―さわらぬ神に 2― 1 2 3 4 (全)

<2>


 ところがどっこい、左之助は大いに本気だった。
 そして言質を取ったのをいいことに、「こないだ行くって言っただろ。男なら自分の言葉に責任を持て」などとわけのわからないことを言って、馬鹿馬鹿しいほど強気に迫り始めたものだから剣心はたまらない。
 その様子に驚いたのは上下衛門である。気性の激しい長男が、実はダイバーだった家政夫さんと一夜にしていきなり打ち解けていたばかりか、一緒に潜りに行くから一日貸せと言い出す始末。さんざんやきもきさせられた挙句の蚊帳の外で少なからず憤懣したが、だがとにもかくにもどうやら事は丸く収まったようだ。なんだか知らないが、まあよしとするか。左之助の休みは平日ばかりで剣心とは合わないが、一日ぐらいなんとでもなる。そんなことで仕事に穴を開けられないと言い張る剣心を息子と一緒になって説きつけ、「じゃあせめて朝だけはいつも通りに」というところでなんとか折り合いをつけさせた。
 そんなわけで、夜中の邂逅から三日後のこの日。
 ひときわ厳しい寒さのなか、すっかり開き直っていつもより一時間近くも早く出勤した剣心が日々の業務をこなして夕食の仕度まで済ませ、全ての用事を終えたのが午前九時過ぎ。京都南のインターから高速を爆走し、目的地についた頃にはもう一時に近かった。
「へえ。あそこ潜れるようになったのか。よく漁協が許可したな」
 目的地がすさみ町だと聞かされて、剣心は意外そうに言った。
 和歌山県西牟婁にしむろ郡すさみ町。紀伊半島の西側、白浜と串本のちょうど中間にある。古くからダイビングスポットとして栄えてきた両町とは異なり、漁業保護のため海域でのスクーバ潜水を禁止していた町だった。
「もう六、七年になるかな、開放されて。っていうか、漁協がダイビングサービスを始めたんだ。だから揉め事もなくて、こっちもかえって安心して潜れる。海自体、結構いいらしいし」
 左之助もすさみは初めてなのである。店では昔から付き合いのある白浜、串本の常宿を利用するからだ。
 予約を入れていたダイビングサービス「モモすさみ」に到着すると、小柄な女性スタッフが底抜けに元気な笑顔で迎えてくれた。
「こんちわー、お待ちしてました! 今日コンディション絶好ですよ!」
 風はなく、海はベタ凪。透明度も上々だという。そして空は快晴。気温こそ低いが、一月の硬質な空気もむしろすがすがしく感じられる、絶好のダイビング日和である。
 二人は早速手続きを済ませた。冬の平日とあって貸切りだ。
「あ、『海屋うみや』の方なんですね。今日はオフですか?」
 巻町操と名乗った少女は左之助の店を知っていた。
「そです。ていうか半分付き添いですね。コイツ久しぶりなんで」
「もう十年近く潜ってなくて。ご迷惑おかけするかもしれませんけど、よろしくお願いします」
「えー、でもこれだけ潜りこんでたら、きっとすぐカン戻りますよ」
 操は剣心が記入した書類にさっと目を通して元気に笑った。
 ライセンスはアマチュア最高ランクのレスキューダイバー。経験本数約四百本。百本でベテランと言われるレジャーダイビングの世界では充分以上のキャリアである。
「だといいです」
 笑顔で答えた剣心は、操と左之助がコースの打ち合わせをしている間に器材チェックを始めた。彼自身も一通りの器材を持ってはいるが、長期間オーバーホールもせずに押し入れに放り込んだままだった器材で潜るほど無知でも無謀でもない。今回は左之助に甘えてスーツ以外は店のレンタル器材を一式用意してもらった。レンタルに出すくらいだから大して上等でも新しくもないはずだが、それでも十年近くダイビングを離れていた剣心の目には少なからず目新しい。すっかり浦島さん状態で、初めて見る器材をあれこれいじって使い勝手を確認しているところに左之助が戻ってきた。
「わかるか?」
「ああ、大体」
「んじゃ準備するか」
 一本目は穏やかな湾内のポイント「小石こいしはな」でチェックダイブ。その様子次第で、小休止後の二本目を湾内にするか外洋に出るかを決めようということになった。
 それではと向かった更衣室で、左之助は目を丸くした。暖かい黒潮のおかげで水温こそ摂氏十五度を切らないとはいえ、一月下旬のこの寒空に、剣心がいきなり威勢よく海パン姿になったからである。
「冗談! お前ウエットで潜る気か?!」
 普通、冬場はドライスーツを着る。首から下をすっぽりと包む一体型のスーツで、首や手首をゴムでシールするため内部に水は浸入しない。水着の延長線上のようなウエットスーツとは異なり、体を濡らさずに潜ることができる。
「いや、両面スキンだけど」
「………え??」
 平然と返された剣心の返事に、左之助はまたまた目が点である。
 両面スキン。こっちは一応ウエットスーツの仲間ではあるが、全体が密着タイプのゴムでできた代物である。水が入り込む余地はなく体はほとんど濡れないし、ゴムだから断熱性も高い。ただし当然ながら潤滑性が全くないためひどく着にくく脱ぎにくく、しかも爪を立てると一気に亀裂が入る。要するにものすごく扱いづらいのだが、いったん着てしまえば暖かいうえドライスーツに比べて圧倒的に動きやすいことから、プロのガイドやカメラマンはこれを愛用する。そしてレジャーダイバーで両面スキンを着るとなれば、よっぽどのへんこダイバーか、あるいはドライスーツがなかった頃からやっている頑固一徹系と相場が決まっていた。
「マニアックだなーお前。やっぱ古い人ってそうなんか?」
「古いってなんだ失礼な。それが目上の人間に対する物言いか。お前、口のきき方に気をつけないと、いつかそれで身を滅ぼすぞ」
 やはり両面スキンを偏愛するへんこで頑固な社長や上司を思い出して素直な感想を漏らした左之助に、剣心が噛みついた。
『言っとくけど俺、仕事離れたら結構きついから』
 自分からそう宣言しただけあって、車に乗りこんだ時点から、左之助に対する口調も言葉遣いも内容も全くもって遠慮会釈がなくなっている。というか、どうやらかなりの毒舌である。
「その言葉、そっくりそのままお前に返してやる」
 喉まで出かかったその科白を賢明にもなんとか抑えたのはただの偶然か野生の本能か。見れば剣心は馴れた手際で早くも着終え、いつも襟足で束ねている髪を高い位置に結わえ直しているところだった。慌てて自分もドライスーツを身に着けた。


 下腹に響くエンジン音が唸り始め、ボートが港を離れた。溜まっていた磯の匂いが汐の風に変わり、みるみる海が開けていく。湾内のポイントまではものの五分。待つ間もなく着き、操がブイにボートを繋いだ。
「じゃ、行きましょか。あたしが先に入るんで、緋村さん、東谷さんの順でエントリーしてください。水面集合して、一緒に潜行でお願いします」
 言うと操はすとんと海に身を落とした。剣心は海に背を向けて船べりに座り、彼女がボートを離れるのを待った。
 再度器材を確認する。フィン。ウエイト。BCDジャケット。タンク位置。マスク。レギュレーター。空気圧。エアー給気、排気。深呼吸、一回、二回……。
 突然、激しい緊張が剣心を襲った。
 また潜る気か。本当に? 自分が?
 胃が縮まるのがわかった。
 そのとき、ふいに両肩をがしりと捉まれた。固く閉じていた瞼を開けると、目の前に左之助の顔があった。
「大丈夫。慌てなくていいから。ゆっくり」
 マスクの向こうの黒い瞳を見ると焦燥が嘘のように引いていった。
 不思議な黒だと思った。あの朝のバルコニーでは光さえ吸い込む闇に見えた。一昨々日はとても若かった。でも今はなにかもっとちがうものに見える。なんだろう、この感じ。知ってる気がする。
「いけるか?」
 ハッとしてうなずくと、その目が少し緩んで、手が離れた。笑い返す余裕はなかったが、そのままひと思いに体を落とした。
 衝撃。水、水、水、水……。
 水面に頭が出たところでジャケットにエアーを入れて浮力を確保し、親指と人差し指で輪を作って操と左之助にOKサインを出す。
 続いて左之助がエントリーした。
 そして潜行。
 三つの体がゆっくりと降下する。左之助は万一に備えて剣心から目を離さない。だが剣心はいたって落ち着いた様子で、真空を遊泳する宇宙飛行士のようにふわふわと舞い降りていく。呼吸も安定している。
 大丈夫。これなら問題ない。
 左之助は心中うなずき、少し距離を離した。
 水深二十二メートルで潜行停止。三つの影がぴたりと止まった。
 こいつやるな、と左之助は思った。
 上下左右を水に包まれ浮きも沈みもしないこの状態を中性浮力という。要するに無重力状態だが、この体勢を保つのは簡単なようで実は難しい。ビギナーはまずできない。概ね五十から百本ほど経験を積んでようやくといったところだが、それでもここまでとなるともはや本数の問題ではない。
 左之助は驚いていた。いや、ほとんど衝撃を受けていたと言っていい。
 上手い人ならいくらも見た。だがこんな潜り方をする人は知らない。
 剣心は左之助がこれまでに見たどんなダイバーよりも海に近かった。まるでそこを棲み処として生まれた生物のように海に馴染み同化していた。それでいてどうしようもなく周囲から乖離していた。力強くて美しくて自由。にもかかわらず、いや、だからこそ胸が締めつけられるほどに痛々しい。見飽きない面白さを備えたすさみの水中景観よりも、南紀らしい青や黄のトロピカルフィッシュの乱舞よりも、珍種の魚や甲殻類よりも、潮どまりの岩場で剣心が見つけた珍しい紅白のウミウシよりも、それを指差して示す剣心が左之助の目を惹きつけて放さなかった。色褪せた黒いスキンスーツに包まれた細い身体がしなやかに泳ぐ。陸上より彩度が落ちて暗褐色になった髪が生き物のようにうねる。きれいに整った白い顔がこれまで見たこともないほど生き生きと輝く。そして不思議な色をした大きな瞳がふとした拍子にやわらかく細まる。再び水面に浮上するまでの約四十分の間、左之助は魅入られたように剣心の姿を追い続けていた。
 二本目は外洋に出た。今度は「天方あまかた」という上級者限定ポイントである。
 水深六十五メートルまで落ち込む切り立ったドロップオフに黒潮がまともに当たるため、魚群が視界を埋め尽くし、カンパチやシイラといった大型回遊魚との遭遇率も高い。ただし流れがとんでもなくきつい。
 このハードでエキセントリックな海で、左之助だけでなくガイドの操をも仰天させる出来事が起こったのは、潜水開始から十五分が過ぎた頃だった。
 叩きつける向かい潮のなか、海中に突き出た根につかまって乱舞する群れに囲まれていると、剣心が突如腕を張って、左前方を指差した。何かがいるというサインだ。左之助も操も目を凝らした。だが判らない。いや、魚はもちろんうじゃうじゃいるのだが、取り立てて珍しい大物がいるようには見えない。
 なに? どれ?
 二人が目で問う。剣心は腕をぴんと伸ばし、「ほらあれ!」とでも言いたげにしばらく二人に訴えていたが、怪訝そうな表情に変化が見られないのに業を煮やしたのか、いきなり手を離して泳ぎ出した。
 操と左之助は慌てた。
 こんな激しい流れに逆らって泳ぐなんて自殺行為だ。
 まずい。流される。
 二人が同時に手を伸ばす。
 ジェットコースターのように飛ばされてくる剣心をその手に掴まえるはずだった。
 だが二人の掌に当たるのは水ばかり。
 うそでしょ?!
 うそだろ?!
 無言の叫びを共有した二人が呆然と見守るなか、剣心はまるで悠々と激流を遡り、そればかりかさらに大きく迂回して、彼が誰よりも目敏く発見したその大きな魚を根の方向に追い込んできたのである。
 それはマンボウだった。きろきろと回転する目に、うろんなおちょぼ口。とぼけた顔の大魚は、茫洋と漂うように、しかし確実に近づいてくる。
 南紀沿岸にマンボウが現れること自体が極めて珍しい。しかもダイビング中の遭遇。もちろん二人は驚いた。
 だがそれよりも何よりも。
 現地ガイドの操と両眼視力二・五を誇る左之助が指差されて目を凝らしてそれでもなお判別できなかったその魚の存在を、彼はどうやってか察知した。そして吐いたエアーが真っ直ぐ後ろに吹き飛ばされていくほどの激流を逆行して追い込んできた。
 一体何者?!
 呆けたように顔を見合わせ、二人は互いの表情に同じ気持ちを見て取った。

「今日はあたしもすっごく楽しかったです。今留守してますけどボスにも言っとくんで、きっとまた来てくださいね。このメンツならどこでも船出しますから」
 未だ冷めない興奮に頬を紅潮させた操に見送られて、すさみを後にした。午後六時。冬の空はすっかり夜である。京都に帰り着くのは早くて十時、下手をすると日付けが変わるかもしれない。
 しばらく走って、白浜を過ぎたあたりで左之助が楽しそうに話しかけた。
「お前ってすげー海好きだったんだな」
「みたいだ。自分でもちょっとびっくりだけど、今日潜って、思った。やっぱり好きかも」
 秘密の財宝の話でもするように声をひそめ、目を輝かせて、剣心が言った。
「ありがとう左之。今日、誘ってくれて。じゃなきゃ俺、このまま二度と潜らずに死ぬとこだった」
 素直で無防備な微笑が左之助の胸を衝く。
「え、いや。ていうかお前すごいじゃん。だってマンボウだぜマンボウ! 南紀でマンボウ! 信じられないけどほんとに出たんだもんな。やっぱり海ってすげー」
「うん。何だって起こるし、想像もつかないもんが出てくるし、予想もつかないことだらけだし」
 そして、いきなり人の気持ちを動かしてしまったりもする。つい数日前までのピリピリした関係が嘘のようだった。
「だよなあ! 怖かったりさ、俺ナニしてるんだって思うこともあるけど、なんだかんだいってやっぱり好きなんだ、だからこの仕事してるんだったって、なんかマジで思った」
「ふっきれた?」
「多分。わかんねーけど。でもきっと陸でアレコレ考えてるより、もぐって感じたことが正解な気がする」
「かもしれない。海の中で嘘はつけないし」
 小さく頷いて言った剣心を、左之助がじっと見た。そして、いつも二重の瞼が三重になっているのに気づき、肘で小突いた。
「いいからお前ちょっと寝ろよ。めちゃめちゃ眠そうだぞ?」
「え。大丈夫だよ」
 と言いつつも、身体はシートに深く沈んで目がとろみかけている。
「いいから。そんで起きたら運転代わってくれればいいから」
「そっか? じゃあちょっとだけ……」
 呟くのとほぼ同時で、ぜんまいの切れたおもちゃのようにかくんと頭が落ちた。
「四時起きかなんかだもんな。ムリしやがって」
 車は国道四二号線をとばしていた。海岸線沿いのカーブの多い道で、右に左にと車が揺れる。そのたびに、呆れるほど熟睡した剣心の体は大きく左右に揺れ、助手席のドアに繰り返し頭をぶつけた。左之助も最初こそ「たんこぶできるぞ」「てか、それ起きるだろフツー」などと一人で突っ込みを入れていたが、ガラスを叩くゴンゴンという音が次第に大きさを増すにつれてさすがに心配になってきた。
「よいしょ」
 見かねて、信号待ちの合間に頭を起こしてやった。しかし手を放すとものの一分と経たないうちにまたゴンゴンが始まる。
「よいしょ」
 ……………。……ガゴンガゴン。
「ぃよいしょ!」
 …………ガゴンガゴゴン。
「だーもう! うりゃっ」
 根の短気な男が力任せに引き起こすと、今度はふらふらとこっち側に倒れ込んできた。肩に脱力した頭が乗る。
「……。ま、いっか」
 その赤い頭を一瞬じっと見つめた後、前を向いて運転を再開した。だが、気にしないようにしようと思えば思うほど意識は肩と腕に向かってしまう。ハンドルを切る都度、剣心の身体は頼りなく浮いたり深く重心を預けてきたりする。触れた部分は熱いし、湿り気を帯びた洗い髪はさらさらと腕をくすぐる。そしてその顔は、あの鮮やかな瞳が閉じられているせいか、いつもより儚く弱々しく見えて、左之助を戸惑わせた。
 さっき、やっぱり海が好きだと言ったときの切ない微笑を思い出す。
 ダイビングを人間のエゴと言い切った辛辣さを意外に感じて、どんな風に潜るのだろうと興味が湧いた、その程度の軽い気持ちで誘ったのだったが。
「海の中でウソはつけない、か。たしかにな」
 圧倒的な存在である海の中、ホース一本で命が繋がった状態で気持ちを偽ることは難しい。熟睡しているとは知りながら、それでも憚るように囁いて、俯いた顔を覗きこんだ。
「それで、お前はふっきれたのか?」
 海で見た彼の姿が目に焼きついている。思い返すまでもなく、あまりにも鮮やかに浮かんでくる。無意識のうちに指の背で磁器質の白い頬をそっと撫でていた。
 後続車のクラクションに煽られてはっと我に返ると、信号は青。慌ててアクセルを踏み込む。
 俺、なにを……!?
 思わず手の甲で自分の唇をきつく押さえた。さっきマンボウに遭遇したときよりも鼓動が早い。ドクドクと打つ脈が全身を駆け巡るのを感じながら、汗ばむ手でハンドルを握り直す。
 かすかに触れた唇の柔らかくて少しひんやりとした感触は左之助の唇に拭いようもなくはっきりと残り、翌日になってもそのまた翌日になっても消えてはくれなかった。


 それからときどき二人で潜りに行くようになった。
 二度目に訪れたのは串本。二月の曇天のその日、「串本ダイビングガーデン」の水温は摂氏十四度、気温は九度。今年いちばんの寒さに備えて、左之助はスキー用の靴下を二枚重ね、さらにドライスーツの中に使い捨てカイロを仕込んだ。そんな若者に剣心は手厳しい。
「軟弱者」
 と切って捨て、自分は思い切りよく服を脱いでいく。夏の浜辺ならいざ知らず、冬の海にさらされる白い身体は、見ている方が寒くなる。
「てかお前まじ寒くねえの?」
「鍛えてるからな。こう見えても」
 と背を向けた剣心を横目で見ると、髪をまとめているところだった。結い上げるうなじに後れ毛がこぼれる。シュルッと引き抜かれたポニーテールの尻尾が生き物のように弧を描いて、左之助の目に赤い残像を焼きつけた。
 このダイビングポイントは、サービス前のビーチから徒歩でエントリーする。海底に一から十までの番号標識が設置されているのが特徴で、水中地図に従ってコンパスを頼りにコースを辿ることができる。いわば海中オリエンテーリングのようなこのシステムは、コンパスナビゲーションの練習をしたい左之助にうってつけだったのだ。
 だが――。
「っかしーなぁ。今度は絶対いけてると思ったのに。なんでこんなとこにいるんだ?」
「……俺が訊ききたいよ全く」
 左之助の方向音痴は筋金入りだった。
 潜行前に剣心に言った「ガンガン行くからはぐれんなよ」という科白だけは勇ましかったが、三分も経たないうちに居場所がわからなくなって浮上した。目指すブイはてんで見当違いの方角でプカプカと浮いていた。
 そんなことを繰り返し、潜水開始からわずか十分にして浮上確認はすでに三度目。剣心はもはや呆れるを通り越して感心していた。
 何もやみくもに泳いでいるわけではない。あらかじめ水中地図を描き写し、コンパスとにらめっこしながら泳ぐのだ。今日は波もうねりもなく海は穏やか。まっすぐ進めばいやでも目標に到達する。というか、しない方がよっぽど器用だ。
「なあ左之。訊いていいか? どこをどうすればここまでぶっとんだ所に出られる?」
「るせえ、コンパスが悪いんだ! 見るたびにクルクル向き変わりやがって。進むのと違う方向ばっか指すし。コンパスのせいだよコンパスの!」
「なんだよそれ。お前、アドバンス講習ちゃんと受けたのか? コンパスは間違わない。コンパスが間違って見えるときは、自分が間違ってる。習っただろ」
「う、いや、その」
「なんなら代わるけど」
「やるったらやる!」
 しかし、さらに四度浮上し、都合八度目に迷ったところで剣心が切れた。
 浮上サインを出した左之助にノーと返し、自分が先に立って泳ぎ始めた。すぐに目指すブイに着いて、方向転換。一直線に泳ぎ、またすぐに次のブイを見つけた。さらに方向転換。そして出発点に帰着。
 浮上した剣心の開口一番の科白は、「とりあえず陸で練習しろ」だった。
 が、上がると風が強かった。ものすごい寒風が濡れた身体に吹きつけ、ほとんど痛い。ハウスに戻り、器材を下ろす間にも、刻一刻と体温が風に奪われる。
「ういーーざっぶーー!!」
「うううう……」
 ここまで寒いと、腰に貼ったカイロも気休めにしかならない。ドライスーツでさえ、膝下、腕、なによりずぶぬれの手と頭から、凍気が骨に沁み入ってくるのだ。もはや鍛えているとかいないとかの問題ではない。左之助はがに股で足を踏み鳴らしながら、さすがに歯をガチガチ鳴らしている剣心を器材洗い場に連行した。
「?」
 器材を洗うための巨大なプラスチックの水槽がいくつか並び、水が張られている。まだ時間が早いのでだれもいない。左之助は何も言わずに、怪訝な顔で震えている剣心の体を軽々と持ち上げると、並ぶ水槽のひとつにどぶんと放り込んだ。
「……!」
 お湯だった。体が冷えすぎていてどの程度の湯温なのか剣心にはわからないが、たまらなく温かいお湯が、大きな水槽になみなみと張られていた。凍えてかじかんだ体にじんわりと温もりが浸透していく、そのあまりの心地よさに涙がにじみそうになる。
 気がつくと左之助も一緒に浸かって、喉をごろごろ言わせていた。
「あー……ったけー」
「……ういーっ」
「出たーオヤジ」
 左之助がからかった。が、そういう自分こそ両手にすくったお湯に顔を埋めたりして、仕草は充分に老けている。
 五分ほど温まってようやく人心地がついた頃、剣心が言った。
「お前、よく知ってたなあ」
「おー。たいがいイッコはあるぜ、こういうの。こんだけ寒いとマジでヤバイ奴とか出てもおかしくないしな」
 言いながら、左之助がザバッと立ち上がった。
「お前、もちょっとぬくもってろよ」
「え、お前は?」
「コンパス練習しろっつったの、お前だろ?」
 にかっと笑ってセームタオルを剣心の頭にのせた。
 生意気なんだか素直なんだかよくわからない。
 歩き去る背中を見送り、ぼんやりと考え事をしながらさらに十分ほど湯に浸かった。
 しっかり温もってから戻ると、二人分の器材セッティングが済んでいた。
 それを見て、剣心は唸った。
「うーん……」
 前回も感じたことだが、器材の扱いが驚くほどきちんとしているのだ。
 それにさっきの風呂。と、思い起こした。
 近場を潜り慣れていない自分が知らないだけで、案外どこのサービスでもそういうものなのかもしれない。にしても、どの水槽がそうかまで決まっているはずがない。けれど左之助はそれがそうだと知っていた。確かめさえしなかった。事前に確認していたと思って間違いない。
 根本的にルーズで大雑把な左之助の普段を思えば、これは十中八九どころか十中十で店の教育によると見るべきだろう。準備、片付け、それに安全管理。器材販売を強いられているという左之助の話から、都市型ショップにありがちな商業主義かと思っていたが、なかなかどうして、たしかな店らしい。基本をしっかり叩き込まれている。
 それでどうしてコンパスナビゲーションだけがあんなにべらぼうにいい加減なのかと思わなくもないが、こればかりは本人の資質に負うところが大きい。まあ、だからこそああして素直に練習をしてもいるのだろうが。
 計器を首にかけて黙々と歩く彼の面上には、単に強気なだけではないひたむきさがある。剣心は濡れた髪をタオルで包んで、白いプラスチックの椅子に掛けた。缶入りのミルクティーで暖をとりながら、ウロウロと歩き回る左之助の様子を見守ることにする。
 しばらくすると、海から上がってきた一団が左之助に近寄っていくのが見えた。三人ともプロダイバーと思しき身なり。先頭の男が手を上げて何か話しかける。知り合いらしい。左之助が一瞬驚いた顔をして、それから、笑った。雲の間に陽が射すように晴れやかに笑った。
 剣心はぱちぱちと目を瞬いた。そして思い出したように手の中の缶のタブを引き、ひと口すすった。温かく甘い液体が胃にしみる。
 そういえば、こないだ二十一になったって言ってたっけ。
 高校を出て『海屋』に入って二年。店は多分、かなり厳しい。ダイビングの師弟関係も甘くはない。上司や先輩には相当しごかれているはずだ。
 だが彼なら誰からも愛されるにちがいない。クソ生意気だが、不思議と憎めない。彼らもきっと、と左之助を取り囲む三人を見た。
 男が後ろを見返り、左之助は照れくさそうに頭をかきながら、ライオンみたいな髪の女性に会釈する。その後ろにいた坊主頭の大きな男が平手で左之助の背中を叩き、左之助がむせる。三人がどっと沸く。
 きっと彼が可愛くて仕方がないのだろう、三人とも、タンクを下ろしもせず、手に手にコンパスを掲げて大きく身振り手振り。賑やかな声の切れ端が風に流されてくる。
 最初に声をかけた男は、剣心より少し上くらいだろうか。柔和な表情で若く見えるが、左之助を見る目に年長者の慈愛が滲んでいた。ひょっとしたらもっと上かもしれない。
 ふと左之助が剣心の方を見た。次いで三人が一斉に顔を向ける。一緒に来ている連れだとでも説明したのだろうか。軽く会釈を返しておく。三人はひとしきり左之助にコンパスのレクチャーを施した後、ようやくタンク置き場に向かった。
 左之助がコンパスをぶんぶん振り回しながら剣心のところへ戻ってきた。
 楽しそうにほころんだ顔は、家では見ない、けれど海ではいつもの、のびのびした顔。だが、さっきの笑顔とはちがう。
「前にウチでアウトスタッフやってた人なんだ」
 親指を肩に担いで左之助が言った。臨時雇いのスタッフのことである。会社員や自営業など職業はさまざまだが別に本業をもち、休日を使って海で講習やファンダイブを手伝う副業プロダイバー。名称は店によるが、『海屋』ではアウトスタッフと言っている。
「去年脱サラして、今は明石でショップやってて」
 ああ、と思って、剣心はうなずいた。
 きっといろんなことを教えてくれた人なのだ。
 無意識に先輩らしい顔を作っていた。
「で、あんだけ教えてもらったんだから、そりゃもう当然コンパス完璧だよな?」
「まあ見てろよ」
 だが、そう豪語した三時間後。
「クソ。まるで潜った気がしねえ」
 結局二本目も同じことを繰り返してげっそりとボヤいた左之助を助手席に座らせ、今日は剣心がハンドルを握って串本を出た。
 帰路、左之助おすすめの鮮魚店に寄った。観光客用の大型海産物市場とは異なり質素な掘っ立て小屋に地味な生け簀とチルド台が置かれただけの殺風景なその店で、剣心はハタハタとトコブシとイカの一夜干しを買った。ハタハタは翌日の朝食に、トコブシは夕食の一品に、そして肉厚のイカはその場で炙ってもらい、ヱビスのロング缶と共に助手席の左之助に。
「え。そりゃまずいだろ」
「今日は俺が運転するからいいよ。こないだ家まで爆睡したし、お前今日がんばったし。ご褒美」
 素直に喜ぶ少年の笑顔に剣心も目を細めた。
 左之助は嬉しそうに熱々のイカを指で裂くと、最初の一片を剣心の鼻先に突き出した。
「マジで旨いんだー、ここの一夜干し。ホレ」
 胴のいちばん味のいい部分の厚い身が目の前でゆらゆらと揺れ、香ばしい匂いとほくほくと上がる湯気につられてついパクリと食いつきそうになったところで、ふいにそれを持つ左之助の指に目を取られた。節ばっているせいでいかつく見えるが、大きさの割に細づくりだった。海仕事で荒れた手は、指先の皮が白くひび割れている。
 剣心は何度か目をしばたたき、目の前のイカを指でつまんで口に放り込んだ。もぎゅもぎゅと噛み締めると、身は柔らかく締まって、味が濃い。焼き加減も文句なし。
「おわ。美味しいな、コレ」
「だろ?」
 驚いたように言った剣心の反応に、左之助が得意そうに胸を反らした。
 そして旨いイカと上等のビールで機嫌のよくなった左之助は、剣心に海の話をせがんだ。目を輝かせて身を乗り出す左之助に導かれるように、剣心は思いつくままにこれまでに潜った海の話をした。どんな海だったのか。そこでなにを見たのか。どんな人と出会ったのか。
 話しながら、ふとした折になんとも言えない静かな視線を幾度か感じ、そのたびに胸がざわざわと騒ぎはしたが、しかし尽きない海の話をしていると、五時間の道程はあっという間だった。


「へええ、トコブシ。初めて食べるー」
「おいしい〜」
「ほんと。よかった」
 昨夜仕入れてきたトコブシを甘辛く煮て夕食に出した。
 どちらかと言えば酒の肴だろうという剣心の予想に反して、なぜか子どもたちはメインディッシュの鶏の桑焼きよりもトコブシの煮つけを好んで食べている。
 念のために酒好きの男連中の分を取り分けておいて正解だったと思いつつ、剣心は食材図典生鮮食材篇を取り出した。父親の感化かはたまた本人たちの素養か、ここの子どもたちは好奇心が健康的だ。この歳で無意味な字幕のつくバラエティー番組よりも剣心が話して聞かせる野菜や魚のウンチクの方が面白いというのだから、健全といえば健全だがこれで周囲に馴染めているのだろうかと、別の意味で多少の不安を覚えたりもする。
 この日も「聞いたこともない」というトコブシについてレクチャーすべく、フルカラーの大きな本のページを開いた。
「アワビの親戚! 高級食材なんだ」
「んー。そんなでもないけど、でもそういえばこの辺じゃあんまり見ないか。南紀まで行くとやっぱり海のものが豊富だよね。今度は奮発してゾウリエビとか、いっとこうか」
「ゾウリエビ?」
「うん、すごく美味しい。見た目はグロいけど、イセエビより美味しい。コスパは断然上だね」
「イセエビより?! すごい! でもグロいんだ?」
 右喜が笑った。
「うん、ほんとに草履みたいでね。いやあ、草履っていうか、わらじ? んーと」
 だが、あいにく食材図典にはそんなマニアックなエビまで載っていない。
「ああ、そうだ、左之がエビカニ図鑑持ってるかも。ちょっと見てこよう」
 思いついて、左之助の部屋に向かった。
「お邪魔しまーす」
 仕事だから毎日部屋には入るのだが、逆にどうでもいいような用のせいか何とはなしに気が咎めて、挨拶をしてみた。ハンドルを押し下げ、ドアを開ける。暗い部屋の空気はひんやりと冷たく、そして左之助の匂いがした。トクンと心臓が鳴った。まだ大人になりきっていない、けれど確実になりつつある、若さと成熟のないまぜになった匂い。逞しく成長する若い生命力が、主の不在にもかかわらず部屋には充満していた。
 同じように十代でダイビングを始めて、同じようなことを感じた。
 でも。
 と剣心は思う。
 あの烈しさは自分にはない。力強い肉体も。ときに怖いほどの素直な一途さも。どれも、ない。
 あの目。
 家族を見る、海を見る、仲間を見る、自分を見る、あの、が――。
 部屋に来た目的を忘れ、電気もつけずに佇んだ。
「剣ちゃーん? わかんなかったらいいよー?」
 よく通る声に呼び戻され、ドアを閉めてダイニングに帰った。
「お兄ちゃんの部屋から本探し出すなんてムリだよ」
 泥棒に入られてもこうはなるまいという乱雑ぶりを言っている。だが、これでもかというくらいに散らかって見えるなかにも実はルールがあることを剣心は知っている。がさつに見える彼が、海関係のものだけはきちんと場所を決めて管理していることも知っている。「世界のサメ」「クラゲ王国」「ウミウシ学」などと一緒に「エビ・カニガイド〜日本近海〜」が置いてある場所も知ってはいるのだが。
「まあね。気分は川口浩」
「なにそれ」
 右喜と央太が口を揃えた。
「え。知らない?」
「だからなに?」
「♪かーわぐっちーひろしがぁー 洞窟にはーいるー♪って」
「なにそれー! てか剣ちゃんもしかして歌ヘタ?!」
 テーブルを叩いてゲラゲラと笑う右喜に憮然として言い返す。
「俺じゃなくて元々こういう歌なの! 右喜ちゃん笑いすぎ!」
 思いがけないジェネレーションギャップに少々ショックを受けつつ、帰り仕度を始める。馬鹿馬鹿しいやりとりに紛れて、左之助の部屋で感じた戸惑いはどこかに消えていた。


 その男に会ったのは、三月にすさみを再訪した時のことだった。
 春、南紀のダイビングシーズンが始まろうとしていたが、さすがに平日だけあってゲストは今日も二人だけ。
「やっほーい! お待ちしてましたよぉ! 今日はどこ行きましょうか」
 相変わらず底抜けに明るい笑顔で迎えてくれた操に続いて、彼女のボスだというその男が姿を現した。
「元気そうだな、緋村」
 左之助よりもさらに長身の体を原色のボートコートに包んだ男は、そのいかにもな身なりにもかかわらず全くといっていいほどダイバーらしくなく、よく言えば物静かな、ありていに言えば少なからず陰気な空気をまとっていた。
「蒼紫……? じゃあここは、お前の?」
「ああ。名は出していないが。表向きは叔父が代表でこいつがチーフということになってる」
「そうだったか」
 淡々と話す剣心の表情は声同様ひっそりと静かで内心をうかがわせない。
「また、始めたのか?」
 言って、彼、四乃森蒼紫は左之助にさっと視線を走らせた。
「というわけでもないんだが。まあ、ちょっとした成り行きというかはずみというか」
「惜しいな。お前ほどのダイバーが」
「そんなことないさ。もう、若い者の時代だ」
「それはそうだが……」
 蒼紫がまたチラリと左之助を見た。
 剣心がかつてインストラクターをしていたことは、左之助も既に知っている。初めて一緒に潜った翌日、ひとり遅い朝食を摂りながら聞いた。
「お前、素人じゃないだろ」
 訊ねると剣心は素直に話した。
 すさみではレスキューのカードを出したが、実はインストラクターの免許を持っていること。タンク本数もかなりサバを読んだこと。十年ほど前に体を壊して辞めるまで海外のダイビングサービスでガイドとして働いていたこと。
 話の最後に剣心はどうして判ったのかと左之助に訊いた。
「わかるさ。二本も潜れば」
 当たり前だが、水中で会話はできない。自然、意思疎通はハンドシグナルとアイコンタクトによる。だがハンドシグナルは必要最低限の簡単な事柄を伝えるのみ。
 問題なし。トラブルあり。行け。待て。見ろ。了解。エトセトラ、エトセトラ。
 だから相手が何をどう感じているかは自分で読み取るしかない。
 状況。顔色。目。表情。手足の動き。呼吸の速度。などなど。
 ダイビング歴二年弱のダイブマスター見習いとはいえ、仮にもそれを生業としているのだ。その程度のことが判らなくてどうするというものだった。
 それに――。
「それに、水中の方がわかるヤツってたまにいるんだよな。陸では謎なのに、水に入ったら突然見えてきたりとか」
「おー。デッチのくせに一人前なこと言うんだな」
「るせえよ。とにかくお前はバレバレだってこと。プロだってのも、かなり腕が立つってことも、それから要するにただの海好きだってことも。海ん中でウソはつけないんだからな」
 得意気に言った左之助にちょっと肩をすくめただけでそれ以上の減らず口を叩かなかったのが、しょっぱなのすさみ以来すっかり正体を現した毒舌家にしては珍しかったっけ、と、そのときのやりとりを思い返しながら用を済ませて、洗面所を出た。
 見ると剣心の姿がない。セッティングがあまりにも中途半端なまま放り出されている。
「なんだ?」
 ハウスをぐるっと回ってみたがいない。車に忘れ物でもしたのかと駐車場に向かいかけたとき、事務所の裏手から声が聞こえてきた。
「……からあのことはもう……」
「でもお前のせいじゃない……の人も、それくらい……」
 押し殺した囁き。片方は剣心。もう片方は……四乃森さんか?
 左之助の足元でジャリッと石が鳴った。
 声が止む。沈黙。
 くそっ。内心で毒づいた。
「けんしーん。どこだー? 早く準備しろよー」
 素知らぬふりをして大声で呼ばわると、剣心がひょいと顔を出した。
「悪い、行く行く」
 いつもと変わらない様子で歩いてくる剣心の向うに、四乃森蒼紫。
 さっきと同じ陰気度満点の彼の視線に、さっき以上にまとわりつくなにかがあるような気がして、左之助は彼の顔をじっと見た。
「おい左之、行くぞ」
「あ、ああ」
 いつのまにか脇をすり抜けて行った剣心に逆に急かされ、左之助も準備に向かう。
 振り向くと、もう男はいなかった。
 その日はなにかといまいちだった。波はなかったが、透明度が悪く、潮も止まっている。三月も下旬とは思えないくらい魚の動きが鈍い。そして剣心も、全くもって冴えなかった。もちろん目立って大きなミスをするわけではない。ないが精彩に欠けること甚だしい。ちょっとした手順を何度も取り違えたし、身ごなしにも切れがない。生物にも上の空。一緒に潜るのは三度目だが、左之助がこんな剣心を見るのは初めてだった。
 この日は海況に恵まれなかったこともあって、湾内のポイントを二本潜り、取り立ててこれといった収穫もなく帰路につくことになった。


 そして二か月後、剣心は姿を消した。

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