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2009/6/29

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 さてその他の面々はといえば、右喜は古布友禅で仕立てたマリの民族衣裳、上下衛門は半被に地下足袋の江戸火消し(これも馴染みすぎて仮装に見えないという声が高かった)、央太は無難にテディベアの着ぐるみ。小国姉妹は、姉のあやめが肩を出したドレスに目元を隠すマスクの仮面舞踏会風で、妹のすずめは小柄を生かしたコロポックル。ちゃんとフェルト製の大きな(ふき)の葉も用意している。新井夫妻のサンタクロース妻とトナカイ夫というクリスマスな扮装は、もう十二月に入ったことだし季節を先取りして……というわけではなく、いい仮装が思い浮かばず思案に困ったため、『海屋』で使っていたパーティー備品を借りただけの話だった。地味な性分の二人は仮装などというイベントに慣れないせいか、まだ少し恥ずかしそうにしている。
 今夜のもう一組の主賓である剣心と左之助は、剣心が天使で、左之助はアフロのガイコツだった。共に言うまでもなく時尾のご所望である。
「剣くんは天使よ。もちろん。昔約束したもんね。私の結婚式には天使のコスプレで出てくれるって。ほんとはキューピッドだからハートの弓を持つんだけど、剣くんに飛び道具は危ないから、それはなしでいきましょ。そんで左之っちはアフロのがいこつね。全身タイツで、骨は蛍光塗料で書くの」
 ご指示に従い、黒の全身タイツに蛍光塗料でヒト科ヒト属ヒト種(オス)の骨格が描かれた。骨の絵はかつて海屋のアウトスタッフをしていた骨フェチの理学療法士さんが腕によりをかけた力作である。本人も会心の出来という尺骨(前腕の二本の長骨の一本)をはじめ、素人目にもさすがのリアリティーと力強さがあり、しかも関節の位置や各部の骨の尺寸までぴたりと合っているものだから、実際に着て動くと扮装だとわかっていながらも本当にがいこつが動いていると錯覚しそうになるほどで、目を引くことこのうえない。
 それにしても。と剣心は思う。背が高くてスタイルがいいというのは大したものだ。普通なら笑いを誘うようなあんな格好もそれなりにさまになるのだから恐れ入る。自分ではああはなるまい。見るともなく見ながら考えるともなく考えていると、前後して二人分の咳払いが聞こえてきた。
 コホン。
 えーと。もしもし?
 剣心ははっとして時尾と右喜に目を戻した。そういえば話の途中だった。
「ああ。ごめんごめん」
 二人してなんともいえない探る面持ちで剣心をうかがっている。
「え、あれ? 俺そんなにボーッとしてた? ごめん、みんな楽しそうだなーと思ってただけだったんだけど……」
「……やっぱり自覚ナッシングだ」
「ある意味無敵よねえ」
「へ? なに、俺? なんの話?」
 ハテと首をかしげてきょとんとしているが、他人のことには敏感なくせに自分のことにはとことん無頓着な剣心である。二人が笑いの半歩前のしたり顔でうなずきあっているのが自分のことらしいと察せられただけでも上出来で、会場を見回す自分の様子がある特定の人物を見ている時に限ってえもいわれぬ情感をにじませていることまで自覚せよという方が要求過多というものだ。
 しかしそれもこれもここまでくると微笑ましいと、女二人の目は語っていた。
「まあいいわよ。なんてったってお幸せそうだからさ」
「ほんとほんと。ほんとによかった」
 右喜が言い、時尾が同意した。そこまで言われてさすがに剣心も気づき、忙しくまばたきを繰り返す。時尾が言う。
「夢みたい。こんな幸せそうな剣くんを見れる日が来るなんて。あのシャイで意固地だった剣くんが」
 まるで花嫁の父さながらの感慨である。自分こそウエディングドレスをまとっているというのに。
 人には何事も得手不得手がある。世の中にはたとえば「叱られ上手」という恵まれた資質の人がいる一方、何かと損な性分の剣心はといえば、これは重度の「幸せ下手」で、しかも「誉められ下手」でもある。自分の評価が不当に低く、周囲に無用な負い目を感じているからだ。いよいよふっきれて肚をくくったとはいえ、骨身に染みついた慣習と気質を変えるには、努力と時間に加えて、けっこうな勇気がいる。
 どきどきしながら、がんばって言ってみた。
「うん。ありがとう」
 ふさわしい返答かどうか自信はないが、今幸せであることは事実だ。それを、たとえ謙遜であれ否定するのは、幸せに対して不敬だと思うのだ。実感はひとつとして陳腐ではない。
 軽い緊張が剣心の小さな頬をほてらせ、二人の女性応援団が目を細めた。

 そこへにぎやかな一群がやってきた。左之助とポナペ無人島チームの五人である。
 目で迎える剣心たち三人の間に、左之助が掲げ持ってきたガラスのコンポートを置いた。
「ほいよ、いちご」
 短い脚部を指間に挟んで踊るように差し出された小洒落たガラス器には、今年初めてのはしりのいちごが山盛りに盛られて輝いている。十二月の貴重ないちごだ。右喜、時尾、剣心の三人は口々に歓声をあげながら、思い思いに手を伸ばした。見目も愛らしい小ぶりな一粒を剣心が口に含んだ、その瞬間である。
「あ!」
 右喜が喜々と叫んだ立ち上がった。
「待って、わかった。これ絶対いい。オッケー!」
 と言われても、ただ平和にいちごを食べていただけで、なにが「待って」で「わかった」なのか。周囲はぽかんと口を開けるばかりだ。あっけにとられた面々の視線が右喜に集まる。しかし右喜は寄せられる注視にはおかまいなしで、毅然として行動を開始した。いつのまにかどこからか取り出したつげ櫛で剣心の髪をとかしつけ始めたのだ。
「はい、ちょっとじっとしてねー。今日のポイントはこの髪だからね」
 なにが始まったのか誰にもわからない。わからないが、こんなときの右喜に逆らってはいけないということならよくわかる。とくに何度も“素材”になったことのある剣心が経験上身をもって重々承知しているのは言うまでもなく、今日が初対面のポナペチームの面々にも、これは邪魔をしてはいけない種類のものだということはよくよく理解できた。全員、息を詰めるようにして、右喜の手元を注視した。目の異なる二種の和櫛を使い分け、まず粗目(といっても普通程度には細かい)を使い、仕上げは極めて細かいもので糊を塗るように丁寧にひいていく。櫛の通り過ぎた後には光り輝くばかりの美しいキューティクルリンクがつやつやと現れる。この天然天使の輪こそ、右喜が本日の剣心に施した装いの眼目である。これがために剣心は一ヶ月前から右喜の知り合いのヘアサロンに毎週トリートメントケアに通わされていたのだが、「スタイリングをしやすくするため」というありえない理由を「なるほど」と疑いもせず容れていたあたり、こう見えて大雑把な性格の彼らしい。
 さてそれ以外はどうかというと、身にまとっているのは右喜オリジナルの白い天使の装束である。くるぶしまで届く長い裾の、ゆったりしながらもほっそりと身に沿うラインがいかにも清楚である。つくりものの羽根は背負っていないし、いわゆる天使の輪もないわけだから、それだけとってみれば仮装の装束としてはかなり控えめと言えた。だからこの衣裳を見た剣心が「あまり目立たないおとなしい服でよかった」と評したのもあながち的はずれとは言えない。彼が懸念したような、手足がむきだしになる露出度の高いデザインでもすけすけの薄い生地でもなく、ランドセルのような大きな羽根も、頭上の輪っかもなかったからだ。だが、だからといって今日の剣心が「あまり目立たないおとなしい格好」かといえば、そんなことはまったくなかった。長衣はぬめりを帯びたしなやかな生地で、深いドレープを描きつつ華奢な体型をなぞるようになめらかに流れ落ちて、中性的な色気の香る儚げなシルエットを描き出しているし、丁寧にくしけずられた髪の天然ティアラは、どんなつくりものよりも高貴な真性の光で剣心の頭上を輝かせているのである。目が合うたびに何度でもハッと心奪われていたのは何も左之助に限ったことではなく、
「すごーい。ラファエロの宗教画みたい」
 と言った時尾の感想こそ皆の心証を代弁するものであり、
「今日はあんまり派手でなくてよかった。これなら目立たない」
 という剣心の発言は、もうまったくもってただの大ぼけとしか映らなかったのだが、当人はもちろんそんなことを知るよしもない。

「よし。こんなもんかな。ん。きれいきれい」
 ほどなくして右喜が満足げに胸を張ると、息を詰めて見守っていたギャラリーから溜息まじりの拍手がわいた。
「すごーい。きれいー」
「剣さん、すてき」
「っし。さ、じゃあ仕上げ、いっときましょか」
 右喜は左之助からいちごの器を取り上げると、小首をかしげて彼女を見上げる剣心の眼前にそれをずいと差し出した。
「はい、剣ちゃん。これ持つ」
 とっさに両手で受け取り、自然、目の前に捧げ持つ格好になった。
 それを見て右喜は大きく頷いた。
「うん、やっぱり。まちがいないわ。どう?」
 そう、もちろんまちがいない。花しかり、宝石しかり、黄金しかり。特別なものをより特別に彩る装飾は数あれど、キュートな容姿と期待感で人を和ませるという点においていちごの右に出るものはあるまい。枕草子でも「あてなるもの」として「いみじううつくしきちごのいちごなどくひたる」が挙げられているが、そんな古典に頼るまでもなく、いちごのショートケーキを思えば、愛らしい一粒のいちごがただでも人を惹きつける魅力的な存在をさらに格別に変身させる力の大きさは瞭然だ。
「かわいいー」
「剣さん、すごい似合う。素敵」
「おう、いいいい。超うまそー」
「………」
 別の意味にも取れる左之助の微妙なコメントには眉を上げたものもあったし、何も気づかなかった者も、また気づかないふりをした者もいた。
「右喜ちゃんってやっぱりすごいわね。ほんと天才的」
「うんうん、同感!」
「素材がいいからよ。でもありがと。ねえねえ、それよりポナペの話聞かせて? 楽しかった?」
「「「もっちろ〜〜〜ん!」」」
 それからは主に小国姉妹が中心となって、身振り手振りをまじえたポナペ話がにぎやかに展開された。カゴでボートに運び込まれた剣心のドラマティックな登場に始まり、無人島キャンプの話や、椰子の木登り選手権、剣心ハンモック網焼き事件、ディナーの石焼き料理のおいしかったこと、行き帰りの航路がどれほど過酷だったかなど、思いつくままに話は往き来した。前後関係やちょっとしたディテールなど、女性陣の記憶が曖昧で首をかしげるところはおおむね青空が控え目に補足していたが、新井夫婦帰国後のひげそり抜刀斎事件、イルカとのランデブー、ビリヤードバーでの一幕などについてはフォロー役がだれもいなかったため、多少あやふやなままになったところも一部あった。
「いいわねえ、ビリヤード。私達もしたかったー」
 羨む梓に、あやめが「へえ」という顔を向けた。
「梓さん、ビリヤードできるんだ?」
「できるってほどでもないけど、私よりむしろこの人が」
 と、梓は夫を見た。
「いやいや。そんな別にあれです。僕は別に、玉を打つだけで。そしたら彼らがこう、勝手にうまく跳ね返って落ちてくれる、みたいな。まあそんな感じといえば感じでしょうかね」
「相変わらずなに言ってんのか今いちよくわかんないけど、でもとりあえずなんかかなり上手そうな気がする」
「ね。剣さんと勝負してみてほしいよねー」
「えっ。そんな、僕なんか無理ですよ」
「絶対そんなことないって。ね、梓さん、そうでしょ?」
「どうかしら。下手ではないと思うけど」
「それに剣さんのビリヤードは必見なの。すっごいカッコイイの。ちょっとびっくりするから」
「そんでまた左之さんがやきもきして大暴れするんだ」
 すずめが楽しそうに言って、皆がどっと笑った。バーでのビリヤードをめぐる騒動は今話したところだ。
「だって左之さん、剣さんのことになると一目散だもんねー」
「すずめちゃん、それ微妙に日本語ちがうと思うよ?」
「え、そう?」
「うん。言いたいことはすっごいわかるけどね。でもって超同感だけどね」
 またどっと笑い声が起こった。

 背の高いガイコツとポナペ四人組が人の輪に戻ってほどなく、右喜が「そろそろカウントダウンだから準備してくる」と席を立った。
「トイレとか今のうちに済ませといてね。カウントダウンのときトイレ行ってていなかったなんて松本さんみたいなことにならないようにね」
「カウントダウン? なんの?」
「もうすぐ十二時でしょ? 過ぎたら十二月六日だから」
 無論。今日が十二月五日である以上、日付が変わったら六日だ。だが十二月六日?
「時ちゃんたちの結婚記念日か何か?」
「だれかの誕生日なの?」
 剣心と時尾が同時に言い、はからずも揃った疑問に顔を見合わせる。右喜が言った。
「剣ちゃんが初めてうちに来た記念日だよ。五年前の十二月六日」
 さも当たり前のように言い置いて「じゃあ後で」と右喜は去った。
 剣心は言葉がない。

「よかったね、剣くん」
 ずいぶん経ってから時尾がそっと言った。口許にあたたかい微笑が浮かんでいる。
「うん」剣心もそっと返した。
「もう離しちゃだめよ」
「……」
「あのね。私、かねがね思ってたんだけどね。左之っちについていける女の子もなかなかいないだろうけど、剣くんについていける子はもっといないだろうなーって」
「おれ? なんで?」
「だって剣くんの場合、男とか女とかそういう次元じゃないから。むずかしさが。だからそもそも普通についていける人自体がレアだと思うの」
「……」
「大事にするのよ。左之っちも、東谷家のみんなも」
 なにか言いたかったが、なにをどう言えばいいかがわからない。無言でうなずく。
 どうしてみんなこんなにやさしいのだろう。

 そうこうするうちに会場がにわかにざわめきはじめた。カウントダウンが始まるのだ。いつのまにか説明が済んでいたらしい。時尾と話しこんでいて聞いていなかった。外国の新年のようなキス&ハグスタイルだと、戻ってきたすずめに聞かされて知った。それだけならよかったが、問題はその後だ。日が変わった後に「今夜の主役たちからひとことご挨拶が」予定されており、驚いたことに剣心と左之助もそこに含まれているというではないか。
「無理無理無理! おれ無理!」
「って言っても右喜さんもう宣言しちゃったよ」
 あやめが真顔で言い、すずめがニコリと笑った。
「観念して頑張るしかないんじゃん?」
 まさか。うそだろう?

 あっというまにカウントダウンの時間になった。音楽が止み、照明が切りかわって、司会役が声をはりあげる。
「さあ、みなさん。準備はいいですか? いよいよ今日も残すところあと一分!」
 司会の男性は海屋の常連でアナウンスの本職だ。巧みなトークでつなぎながら時間を刻んで盛り上げていく。三十秒、二十秒、十秒。十秒からは声を和してのカウントダウンだ。
「八、七、六……」
「五」でドラムの効果音が止んで、会場は暗転。さらにカウントが進んで、日付が変わると同時に司会の先導で歓声が上がり、まばゆい光が踊った。クラッカーが鳴らされ、テープが飛び交う。
「おめでとうー!」
「ヒャッホーウ!」
 冷静に考えれば、何の祝日でも記念日でもない単なるなんでもない日の始まりだ。何も特別ではない。日が変わるたびに毎度こんなに喜んでいては大変であるが、だれもそんなことは気にしていなかった。めでたいことや喜ばしいことにこむずかしい理由はいらないらしい。
 皆、近くにいる者どうしで抱きあい、祝いあう。ハグ&キスといっても、もともとそんな習慣のない日本人がほとんどのこともあり、大抵の者たちはハグのみで、キスまではしない。するのは一部の外国人と一部のごく親しい者どうしくらいだった。
 剣心も近くにいた友人たちと入れ替わり立ち替わり軽いハグをしながら、ひょこひょこと背伸びをして周囲を見回していた。左之助はどこにいるのだろう。カウントダウンのアナウンスが始まる頃、姿が見当たらないことに気づいた。剣心とは異なり、人に埋もれる身長でもなし、ましてあの目立つ仮装である。にもかかわらず、照明が落ちて暗転した数秒の暗闇の中にも長身の蛍光ガイコツが浮かび上がることはなく、真っ先に祝い合いたい相手を見失ったまま、剣心は日境をまたいでしまった。
「剣ちゃん、おめでとー!」
「あ、央太くん。おめでとう」
 この年中学二年の央太の背丈はもう剣心と変わらない。もふもふと肌ざわりのよいクマの着ぐるみを抱きしめて、右喜に似たやわらかい髪をひとなでする。
 次々とかけられる声に応じながら合間合間にのびあがってはきょろきょろを繰り返しているうちに、次第に気が気でなくなってきた。時間にすればものの数分と経っていないが、限られた会場で一団の人々が喜び合っている今この場にどうして左之助がいないのかと思う。左之? 思わず声に出して呼んでいた。
 ふいに腕を強く引かれた。
「わっ」
 抱き取られた腕には、黒地に蛍光塗料の骨が二本。顔を上げると、懐かしい相棒がいつもの顔で笑っている。
「左之」
「なに泣きそうなってんの」
 左之助は背を屈めて愛しい天使を抱きしめ、両頬に音をたててキスをした。左、右と移るキスの合間に小さな声が言う。ごめん。剣心が同じようにハグ&キスを返すのを待って、左之助は剣心の手を取った。
「行こう」
 人波をすり抜けて向かっている先はどうやら出口だ。
「ちょ、左之。行くってどこに?」
「んなもん、ずらかるに決まってんじゃん」
「え」
「スピーチとか、ありえねえし」
 そう言う頃にはもう店を出るところだ。
「もしかしてお前、したかった?」
「まさか!」
「だろ?」
 十二月の冷たい外気がほてった頬に心地いい。
 「こっち」と言う左之助について路地を抜けると、店の裏側に出た。
「じゃん!」
 左之助が握り拳を開くと、鍵があらわれた。キーホルダーについた二つの小さな鍵。片方の鍵の独特な形状は、剣心がよく知るある乗り物に特有だ。一方が本体ならもうひとつはチェーンだろう。
「ジャンに借りてきた。グッジョブ?」
 それはジャンのレストランで使っていると思しきカゴと荷台がついた実用的な自転車の鍵だった。言いながら左之助はすでに後輪のチェーンをはずし、前輪にかがみこんでいる。ガタつく鍵に手こずり、なかなか解錠できない様子に、剣心が「うむ、グッジョブ」と言いながら手を出した。自転車なら剣心の範疇だ。一発で小気味よい音がして、ロックがはずれる。と同時に手はハンドルを握り、足はスタンドを跳ね上げていた。もはや条件反射である。考える前に身体が動いて、あっという間にサドルにまたがっていた。
「でかした左之。乗れ」
「ってオレがうしろ? なんで?」
 流れるような動作に思わず見とれていた左之助がハッと我に返って両手を挙げた。
「先着順。ほら早く。残りものには福があるって言うだろ?」
「それ何の話よ?」
 ぷっと失笑して、降参の態で荷台にまたがる。どんな情況でも、相手を笑わせたら、笑わせた方の勝ちだ。そもそも車上の剣心ときたら出走を待つ競走馬の勢いである。これが止まろうはずもない。左之助が乗るやいなや剣心号は走り始め、ぐんぐんスピードを上げていく。十二月の平日、真夜中の街路に人はなく、すきとおった夜気の川を、ふたり猛スピードで遡上する。古いがよく手入れされた自転車のチェーンは軽快だった。剣心は体重をのせて右左とペダルを踏みながら声を張り上げた。
「ていうかさ! これ、どこいく?」
「知らね。わかんね。つうかどこでも。お前の好きなとこ!」
 左之助も大声で答え、言ってからクククと笑った。
「そーだよな。お前みてえなじゃじゃ馬に人についてこいってのが無理だよだな」
 前のめりで力いっぱい自転車を漕ぐ細い腰につかまり、小さな背中に頬をつける。
 気づけば肩が軽い。風になびく剣心の髪の向こうには澄んだ夜空が広がっている。
「よし、いい。オレがしがみついてってやっから、どこでもお前が好きなとこ行け。突っ走れ」
 声は風が吹き飛ばしたが、耳には届かずとも届くものがある。
「とばすぞ左之! つかまってろ!」
 どこを目指してか疾走する二人乗りの暴走自転車を、寝静まった夜の街が見送っていた。


「なあなあ。オレ考えたんだけど。アレさ、そのまま置いとくってのはどう?」
 左之助が訊ね、剣心が訊き返した。
「あれ?」
「うん、あれ。123456」
「ああ、あれ。今回は? 持ってきたのか?」
「んーにゃ。置いてきた。ボードにあのまま。カジキの下」
 宝くじのことである。剣心の帰国後、その置きみやげを見つけた左之助がひっくり返ったのは言うまでもない。
「そのまま置いとくって、換金せずに?」
「そ」
「なんでまた?」
「だってよ、換えちまったらただのカネじゃん? “宝くじで当たったカネ”より“一等の当たりくじ”の方がなんかよくね?」
 剣心は考えるように小首をかしげた。
「ど?」
「ふむ。悪くないな。よし、採用」
「お、マジ?!」
「マジ。いいんじゃないか? お前らしくて」
 一等の当たりくじ。
 まったくもってその通りだ。
 そう思って唇で触れた左之助の頬は、またのびはじめたヒゲで少しザラザラしていた。

 今日から。ここから。
 毎日が始まり。
 なんでもなくて特別な、新しい日の始まり。
 今日も、明日も。
 いつも。いつまでも。






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わらくる<40> 2009/6/29
あとがき





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