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さわらぬ神に


 午前七時十分、東谷家の朝食が始まる。
 今日の献立は、だし巻きと蕪のあんかけと鱚の一夜干し、それに炊き立てのごはん、湯葉とわかめのみそ汁、千枚漬け、梅干、焼き海苔。
 そこいらの旅館以上に至れり尽くせりな食卓は、この家の主、上下衛門の生活方針によるものだった。
『朝食は一日の原動力。寝坊しようが、学校、仕事に遅れようが、きちんと食べてから出動すべし』
 なるほどそれで朝夕勤務か、と剣心は合点した。
 彼が東谷家に通い始めて今日で二週間。通常、家政婦の勤務時間は九時から五時の間が一般的だが、このクライアントは朝夕各四時間ずつというイレギュラー勤務を希望した。
 朝が六時から十時、夕方が四時から八時。
 さすがに朝の忙しさは格段だが、しかしこれだけ気持ちよく食べてもらえると腕の奮い甲斐もあるというものだ。もりもりとごはんを食べる親子の姿に剣心の顔は自然とほころぶ。ご飯のおかわりを求める茶碗が次々と差し出され、彼はかいがいしく給仕をしていた。
 父、上下衛門。桂川を挟んで右京区側にある引き染め工場で働く染色職人。昔気質の頑固親父だが礼節にはうるさく、いつもきちんと「おかわりください」と言うのが微笑ましい。
 末っ子の央太は小学三年生。亡くなった母親譲りだというおとなしい気性。しかし食欲は旺盛で好き嫌いもない。部屋の様子が、この年齢の男の子には珍しく、というか、ありえないほどきちんとしている。
 姉の右喜。京都市中心部のファッションデザイン専門学校に通って一年目。奇抜な身なりに反して、実はサバサバとした気性と快活さを兼ね備えた真面目な性分だということに数日で気づいた。いまどき干物をこんなにきれいに食べる子どもはあまりいない。これで洗濯泣かせの妙な服さえなければ申し分なしなのだが。
 もう一人、長男に左之助がいる。勤務先のダイビングショップが正午始まりで朝が遅いため、朝食にはいない。いつも皆がでかけた後でようやく起き出してくる。
 三人のうつわは恐るべき勢いで空いていき、炊飯器のごはんもみるみる減る。
 「ごちそうさま!!!」
 三つの声がきれいな和音になった。三人がほぼ同時に家を出るまで、あと十五分。剣心は手早く三つの弁当箱に中身を詰めていく。ほこら冷めにしたごはん、ソースを挟み込んだささみフライ、ウインナーソーセージ、さわらの西京漬け、ぜんまいの煎り煮、玉子焼き、梅干。野菜の炊き合わせはグリルで炙って煮汁を切り、果物は別の密閉容器に入れた。
「……っし、一丁あがり!」
 念のためナイロン袋に入れてからそれぞれのナプキンで包み、ダイニングテーブルに並べた。
 その間に慌ただしく身支度をすませた三人が、計ったようなタイミングでわらわらとやって来て、弁当箱をあるいはつかみ、あるいは紙袋に入れ、あるいはそっと鞄に収めて行く。
「行ってきまーす!!!」
 またもや三つの和音を残して、家の中は一気に静かになった。
 剣心はひとつ大きく息を吐いて、シンクの洗い物にかかった。
 もうじき左之助が起きてくる。それまでにキッチンワークを終えておきたい。
 いまいちつかみきれないその長男は、極めて快適なこの新しい勤務先で、唯一水を差す要素となっていた。
 そもそも第一印象が悪かった。どうにも波長の合わなさそうな軟派っぽい風体に加え、大阪市内のダイビングショップに勤めていると聞き、「やれやれ、ついてないな」と、少しだけげんなりした。
 もっとも彼はそれを表に出したりはしない。
 プロの家政夫たるもの、依頼主の家族やペットや持ち物が好きでもそうでなくても同じように淡々と接するべきだ。ましてや初対面の挨拶でそんな内心を少しでも気取らせるなど論外。二十歳過ぎでこの仕事に就いて約十年、ずっとそういうやり方できた。三歳の六つ子のいる家にも行ったし、体長二メートルのアオダイショウと暮らす主人をもったこともある。今さら小生意気な若僧の一人や二人、どうということはない。
 だが心象がよくなかったのは向こうもご同様だったらしい。しかも二十歳と若いためか元来の気質か、「ヤなヤツ!」と全身で叫んでいた。
 ということで、剣心は彼となるべく顔を合わせないようにしている。
 といっても、彼は朝九時半か十時頃に家を出て、帰宅は早くて夜の八時。朝食の時間さえうまくやりくりすればいいだけだ。左之助の方で給仕不要というのに乗じて、そのタイミングで洗濯物を干す、というのが剣心の日課となっていた。
 この日も、左之助がもっそりと起きてきたのを認めて食卓を準備し、ごはんと味噌汁をよそったところで席を外した。
「いただきます」
 唸るような低い声に、「どうぞ」と返して洗面所へ向かう。
 きちんと両手を合わせて言ってはいるのだが、寝起きが悪いタチなのかいつでもそんな調子なのか、とにかく目つきがひどく悪いせいで、すごんでいるようにしか見えない。可哀相に、あれではごはんだって怯えて冷めてしまう。
 ドア口でちらっと振り返ると、大きな背中を丸めて忙しく箸を動かしていた。
 まもなく「ごっそさん」という低い声が聞こえたのを合図にダイニングに戻った。
「行ってらっしゃい、気をつけて」
「……っす」
 首をひょこんと動かして左之助が仕事に行き、あとは剣心ひとりである。
 それにしても、どこからどう見てもやっぱり感じが悪いのに、なぜか挨拶に関しては几帳面なのがかえって拍子抜けする。東谷さんの躾かな、それとも体育会系の方かな、などと愚にもつかないことを考えながら、剣心は仕事を片付けにかかった。



 その日は珍しく家族四人が朝食に揃った。
 クリスマスを数日後に控え、左之助が勤務先のクリスマスイベントの準備でいつもより早く出かけなければならないためだった。
 すでに馴れた、いつもの朝食風景。だが、付け焼刃の日常は変数に弱い。
 剣心が右喜に二杯目の手渡したとき、左之助が空になった茶碗を手に椅子をひこうとした。彼にはいつものことではあるが、この状況でそれはないだろう、と思って、剣心が手を差し出した。
「おかわり?」
 左之助は一瞬静止した後、黙って茶碗を手渡した。目は合わせない。
 すぐにくるりとキッチンに向かった剣心は、その背に彼が冷めた視線を投げつけているのを知らない。
 そして、その長男坊が三杯目のごはんの入った茶碗を片手に鯵の干物の頭にかぶりついたちょうどそのとき、央太が手を滑らせて汁椀を取り落とした。熱いみそ汁が両脚にかかり、熱さに飛び上がった膝が勢いよくテーブルを打って、卓上の食器が大暴れした。
「熱……っ」
「央太くん!」
「央太!」
 剣心の反応は早かった。ものすごく素早かった。さっきまで対面カウンターの向こう側にいたはずなのに、右喜が驚いて腰を浮かせたときにはもう央太の脚に絞ったふきんをあてがっていた。
「大丈夫? 痛くない?」
 そう訊ねられて央太がうなずくのに目で応えながら、今度は乾いたタオルに持ち替えて、手早く水気を拭き取っていく。
 そうしてあらかたきれいになったところで、頭をひと撫でして央太を立たせた。
「服替える前に、ちょっとシャワーで流しとこう。みそ臭くなるから。行こ」
「大丈夫。自分でできる。でもごめん、おつゆこぼしちゃった」
「いいよ、そんなの。火傷しなくてよかった」
 もう一度「ごめんね」と言い置いてパタパタとバスルームに駆けていく後ろ姿を見送って、今度はこぼれたみそ汁の方を片付ける。
「……あーびっくりした。っていうか央太ドンクサすぎ」
 中腰のまま固まっていた右喜が、大きく溜め息をついて、片付けを手伝い始めた。
「朝の忙しいときに剣ちゃんに余計な面倒かけてさ」
「そんな、面倒なんて、俺、全然」
「いや、ほんとだ。すまねえなあ、剣心さん」
 同じくポカンと口を開けて見ていた上下衛門が我に返って言った。
「いえ、ほんとにそんなこと全然。それにこれも仕事ですから……」
 だが、そのとき。
「あーあ」
 左之助がぼそりと呟いた。声は小さく低かったが、しかしあからさまに刺々しかった。三つの視線が左之助に集中する。
「“面倒なんて、俺、全然”」
 手で触れられそうにツンツンと尖った言葉が自分に向けられていることはあまりにも明白。鉄のポーカーフェイスを自認する剣心の頬が、さすがに少し強張った。
「お兄ちゃん!」
「エライねえ」
「左之助、なにを言っとる」
 上下衛門がガタンと立ち上がった。テーブルを回り込んで息子の肩をつかんだその手を左之助が乱暴に払い落とし、上下衛門の顔が険しくなる。そこへ剣心が割って入った。
「東谷さん、俺ならいいですから。左之助くんも。君の気に障ることを言ったなら謝るから」
 だが、そう言って見上げる剣心のなにかが、かえって左之助の神経を逆なでしてしまったらしい。
「うわ、それマジ? ていうか、アンタ、もうちょっと普通にならねえ?」
 剣心は左之助の目をじっと見つめたまま、「この野郎いい加減にしねえか」と声を荒げた上下衛門を片手で制して言った。
「そう言われると困るんだけど、ほんとに、そういうのも含めてこれが俺の仕事だと思ってるから。こんなことを言うと君は余計怒るかもしれないけど。でも、ほんとに別に無理なんかしてないし、っていうか、仕事に面倒とかイヤとかは関係ないし、えーっと何ていうか……」
「……」
 左之助は、淡々と訴える剣心の様子をしばらく黙って見ていたが、ふいに無言で目を逸らして、背を向けた。
「待たんか馬鹿者! 剣心さんに謝れ!!」
 後ろ姿に怒鳴る上下衛門を剣心がなだめる。
 左之助の部屋のドアが大きな音を立てた。すぐにまたバタンと音を響かせ、左之助が皮ジャンを手に出てくる。一度はそのままダイニングを横切って出て行きかけたが、何を思ったのか勢いよく戻ってきたかと思うと、立ったまま自分の茶碗に残っていたごはんを丸のみにし、続いてみそ汁を一息で飲み干し、さらに食べかけの干物を口にくわえてクルリと背中を向け、
「ほっほはん、えっへふふ」
 不明瞭ながらも、それでも一応挨拶らしき言葉を残してどすどすと歩き去った。
 バタン、ガシャーンと荒々しい音が響き、後には呆然とそれを見送った三人が残された。
「でもしっかり食べるんだ」
 妙に真面目な顔で右喜が頷き、「っていうか、あの状況で“ごちそうさま行ってきます”なんか言うか普通」と、剣心が内心で付け加える。
「すまない剣心さん。あのヌケサクが。あいつには俺からよく言っとくから、ひとつここは」
 上下衛門が剣心に頭を下げた。
「あ、いえ、あの、俺ほんとに気にしてませんから」
 もちろん本気で気にしていないわけではない。
 だがそれは上下衛門が心配しているような意味ではなかった。
 剣心が懸念していたのは、そのせいで家族の雰囲気を損なってしまうことだった。家庭生活をサポートするための存在であるべき自分が原因で、その家のだれかが孤立してしまったり、家族同士の関係が悪くなってしまったりするなどあってはならない。この際、左之助に対する剣心の個人的な好悪は問題外である。剣心は左之助との関係回復を図ろうと決心した。
「東谷さん。俺、左之助くんに認めてもらえるようにがんばりますから。だからもう少し時間をいただけませんか」
「そりゃこっちのセリフだ。面倒も多いだろうが、よろしく頼む」
「はい、こちらこそ」
 しかし事は剣心が思ったほど簡単には運ばない。
 その日以降、左之助が他の三人と同じ時間帯に家を出るようになってしまったのだ。
 三人でさえ充分以上に慌ただしかった忙しさにさらに拍車がかかって、さすがの剣心も左之助とのコミュニケーションどころではない。上下衛門、右喜、央太の三人に持たせる弁当と朝食を同時並行で用意しつつ、大量の洗濯物を仕分けし、洗面所とトイレの取り合い合戦が行われている間に弁当を詰めてテーブルを片付け……。彼らが一気に出発するまで、剣心自身はトイレに行く暇もないくらいだ。
 左之助は、父親たちと同じ時間に家を出たのでは、ずいぶん早く職場に着いてしまうはず。「年末だから」と一応それらしい理由を言ってはいるが、しかし年末年始とはいえ冬場のダイビングショップがそんなに忙しいはずもないことくらい剣心はよく知っている。
 俺を避けてる。
 それ以外考えられなかった。
 だが、数日ほど真面目に思案した末、剣心はいともあっさりと左之助懐柔作戦を諦めた。
 ま、いっか。
 あれ以来左之助は剣心と目を合わさなくなっていた。だが、だからといってあの朝のように露骨に険悪な態度を取るわけではない。単になるべく関わらないようにしているだけに見えるし、必要最低限のやりとりはできている。問題なしとは言いがたいが、さりとてややこしいトラブルも起こってはいない。ならば無理に近づいて話をややこしくする必要もないかもしれない。
 さわらぬ神にナントやらだ。
 気持ちを切り替えて、左之助のことは意識しないようにした。
 そうこうするうちに年が変わった。


 やっぱりフェイスカバー買おうかな。かっこ悪いけど。
 そんなことを考えながら、鼻に突き刺さる冷気に涙を滲ませて、剣心はペダルを漕いでいた。何かと便利な自転車通勤だが、冬の早朝と夜はやはりつらい。手には手袋、耳には耳あて。だが、彼の帰路でもひときわ風の強い橋の上、その寒風を真っ向から受ける顔の、とくに鼻の奥が痛かった。
 ふうぅ……。
 ため息がぐるぐる巻きのマフラーにこもって、鼻の頭がジィンと痺れた。
 このところ左之助の帰りが遅い。聞けば日をまたぐ頃にようやく帰ってきたり、そのまま外泊したりすることも少なくないという。剣心は夜八時に東谷家を出るので、もともと夜に顔を合わせることは滅多になかった。だがそれでも当初は剣心が帰るか帰らないかの時間に帰宅することもしばしばあったものが、今年に入ってまったくない。いや、ちがう。今年に入ってからではない。年明け早々の、あの日以降だ。
 やれやれ。
 思って、剣心はまたひとつため息をついた。
 その朝、剣心は、七草粥を炊くため、いつもより二十分ほど早く出勤した。
 リビングダイニングのドアを開けた瞬間、微妙な違和感に気づいた。すばやく部屋を見回すと、原因はすぐにわかった。
 バルコニーに続く掃き出し窓のカーテンが半分開いている。クレセント錠もかかっていない。だがガラスが割れているわけでも部屋が荒れているわけでもない。ダイニングテーブルの椅子が一脚足りないが、泥棒が入ったわけではなさそうだ。
 部屋を見渡してそう判断した剣心は、ゆっくりと窓に近づいてギョッとした。
 朝闇の中で黒々と光る二つの目玉が、ガラス越しに剣心を見ていた。左之助だった。外に向けたダイニングチェアに浅く腰掛け、首をねじ向けて、形のよい目を眇めている。
 しかし、不意を衝かれた驚きが去ってみれば、その目にいつもの精彩がないことに気づく。剣心自身が親しく口をきくわけではないが、家族とのやりとりや日頃の様子から、基本的に陽性の、しかも活力に富んだ青年だと見ていた。日ごろ生気に溢れた目元が今は険しく翳って、どこか投げやりにも感じられる。他者を拒否するような、それでいてすべてを飲み込んでしまいそうな、澱んだ視線に射竦められて、剣心は動けなくなった。なぜか目が逸らせない。
 なにか言おうとして口を開き、言うべき言葉が見つからずにまた閉じたとき、左之助が突然大きなあくびをした。呪縛は解けた。時間にすればわずか数秒。だが剣心には数分にも数十分にも感じられた。ガラスの向こうで左之助が腕の反動を借りて勢いよく立ち上がろうとするのを見て、剣心はそっと息を吐きながらサッシを開けた。冬の朝の凍った空気が流れ込み、左之助が背を丸めて桟をまたぎ越した。顔は伏せたまま、手には握りつぶされたビールの空き缶がいくつか。
「わりぃ、九時んなったら起こしてくれる?」
 いがらっぽい声を残して自室へ向かう。
「……ハイ」
 わけもなく気を殺がれてそんな返事をしてしまった。それに片手を軽く上げて応えた後ろ姿を剣心の目が追う。こんな季節に一体どれほどのあいだ外にいたのか、剣心の脇を通り過ぎた左之助の体は外気と同じほどに凍えた空気をまとっていた。
 あれ以来、彼はますます自分を避けているような気がする。
 ひとの日記を勝手にのぞき見たような苦い後味。
 やっぱり一度東谷さんに相談した方がいいかもしれない。
 ふるふると頭を振った拍子に何かが視界をよぎって、とっさにブレーキをかけた。見ると、土手に見覚えのある車が停まっていた。
「あ」
 神戸ナンバーの紺のファミリア・ワゴン。左之助が勤めるダイビングショップの公用車で、一度は廃車になりかけたものを今は左之助が私物化しているという。年式は六年前でそんなに古いわけではないが、なにせ扱いが乱暴なうえ海辺で長く汐に曝されるため傷みはひどい。その、よく言えば使い込まれた、平たく言えばオンボロの車体が夜目にもはっきりそれと確認できた。ライトは消えている。人影は運転席に一人。ダッシュボードに両足を乗せた行儀の悪い姿勢でじっとしているのが見て取れた。
 こんなところでなにを?
 無意識に首を傾げたとき、ファミリアのヘッドライトが閃いた。
「わ」
 チカチカ。少し間をおいて、また、チカチカ。
 光が消えてしばらく経ち、徐々に視界が戻る。思わず逸らせた顔を車に向けると、フロントガラスの奥にある左之助の目が剣心を見ていた。
 大きく迂回するスロープを辿って土手に下り、紺のオンボロ車の傍に自転車をつける。その間に、運転席の窓が開いていた。
「やっぱり俺、辞めた方がいい?」
 剣心は唐突にそう切り出した。左之助は話が判らず目を丸くする。
「なに?」
「俺がいるから、帰りたくないんだろ?」
「あ? いやちがう、そんなんじゃ……」
「俺のせいで君が家に居づらいなら、ダメだ、俺が辞める。明日にも辞める。そんな家政夫は、ダメだ。あそこは君の家だ」
 途中で左之助が口を開きかけたが、言わせまいと言葉を被せた。いつになく強い語調で言い募った剣心の発言に、左之助がこれまたいつになく慌てる。
「だから待てって、ちがうってば。なんでそうなるんだよ」
「だって、そうとしか」
 左之助がため息をついて頭を掻き、
「ちょっと話す? 時間、平気なら」
 と、剣心を見上げて言った。
 剣心は硬い表情のままこくりとうなずき、指された助手席に納まってドアを閉めた。が、左之助は黙って前を見据えたまま口を開かない。密閉された空間はやけに静かで、剣心は居心地悪そうに身じろぎした。しばらく経ってからようやく左之助がぶっきらぼうな口調で言った。
「あのさ。いつかは悪かった。俺、アンタにひどいこと言った」
 思いがけない謝罪に剣心は驚き、前を向いたままの浅黒い横顔をまじまじと見つめた。
「そんなの……。いいよ、気にしてないから。ほんとに」
 我ながら頼りない声だった。認めたくはないが、どうやらこんな二十歳そこそこの若僧相手に気後れしてしまっているらしい。「がんばれ俺!」と剣心はこっそり自分に喝を入れる。
「いや、前から謝らなきゃと思ってて。っていうか、だからウチの仕事辞めるとか言ってんだったら、マジで困るし。チビどもがえらくアンタを気に入ってんだ。引っ越したり何だりでアイツらああ見えて結構パツパツなんだよ。央太はすげー人見知りだし、右喜も好き嫌いきついし。俺のせいでアンタに辞められた日にゃ、俺があいつらに恨まれちまう」
 気の強いこの青年がこんな風に折れてくることも意外なら、わがまま勝手だと思っていた長男が弟妹のことをそんな風に見ているのも意外だった。
「左之助くん……」
「な。アンタ、前の人のこと、多少は聞いてる?」
「大体は」
 東谷一家が住み慣れた東京からここ京都に引っ越してきたのはこの年の三月。とにもかくにも始まった新生活だったが、いかんせん不慣れな地。しかも転職した父と新入生の娘は全く新しい日々のスタートである。とてもではないが、家のことまで手が回らなかった。かといって小学校三年生の央太に一家の家事が担えるわけもなく、夏から同居を始めた長男にいたっては、仕事が不規則な以前に根本的に生活能力に乏しく、手が助かるどころかいっそいなかった方がマシだったと右喜に言われるほど戦力にならなかった。
 困った父子家庭では、相談の末、下二人の夏休みが終わる九月から家政婦さんに来てもらうことにした。
 ところがである。
 上下衛門が朝夕各四時間ずつという変則勤務を強く希望したため、なかなか人が決まらない。
 最初に来たのはごく普通の五十代の女性だった。しかしこれが口やかましいことこの上ない。食事中のマナーから身だしなみ、言葉遣い、果てはトイレのフタの閉め方まで著しい関西弁で云々する。「自分の子どもと思ってくれ」と言ったことを後悔しつつ、上下衛門は紹介所に人員交代を依頼した。
 次は三十代前半の女性。てきぱきと仕事をこなす控え目な人だったが、いかんせん男尊女卑の志向が強かった。何をするにも父、長男、次男の順で右喜は最後。口にこそ出さなかったが、父や兄弟への鋭い舌鋒に対する無言の非難を強く受けて、右喜が限界に達した。しかもあろうことかその一方で左之助に迫り始めるに及び、全員一致で即日お断りすることにした。
 よっぽど当たりが悪いのか相性の問題かと頭を抱えつつ、次は男性を頼んでみた。四十代の知的で物静かな、節度のある接し方をする人で、この男はほとんど何の問題もなかった。ただ惜しむらくは料理が致命的に下手だった。
 上下衛門は、これでダメだったら朝夕で来てもらうことを諦めて日中勤務に切り替えようと思いつつ、「口うるさくなく、公平で、料理の上手な、できれば標準語の、男性」はいないかと紹介所に尋ねた。
 紹介所の方では、そうでなくともなかなか難しい勤務条件に苦労しながらようやく派遣した登録者たちを、ひと月と待たず次々と交代させるこの依頼者をいい加減要注意客リストに加えようとしていたところへこの注文である。いったんは断ろうとした。だが、たまたま師走に入って登録を済ませたばかりの求職者が奇跡的にこれらの条件にほとんど適合することに気づき、引き合わせてみることにした。
 それが剣心だった。
 穏やかで控え目な受け答えに上下衛門は好感を持った。右喜と央太もこの美人で料理上手な家政夫さんに半日でなつき、じきに家事の手伝いも喜んでするようになった。殺伐としていた家の空気も日を追うごとに和やかに落ち着き、とにもかくにもようやく訪れた平和な日々だったのである。
「だからな」
 と、ふいに覗き込まれて剣心はどきりとした。
「謝るから、辞めるとか、言わないでくれ」
 またすぐに前を向き、最後はフロントガラスに向かって呟いた。怒ったように頬を膨らませているのは照れ隠しだろうか。吸い寄せられたように見つめながら、意外と線の細い顔立ちをしていたことに気づいた。
「でも、じゃあどうして?」
 どうして家に帰らないのか。こんなところで何をしているのか。
 左之助は答えず、まるでそこに何か標的でもいるかのように前方を睨みつけている。重苦しい沈黙がしばらく続いた後でようよう口を開き、低い声でボソリと呟いた。
「アンタあのとき言ってたよな。これが自分の仕事だからって。だから面倒とかイヤだとかは関係ないって」
「うーん。っていうか、そう考えるようにしてる、って感じかな。俺も人間だから感情はあるしね」
 突然の話題に困惑しつつも、横目で運転席を盗み見ながら努めて軽い調子で言った。左之助の視線がチラリと自分に流れたのが視界に入り、剣心は慌てて目を逸らした。
「君はそういうのが嫌いなんだ?」
「ていうか……」
 そう言ったきり、また黙り込んだ。
 そして今度はおもむろに昔話を始めた。
 中学を卒業する直前に母が死んだこと。高校二年の冬、父親との口論がきっかけで家を飛び出したこと。とにかく東京を離れたくて、夜行バスで大阪に来たこと。西成にしなりで日雇いの仕事を探しているときに今の店の社長と出会い、そして初めて海を知り、これで身を立てると決めたこと。
「だけど、そしたらオッサンがいきなりキレてさ」
 社長のことをオッサンと左之助は呼ぶ。
「いっぺん家に帰れって。親父と仲直りして、ちゃんと高校も卒業して、それからもう一回出直して来い、とか言い出して」
 剣心は控え目に相槌を打って、続きを待った。
 そんなの絶対にイヤだと強硬に言い張る左之助に対して、オッサン社長は非常手段に出た。あろうことか、彼を気絶させて簀巻きにし、そのまま車で東京の東谷家まで運搬したというのである。
 剣心は耳を疑った。
 気絶させて簀巻きに? 大阪から東京まで搬送? ダイビングを生業にしているくらいだからどのみちまともな人間ではないだろうが、それにしてもひどすぎないか?
「……左之助くん。その人、どういう人? 君の店、大丈夫なのか?」
 ごもっともである。
 恐る恐るといった態で口を挟んだ剣心に、左之助は安心させるように軽くうなずいて答えた。
「実行犯はオッサンじゃない。オッサンの昔馴染みだ。オッサン以上にイカれてるけどな。そいつ、一時は外国で首絞め強盗をしてたとかって話で、まあ要はだから人を気絶させるのが上手いんだな。こう、首を肘に入れてさ、腕で吊り上げるみたいに絞め上げるんだけど、そりゃもうアッという間でよ。苦しくもなんともないんだぜ? ある意味プロだよな」
 それはちがう。激しくちがう。
 ふと気になって訊ねた。
「その人、今は?」
「うちでまっとうにインストラクターやってる。クソ野郎だけど」
 今度こそ頭を抱えた剣心を尻目に、左之助は話を続けた。
「それでそのクソ野郎がな、客に器材を売れ売れってうるさいんだ」
「はい?」
 またもや突然の方向転換に、つい素っ頓狂な声が出た。
 都市型ダイビングショップの主な収益源はライセンス取得のコースフィーと器材販売利潤。中にはスタッフ個人に過酷な販売ノルマが課せられる店や、悪徳商法まがいの押し売りをする店さえあるのが現状だ。入社二年目の左之助が器材を売るよう言われるのも、当然といえば当然だった。
 だが。
「でもさ、ダイビングって、そんなんじゃないんだ」
 胸に顎を埋めてハンドルに呟いたその言葉は、剣心に話しかけているというよりも自分に言い聞かせているようだった。
「たいがいチャラチャラしたナンパがする遊びだと思われてるけど。ちがうんだよな。そんなんじゃないんだ。海ってもっと凄くて。でもって、こう、厳粛っていうかなんていうか」
「へえ……」
 気の抜けた相槌に信用されていないと思ったのか、今度は剣心の方に向き直って熱っぽく話し始めた。
「いやでもマジな話、俺初めて潜ったときって、きれいとか楽しいとか全然思わなくて。なんでここまでして潜るんだろうって。装備とか器材とかメチャメチャいろいろ準備して、そんで強引に水ん中荒らし回ってさ。俺こんなことしてていいのかよって、なんかすげー腹立って。でも、だからってうっかり目も逸らせないくらい、なんかとにかくすごくてさ」
 そこまで夢中になってまくしたてたところで、左之助はふいに剣心がぱかりと口を開けて自分を凝視していることに気づいてうろたえた。
「ななななんだよ」
 妙に熱く語ってしまったバツの悪さから軽い喧嘩腰になって言う。だがそんな左之助の抗議を剣心は聞いていない。大きく見開いた目に強い驚きを映し、ぴたりと左之助に視線を張りつけたまま。さすがに不審に思った左之助が覗き込んで声を掛けようとしたときになってようやくその口が小さく動いて、ひっそりとした呟きをもらした。
「そっか。君、そんな風に思ってたんだ」
「え?」
「エゴ。人間の。醜い人間の、身勝手な思い上がり。いつか手痛いしっぺ返しをくう。……俺も、そう思う」
 思いがけない声音の思いがけない科白に、今度は左之助が驚く番だった。
「も、ってアンタ」
「昔ね、俺もちょっと潜ってたんだ。やめて、もうずいぶん経つけど」
 どうしてそんなことを言い出してしまったのか自分でもわからない。ただ、自分が抱えていたのとまさに同じ暗闇をこの健やかそうな若者が秘めていたことに、素直に驚いていた。でもその感性はこの仕事には向かない。きっと壁にぶち当たる。まっすぐな気性と意志の強さだけで彼ならそれを超えるのだろうか。できるかもしれない。できないかもしれない。だがいずれにせよそれはまだ先の話だ。彼の当面の問題は……。
「それで、器材がどうしたって?」
「え、あ、ああ」
 そんな剣心の様子をどう取ったのか、左之助は深くは詮索せず、クソ野郎との見解の相違について話し始めた。
 相手の言い分はこうである。
『お前の好き嫌いは関係ない。学生のサークル遊びじゃないんだ。イヤでも納得できなくても、これが店の方針だ。ヤレと言われたら黙ってヤレ。それが仕事ってもんだろう』
 それを聞いて剣心は納得した。
「ああ、だから」
 だから剣心の言葉にあんなに反発したのだ。
『これが俺の仕事だから。面倒とかイヤとか、そういうのは関係ない』
「悪い。ただの八つ当たり。でもなんかムシャクシャして、家帰ってもまた誰かに当たりそうだし」
 苦笑して、また物思いに沈む。きっとあの日もそうして朝を迎えたにちがいない。早朝のバルコニーで寒風に吹かれながらそれ以上に冷えた目をしていた左之助の姿を思い出す。剣心はちょっと迷ってから言った。
「君の店のことはわからないけど、俺、仕事でそれだけはしたくないって思ってることがあってさ」
 顔を上げた左之助の、問いかける視線。
「手抜きと、それから、クライアントを裏切ること」
 意志の強い黒い瞳を正面から見据えた。
「そういうのは、たとえ本人の要望でも断る。言われたことをするだけが仕事じゃないと思ってるから」
 その目に、左之助に負けず劣らず強い光が一瞬鮮やかに通り過ぎた。
「でも意外だったよホントに。悪いけど、正直、君も女の子目当てでダイビングをしてる手合いだと思ってた」
「だと思った」
「ごめん。でもチャラチャラってさ。君、いくつだよ」
 さっきの発言を掘り返してからかう。
「いや、オッサンがよく言うから伝染っちまって。気いつけよ」
「まあ俺も割と言うけど」
「うわ、オヤジ」
「うるさい青二才。っと、もうこんな時間」
「え、ああ、悪い、引き止めて。送ってくし、そのダサいの後ろに積めよ」
 と、剣心の通勤車を指した。黄色の二十六インチファミリーサイクル。後部荷台にも樹脂カゴのついたこれ以上ないほど典型的なママチャリで、ご丁寧にも前カゴにはひったくり防止ネットまでセットされている。
「オヤジなうえにオバハンかよ」
 左之助が後部座席の背もたれを倒してスペースをつくり、剣心がそこに愛車を積み込んだ。
「機能第一。荷物いっぱい載るし、目立つから捜さなくていいし」
「でもトロそう」
「全然。原付なんかチリチリ鳴らして追い抜くもん」
「これで? カッコワリー」
 フル装備のママチャリで爆走する姿を思い浮かべでもしたのか、左之助がケラケラと笑いながらそんなことを言った。やっと年相応の顔を見た気がして、剣心の口元にも微笑が浮かぶ。
 他愛ない会話を交わすうち、あっという間に家に着いた。剣心と自転車を降ろした帰り際、左之助が思い出したように運転席から顔を突き出して言った。
「おい剣心。今度いっぺん潜りに行こうぜ」
「え。あ、ああ、うん」
 とっさにそう答えた自分の反応にうろたえて、左之助の返事は聞き逃した。
 走り去るおんぼろファミリアのテールランプに苦笑しながら、しばらく佇む。
「左のライト切れてるじゃないか。いくら貧乏でもそれくらい換えろよな」
 軽い誘いにつられて同じように軽く応えただけだ。本気で言ったわけではない。そう自分に言い聞かせる。もう二度と海には入らないのだ。深く息を吐いて、オートロックのエントランスをくぐる。
「向こうだって」
 社交辞令に決まってる。
 呟きは人造大理石のホールに思いがけず大きな残響を残した。

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