーす」
まだしゃくりあげるように震えながらも、剣心がくすりと笑う。
「ま、間に合ってます」
「それちがうし」
くすくす笑いながら、左之助がキスの雨を降らせる。甘く囁き、髪を撫で、ところかまわず口づける。そして掌で顔を包んでひとしきり唇を重ねた。
「大丈夫だから」
口移しに囁かれて、剣心がことりとうなずく。左之助は剣心に腰を上げさせ枕をあてがった。腰を突き出した状態で固定され、剣心は足の爪まで真っ赤になった。
「ちょ、これ……」
「いい子だからガマン。この方がラクだって」
そう言って口を近づける。
「えっ、う、うそだろおい……あ」
舌先が触れると、剣心の腰がびくんと弾んだ。充分にほとびらせてからゆっくりと指を押し込んだが、第一関節で止まった左之助の指はやはり固く締めつけられて動かない。左之助はごくごく慎重に、驚かさないよう脅かさないよう根気よく時間をかけて、少しずつ少しずつ深く埋めていった。
だが。
「……さのごめん、俺やっぱだめかも」
剣心が弱々しく呟いたのは、どれほど経った頃だったか。
「だからありえねーって何回言わせんだよ。てか誘ったのお前だぞ?」
「だって」
見上げて反論しようとするが、異物が体内に侵入している強烈な違和感に意識が集中しているせいか、声は弱々しい。
「だって」
もはや半べそに近い。その頬に軽くキスをして左之助が言う。
「痛い?」
剣心はさっと頬を染めて困ったように首を傾げ、それから小さく首を振った。
「気持ち悪い?」
また首を振る。
「じゃあなんで?」
とは訊かず、無言で指を曲げた。
「えっ」
驚いたように上げた声に怯えでも苦痛でもない甘やかなものを確かに滲ませながら、だがやはり剣心の目は怯えていた。
「や、だってムリ。やだ、だめだ」
入るわけない。と、最後は左之助の首に顔を埋めて囁いた。左之助は穿つ指の動きを止めて、弱々しく首を振り続ける剣心の耳元に囁いた。
「でももうずっぷり根元まで入ってんだけど」
「え」
「何本かわかる?」
「え? だってでも……」
一本だったはずの指は二本に増えていた。
「もっと欲しいって」
左之助が獰猛な笑みを浮かべて剣心の内側をまさぐった。
「ここは言ってる」
一気に激しさを増した指の蠢きが剣心の体と意識を掻き乱した。
「やっ、なに……うそ、あ、あ、ああっ」
覚えのない感覚がとめどなく湧き上がってくる。声を上ずらせて左之助にすがりつく剣心は、信じられないというように目を見開き、切羽詰った様子で首を振り続けている。
「っ………!」
ふいに乳首をぺろりとなめられて、声が途切れた。左之助は爛熟してそそり立つ桜色の突起を舌先で押しつぶしながら、剣心の手を自分の中心に導いた。体中を手と口で執拗に責められ、初めて開かされた体は奥の奥まで嬲られ、すでにされるがままの状態になっている。触れた途端、あまりの熱さに弾かれて引こうとしたのを許さず包み込んで握らせる。剣心の体が電流に打たれたように震えた。
左之助はほとんど無意識にしがみついてくる剣心の腕をそっとほどいて、膝の裏に手を入れた。ひくひくと痙攣し続ける体からようやく指が引き抜かれ、剣心の四肢がくたりと弛緩しかける。だが束の間の休息は前兆でしかない。やっと許されたところに今度はさっきまで手のなかにあった熱く硬いものが当てられる。押し寄せる奔流のような何かを感じて、剣心は不安と予感に戦慄いた。
「さの」
蚊の鳴くような声で呼ぶ。甘い言葉の混じったキスが降ってきた。
「ん……」
ひとしきり互いの唇を貪り、名を呼び交わし、再び口づけながら左之助は身体を進めた。首に回された細い腕が可哀想なほどに震えているのを知りつつ、だがもう待たない。待つ余裕もない。
「――――――!!!」
声にならない悲鳴が剣心の喉からほとばしる。こぼれそうに見開かれた目尻から涙が伝った。左之助は頬に張りついた髪をそっとかきのけ、額を合わせて繰り返し名を呼ぶ。剣心は目を閉じて、左之助に自分を明け渡す。
朦朧とした意識のなかで、気の遠くなるほどの痛みが次第に別のものに色を変えていく。左之助は強く突き上げながら手で責めたて、そして堪えきれなくなった剣心がしなやかにのけぞって昇りつめるのと同時に、彼の内側を灼いた。
細かい震えの残る剣心の背中を左之助の手がやさしくさすっている。ほどなく、剣心がもぞもぞと身じろぎをして、くるまれた腕の中から顔を出した。まだ頬が火照っている。
「……ほんとに燃えるかと思った」
「ご満悦?」
「ばか」
「それお前だって。おい、もう消えんのナシだぞ?」
言いながら、リトマス試験紙のように赤くなっている顔を掌で手挟んだ。が、剣心は黙ってじっと見るばかりで返事をしない。視線が冥く揺れている。
「おいって」
手の中に包みこんだ小さな顔を軽く揺する。
「でもだめだやっぱり。大体、俺ゲイじゃないし」
「んなの俺もだ」
「知ってる。部屋にいっぱいエロ本あるもん」
左之助の手を逃れ、にこりともせずにそんなことを言う。絶句したところへ「そこらに置いとく奴が悪い」と追い撃ちをかけられ、左之助がへしゃげた声で反論した。
「隠してるだろちゃんと」
「ベッドの下なんか隠したって言うか」
「う……」
「でも別にいいさ隠さなくて。それ、普通だし。でもこれは」
と、腕を突っ張って体を離す。
「普通じゃない」
「……だからなんだよ」
「前途ある二十歳の
若人に、道を誤らせるわけにはいきません」
妙な節をつけて言いながら、腕を引いて抱き寄せようとする左之助の手をすり抜け、背中を向けて座り込んだ。
「気にしねーよそんなこと」
「俺がする」
「しなくていい」
キスマークの散った白い肌に手を添えるが、背中は頑な。
「……お前んちの仕事、楽しかった。東谷さんも、右喜ちゃんも、央太くんも、みんな大好きだった」
お前も。そう言って剣心は床に落ちていた掛け布団を引き上げ、みのむしのようにくるまってしまった。
「カコ形にすんなカコ形に」
「そうでなくても深入りしちゃいけなかったのに。言ったろ? クライアントを裏切ることはしないって」
「あんな辞め方のがよっぽど裏切りだっての。だいいち俺はどうなるんだ」
短い沈黙。そして、布団の中からくぐもった声。
「お前さ、どうしてあんな無茶した?」
「ムチャ?」
「今朝」
ひょこんと目が出た。
「どうしてって、俺必死だったし、他に方法思いつかなかったし」
「じゃなくて、どうしてそこまでしたかってこと」
「んなもん。言わなきゃわかんねーかよ」
そう言ってなぜか胸を張った左之助を、剣心はじっと見つめた。
「師匠もだよ」
「は?」
突然飛び出した予想外の名前に左之助がぱかっと口を開けた。
「あの人も、だからお前を連行したんだ」
「もしかしてオッサン、ホモ?!」
「阿呆! そういう意味じゃない!!」
と、久々に威勢よく叫んだが、すぐにまたシュンとしぼんで沈んだ息を吐き出した。
「お前の店、メンツ少ないだろ」
『海屋』の社員は三人。後はアウトスタッフで回している。臨時雇い制度は、当人にとっては遊びが金になるのだから一石二鳥だし、店にとってはハイシーズンや連休など忙しいときだけ来てもらうことができるため経営リスクが少ない。双方のニーズが合致した、よくできたシステムではある。だが『海屋』の場合はそれだけではないはずだ、と剣心は言った。
「あの人、あんまり弟子とかとらないんだ。面倒臭いからって。だからお前の話、かなりビックリした。簀巻きにして運んだりとかはすごくしそうだけど、家出した不良少年を家に届けて、それで出直して来いなんて、とてもじゃないけど言う人じゃないのに。お前だからだよ。見込んだんだ」
「そうとは思えねえけどなあ」
「でもお前にダイビング教えたの師匠だろ。斎藤じゃなくて」
半信半疑どころか完全懐疑もあらわな左之助に、剣心はたたみかけた。
「え? ああ、うん」
「しないんだよあの人、そんなこと滅多に」
「え、そうなのか?」
「じゃあ師匠が人に教えてるとこ見たことあるか?」
「言われりゃないけど。でもそれはいま関係ないだろ」
「あるさ。……俺は、あの人の店を、潰した」
左之助がハッと口を開いたが、言う間も与えず言葉を被せる。
「潰したんだよ。店も、評判も、信用も、キャリアも、全部」
「……」
「狭い業界だから、大きな事故なんかやったら一発で駄目んなる。旅行会社だって一気に手を引くし。事故ったのは俺でも、みんなアタマの人間を見るから。『比古さんとこはヤバイ』って噂が回る。神戸で始めたのも、東京じゃ知り合いが多すぎたからだと思う。それでもかなり苦労しただろうし。それがようやくうまく行き始めて、見込みのある若いのも拾えて、これからってときに」
きゅっと結んだ唇をほどいて、剣心は笑った。泣いたらいいのか笑ったらいいのかわからないと言いたげな中途半端な顔で、笑った。
「俺なんかがあの人の周りウロついてたり、ましてやその若いのに絡んでたりしちゃ駄目なんだよ、やっぱり」
左之助の黒い瞳に、不細工に歪んだ剣心の顔が映っている。剣心の濡れた瞳に、左之助の顔がゆらゆらと揺れて崩れていく。
「わかった。俺、店辞める」
言ったのは左之助だった。
「馬鹿者! 聞いてんのか人の話!」
ばさりと布団を叩きつけて怒鳴った剣心の両手を左之助が捉えた。すごい力で握りこんで、ずるずると引き寄せる。
「辞めるったら辞める。お前が辞めるんならな。でもお前がうちの仕事辞めないなら、俺も考えてもいい」
「……!!」
剣心は絶句した。
なんだそれは。
「お前が決めろ。選ばせてやる」
息のかかる距離に顔を寄せて、壮絶な形相で睨みつけて返事を迫る。
「んだよそれ。そんな脅迫」
掠れ声の剣心の顔が、また笑おうとして失敗した。
「通用すると、思ってん……かよ」
両手を捕られたまま頭を垂れて裸の胸に額をつけると、よく締まった灼けた腕が剣心を抱き締めた。髪に差し込まれた手が、頭をぐりぐりと左右に揺さぶる。左之助の胸が温かいもので濡れた。
「ううー」
剣心は鼻声で唸りながら、握った拳で左之助の背中をどんどんと力任せに叩いた。そうして叩きながら、しゃくりあげながら、抱えられた頭のあちこちに左之助の顎や頬や鼻や唇が触れるのを感じていた。
しばらくして剣心がハタと手を止めた。顔は伏せたまま、指先でちょいちょいと肩甲骨のあたりをつつく。
「言っとくけど」
と、くぐもった声。
「内緒だからな」
「え、なにが」
「だから! こういうの」
怒った口調で、顔を上げた。目と鼻が赤い。
「えー、別に隠さなくても」
きゅっと唇を噛んで、人差し指を左之助の鼻先に突きつけた。
「いかん。じゃなきゃナシだ」
「ああもう、わかったよ。まあじゃあ、いいよ、それで」
「それと」
指が二本に増えた。
「仕事中は絶対ナシ」
「だれもいなけりゃいいだろうが」
「ぜ――ったい!不可!!」
今度は三本。
「とりあえず一発殴らせろ」
「なんで! それ俺のセリフ。俺なんか、殴られるわ蹴られるわ、挙句の果てに頭突かれてだな……」
言いかけてふいに静止し、やたら嬉しそうな顔で身を乗り出した。
「なあなあ、じゃあさあ、その代わりもっかい?」
耳に囁かれて、沸点の低い家政夫さんの鉄拳が舞った。
命知らずな若者の野望が達成されたかどうかは神のみぞ知る。
驚かせたくて、できるだけ音をさせずに鍵を開けた。だが
三和土で靴を脱ごうとした拍子にキーホルダーを手から滑らせてしまった。
「あ……!」
「お姉ちゃんっ!」
後ろにいた央太が床に落ちる寸前でそれを受け止めた。一気に汗が噴き出す。
「シ――ッ」
「シ――ッ」
ヒソヒソと言い合いながら、抜き足差し足で廊下を歩く。
この時間なら彼はキッチンだ。夕食の準備。野菜とハーブを煮込んでいるらしい温かい匂いが漂っていた。
そして先を行く姉がリビングのドアに手をかけようとしたとき。
「やめろって……」
ふいに聞こえてきた声に右喜の手がピタリと止まった。
剣ちゃんのこんな声、聞いたことない。なに? どうしたの?
本能的に身をすくませた直後、とんでもなく大きな怒声に続いて、家が揺れた。
「言ってるのがわからんか――っ!!」
ズシイィィン……。バリバリバリガタガタガタッ。
なにか重いものが落ちた。すごく重いもの。
右喜と央太は顔を見合わせて、そうっとリビングを覗いた。覗いてわかった。すごく重いものが落ちたのではない。重いものがすごい力で叩きつけられたのだ。肩で息をする剣心と目が合うと、剣心はひどく驚いた。人間が本当に飛び上がって驚くということを央太は初めて知った。
「ふふふ二人ともおかえりっ!」
「た、ただいまっ……」
「えーっと……ケンカ?」
右喜が床でバンザイをしている兄あるいは兄の残骸を指差した。
「いや、っていうか、ちょっと邪魔だったから……」
姉弟の視線が「ちょっと邪魔」をした兄に注がれた。
それはキッチン近くの床にべったりとのびたまま動かない。目は完全にひっくり返って、口には泡。
ちょっと邪魔……。
右喜と央太は黙って顔を見合わせ、そうっと剣心を見た。
しかし見れば剣心もたいがいボロボロになっている。いつも束ねている髪はほどけて乱れているし、割烹着の肩が大きくずれて、裾もベロリとめくれあがっている。よほど激しい取っ組み合いでもしたにちがいない。
赤くなったり青くなったりと忙しくしていた剣心が、場を取り繕うように話題を変えた。
「そ、それより今日はどうしたの? 二人が一緒に帰ってくるなんて珍しくない?」
「あっ、そうだった。央太」
「あ、うん」
とてとてと央太が剣心に剣心に近寄り、四角い包みを差し出した。両手に包めるほどのその箱には、細かいストライプの包装紙がかかり、青いリボンの花が咲いていた。
「おかえりなさい!」
「おかえり剣ちゃん。戻ってきてくれてありがとう!」
彼から上下衛門に電話があったのは四日前。二日ほど風邪で寝込んでいたのが昨夜ようやく本復したと言って菓子折と手製の佃煮を携えて挨拶に訪れ、今日の夕方勤務からの復帰となった。上下衛門には「彼もビジネスだから無理を言うな」と散々言い聞かされたが、姉弟は残念でたまらなかった。家政夫さんとしてはもちろんだが、それ以上に彼との別れ自体が寂しかったのだ。それだけに、剣心が帰ってくると聞いてどんなに嬉しかったことか。そこで二人は相談して、剣心にプレゼントをすることにした。
剣心は突然のことにびっくりして目を丸くしている。狙い通りの反応に二人はくすくすと笑い交わした。
子どもたちに急かされて包みをほどくと、中から出てきたのはひとつのマグカップ。エッジの効いたシャープなフォルムを、目にやさしい生成り色が和らげている。
手の中のカップを見つめる剣心に、右喜がにっこり笑った。
「剣ちゃんのコップ。ウチで使う用」
言う手で床を指す。剣心が再び驚いて目をみはり、そして照れくさそうな微笑を浮かべて礼を言ったとき、すっかり忘れられた存在となっていた左之助が喉の奥で妙な音を鳴らした。
「あ」
三人が見守るなか、蛙のような唸り声を上げて身体を曲げ、次いでげぼげぼとむせながら何とか起き上がる。
「生きてたんだ」
「お兄ちゃん大丈夫?」
「“あれ、もう気がついた。早いなぁ”」
「おーまーえーなー……」
嫌味な上にも嫌味な科白。左之助は視線で射殺そうとしたが、いかんせん息も絶え絶えの状態では威嚇もへったくれもあったものではない。
「なによ、お兄ちゃん。剣ちゃんを説得してくれて、せっかくちょっとは見直してあげようかと思ってたのに。やっぱり所詮お兄ちゃんよね」
「るせー!」
腰に手を当ててこれ見よがしにため息をついた右喜に左之助が吠える。
その横で央太が首を傾げた。
「でもさお兄ちゃん、一体なにしたの?」
「いやナニっていうか、まあ、そのう……」
と、ふいに左之助の顔がでろりと崩れ、それを見た剣心がギョッとした顔をした。
「なに、つまみ食い?」
「だーもういいから! っていうか、お前、マジ邪魔っ! 撤去!」
呻吟しながら引きずられていく兄と、信号のように顔色を変えながらそれをリビングに引きずり出す剣心を見比べ、右喜と央太は黙って顔を見合わせた。相手の目に同じ決意を読み取ってコクリとうなずく。
さわらぬ神に崇りなし。
うちの家政夫さんの仕事は邪魔しちゃいけない。絶対に。
了/2004.11
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