「正直この一年、気が気じゃなかったんだよな、オレ」
「なにが」
「いやだからそーゆー疑惑があったわけだからさ。旅先で浮気とか。してねえかなーって」
「………」
「だってお前、日本にいた頃なんかひどかったじゃん? 一週間も我慢できねえでさ。大変だったじゃん?」
これはやはり一度はっきりさせておいた方がいいかもしれない。
寂しい思いをさせてきたという負い目は大いに感じているが、それはそれ、これはこれ。
誤解と勘違いと行き違いはお互いさまだ。
「つーかほら、旅行中なんてただでも誘惑多いしさ。んなもん、お前が一年も禁欲なんかできるわけねえって、すっげえ思ってさ」
「………」
疑惑に誘惑?
ひどかった?
大変だった?
挙げ句に浮気だと?
なんたる言いぐさ。
過去の諸事を知る諸姉諸嬢に問いたい。
「左之助が」ではなく、「自分が」そんな物理的欲求に強く先導されていたなどと、そんな風に思い込むことは如何にすれば可能だったのか?
あれやこれやと熱心に新しい試みを導入しまくったのは誰か? セックスにはドラマが必要だとかなんとかわけのわからない主張を押し立てて、次から次へと変な遊びやマニアックなテーマや徹底的な実践を追求したのはどこの誰か?
おそらく世間一万人の九千九百九十九人までが自分に賛同するだろう。ひとり左之助だけがそんな結論にいたった理由がわからない。
もし事情を知る人間がそれを聞いたなら、だが結局それに付き合いよく協力していたのはお前ではないか、受け身で協力するばかりではなかったのも事実ではないか、と指摘したかもしれないが、しかし当のご本人はいたって真面目に、真剣に、そして深刻に、呆然としていた。
「どっかで誰かに声とか掛けられてさ。血迷ってフラフラーってついてって、酷いことされて、ボロボロになって、ひょっとして売っぱらわれたり、薬とか打たれてどっかに監禁されたりとかしてたらどうしようって」
妄想もそこまでいけば才能ではなかろうか。
黙って頭を抱えていた剣心だったが、ふとあることに思い当たって顔を上げた。
「もしかしてそれでか?」
「あん?」
「ピザハウスでいきなりキレたろ。こないだ。あれ、それで?」
「いっぱいいた? あーゆーの」
まったく。
人の気も知らないでとはこのことだ。
「それをいうならお前こそどうなんだ。浮気とか、つまみ食いとか、したい放題だったろうが」
「オレはしねえよ」
「どうだか」
「しねえって」
「昔は相当だったらしいじゃないか。時ちゃんから聞いてるぞ?」
「あ、なに。妬いてんの」
「パートナーたる正当の権利として糾問している」
左之助はぷっと笑って嬉しそうに耳元に顔を寄せた。
「しねーよ。だってオレもうお前じゃねえと勃たねえもん」
春風の爽やかさでそんなことをぬけぬけと囁かれて、腰が抜けそうになった。
まったくこの馬鹿ときたら。
思わず黙り込んだ剣心に左之助が迫る。
「なあ。お前は?」
「なにが」
「もうオレ専門?」
「知らんっ」
「旅行中にさ、オレのこと思い出してムラムラしたりとか、した?」
「するか馬鹿!」
「そんで自分でしたりとか?」
「左之っ」
「ふーん」
色気したたる顔ですくい上げるように見つめる左之助はもうすっかりいつものいじめっ子である。なんだかんだ言って、結局助平と意地悪はただの先天的属性に相違あるまい。
そう反論しようとした矢先だった。
左之助の口から思いがけない名前が飛び出した。
「とか言っちゃって。実はリッチーのあれも持ってってたりして? ん?」
「リッチー……?」
リッチーのあれ?
なぜここでリッチー?
ぽかんとする剣心の目に、左之助の「あ」という表情が映る。翻訳は「しまった」。つまり今のは、失言だ。
――ケン。これやるよ。
フォーユー。
心優しく手先の器用なリッチー。ココナツの皮とダイビングナイフでマンタをつくり、木っ端が数分で精巧なハンマーヘッドになった。以前は本格的な木彫を生業にしていたという。
そしてここでもうひとつのアプローチ。
何度も繰り返したようなこういう文脈で左之助が最後に必ず言い出すことといったら?
正しい質問はおのずと正解を導く。
――ちゃんとお湯入れて使えよ?
「………」
――もっと堅い木といいナイフがあったらスゴイのができるぜ。ケンは知ってると思うけど。
――向こうのスタッフに器用なヤツがいてさ。わざわざ作ってくれたんだよな。
――ケンは知ってると思うけど。
ぴたりと符号が合った。
「左之助―!!」
「うわっ、わ、わ、わわーっ! え、危ねえっておいよせって。つうかそこやべえって。木が腐ってっからって……あーっ!」
すごい音がして、床が抜けた。
「剣心!」
数ある客室の中で左之助がこの棟を使っている理由のひとつ。老朽化したウッドデッキの一部が傷んでいて危険。着いた日の夜、まっ先に左之助がした忠告のひとつだった。
「あーあ、もう。だから言わんこっちゃない。最初に言っただろ。腐ってっから気ぃつけろって。まったくもう。どうしてお前はそう見境ナシ子なんだ? ん?」
「………ツンツン突つくな! 手を貸せ!」
「『助けてダーリン!ああ〜ん(ハート)』って可愛く言えたら助けてやる」
「………」
「げっ…! ちょ、ウソだろおい、やめんかバカ!」
何をどうすれば半分嵌ったままでメリメリと床板を引き剥がせるのかと左之助は目を剥いた。
「バッ……これ以上壊すなー!」
しかしこれが止まろうはずがない。分別を忘れ見境のなくなったこの小動物ほど凶悪な存在はそうないのだ。とはいえそこが割れ鍋に綴じ蓋。派手な喧嘩は息の合った二人の乱暴なスキンシップのスタンダードのひとつだ。組んずほぐれつしてじゃれ合う場所がデッキからベッドに移り、狂暴な破壊魔がスウィートな小悪魔に変わっていくのは、おそらく時間の問題なのである。