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2009/1/15

<36>

 夜の海は不思議だ。
 日によって顔が変わる。
 ミステリアスだったり、威圧的だったり、さわやかだったり、物悲しかったりする。
 今日はやさしいと剣心は思った。
 月は青く、ビーチにはいい風が吹いている。
 だが残念なことに、こうしてデッキで夜の海を見るのも今日で最後だ。
 明日は深夜の飛行機で出発だからこうはくつろげまい。
 蚊取線香を替えに行っていた左之助が戻ってきた。
 ついでに新しいビールを手にしている。
「ほいよ」
「サンキュ」
 コロナビールだ。少しぬるいが、ちゃんとライムが差してある。そう、コロナにはライム。基本だ。悪くない。
 きゅっと押し込んで瓶をあおった。
「ふうー」
 ここちよい吐息。これ以上なにを望むべくもない。
 目を閉じて、大きく夜気を吸う。

 しかし悲しいかな静かな夜の風情を楽しめたのはそこまでだった。
 左之助が驚くべき打ち明け話を始めたからだ。

「実際、今だから言えるけどよー」
 左之助には珍しい妙にしみじみとした声音が剣心を瞑想から連れ戻した。
「正直カラダ目当てなんじゃねえのって、オレ実は思ってたんだよな」
「………む?」
「そんなことねえって思ったり、絶対そうだって思ったり。そんですっげー虚しくなったり、もうそんならそれでもいいやってどうでもよくなったり。結構マジに悩んだんだぜ、こう見えて。自分でもガラじゃねーって笑っちまうけど」
 自嘲気味に苦笑する左之助はいかにも完全に過ぎた過去を振り返る面持ちだが、しかし剣心にはとんとわからない。さも共通の思い出のように懐古されても、あいにく思い当たる節がまったくない。
 一体全体なんの話だ?
 というか、誰が・・
 からだ?
 肉体?
 つまりそれは、えーと?
 ………………はい?
 ひどく驚くと人は飛び上がったり奇声を発したり目が点になったり顎が外れたりするが、どうやらさらにさらに深く本質的な驚きに遭遇すると、思考が一時停止すると同時に身体も機能停止に陥るらしい。
 む?と顔を向けたまま静止画像のようにフリーズして動けなくなった剣心にやっとまばたきという動作が戻ってくるまでに、いったいどれだけの夜風が通り過ぎていっただろう。
 沈黙の驚愕とさらに続く凝視と沈黙が左之助を饒舌にした。
「えー。いや、だってよー。最初が最初だったじゃんかよー。オレそれですっげー不安でさー。でもまあきっかけはどうでも、こっからホントに好きにさせたらいいんだって最初は思ってて、でもやっぱよー……」
 思いがけない告白はそんな調子で続いていたが、もう剣心には聞こえていなかった。
 しばらく呆然としていた剣心が長い旅を終えて本当の意味で戻ってきたのは、波が何往復も浜を洗った後だ。
「……訊くが左之」
「ん?」
「よもやまさかとは思うが」
「おう?」
「からだ目当てというのは……。それはもしや……誰の話・・・だ?」
「怒んなよ。いやだからそんなんじゃなかったって今はわかってるって。ただ最初がああだったからずっと誤解してたって話で」
「怒っているわけではないが…………最初?」
 最初とは? 出会いのことか? あるいはなれそめ? それともなにか? そういう意味での“最初”のことか? だが「最初がああ」とは?
 だめだ。やっぱり皆目わからない。
「なあ剣心。この際だから訊いていいか?」
 かまわん。この際訊いてくれ。なんでも訊いてくれ。というか、むしろ訊いてくれ。何をどう訊ねればいいのか、質問が思いつかないから。
「初めてエッチした日のことって覚えてっか?」
 やはりその“最初”かと思いつつ、剣心は目で先を促した。
 そんなことを忘れる人間がどこにあるのかという無言の批難をこめてみたつもりだったが、さて通じたかどうかは望み薄だ。
「あんときさ。お前オレに部屋寄ってけって言ったじゃん? あれって、どういうつもりだった?」
 言った。
 たしかに言った。
 それまでの数回と同様マンションの前に剣心を降ろしてそのまま帰ろうとした左之助を、コーヒーでも飲んでいけと言って引き留めたのは剣心だった。
 だが、どういうつもりと言われても。
 そんなことを訊かれても、困る。
 困りながらも、とりあえずうなずいてみた。
「……うん」
「いやいや。“うん”は違うだろ?」
 もっともだ。
 「どういうつもりか」への返答に「うん」はおかしい。
 剣心は考えた。

 剣心が東谷家に家政夫として勤めはじめたのは、街にクリスマスソングが流れる十二月初旬のことだった。
 ご長男である左之助くんの第一印象はよろしくなかった。もっともそれはお互いさまで、当然の結果として相性もよろしくなかった。お互い相手のすることなすこといちいちが気に障る。まったく気まずい。はっきり言って、ほぼ最悪だったといっていい。冷戦状態は年明け後しばらくまで続いて、突然に和解した。ダイビングという共通言語が仲裁者だった。それがなければ不協和音のまま終わっていたかもしれない。だが、ふとした折にそれが知れ、それをきかっけに、思っていたほど嫌味な奴でも、またちゃらんぽらんな若造でもないと、互いを見直すことになった。二人はやがて一緒に潜りに行くようになる。
 剣心が左之助の視線に不可思議な熱を感じはじめたのはいつ頃だったろう。そしてその熱の源が一般の興味や好意とは部類を異にしていることに気づいたのはいつだったろう。何がきっかけだったろう。それはもっと強烈な衝動だった。恋と呼ばれる欲望だと理解するのに時間はかからなかった。恋する男の情熱といえば聞こえはいいが、要するに欲情するオスの征服欲と交配欲だ。いくら恋愛事に鈍感な剣心とはいえ、そんな眼差しをあからさまに向けられて何とも感じないわけがない。視線や言動に敏感に反応するようになっていったのは、当然といえば当然の次第だった。
 早く離れた方がいい。
 そう思いながらも五月の声を聞くまで結論を伸ばし伸ばしにしていた剣心を踏ん切らせたのは、左之助の勤務先が剣心の養父の経営する店だったという思いがけない事実だった。左之助には何も言わないままで仕事を辞め、姿を消し、それですべて終わったと、そう思おうとした。
 皮肉なものだ。
 そうやって離れたことで、気づいてしまった。
 いつのまにか、もうそれでは終わりにできないほど惹かれていた。
 本当に逃げてしまいたかったのか、本当は追いかけてきてほしいと卑怯にも希んでいたのか。自分でもわからなかった。ただ、まったく思いがけないかたちで再会したことと、その瞬間、何を考える間もなく身体が逃げ出していたことに、偽りはない。
 それから、衝動に負けて海に行った。うっかりキスまでしてしまった。
 何がしたかったのか、どうするつもりだったのか、そんなことがわかるはずがない。どうしようもなかった。なぜもどうしてもない。どうなるとか、どうするとか、そんなことは頭になかった。ただ離れがたかった。もう少しでいいから一緒にいたかった。気がつくと左之助を引き留めていた。ハッとしたのは、コーヒーを手に卓を挟んで向かい合った瞬間だ。
 これってもしや。
 このシチュエーションはもしや。
 この状況で部屋に上げるということはもしやつまり。
 緊張と沈黙に心臓がわしづかまれて、じわじわと締め上げられた。じっと座っていられなくなって立ち上がってみると、膝が笑っていて、手の震えも止まらない。大体もうそのあたりでパニックは頂点に達していたわけだ。後はぐるぐるのぐらぐらのわやくちゃで、多少なりとも冷静な思考を取り戻したのが行為の完了した後になってからだったのは、もはや自然の摂理といっていい。

 どういうつもりだったのかと言われても。

「……うーん」

 としか言いようがないではないか。
 何をどう答えろというのか。
 叱られた子どものようにうつむきつづける剣心に、左之助がやわらかい声をかけた。
「考えてなかった?」
 剣心は顔を上げた。
 左之助の口許には小さな笑みが浮かんでいる。
「どういうつもりもへったくれもなかった?」
 剣心はうなずいた。
「だよなあ。そうだよなー」
 破顔した左之助は乱暴に頭を掻いて、「やっぱりな」と屋根を仰いだ。
「そうだよなー。ありゃどう考えてもそうだったよなー、今にして思えば。テンパったお前のすることに理由なんかねえよなあ。あーあ。ったくよー」
 「ま、それも今だからわかるってことかー」と嘆息する左之助を、剣心は面喰らって見つめる。
「あれでオレ、こんがらかったんだー」
「こんがらかった?」
「んー……」
 遠くを見るように目を細めて、左之助は頭の後ろに腕を組んだ。
「お前さ、あんときウチの仕事、絶対戻らねーっつったじゃん?」
 言った。戻らないつもりだったからだ。
「そんでよ。オレんことも、別に付き合うつもりとかなくて、もうこれきり、みたいに言い張ったよな」
 ………。
「結構ガンコだった」
 しかし左之助の反撃は正しく急所を突いていた。「それなら自分も『海屋』を辞める」と言い出して、剣心が必死につくり出した苦し紛れの逃げ道を一瞬でぶっつぶしてくれた。
「あんときはオレもパツパツだったしさ。もうとにかく嬉しくて嬉しくてって感じだったんだけど、なんかの時にふって思ったんだよな。“ちょっと待てよ?”って」
 剣心は黙って続きを待つ。
「つまり、あんときオレがゴリ押ししてなけりゃ、お前はオレと別れて……つうか付き合ったりとかもしなかったわけじゃん? そんまま仕事も辞めて、そんでそのままハイサヨナラ。だったわけじゃん? “じゃあ、なんで誘った?”」
 ………。
「で、思ったわけよ。“んだよコイツ、一発やっときたかっただけかよ!”」
「……!!!」
 脱力した剣心の身体がずるずると椅子からずり落ちた。
「しかもお前、すっげーはまったじゃん? “セックスなんか別に興味ないしー”みたいな顔しといてさ。すっっっごかったじゃん? 喧嘩してても、イヤイヤ言ってても、やりだしたら超エロだし、ガックガクだし、すんげーことんなるし。まあ正直オレも始めはそれはそれで悪い気はしなかったけどさ。でもお前あんまりぶっとぶじゃん? なんだかんだ続いてんのも結局それかよっていうかそれだけかよって。つうかもしかして誰でもオッケーなんじゃねーのって。思っちまったからそりゃお前」
 話しながら左之助はずり落ちたまま動けない剣心を持ち上げて椅子に置き直した。
「そりゃまあアレだ。そんなことねえって思うこともあったわけだ。つうかむしろ時々“もしかしてそうだったらどうしよう”って不安になった程度のもんっちゃもんだったわけだけどよ。でもそのたんびに結構がっつりへこんでさ、これが。そんでやけくそになって、それならもうそれでいい、要するにオレなしでいられねえようにしてやりゃいいんだろとかも思って。お前いじめられんの好きだし、わざとSMしたりとかさ。でもそれでお前がめちゃめちゃ燃えると、それはそれでまたドツボった。やっぱりかよって。つうかなに、オレただの勘違い?」
 短い笑いが消えた後にぼそりと呟かれた言葉に剣心は顔を上げた。
「でも結構ボロボロだった時も、あったかなー……」
 左之助は遠い目を海に投げている。懐かしむ微笑が口許に浮かんでいる。
 その静かな横顔を見た途端、咽喉を飛び出しかけていた山のような反論と反撃と反証と糾弾の抗議は、砂に水のはけるようにすうーっと消えてしまった。
 ようやく完成したと思っていたパズルが音を立てて崩れる。再度組み上がったときには、それは全く違う絵柄を見せている。同じピース。何度も見たピース。だが、向きが変わり、違うパーツとつながり、組み合わさって、見たこともない絵柄になっている。浮かび上がってきたもうひとつの物語が剣心に与えた衝撃をどういえばよかったろう。
 ものごとを整然と鳥瞰する三島栄一郎の目には見えていたのだろうか。ありえないほどに柔らかく言い換える婉曲表現で問題の本質を冷静に指摘する青空(せいくう)には見えていたのだろうか。意志と笑顔ですべてを陽転させる小国姉妹にも?
 みんなの手が背中を押してくれた。がんばれ、ほら、と、やさしく力強く励ましてくれた。日本にいる懐かしい人たちの顔を思い浮かべる。一体なにを恐れていたのだろう。
「左之」
「んー?」
「俺たちはもっと互いを理解する必要がありそうだが、なんにせよお前でよかった」
 今度は左之助が沈黙する番だった。
「お前が彼氏でよかった。だって親友でライバルで彼氏って。こんなのなかなかないだろ?」
 左之助は少し考えて、それから夏空のような笑顔で大きくひとつ頷いた。


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わらくる<36> 2009/1/15





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