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2009/3/15

<38>

 くたくたになるまで愛し合った後の穏やかなひとときは、剣心がもっとも素直になれるときでもある。熱のひいていく満ち足りた心地よさに身を委ねながら、無二のパートナーを目だけで見上げて、こう訊ねた。
「もしだが。俺の返事がノーだったら、お前、どうするつもりだったんだ?」
 左之助は少し考えた。
 指先は無意識のように巻きつけた長い髪の先を弄んでいる。
「んー。どうかな……。実はなんも考えてなかった。かも」
 その返事を、剣心は誤解した。
「なんだ。余裕じゃないか。話が違うぞ?」
「いや、そうじゃなくてよ。変に考えたりとか、しねえようにしてたっつうか」
「え?」
「今回は絶対待つって、それだけは決めてたから。オレ割とあんまり待つとかできねえじゃん? なんでも。店で飯出てくんの遅いだけでイラッとくるし」
「うむ」
「お前のことにしても、大概オレが先走ってチカラワザっつうかハチャメチャっつうか。とりあえず待ったことねえじゃん?」
 過去のありえない出来事の数々が思い出されて、思わず力強く頷いた剣心である。
 それにしても本人にその自覚があったとは意外だった。
「だから今度だけは絶対待とうって。どんだけ時間かかっても、一年が二年になっても、お前が納得するまで絶対待とうって」
 それを聞くと剣心は肩に額を当てて黙り込み、しばらくしてから赤銅色の胸板を軽くはじいた。
「お前も大人になったじゃないか」

 しかしその翌日、ちょうど二十四時間後――。

 剣心は前言を撤回して、憤慨していた。
「ない! ないない! ありえない! お前やっぱり正真正銘ありえない。ていうかやることに進歩がない、進歩が! 見直して損した」
 真っ赤な頬がミナミハコフグの幼魚のように可愛くふくらんでいる。
 一方左之助は大変にご機嫌な様子で、「へえー。さすが一流ホテルは違う」などと感心しながら、天蓋つきの大きなベッドを埋め尽くす南国の花々の一輪を手に取った。部屋の探検はひと通り済んでいる。クローゼットやキャビネットも開けてみたし、トイレも洗面室ものぞいたし、外のバスルームも見てきた。文句なし。さすがのホスピタリティである。
「へえーえ」
「へえじゃない! 帰りのフライト代、お前が出せよ」
「あー、はいはい。よろこんでー」
 プンプンの剣心とは対照的なルンルンの左之助が、花のベッドに剣心を手招く。剣心は苦い顔をする。
「まったく。反省してないだろう、お前は」
「うん、してねえ。つうかだってあれは無理じゃん? 普通に。あんなことしたお前が悪い」
 うっと言葉に詰まって、剣心は固まった。

 本当なら今頃は飛行機に乗って帰国の途についていたはずだった。
 それがどうして二人でこんなところにいるのか。
 こんなところ――つまりポナペ随一のナチュラルリゾート『ザ・ヴィレッジ』のスウィートヴィラのベッドルームに、である。

 話は一時間前のポンペイ(ポナペ)国際空港に遡る。
「じゃあな。そろそろ行く」
「日本着いたら電話しろよ」
「あ、そうだ左之。帰ったら、部屋のボード」
「ボード?」
「カジキの写真の下。いいもの置いてきた。やる」
「なに?」
「見て血迷うなよ」
「えー、なになに」
「すずめちゃんは組違いだ。悪いけど」
「すずめちゃん?」
「ま、いいから。じゃあもうほんとに行く」
「電話な、電話。あとそうだ、ケータイすぐ買えよ」
「携帯? なんで?」
「メールできるじゃん。いつでも」
「……まあじゃあ、家決まって落ち着いたら」
「いやいや。すぐ買え。即、買え。そんで買ったらまずオレにメール。または電話。いいな。番号とメアド分かるな?」
「あー、多分」
「多分てなんだ。待て。今書くから」
「いいって。分からんかったら右喜ちゃんにでも訊くから」
「待て待て。すぐだ。すぐ書くから、持ってけ」
「なんだよ。またすぐ会えるだろう? ていうかお前そんなキャラだったか?」
「お前のせいだろうが。あれもこれもそれも全部」
「なんだよそれ」
「オレを不安にさせんのも幸せにできんのもお前だけだってこと。わかってんだろ? ん?」
 言葉のわからない異国で便利を感じる稀な例がこんなときだ。
 しかも場所は空港である。
 出会いと別れが交錯する非日常の空間である。
 剣心は周囲を見回した。
 出発時刻目前の今、ゲート周辺にいる人たちの惜別は情熱的だ。恋人。夫婦。親子。友人。他人の様子にかまっていられるような有閑人といえば、搭乗ゲート前のこちらではなく、到着ゲート側(すぐ隣ではあったが)の玄関あたりであわよくば小銭でも稼ごうと荷物運びのニーズを待っている子どもばかりである。
 剣心が耳を貸せというように指先で左之助を呼んだ。
 左之助が軽く身を屈める。
 つと爪先立った剣心は、首をかしげるように近寄ってきた左之助の頬に愛らしい音を立ててキスした。
 驚いたのは左之助だ。
 ぷっつんタガの外れたときならいざ知らず、平生の剣心は公共の場での倫理やら公衆道徳やらには相当口やかましい。とくにこの手の親愛表現は最も苦手なはずだ。たとえ頬に軽くとはいえ、こんなところで自分からキスしてくるとは、これは一体何がどうしたことか? 空港の空気に感化されたか。それとも、誰の目にも一目瞭然のラブラブ光線をこれだけ大盤振る舞いしていれば、多少の言動などセーブしてもしなくても変わりはないということにようやく気づいたか?
 目を丸くする左之助はまだ剣心というものを理解していない。
 なにごとにも極端な性分だけに、悩みん坊も天下一なら、開き直りも天下一。肚を(くく)るとなったらとことん括る。それがこの人である。すっと身を寄せ、見上げる瞳を潤ませて、完爾として言った。
「いい子で待ってろのキス。すぐ戻ってくるから。そんな顔しないで、いい子で待ってろ。な?」
 だが剣心はもっとわかっていなかった。
 剣心にすればそれは左之助を元気づけるためのつもりだったろうが、極上の笑みと共に甘く囁かれたそんな殺し文句が左之助の理性を吹っ飛ばさないわけがない。
 そんなわけで、“いい子で待ってろのキス”は“今夜は帰さないのキス”の返り討ちにあい、飛行機に乗ってグアム経由で日本に向かうはずだった剣心と剣心の荷物は、たがの外れた恋人とご機嫌なチップで雇われた少年の手で車に乗せられ、海を望むこの山中のリゾート『ザ・ヴィレッジ』に運び込まれてしまったのだった。

 剣心の白い指がベッドを埋める花びらの一枚をつまみ上げた。
「ああもう、まったく。明日の朝どんな顔して出ていけばよいやら」
「え、なんで」
 目をしばたたく左之助は本気で不思議に思っているらしい。深い溜息が剣心の口を突く。
 昨日まで満室だったこのリゾートがちょうど今夜から空室をもっていたことは偶然の幸いだったし、それがスイートヴィラだったのもたまたまだったが、ベッド一面に南国の花がまかれているのは、これは偶然でもたまたまでも標準仕様でもない。車中から電話をした左之助が「ハネムーンで何泊か」と伝えたからである。
 しかもだ。それだけならまだしも、チェックインの仕方が仕方である。かなり目立ったはずだ。いや、正確にいうなら、きっとかなり目立ったであろうと想像される――だ。
 空港で当て身を入れられて不覚にも意識を失っていた剣心は、幸か不幸か現場を知らない。普段なら易々と落とされはしないところだが、連綿と続いた手加減なしのキスで半ば朦朧としていたところだったから脆かった。抱き上げられて足が地面を離れたところまではなんとなく記憶もあるが、車に乗せられたのも降ろされたのも知らない。気がつくと、よく手入れされた森の中のパッセージを左之助に抱かれて運ばれていた。思わず上げそうになった怒声をぐっと呑み込んだのは、少し離れて先導するポーターの存在に危うく気づいたからだ。慌てて寝たふりをした。そうでもしないと気恥ずかしくて火を噴きそうだった。
 周囲は深い夜で、森の匂いは濃く、生き物の音に満ちていた。落ち葉を踏み固めた獣道のような小径を進む二人の足音と左之助の鼓動が規則正しく続いていた。
 今夜帰るはずだったのに。来たときと同じように、そしてこの一年ずっとそうしていたように、ひとりで飛行機に乗って、長いトランジットをやり過ごして。海も森もビーチもなく左之助もいないところに帰るはずだったのに。
 状況がうまくつかめず夢見心地で寝たふりをしているうちに、本当に寝てしまっていた。
――……りました。どうぞごゆっくりなさってください。それではおやすみなさい。グッナイ(よい夜を)。
 話し声にハッと目を覚ましたときにはもう部屋の中で、ちょうどドアが閉まろうとしているところだった。

 これだけ行き届いたリゾートのスタッフである。
 深夜突然のハネムーナーであろうが、それが男同士のカップルであろうが、結婚式のバージンロードさながらのお姫様抱っこでの登場であろうが、そしてまたその片方が顔見知りの在住日本人であろうが、誰も何も見なかったかのようにスマートに接するのはプロフェッショナルとして当然だ。
 だがそういう問題ではない。
「いーじゃん。誰も気にしてねえって」
 勿論そういう問題でもない。
「呼ぶまで掃除もいいって言っといたし」
 もっとちがう。
 剣心は、この夜何度目かの溜息をついて、ほのかに甘く香る花を口許に引き寄せた。
 みずみずしい生花の香りが心地好い。ベルベットのように柔らかな花弁に唇で触れると、夜風にあてられてか、しっとりとやや冷たく感じられた。
「おーい。花にするチュウがあるならオレにしろー」
 手を引かれて苦笑しながらベッドに倒れ込む。
 まさか本気で花を相手に競り合っているわけでもあるまいが、取った手をまるで(うやうや)しいように掌中に包んでそっと口づける、そんな仕草を見ていると、どこまで本気かどうかもどうでもよくなりそうで、参った。
「それによー。予定通りじゃ面白くねえじゃん? つうか旅行の醍醐味はやっぱハプニングじゃん?」
「……とくに俺たちの旅行では?」
「ん。そゆこと」
――たしかにそうかも。
 言われてみれば、さっきから、なにやらうずうずわくわくする笑いの衝動がこみ上げている。早く出してくれとそわそわしながら扉を叩いている。
――そうだな。わらくる、わらくる。
 胸のうちで呟いて、この降ってわいた運命のプレゼントを思う存分楽しもうと心を決めた。

 貴重なプチハネムーンを満喫した剣心が、同じ深夜便でやってきた四人のゲストと入れ替わりに機上の人となって日本に帰っていったのは、そのちょうど一週間後のことだった。


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わらくる<38> 2009/3/15





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