宴もたけなわのにぎやかな会場の片隅。
当夜の主賓二名とこの会の世話人が小さなテーブルに喧噪を逃れていた。
「それでそれで? そしたら東谷さんはなんて?」
時尾が全力の前傾姿勢で訊いた。
おいしいごちそうを目前にした狩人の面持ちである。
こうなった時尾を止めることなど誰にもできはしない。
剣心は幾度目かもわからない溜息をついて頭を抱えた。
片や「よくぞ訊いてくれた」とばかりに身を乗り出すのは右喜である。
「そう、そこなのよ。そこがまずすごかったのよ。笑うわよ、ほんとに。剣ちゃんも剣ちゃんならお父さんもお父さんでね」
親子四人揃ってよく似た、まなじりの切れた闊達な目をきらきらと輝かせて、水を得た魚というよりはきん斗雲を得た孫悟空の勢いだ。
「お父さん、最初すっごい難しい顔して黙り込んだのね。それであたしもしかしてこれはまずいかなって、ちょっとハラハラしちゃって。なんせああいう人じゃない? 何がアリで何がアウトか、時々さっぱりわかんないところがあるの。言っても
いきなり振られて動揺しつつ、ごく控えめに同意した。
剣心に言わせれば「変に長かった」どころではない。「ちょっとハラハラしちゃった」どころでも無論ない。
一秒千年、二秒万年。大袈裟でなく、人生最大の難所だった。
それにしても、だ。
どんな大逆鱗も罵倒も覚悟していたのに、あんなリアクションをされては困る。こちらにも心の準備というものがあるのだ。左之助といい、上下衛門といい、親子揃ってなんたる大勘違い。
「いやー、あのときはあたしも驚いたわー。ちょっと変わった人だってのは知ってるつもりだったけど、まさかあそこまでとはねー」
「もう! 焦らさないでよ、右喜ちゃん。それで東谷さんはなんて言ったの?」
「それがね」
右喜はコホンと咳払いをすると、首をかしげて、父の表情と声色をつくった。
「『そりゃまあ、確かにあれはなかなかよくできた倅だが』」
「ん? よくできた倅? なんだか妙な感じだけど……。まあいいや、それでそれで?」
「『あんたもその若さで、何も中学生を養子に取るこたぁねえだろ』」
「………ハイ?」
ここで“なんちゃって上下衛門”は“右喜”に戻った。
「いやーー! もうどうしようかと思ったわね、あれには」
「中学生ってまさか……」
「お父さんは“息子さん”が央太のことだと思い込んでるし、剣ちゃんはまっ白になって化石化してるし。なに、ここあたし?!って。お気楽オブザーバーのつもりだったのにいきなり役振られたって困っちゃうわよ、まったく」
「えーーっ!!! 東谷さん、じゃあ央太くんのことだと思っちゃったの? 剣くんに『息子さんを僕にください』って言われて? なんでー?!」
「あたしが訊きたいわよー!」
いやいやいや。
二人には悪いがたぶん一番切実にそう訊きたかったのは自分だったはずだ。
剣心はさらに頭を抱えた。
思い出すだけでも反応に困る。
長い旅を終え、当初の予定より一週間遅れで帰国した剣心は、東谷家を訪れて古風な「ご挨拶」をした。左之助には「東谷さんにも一度きちんと話しておく」としか言っていなかったから、そんな切り出し方をしたことについては後で彼にも驚かれた(もとより左之助のことだから理解ある驚き――あるいはおもしろがっていたともいう――ではあったが)。しかしこれでも自分なりに悩みに悩んで悩み抜いて、考えに考えて考え抜いたすえのことだったのだ。友人、知人へのカミングアウトとはちがう。ましていみじくも右喜の言った通り昔気質の江戸っ子職人の上下衛門である。だが、だからこそ筋は通さねばなるまい。正直、歯の一本や二本は覚悟のうえで高い敷居をまたいだ東谷家への訪問だった。
あのとき右喜が仲裁――いや、正しくは通訳というべきか――に入ってくれていなかったら、一体なにをどうしていただろうか。
「でももうそうなったら仕方ないじゃない? あたし言ったわけ。『お父さん。あたし、そっちの息子さんじゃないと思うんだけど』って」
「ぶっ」
おいおい、笑い事じゃないよ時ちゃん。
「そしたらお父さんね、豚まんだと思ってかぶりついたらあんまんだった、みたいな顔になってね」
顔と声を器用に使い分ける一人芝居で右喜は説明を続けた。
『そっちじゃない? だがおめえ、そっちじゃねえっつったら後はアレしかいねえぞ?』
『うん。あたし多分お兄ちゃんのことだと思うんだ。だよね、剣ちゃん』
ギャラリーの時尾はいよいよ前傾姿勢になる。
「うんうん、それでそれで? そしたら?」
そうしたら?
そう、あれは人生二度目の最大の難所だった。奇なものを見るような上下衛門の凝視によく耐えたと我ながら思う。顔どころか頭部まるごと火を噴きそうに熱かった。くらくらと目眩がした。
「剣ちゃん可哀想に耳まで真っ赤になっちゃってね。でもそれでやっとお父さんもピンときたみたいで。『ああ』って顔になって」
「うんうん」
「でもその後がひどかったんだー」
「えー!なになにー!」
「……二人とも、もういいじゃないか、その話は」
「なに言ってんの。これからがいいとこなんじゃん」
「そうよそうよ。幸せはみんなで共有するものよ」
「う」
「でね、お父さんね、『あんたもものずきだな、剣心さん。男も女も他にいくらでもいるだろうに、一体全体またなんであれなんだ? あれのどこがいいんだ?』」
「ぶっ……!」
笑い事ではない。
おそらく異性のカップルであっても相手の家族に挨拶に行くというのは
結局剣心は一言もなく、その間に右喜と上下衛門のやりとりがしばらくつづいた。
「お父さん、それは訊くだけ野暮ってもんよ」
「う、そ、そうか?」
「そうよ。じゃあたとえばお父さんならどう? お母さんのどこがよかったのって訊かれたらどう言うの?」
「どこっておめえ、んなもん全部に決まってんだろうが」
至極当然の体でさらっと返されて、さすがの右喜もうっと詰まった。
その横で剣心が固まったのはその言いようと口調がどこかの誰かにあまりに似ていたからだったが、幸か不幸かすでに石になっていたおかげで狼狽を隠す苦労は必要なかった。
そして右喜の立ち直りは早い。
「あのね、お父さん。お父さんはそういうの平気かもしれないけど、普通はみんな恥ずかしいもんなの。わかる?」
「うむ。まあそうかもしれんが」
「かもじゃなくてそうなの。特に剣ちゃんとかはお父さん達とちがってデリケートなんだからね」
お父さん“達”?
なぜそこで“達”?
硬直しながら無言でひっかかった剣心だったが、敢えて口を出すのは墓穴だと本能が教えてくれた。
「う、そ、そうか。そりゃあ、すまねえ」
「そうそう。わかればいいのよ。で?」
「あ?」
「じゃあお父さんもオッケーだよね」
「何が」
「何がじゃないでしょ。剣ちゃんとお兄ちゃんのことよ。その話してるんでしょ、今」
「ああ、おう。そうだったそうだった」
「もうー。しっかりしてよね」
もう完全に漫才である。
「すまんすまん。いやまあそういうことなら俺ぁ別に構わねえが、しかし剣心さん、ほんとにあれでいいのか? 後悔しねえか?」
「お父さん、人の話きいてる?」
「バーロー。おめえ、大事なことじゃねえか。他はともかく、そこははっきりさせとかねえと」
左之助が家出をしたのは高校二年のときに父親と口論になったのが直接的なきっかけだったというが、なるほど、これだけ似ていれば反発もしようというものだ。だが反発せずにいられないほどに強く似た気性の潔さは、もとよりこの父から受け継いだものであったろう。
彼らの優しさは厳しい優しさだ。最後は自分で決めろと左之助も言った。その厳しさを剣心は好ましいと思う。学びたいとも思う。
「後悔は、しません」
剣心は顔を上げて、まっすぐ目を見て、一語一語を噛みしめるように言った。
「必ず彼を、幸せにします」
鋭い眼光がやさしく和らぎ、穏やかな笑みが上下衛門の顔に広がる。
いつもの剣心なら決して言えなかったであろう「必ずします」という言葉にこめた覚悟を、上下衛門は正確に受け取ってくれたにちがいない。
「そう気負いなさんな。あいつは大丈夫だ。あんたがいりゃ。だからあんたは自分のことを考えてりゃいい」
「………」
「剣心さん」
「……はい」
「あんたのことも、本当の息子のように思ってた」
「………」
「うちで一番心配な子だった。危なっかしくて、目がはなせなくてよ。どうにかしてやりてえたあ思うが、大してしてやれることもねえ。なんとかしてやれりゃいいのにって、ずっと思ってたさ」
「………」
「幸せんなれよ」
「……はい」
ありがとうございます、と息を絞って、頭を下げた。
「うちのドラどもはどいつもこいつも俺に似てハチャメチャだが、俺に似て目は高え。おかげで俺も鼻が高えや。よおし、右喜、祝宴だ。宴会だ。みんなに声かけて、段取りつけろ」
「ヤッホー! お父さん最高! 超いかす! オッケー、後は任して。パーッとやるわよー」
そうして開かれたのが、今日のこの仮装パーティーなのである。
右喜が音頭を取り、親しい顔ぶれを招いて、ジャンの店を一夜借り切った。
十二月初旬、街中が駆け足で年末へ向かい始める時期だが、まだ本格的な暮れではない。左之助はこの日に合わせて一時帰国することにした。ポナペで一緒だった小国姉妹も京都観光がてら東京から駆けつけてくれた。斎藤夫妻の友人も幾人かは遠方から来ている。
「へええー。すごい、すごいわあ。やっぱり右喜ちゃんちの人達ってすごいね。いいね」
時尾はそう言ってしみじみと頷いた。
それにつれてヘッドドレスのベールが揺れて、剣心を黙らせた。
上下衛門の鶴の一声とはいえ、華やかな場を固辞する剣心を口説き落とした右喜の殺し文句が
「じゃあ時尾さんたちの結婚十周年も一緒にしようよ。あたし時尾さんのドレス作るよ。ウエディングドレス。一緒にみんなでお祝いしてあげようよ。ね、どう? よくない?」
まったく兄妹そろって実によく剣心の弱点を心得ている。家の反対を押し切って駆け落ちした時尾はウエディングドレスというものを着ていない。写真だけでも撮っておけばよかったと冗談まじりに口にしたのを剣心は何度か聞いているし、笑いに紛らわせてはいても本心から笑っていないことも知っていた。
そんなわけで右喜が腕を振るった今日のドレスはさすがの出来映えで、すらりと背の高い時尾を美しく上品に華やがせていた。
長く垂らされた白いベールを傾けて時尾が言った。
「ねえ。そういえば右喜ちゃんはいつから知ってたの? 剣くんと左之っちのこと」
「んっとねー。剣ちゃんがうちの仕事いっぺん辞めて、そんで戻ってきてしばらくの頃かな。梅雨なのに台風が来てた」
右喜の返答に剣心は仰天した。ほとんど最初からではないか。
さすがに時尾も驚いたらしい。
「あらまあ。じゃあ私が再会したより早かったんだ」
「え、そうなの?」
「うん。私、夏だったもん。あ、そうだ、八月だ。ちょうど夏休み最後の週末ツアー帰ってきた時だったから」
「へえー」
「ねえ、剣くん。そういえばあなた達っていつから付き合ってたの?」
「うんうん、そうだそうだ。いついつ? そんでどっちから告白したの?」
「………」
「「ねえねえ」」
「………」
「「ねえってばー」」
沈黙の反抗を試みはしたが、一人でも手強い敵が二人がかりになっての共同戦線では、剣心に勝ち目は
「じゃあ剣くん、左之っちに訊く? それでいーい?」
う。
よくない。
それは困る。
剣心は重い口を小さく開いた
「……は、春くらい?」
「剣ちゃんが一度うちの仕事辞めた後? それとも前?」
「……後…かな」
「あ、やっぱりねー」
とは右喜である。
しかしどうしてそんなにすぐにわかったのだろう。言動には充分注意していたはずだ。やはり左之助の挙動が不注意だったせいだろうか。
「今『なんでバレてたんだろ』って思った?」
思った。だがだからなぜわかる?
右喜は悪戯っぽく笑って時尾に言った。
「時尾さんもすぐわかったって言ってたよね」
「まあ私はお店で会ったからね。わかりやすかったわよ?」
それもよくわからないが、今は右喜だ。
目を向けると、右喜は満面の笑みでおそろしいことを言った。
「あのね、剣ちゃん。大きく分けて三つあってね。ラブラブハッピーシーズンとね。冷戦時代と、あとツンツンサボテンモードね。基本的に、大体このどれかだったわけ。後はまれにセンチメンタルジャーニーで、今は新婚さんいらっしゃーい」
「ぶっ……!!」
「………」
もちろんのことだが噴き出したのが時尾で憮然と沈黙しているのが剣心だ。
何を言っているのかわからないが、何が言いたいのかは残念ながら嫌になるほどわかってしまった。
「やだー! 剣くんてばお店だけじゃなくて仕事先でも一緒だったんだ。そりゃバレるわー」
「うん。すっごくわかりやすかった。最初あたし剣ちゃん別に隠す気ないんだって普通に思ってたもん。お兄ちゃんは全然わかんなかったけどね、最初は」
これには剣心が口を挟んだ。
そんなはずはない。左之助こそどれだけ言っても不用意であからさまな言動をやめず、剣心をひやひやさせていたのだ。自分が筒抜けであれがそうでないわけがないのに。
「うううん。お兄ちゃんは完璧ポーカーフェイスだったよ。全然そういうの見せなかったもん。でも途中から、なんだろ、開き直ったみたいな感じ? それで最後の方はもうだだ漏れだったけど」
そんな馬鹿な。
援護を時尾に求めた剣心だったが、彼女も友軍ではなかった。
「わかるわかる。多分あれじゃない? 左之っちも諦めたんじゃない? 剣くんがこれだけバレバレなら自分ひとり頑張ったってって」
「あー、そうかも。まさにそんな感じ。ていうかだから信じられなかったわけよ、うちのお父さんが本気で気づいてなかったっていうのが。央太だって知ってたのに」
「えっ!」
剣心が飛び上がって驚いた。
「知ってたわよ。あたし言われたもん。お姉ちゃん、お兄ちゃんに負けたねって」
「あらま。右喜ちゃん、もしかして剣くんのこと?」
「うううん。そういうわけじゃないんだけど。むしろ一般的な図式としてね」
「ああ。家政夫さんとそこん
「そうそう。紅一点なのにって」
「あはは、言えてる。納得」
いやいやいや。納得などできない。到底できない。
半ば放心状態で座る剣心の前で時尾が手を振った。
「剣くーん。大丈夫ー? 生きてるー? 元気ー?」
どうだろうか。
少々おぼつかない気がする。あまり自信はない。
「あーあ。そんなにショッキングだったんだー。ごめんね、剣ちゃん。そこまで自覚ナッシングだったとは思わなかった」
右喜の声がどこか遠くで聞こえる気がした。
首をめぐらすと、賑やかなパーティーの様相が、窓の向こうのお芝居のようだ。
みんなといっても身内と親しい友人だけの小さな集まりではあるのだが(ポナペで一緒だった新井夫妻も来てくれている)、濃い面々がそれぞれ趣向を凝らした仮装をしているので、全体的にかなり派手で、しかも濃い。なかでも目立つのが、本日の主役のひとり、斎藤一だった。時尾がウエディングドレスなのだから普通ならタキシードかスーツであろうになぜか新選組の扮装をしているのは、これは時尾のたってのリクエストのためである。
「だって絶対それが一番似合うと思うの。ね、お願い、右喜ちゃん」
さしもの右喜も解しかねたが、いざ装ってみればはまるもはまる、決まりすぎて怖いと周囲もドン退きの隊士振りで、貴重な衣裳を貸してくれた餅屋の主人さえ驚いた。というのも、右喜の夫ジャンが懇意にしている壬生の餅屋がこの日快く提供してくれた新選組隊士の装束一式は、祖父の代から家にあるもの――つまりは“本物”――だったのだ。幕末の京を天下した隊士のだれかが本当に身につけ手に持ち振るっていたものだと思えば、羽織のしみも
「時尾さん、さすが。女房の
鑑かどうかは置くとしても、とまれ時尾の慧眼であった。