『剣ちゃん! わあ、久しぶりー。元気? 今ポナペだよね。いつまで?』
「うん、元気元気。あと四日もしたら一度帰るけど。右喜ちゃんも元気? みんなも?」
『もっちろーん!』
電話の向こうで弾む右喜の声は、もうすぐ一児の母となる今も、昔と変わらず少女のようだ。
すべきことは山ほどあった。
幸せになるのは思ったより簡単だったが、それを維持するには知恵と努力が必要だからだ。
剣心が海の仕事に戻る意志を告げると、左之助は真剣に歓迎した。そうするのが最善だとずっと思っていたと言って、剣心の決心を喜んだ。
「海にいるときのお前がいちばん普通だ。すっげえ楽しそうで、見てても楽しくて。見てるだけでこっちまで楽しくなる。みんなも言ってただろ?」
そしてこうも言った。
「ほんとは昔から思ってた。海に戻りゃいいのにって。街にいるからおかしくなるんだって。街にいるときとか、うちで仕事してるときとか、やっぱなんか不自然だったし。なんていうか、普通じゃなかった。すんごい無理がある感じで。そんなだからおかしくなるんだって、そんなことしてたらいつか壊れるって、ずっと思ってた」
知らなかった。そんな風に思っていたとは。
左之助の言うとおりだと思う。考えていることを言葉にして伝えることは大切だ。
「だってお前、言っても聞くような奴じゃねえしよ。けどずっと思ってた。お前は海にいろって。よかった。海にいよう、剣心。オレと、海にいよう」
夢で食っていくのは容易くない。
いずれ現実の厳しさに直面するかもしれないが、二人ならやっていけるだろう。
とりあえず一度日本に帰って、諸々のことにけじめをつけて、準備も手続きもしなければならない。話はそれからだ。
「あのさ、右喜ちゃん。帰ったら一度、そっちに行っていいかな」
『もちろんよ。いいに決まってるじゃん。ていうかこの期に及んでなんでそんなに水くさいの。何日でも泊まってってよー』
「ありがとう。でもちょっと折り入って大事な話があるから、今回は」
『えー、なあに? いい話? ていうか私?』
右喜の鋭さにどきっとした。
「あーっと……うん、右喜ちゃんも。あと東谷さんと……かな」
『オッケー。言っとくー』
「うん……」
どうしても声が重くなってしまう。電話の向こうにもそれが伝わったのか、右喜がぷっと笑って言った。
『なにーもう。相変わらずかったいんだからー。剣ちゃんてほんと真面目だよね。っていうか真面目すぎ! もっとイージーにいこうよ。わらくるよ、わらくる』
「え? わらくる?」
『あ、ねえねえ、着てくれてる? 剣ちゃん専用わらくる』
「? ? ?」
“わらくる”? 専用わらくる? 何の話だ?
『Tシャツだよ。わらくるTシャツ。剣ちゃんスペシャル。特別に作ったんだよ。お兄ちゃんに預けてあったんだけど、もしかしてまだもらってない?』
代わってと言われて左之助を呼んだ。
「おー、あれな。わりい、忘れてた! いや、あるある。ちゃんと置いてる。でもお前、あれサイズおかしくね?」
『おかしくないない。合ってる合ってる。それでいいの。そこにある?』
左之助は現物を取りにいき、受話器が剣心に戻ってきた。
「“わらくるTシャツ”っていう名前もいいね。かわいくて。こっちじゃみんな“ショウライTシャツ”って呼んでるけど」
「えええええーなんでー! ちがうよ“わらくる”だよ。なに“ショウライTシャツ”ってイヤー超ダサい。んもうー、信じらんない! だって“笑う門には福来たる”なんだから“わらくる”じゃん普通に。ていうか思い切り書いてあるのになんでそんなことになるのー」
そういえばサンプル製品のタグに右喜の字で“笑来Tシャツ”と書かれていたのが名前の由来だと聞いている。言われてみれば“わらくる”とも読めなくはないが、“ショウライ”でもそこまで手酷く言われなければならないほど間違ってはなかろうに。
『ちがうよ。タグじゃなくて、Tシャツに。ファティマがちゃんと文字も一緒にデザイン化してくれてるじゃん。ひらがなで“わらくる”って。絵のまわりを囲むように』
Tシャツをのぞきこみ、思わず顔を見合わせた。
絵の周囲を縁取る曲線。店のコンセプトフレーズ「笑門来福」を図案化したとは聞いていた。ではこれは四文字の
『木村拓哉はキムタクだし、ガンダムのプラモデルはガンプラだし、アジアンカンフージェネレーションはアジカンで、リモートコントローラーはリモコンでしょー。シャア専用ザクはシャアザクでしょー。銀座でブラジルコーヒーを飲むから銀ブラでしょー』
「え? 銀ブラは銀座をブラつくことだろう?」
『あ、剣ちゃんも知らなかったんだ。うん、実はあたしもこないだまでそう思ってたんだけどさ。なんかね、ほんとは銀座パウリスタっていうお店でブラジルコーヒーを飲むってのが語源なんだって。明治とか大正とか、なんかそんな頃にできた言葉なんだって。なんかすごくない?』
「へえ。知らなかった。そうなんだ。ブラジル特定っていうのがおもしろいね。たしかにブラジル・サントスとか王道銘柄だけど。あ、それか移民の関係かな」
「移民?」
「うん。ブラジルって日本からすごくたくさん移民が行ってるんだ。ハワイとかみたいに、日系移民の町もあってね。ああ、交易ルートもあったのかな」
『へええ! なんか意外な感じ。地球の裏側なのにね。すごいね』
「待て待て待て。待てっておい。話それすぎだろお前ら。つうかどこ行くよ」
左之助とて本来的には決して冷静で常識的な性質ではない。むしろどちらかというと破天荒で飛躍的な部類に入るだろう。だがキャラクターというのは相対的なものだ。ずば抜けてへんてこりんな面々ばかりが周囲にいるせいで、こともあろうに左之助がストッパーになるしかない。このままでは話がそれこそ地球の裏側まで行ってしまう。
「ハナシ、戻す。OK?」
「ああ、そうだ。なんだっけ」
『わらくる?』
「うん。わらくる」
『まあいいよ。実はあたしもファティマに聞くまでどこがどうひらがなかわかんなかったから』
「んだよ。一緒じゃんかよ」
『あたしはいーの。でもお兄ちゃんはわかってなきゃ駄目でしょ。自分の店のコンセプトじゃん、わらくる。大体ねえ』
と、久しく聞いていなかった右喜節が始まった。冷静に考えれば「わらうかどにはふくきたる」なら「わらくる」ではなく「わらきた」であるべきだという反論もあり得たはずだが、昔も今も変わらぬ無敵の達弁ジェットコースターに口が挟めるはずもない。
しかし懐かしんでいる場合ではなかった。
ひとしきりお小言を頂戴した後で始まった「剣ちゃん専用わらくる」なるものの説明を受けて、二人は右喜の右喜たるゆえんをしみじみと思い知ることになったのだ。
さて手元に並ぶ「剣心専用わらくる」は三点。
黒と白とピンクだ。だが左之助が言った通りどれもサイズが少々不思議だった。
ピンクは、すずめにも好評だったくだんのショッキングピンクである。XSなのでサイズ自体は間違っていないが、しかし丈が変に短い。まるで間違って切ってしまったように見える。
『うううん、それでいいの。あえて超ショート丈にして、裾も切りっぱにしてあるの。かわいいでしょ。その感じを出したくて一回水に通して洗いざらしてあるの、わかる?』
言われてみればさら生地ではない。
『持ってるデニムで一番ローライズのやつに合わせてね』
「え?」
『多分それでちょうどおへそチラ見えの丈になってると思うんだ。だからローライズと合わせるとね、お腹チラ!おへそチラ!って感じでね。剣ちゃん腹筋すごいから、チラって見えるお腹がかなりエロかっこよくてキュートな予定なんだ。ね、どうどう? いいとこ突いてるでしょ?』
「…………」
「…………」
二人して目が点である。おそるおそるそのショッキングピンクのTシャツを肩にあててみると、たしかにずばりヘソ丈である。さすがといえばさすがだが、ここでパタンナーとしての彼女の技術に感心していいのかどうかは大いに悩むところだ。通話口に入らないように深いため息をつき、おっかなびっくり続きを拝聴することにした。
黒はタンクトップである。
今度は丈が充分長いかわりに、身丈がやけくそに細い。いくらなんでも細すぎる。まるで子ども用だ。
『大丈夫。リブだから伸びる伸びる。ていうか、それ“背中で悩殺”用だから、ぴたぴたで着て
………はい?
“何”用?
『だから背中で悩殺用。スポーツタイプのタンクでね。首がかなり詰まってるかわりに、背中側のアームホールがすごい深いでしょ? Tボーン型っていうか。だからちょうど肩胛骨がまるっと出るわけ。そんで剣ちゃん背中セクシーだから絶対そそると思うわけ。すっごいぴたぴただから華奢な感じも強調されるしね。あ、だからボトムはダボダボ系ね。カーゴとか、ハーフパンツとかね。剣ちゃんのスタイルならぴたダボ絶対かわいいと思う。頭はポニーテールかな。どう思う?』
天衣無縫と自由奔放が東谷家の血だとしたら、それを最も色濃く体現しているのはまちがいなくこの紅一点の長女だろう。
あっけらかんと語る声の楽しそうなことといったら。
どう思うかと訊いておきつつ、返事も待たずに次に突進だ。
『あ、そんで白はね』
いい。
もういい。
もういいです。
これ以上聞かない方がいい気がする。
それに白は普通だ。
剣心にはやや大きすぎるメンズのMサイズだが、ゆったり着るにはちょうどいい。
大丈夫。これはばっちり。
そう言おうとした口は、嬉々とした声に遮られた。
『白はバンバンバカンス仕様だからね。裾はくくって着てね。ちょっと高めの位置で結べるようにプリント位置を変えてあるところがポイントなの。水着の上とかに着て、はだしで砂浜を駆けちゃったりとかするの。バッチリ!』
いやいやいや。
いやいやいや。
電話のこちらで揃って突っ伏した二人が、それに続いた「身も心も開放的にね」という部分を聞かずにすんだのは不幸中の幸いだったろうか。あるいはもはやその程度は問題ではなかっただろうか。
『じゃあね、剣ちゃん。待ってるからね。わらくるよ、わらくる。笑ってればいいことあるのよ。犬も歩けば棒に当たるのよ』
「いや右喜ちゃん、それはちょっと違うんじゃ」
『いいのよ、細かいことは。ともかく気をつけて帰ってきてね。また服も作らせてね。じゃあ』
最後までとことん明るく電話は切れた。
げっそりと疲れた二人が三枚の「剣心専用わらくる」をこわごわ手にとったのは、それからたっぷり五分は経った後だった。