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「なんだよそれ!」
突然の退職が実はひと月前から上下衛門の了承するところだったと知って左之助は怒った。理由を聞かされてさらに猛烈に怒った。
「お前らに引き止められると辛いからって剣心さんが。仕方ねえだろ。お母さんの看病だってんだから」
「んなもんウソだ! あいつんちとっくに両親いねえよ!」
まだ幼かった頃に両親を亡くし、引き取ってくれたひとり者の養父にダイビングも教えられたのだと言わなかったか。顔も覚えていない母親の看病とはよく言った。
怒り心頭、怒髪天。左之助は剣心の行方を追い始めた。
だが。
「クソッタレが!」
自宅の固定電話は解約されているし、携帯電話は、このご時世に信じられないことに、そもそも持っていない。夜道をとばしてマンションを訪ねてみたが出ない。郵便受けの名前が外され、例の自転車がない。表札も白かった。だがこれは元々出していなかったし、ガス、水道、電気も生きてはいるが、だからといっているともいないとも言えるものではない。無理矢理つかまえた隣人はその部屋にそもそもどういう人物が住んでいるかさえ知らなかった。
翌朝早々、頼みの綱の家政婦紹介所に電話を入れた。「登録者の個人情報についてはお教えできません」という至極ご尤もな、だが今の左之助にはひたすら理不尽としか思えない返答が返ってくる。そして取りつくしまのない女性担当者にそれでも取りついてようやく手に入れた情報は、既に剣心の求職登録が抹消されているという、さらに聞きたくなかった事実だった。
八方塞がり、仕事が休みといってじっとしてもいられず、やみくもに車を走らせた。前を行く車のリアガラスに後ろ向きに置かれたぬいぐるみが彼を見つめている。そのつぶらな瞳を見ていると、また無性に腹が立ってきた。
くそ。こんな消え方しやがって。そんな素振りなんか全然見せなかったくせに。
……全然?
いや、ちがう。そういえばあれは先月の末。
一月以降、ほぼ月に一回のペースで海に出ていた。四月、左之助は当然のように剣心を誘った。月末から解禁になるすさみの洞穴ポイントを狙おうと思っていた。
「忙しいし、しばらくパスかな」
新年度が始まり、たしかになにかと多忙な時期ではあった。左之助自身もゴールデンウィークに出張を控えていたため、素直に退いた。五月も半ば、今度は古座に誘った。名高いブラックトンネルを潜ってみたかったのと、因縁のありそうな四乃森蒼紫と顔を合わせたくないのかもしれないと思ったからである。だが、返ってきたのは気のない返事だった。
「うーん。考えとく」
目も合わせず言われて気分を害し、「おい」と腕をとった。剣心は掴んだ左之助の方がびっくりするほど飛び上がって驚き、勢いよく手を払った。取り返した手首を反対の手で握り締めて背を向ける様子を見て日を改めた方がよさそうだと思い、結局そのまま言いそびれたままになった。飛び退って左之助を見上げた剣心の目に、戸惑いと困惑が色濃く滲んでいたのは気のせいではなかったと思う。
ええい、くそ!
勢いよく頭を振って、掌の生々しい感触を振り払う。赤信号で止まって、ふと気づいた。いつかの夜に剣心と遭遇した橋の上だった。あの時はここに剣心がいて、俺は土手にいた。あれから四か月。まだたったの四か月。でもなんだかものすごく遠い昔のことみたいだ。そう思って下を見下ろし、アッと叫びそうになった。
あの夜彼がいたまさにその場所に、剣心がいたのである。例の黄色いママチャリでトロトロと土手を蛇行している。川沿いの一本道。左之助は大きく回りこんで剣心の前方に出ようとした。
だが見慣れたオンボロ車の姿を認めるやいなや、剣心はクルリと自転車を反転させて猛スピードで逃げ出した。
その早いこと早いこと。
原付など追い抜くと言ったのが誇張でも何でもないのは、その逃げっぷりを見れば明らかである。
しかも左之助はと言えば、道幅の細い土手道を小回りの効かないワゴン車。
河川敷の芝生で遊ぶ子どものサッカーボールが折良くあるいは折悪しく飛び出してさえ来なければ、剣心は首尾よく逃げおおせていたに違いない。
慌てて急停止した隙を逃さず、左之助は車から転がり出て、しつこく逃げようとあがく剣心に迫った。
「させるか!」
叫んだ左之助が、走り出そうとした自転車の後輪に飛び蹴りをくらわせる。
「どりゃっ」
「うわ――っ!!」
かけ声と悲鳴とガラガラガッシャーンという盛大な音が響き、ボールを取りに来た少年はその交通事故現場を前に唖然と立ち尽くした。
「危ないだろ! なに考えてんだお前!」
「それはこっちの科白だクソバカヤロウ!」
剣心が叫び、左之助が叫び返す。
「てめえ、なんだってんだ。母親の看病だ?! ふざけんのも大概にしろ!!」
「うるさい、俺にかまうな。俺の事情だお前には関係ない!」
「なくない! 大アリだ。だからお前はバカだってんだよ。いいか、俺はな」
「わー! 知らーん聞かーん! 何も言うな――っ!」
目の前がチカチカするほどの大音量で叫んだ剣心の右拳が顎にクリーンヒットし、左之助の体が走り高跳びの選手のようにきれいな放物線を描いて空に舞う。地響きを立てて墜落した左之助が目を回している隙に、剣心は黄色い愛車にまたがって今度こそ一目散に逃げ去った。
剣心は激しく後悔していた。電話番号を変えただけで安心していたことに。動揺のあまりまっすぐ自宅に帰ってきてしまったことに。しかも自転車を駐輪場の定位置に停めてきてしまったことに。これでは何のために郵便受けの名前をはずしたんだかわかったものではない。わかりやすさが気に入っていた目立つ自転車が、突然憎らしく思えてきた。
「あーもうっ!」
それもこれも全部あいつのせいだ。転んだときに擦ったらしい肘が今頃痛んできた。
「もー、無茶苦茶だ、あの野郎」
グーで殴り飛ばしてダウンさせた自分の行いはこの際棚の上である。
枕に顔を埋めてじたばたしていると、案の定というかようやくというか、とにかく呼び鈴が鳴り響いた。
エントランスの呼び出しではない、玄関のベル音。
オートロックなんて所詮気休めだ。
腹立たしく思いながら、もちろん無視する。甲高い呼び出し音が途切れる度に、ぐずる赤ん坊が泣きやむのを待つ心境で、これで終わるか今度こそ止むかと息をひそめる。ベルが鳴りやむまで、実際には一分にもならなかっただろう。ひたすら耐える時間は数分にも数十分にも感じられた。
だがホッとしたのも束の間。
今度は玄関ドアがドスンドスンと叩かれ始めた。続いて叫び声。
「緋村サン、おるのはわかってるんや。なあ! あんだけ遊んどいて金払わへんで済むと思ってるんか。女の子はべらしてエエ思いしたんやろ? したら耳揃えて金払うてもらおうか! ええ?!」
「……あンの野郎!!」
ばかでかい声だけでも充分近所迷惑はなはだしいというのに、言うに事欠いてなんという言い草か。できそこないの関西弁にさらに神経を逆撫でされ、腹が立つやら恥ずかしいやらで剣心の顔が真っ赤に染まる。
「いい加減にしろこの大馬鹿者!」
たまりかねて非常識男を中に引きずり込んだ。
「だからそれも俺の科白! いい加減にすんのはお前だ」
口を押さえようと伸ばした手を逆に捕らえられて、剣心が一瞬ひるんだ。
「ミエミエなウソついて仕事やめるわ、電話は勝手に変えるわ、やっと見つけたと思ったら今度は殴り倒して逃げるわ……あーもうお前超ムカつく! 理由言え理由!!」
剣心はつかまれていた手を乱暴に払いのけ、人差し指を左之助の鼻先に突きつけた。
「お前はクライアント!」
「辞めたんだろ!!」
指が二本に増えた。
「俺は男!」
「んなことわかってる!!」
今度は三本。
「お前は……!」
声はそこでぷつりと途切れた。開いたまま静止した口が閉ざされると同時に、風船がしぼむように剣心の怒気が抜けた。背中を向けて左之助から離れる。
「とにかく。もう俺にかまわないでくれ。頼むから」
「俺が、『海屋』にいるからか」
地を這う声でうめくように左之助が放った一言に、剣心がぎくりと身をすくませた。ギクシャクと振り向き、左之助を見る。
「なにを左之、なんの話……」
「とぼけなくていい。お前がサイパンにいた時のことなら聞いてる」
剣心の喉が小さくこくりと鳴った。喘ぐように言う。
「ど……して。誰に聞いた。まさか、さ……」
言いかけた口を自分の手で塞ぐ、その仕草が左之助の怒りに油を注いだ。
「言うかよ斎藤のクソ野郎が! お前が口止めしたんだろ!!」
『さあ、なにがあったかな。知りたければヤツに訊け。俺の口からはちょっとなぁ。何せお前にだけは言ってくれるなと泣いて頼まれたもんでな。ククッ』
「くっそ、アイツ思い出しただけで腹立つ! 俺は、話は、四乃森さんに聞いたんだ」
「……え?」
「さっき電話して。やっぱりどう考えてもお前おかしいし、絶対なんかあると思ったし、あの人なら知ってると思ったから」
「え、なんで? うそだろ? 彼、知ってたのか?『海屋』のこと。だって俺にはなにも……」
剣心が意外そうに目をみはり、左之助は黙りこんだ。
どこか寂しそうに首を傾げて、剣心が訊ねた。
「なんて?」
「言えなかったって。お前が知らないってわかって」
「じゃなくて」
「詳しく聞いたわけじゃない。お前が昔いたサイパンのサービスってのが、うちの比古のオッサンの店だったってことと、そんときから斎藤のクソ野郎も一緒だったってことと、それから……」
「俺が七人殺したことと?」
「事故だろ。そんな言い方、すんな」
剣心は黙って俯き、しばらくしてから口を開いた。
「俺の人為ミスだよ。やばいってわかってた。クルーはみんな反対したんだ。でも俺は、なんとかなる、大丈夫、そう言って、押し切った」
相当に名の知れたガイドだったという。
スキルや知識だけではない、天性の何かが彼にはあった。なぜか天候や海況に恵まれる。なぜか潮が当たる。なぜか大物が出る。
どれほど経験を積んでも、潮を読んでも、海は必ず人の予測を超える。予想以上か、以下か。いずれにせよ、予想通りにはならない。そして彼は常に以上だった。
海が彼を選ぶのだと、一部の人々は本気で信じていたという。すぎると不吉だとも言った。そしてある日、その危惧が現実のものとなった。
激しい潮流の真っ只中にある外洋ポイントで、剣心を含むスタッフ三名とゲスト五名が流された。三十七時間後、遥かに離れた洋上を一人で漂流する剣心を漁船が救出。あとの七名は発見されないまま、捜索は五日で打ち切られた。
残ったのは、ゲストと現地人スタッフが全滅した中でたった一人生還した日本人ガイドへの冷視と、五日間の捜索費用。比古は店を手放した。剣心は日本に戻ってダイビングをやめ、斎藤は姿を消した。
四年後、比古が関西でダイビングショップを開き、それを知らされた斎藤も強盗稼業から足を洗って帰国する。比古が大阪のドヤ街で左之助を拾ったのは、神戸に開いたその店がようやく軌道にのって大阪に支店を出そうとしていた矢先だった。
『なんだそのチャラチャラした格好は』
伝染った口ぐせは同じ人のものだったのだ。
電話を切ったその指で比古の番号を呼び出したがつながらない。やむなく斎藤に電話を入れたが、癇に障る物言いにこちらから回線をぶち切った。相手が左之助の反応を面白がってほとんど虚構に近く誇張しているとは露も知らない。
「それでお前は? いつ知ったんだ? うちの店のこと」
永遠に落ち続ける砂時計のような沈黙を破ったのは左之助だった。
「先月の、ダイビングフェスティバルのとき。例の写真の件で、奴が来たんだ」
と、床に呟く。
ゴールデンウィークに東京で開催された三日間のイベントに比古と左之助が出張に出ていた間のことだった。ダイビング雑誌に掲載する広告の写真データに不備があるとかで、左之助のコンピュータに保存されてる予備データが急遽必要になった。電子メールでの送信がどうしてもうまくいかず、結局、記録媒体を店の人間が取りに来るという原始的かつ確実な手段で解決することになった。そしてやってきた「店の人間」が斎藤だったのだ。
「俺の器材をオーバーホールに出しただろ。奴が見て、それで気づいてたんだそうだ。でも師匠には言ってないって」
二度目に潜りに行く前、剣心は重器材一式を点検整備に出した。ボロボロになるまで使い込まれた玄人好みの器材。草分け世代ならではの独自の改造仕様。初回にすさみを潜った際にレンタル器材を使ったのは、持ち主の属性を語りすぎるそれらを左之助の目に触れさせたくなかったからでもあった。
「ヤツになんか言われたのか」
「別になにも」
「じゃあなんで!」
剣心が首を振る。
「なんでもだ。俺はもうお前にかかわりたくない。もう、ここにいたくないんだ」
「ダイビングもやめるのか」
「……お茶でも入れよう。コーヒー? 紅茶? なんなら抹茶もあるぞ?」
目を逸らしてキッチンに向かう。空々しい軽口の跡を、左之助の声が追った。
「体壊してって、あれは?」
「それも嘘ってわけじゃない。実際ボロボロだったし。あ、コーヒーがいいかな。昨日新しい粉を買ってきたとこなんだ。きっときれいに膨らむ。美味しいんだここのコーヒー。出町柳にある豆屋さんでさ」
相手にこれ以上口を開かせまいとするように、どうでもいいことを早口でまくしたてながらポットを火にかけ、冷凍庫からコーヒーの瓶を取り出す。
一杯。二杯。少し迷って三杯目をすくって、手が止まった。
メジャースプーンが震えて、瓶の口にカタカタと音を立てる。
背中に痛いほどの気配を感じていた。顔は燃え出しそうなのに、指先は氷水に浸したように冷えている。
なにか言わなきゃ。なんでもいい、なにか……。
「あのさ……」
声が途切れて、剣心の手からメジャースプーンが落ちた。コーヒーの粉がさらさらと散る。
いったん大きく見開かれた目がゆっくりと閉じていく。
うそだ。こんなのうそだ。なんで。どうして。
頭の中が真っ白になり、手足の力が抜けていく。
だめだ、もう何も考えられない。
かすんでいく意識のなか、ぴったりと背中に密着した身体の熱さと抱きすくめる腕の逞しさの他はなにも感じなかった。
ハッと気がついた時、剣心は一瞬自分がどこで何をしているのか判らなかった。咄嗟に身を起こそうとして、体の自由が利かないことに気づいた。両手両足を縛られている。しかも口には猿ぐつわ。
そうだ、たしかコーヒーを淹れようとしてたんだった。俺はキッチンに立っていて、そしたら左之助が後ろから肘で首を絞めて……。
「むー! もむー」
とりあえず唸ってみると、つんつんと髪の立った頭が振り向いた。
「あれ、もう気がついた。早いなぁ」
呑気な口調に剣心の怒りは簡単に沸点に達した。
「んむむもー! ふぼー!!」
「暴れんなって。落ちるぞ」
警告は手遅れだった。芋虫のように縛り上げられたままもがいた剣心は、ファミリアの後部座席からごろりと転がり落ち、シートの足元に不自然な姿勢で挟まってしまった。
「ほら言わんこっちゃない。次のSAで出してやるからちょっとガマンしてろな」
だが、剣心がようやくそこから救出されたのは、それから三十分近くも経って東大阪のパーキングエリアに着いてからだった。
左之助が小柄な体をひょいと持ち上げてシートに座らせてから言った。
「噛みつかないって約束するなら、猿ぐつわ外してもいいけど」
「んんむー!」
「うーん。やっぱヤバそうかなあ」
顔を真っ赤にして唸る姿を見て、左之助も唸る。そんな左之助に、剣心は必死でぶんぶんとうなずいて見せ、次に激しく首を横に振った。
「え、なに。“大丈夫、噛まない”って?」
ぶんぶん。
「あと、あんまデカイ声出すなよ?」
再びぶんぶん。
だが左之助の手が固い結び目をほどいた途端、車の窓ガラスが音を立てて振動するほどの怒声が駐車場一帯に響きわたった。
「ふーざーけーるーなー!!」
「わっ。だから叫ぶなって」
「貴様がさせてるんだろうが! なんなんだコレは! お前イカレてるぞ!」
「いや、アンタの師匠の真似してみたんだけど」
「ハ?!」
「だから言っただろ。家に連れ戻されたときの話」
剣心の口がぱくんと開いた。
そうだった。気絶させて簀巻きにしたうえで大阪から東京まで車で運ばれたと言っていた。
つまり計画立案が比古、実行犯が斎藤。たしかにあの二人ならやる。
では、それを真似て、キッチンにいた剣心の首を絞め、両手両足を縛って車に積み込んだと?
「俺はもうちょっと長いこと気ぃ失ってたんだけど。やっぱ付け焼刃じゃ、クソ野郎ほどうまくいかねえな」
ブツブツと呟く左之助に、剣心が妙にそうっと言った。
「……で? 俺はどこに運ばれるって?」
今度は叫ばなかった。だが怒ってわめかれるよりよっぽど怖い。ことさらゆっくりと訊ねる低い声に、左之助は背骨の中心がすうっと冷えるのを感じた。
「い、いやァ、ちょっと海でも潜ってみないかと思って」
「……なんだと?」
「だから海に……」
ゴニョゴニョと発せられた言葉を聞いて、この日何度目かの怒りが爆発した。
「いい加減にしろと何度言えばわかる! 帰る。降ろせ。今すぐほどけ!」
「いやだ」
「左之助!」
「剣心、頼むから。最後にもう一度だけでいい、一緒に潜りたいんだ」
そう言ってふいに間近く覗きこんできた目が、痛いほど強かった。吸い込まれそうになる。
「な……で」
「なんでって、だって」
「……」
「なあ、ダイビングやめるなよ。泣くほど好きなヤツが、海を捨てるなよ。頼むから……」
そう言う左之助こそ、泣きそうな顔をしていた。
剣心は深く息を吸って、喉にせり上がってきたかたまりをかろうじて飲み下した。
あの事故以来初めて潜った、すさみの一本目。
暴力的なまでの懐かしさに襲われた。あのときはこみ上げる涙をこらえなかった。流れるにまかせて、海に流した。マスクをしていたから。海の中だったから。
だが、では左之助は気づいていたのだ。
だからだったのだ。だからあんなに――。
「一本でいいから。器材は積んできたから。今からとばせば夜には帰って来られるから、だから」
「……一本だけだぞ?」
「剣心!」
「ほんとにそれで終わりにするな?」
「する。約束する!」
「じゃあわかったから、付き合うから、だからこれ、ほどいてくれ。指が痺れて、俺もう……」
そう言ってしおらしくうなだれた剣心の肩に、左之助が腰の退けた姿勢で手をかけた。
「逃げんなよ?」
剣心がこくりと力なくうなずく。
左之助は、それでもおそるおそるといった様子で紐をほどいた。
まず足。次に手。
たしかに剣心は逃げなかった。そのかわり報復に出た。これまでの経緯を考えれば充分に予測できたはずだったが、あまりにしおらしい風情に左之助もつい騙されたのだ。
手首を結わえていた紐がほどかれるやいなや、剣心はそれまでの仮面をかなぐり捨て、獲物を狩る獣の目をして左之助に踊りかかった。
「だれが逃げたりなんか……するかあっ!」
へっぴり腰でかがみこんでいたところへ体ごと跳びかかられた左之助の方はたまったものではない。アスファルトの路面にしたたか背中を打ちつけ、息を奪われた。だがそのとき剣心が馬乗りになって拳を振り上げるのが見えた。
やばい!
頭で思うより早く体が反応して、敵にしがみついていた。
「どうどう、どうどう」
なんだかわからない言葉が口をつく。
「阿呆! 馬か俺は!!」
ますますいきり立った剣心の膝が鳩尾にめり込み、左之助が地面に崩れ落ちた。
「フン! 十年早い」
言って、剣心は鼻息荒く立ち上がる。パンパンと手をはたくと、丸まって悶えている左之助を助手席に押し込み、自分は運転席に乗り込んだ。キーを回しながら訊く。
「で、どこ行くって?」
「う。げ……?」
まだまともに話せないながらも、左之助が意外そうな表情で剣心を見た。
「約束は約束だからな」
脂汗を流していた左之助は、口を尖らせた剣心がやたらとしきりにまばたきをしていることには気づかず、苦しい息を吐き出した。
「く……も」
「串本ダイビングガーデンか?」
相手が首肯するのを確認し、タイヤを軋ませて高速道路に突っ込んだ。
串本ダイビングガーデン。
ここを一緒に潜るのは二度目になる。
前回は海は穏やかだった。今日は空こそ晴天だが、波が荒い。しかもすでに夕刻。
「ちょっとうねり入ってますよ。底は抜けてますけど、安全管理、頼んます」
平日の、しかもこんなコンディションのこんな時間に潜ろうという酔狂な人間はあまりいない。物好きなと言わんばかりの受付スタッフになおざりな言葉を返し、二人は早々に準備を始めた。
五月末。気温も水温もまだ低いが、左之助は早くもウエットスーツである。
あの日は冬の最中だった。ひどい寒さで震えていた剣心を、左之助が器材洗い桶の即席風呂に入れてくれた。
あのとき、なかなかしっかり仕込まれている、と「海屋」の教育に感心したのを剣心はよく覚えている。
当たり前だ。あの師匠に鍛えられ、斎藤にこき使われていたのだ。
あの時点で気づいていればこんなに深入りせずに済んだのに、と思う。
気づくべきだった。いや、そうでなくとも、ちょっと気をつけさえすれば簡単にわかることだった。雑誌やインターネットで「海屋」を調べるまでもない。左之助のライセンスカードの裏面には認定したインストラクターの姓名が刻印されているのだ。仮にもかつてプロだった身で、そんな当然のプロセスを忘れた。ちがう。忘れたのではない、怠ったのだ。
こんがらがってしまった結び目が、どうすれば解けるのかわからなかった。
BCDジャケットにタンクをセットし、バルブを開けてエアーを確認する。十五キロ超の器材をてんでに軽々と担ぎ上げ、フィンとマスクを手に持っていざエントリーというとき、左之助がふと思い出したように振り返った。
「髪、どうしたんだ?」
いつも潜るときはポニーテールに結っていた髪を、今日は三つ編みにして垂らしている。
「いや、なんとなく」
剣心の答えは端的。無意識のうちに昔と同じようにしていた、今まで気にも留めなかった行為に今日はなぜか抵抗を覚えた、とまでは言わなかった。
打ちつける波の飛沫が顔を洗って、塩辛い。もんどりうちそうになりながらも交互に支え合ってなんとかフィンを履き、ようやく海に入った。
海はひどく濁っていた。うねりも予想以上にきつい。頼りなく浮かぶ二人の体を、海の胎動が押し上げては引きずり下ろす。気まぐれな波を強引にかき分けて進むが、みそ汁色の海は視界ゼロ。後続の剣心には、前を泳ぐ左之助のフィンすら見えない。
陸を二十メートルほど離れたところで、左之助が振り返った。
ハンドシグナル、潜行。
剣心、了解。潜行。
リリーフバルブを引き、ヘッドファーストで一気に潜る。水深五メートル。うねりは変わらないが、表層より多少は視界が利く。水底で停止して目が合うと、左之助が剣心にハンドシグナルを出した。
(自分の鼻に右の人差し指をあてる)――俺が
(コンパスを掲げて見せる)――ナビして
(進行方向に腕を伸ばす)――先に行く
(相手を指す)――お前は
(両の人差し指を立て、とんとんと横に打ちつける)――離れずぴったり
(その指を寝かせて進行方向に向ける)――ついて来い
(人差し指と親指で輪を作り、首を傾ける)――了解?
剣心、輪っか。了解。
左之助が先に立って泳ぎ始めた。
脇を締め、コンパスを持つ腕の肘を反対の手で抱えた基本姿勢。踵から引き抜いて大きく両脚を開き、膝を伸ばして脚全体で水を押しつぶすように蹴り下ろす。
言われてみれば確かに似ている、と剣心は思った。だが比古が力技で有無を言わさずねじ伏せるように泳ぐのに対して、左之助の動きはしなやかで、水にやさしい。
目をしばたたくと、黒いウエットスーツに走る蛍光グリーンのラインが水に滲んだ。
ペーペーの青二才のくせに。方向音痴のくせに。コンパスもろくに使えないくせに。どうせ間違った方角に進んでるくせに。なのにどうしてあんなに力強く泳げるのだろう。正しく目指すべきところに向かっていると思えるのだろう。
ペーペーの青二才だからか。海の怖さを知らないからか。牙をむいた時の凄まじい顔を知らないからか。裏切られたことがないからか。
ちがう、と頭のどこかで声がする。
彼が信じているからだ。海も、自分も、それから――。
ふいに左之助がぴたりと静止した。剣心は慌ててマスクに水を入れて目を洗い、上を仰いでクリアした。そこへ左之助が振り返って、ハンドシグナル。
ここで待て。了解?
剣心、了解。
それを確認して、左之助が水面に向かった。
ほらみろ。やっぱりロストした。
位置確認の浮上だ。一緒に上がろうかとも思ったが、今は彼が先導。指示通りに着底して待った。頭上を少し過ぎて、左之助の影はすぐに見えなくなった。
しばらく待つうちに、徐々にうねりが大きくなってきた。抗うのをやめ、少し体を浮かせて水が揺するのに任せていると、次第に上下感覚が薄れていく。
どっちを向いても、水、水、水。
聞こえるのは自分の呼吸音だけ。
ジュ――ッ………ボボボボボボ………。
ジュ――ッ……ボボボボボボ……。
ジュ――ッ、ボボボボボボ……。
海の中が沈黙の世界だなどと言った人間は大嘘つきだ。
エアーをすする耳障りな音の合間に、無音の重圧がのしかかる。
上から、下から、前から、後ろから、そして体の内側から。
白茶色に濁った水以外、なにも見えない。薄明るい光は一体どこから射しているのか。
だれもいない。なにもない。魚さえいない。
突如、ぞっとするほどの寂寥と閉塞の発作が剣心を襲った。反響する耳鳴りが気道を圧迫し、呼吸を奪う。極度の緊張。閃光と暗黒。果てしない落下。喪失。恐慌。抑制不可能な衝動が、手足を無秩序に支配する。
ふいにガクンと衝撃が走り、天地の感覚が戻ってきた。
黒い。なにか黒いものに焦点が合った。水深六十メートルの深海の色。青を凝縮して焼き尽くした黒色。
この色を、知っている。
左之。
呼んだ瞬間、なんなく息が吐けた。吸い込みすぎて痙攣を起こしていた肺が嘘のように静まっていく。
夢中で深呼吸を繰り返し、現状を確認。水深七メートル、最大十一メートル。深呼吸。潜水時間十四分。深呼吸。透明度五十センチ。深呼吸。深呼吸。残圧百二十……百二十?!
剣心は息が長い。いつもなら空気圧二百でスタートして、百そこそこは残して上がってくる。それが既に百二十。数字に緊張と混乱の激しさを生々しく見て、今更ながらにゾッとした。
そこで左之助からハンドシグナル。大丈夫?
剣心、輪っか。大丈夫大丈夫大丈夫。深呼吸、深呼吸。細かく何度もうなずいていると、左之助の手が剣心の頭に伸びてきた。子どもをあやすようにポンポンと軽く叩いた掌がそのまま下がって頬を包んだ。
あの目だ、と思った。
光さえ吸い込む深海の黒。
早朝のバルコニーで、暗く濁った澱みに引きずり込まれた。すさみの船上で、パニック寸前の緊張と焦燥を吸い取っていった。パーキングエリアの駐車場で、海を捨てるなと泣いていた。
なにもかも飲みこむ大きな渦。容赦なくさらう潮流。
逃げられない。逃れられるわけがない。
――海の中で嘘はつけないし。
ああ、でもやっぱりだめだ。
だけどもうどうしようもない。
いや、でもやっぱり。
頭のなかが否定と逆接詞の洪水になる。
無意識のうちに右手がレギュレーターにかかっていた。
シュ――…。
大きく息を吸う。ひんやりした空気が流れ込んで、肺が震えた。水に押し潰されそうだった。
固く目をつぶって息を吐き、もう一度吸う。
――いるんだよな、水中の方がわかるヤツって。
だめだ。もういい、どうとでもなれ。
目を開けて、そしてレギュレーターを外した。
左之助の目がふわりと細まる。
水でふやけてしまった唇をそっとついばんでいった彼の唇がやっぱりふやけていたのかどうかはわからなかった。ただ、その触れ方が思いがけずやさしかったことと、思った通りやっぱりマスクがとんでもなくジャマだったことだけは、はっきりとわかった。
「うっわ、耳ん中までスナスナ! ひでえなコリャ」
「だれのせいだよ全く」
湿気のこもったシャワールームに左之助の声が響き、続いて剣心がボヤいた。
結局潜っていたのは僅か二十分程度だった。しかも案に違わずてんでトンチンカンな方角に行ってまっすぐ戻ってきただけ。タンク管理のスタッフは、わざわざ京都から五時間もかけてやってきてこの人たちは一体なにがしたかったんだ?と大きく書いた顔で二人を迎え、そのわりにはえらく鮮やかな表情で上がってきたものだとシャワールームに向かう後ろ姿に首を傾げた。
キュルッと蛇口を締める音がして、シャワーの音がひとつ残った。
「お先。俺、器材引き上げてくるわ」
言いながら、左之助がひょいと隣に顔を出した。
「うわあっ!」
「わあっ?!」
真っ赤になった剣心が申し訳程度の目隠しにしかならないスイングドアにベタリと張り付いて体を隠し、つられて左之助もあたふたと背を向けた。
「かかか髪とか中までちゃんと洗っとけよ!」
「あ、ああ」
変に大きな足音を立てて左之助が外に出る。剣心はまだどきどきする胸を押さえて勢いよく迸る水流に頭を突っ込み、シャワールームの外では左之助が閉めたドアにもたれて息を吐いた。
左之助はぶんぶんと髪の水滴を振り払いながら器材洗い場に向かい、ばらして水槽に浸けてあった器材をひとつずつ引き上げ始めた。
普段はサービスでこんなに丁寧に器材を洗わない。ひとまとめにして軽く水を通すだけにとどめ、きちんと塩抜きをするのは帰ってからだ。だが今日はあまりに砂まみれ。店で洗う左之助はともかく、マンションのユニットバスでは排水溝が詰まってしまう。
ウエットスーツ。BCD。レギュレーター。マスク。ブーツ。ウエイトベルト……。器材干し場で水を切っていく左之助の手が止まった。
傷だらけの黒いフィン。ロンディン、エックスラバー。「他はなんでもいいけど、フィンはやっぱりこれじゃないと」と剣心が言った、イタリア製のゴムフィン。今はもう生産中止の古いモデル。ところどころにかすかに残る白い塗料が、例のサイパンのサービスのロゴを削り取った残骸だったことが今ならわかる。三か月前、ちょうどこの串本ダイビングガーデンで履いたのが事故以来だったはずだ。
『醜い人間の、身勝手な思い上がり。いつか手痛いしっぺ返しをくう』
以前聞いた言葉が甦る。
「どうした?」
いつのまにか、シャワーを使い終えた剣心が横に立っていた。
「えっ。ああ、いや。あのさ、このフィン、今すげえプレミアついてんの、知ってる?」
「へえ。どんくらい?」
「こないだブルーステーションで十二万で出てた」
在阪の器材販売の老舗を挙げた。
「十二万?! マジで? 元値九千八百円だぞ? 売るかも俺」
「未使用の話だって」
「うーむ。買いだめしときゃよかったな」
「バッカ。ほらよ、お前も手伝え」
半ば本気で悔しがっている剣心を急かせて器材をメッシュバッグに詰め込んだ。
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