二人して夜中の厨房に向かったのはその少し後だった。
「あれえ? なんか何もねえんだけど、冷蔵庫」
「なくて当然。もう何日買い出しに行ってないと思ってる」
驚く左之助に剣心は冷静に指摘した。ゲストのいない気楽さに台風騒ぎが重なったせいで、最後に買い物に行ってから四日は経っている。
一緒に過ごした時間の長さというものはこういうところにも作用するもので、ひと呼吸の間があれば空気はさらりと切りかわる。
「あー。だよなー。しゃーねえ。あるもんでなんとかするか」
もっともな結論だ。あるものはある。ないものはない。選択の余地はないのだ。
「つうかでも微妙。なあなあ、剣心。キムチサンドとゴーヤサンドだったらどっちがいい?」
「……あー。ポタージュ?」
「………」
まるでキャッチボールになっていない。暴投に暴投の返球だ。なんともちぐはぐな会話に、微妙な面持ちで顔を見合わせた二人である。
「左之助。お前、なぜそこまでサンドイッチにこだわる?」
「えー。だってよ、今回の裏テーマは“ひと味ちがうサンドイッチ”だぜ? そりゃ最後まで通さねえと」
「なんだ、裏テーマって。相変わらずわからんことを言う奴だ。ていうかなんにせよどっちも却下。俺これがいい」
剣心の手にはスープミックスの緑色の袋が持たれて、サカサカと降られている。
「ゴーヤはこれに入れよう。あとマカロニ」
「お。いいねいいね。ほんじゃそれとキムチサンドで」
「いやだからキムチサンドはいいから」
「あ、お前いま馬鹿にしただろキムチサンド。ちょっと待ておい。言っとくがバリ旨なんだからな俺のキムチサンド。食ったらビビるぞ。マジで。ウソー何これヤダ凄いこんなの初めて私どうなっちゃうのーって感じ? つうか文句は食ってから言え」
デジャヴュを覚えるような左之助の科白に押し切られるかたちで、結局二つの料理が夜食のテーブルに並んだ。剣心がゴーヤとコーンとショートパスタのポタージュスープを作っている間に、左之助は嬉々としてキムチサンドを完成させた。
「「いたー、だきー、ます!」」
んがぶりっ。
……ぱく……。
「……あれっ」
「どうよ。どうよどうよどうよ!」
果たして左之助の予言通りであった。
問題のキムチサンドにおっかなびっくりかぶりついた剣心の見せた表情は、まさに「ウソー何これヤダ凄いこんなの初めて」そのものだった。
「ふっふっふ。なに、オレ天才? 天才? ん?」
「しかしオリジナルはどこかにあるとみた」
「……む」
今度は剣心のご明察である。
細切りのキュウリとハムとキムチをマヨネーズで和えたまろやかな味わいがすこぶる万人に好まれそうなこの意外性の一品は、くだんのパパイヤサンド同様、とある喫茶店の名物メニューだった。かつてまだ日本で働いていた頃、常連客の差し入れで左之助はこの食べ物に出会ったのだ。
「いやでもおいしいおいしい。これはヒットだ、うん」
思いがけない美味しさに大いに食欲をそそられて、真夜中にもかかわらず山型食パン二枚を使ったキムチサンドをぺろりと完食した剣心であった。
「あ。そういえば」
食事の片付けをしているとき、剣心がふと思い出したように壁のカレンダーを見上げた。
「左之、ちょっとネット使っていいか?」
「おう。メール?」
「いや、ちょっと調べたいものが」
インターネット回線につないだパーソナルコンピューターはダイビングショップに置いてある。立ち上げひとつにも時間のかかる旧型マシンなうえにダイヤルアップ接続だから、どうひいきめに見ても快適とは言いがたく、必然的に使用は必要の範囲内にとどまらざるをえない。本来ならこういった離島こそインターネット技術の恩恵に浴してしかるべき環境のはずだが、同じ洋上の離島でもグアムやサイパンなどの米国圏域とODA対象国となるようないわゆる“発展途上国”との、そこが大きな相違と言える。
「なにそれ。銀行? ……あ!」
左之助は剣心の肩越しに画面をのぞきこんで小さく叫んだ。
「宝くじか! もしかしてすずめちゃんの?」
「そ」
発表は火曜日。つまり今日だった。
ビ、ビ、ビ……。
やる気はあるのかと言いたくなるほどのまだるっこしさでデータは転送されてくる。
少しずつ表示される画面があるところまで進んだときだった。
ビビ……。
「え?」
「あ?」
二人の目と口がぱかっと開いた。
「えええーっ?!」
「ちょ、ウソだろおい」
ビビ、ビビ……。
123456。
忘れようもない、あの冗談のような数字が、冗談でも見間違いでもなくはっきりと記載されていた。
しかもあろうことか一等である。一等といえば二億円である。
「あ。いや、ちょっと待てよ?」
ん?と乗り出したのは左之助だった。長い指が画面の一点を指す。
「これは? 11組? こんな数だったっけ?」
「……いや。すずめちゃんのは……たしか12組だ」
「ってことは?」
「ってことは……組ちがい?」
「それってえらい?」
「えーっと」
さがすまでもなく、続きの行に記載があった。
「組違い賞。十万円。だって」
「だー! なーんだもうー。オレ一瞬二億かと思ったじゃんかよー。あーもうびびった。だよなー。そうだよなー。んな簡単に当たるわけねえよなー」
左之助は「あーびびった」と繰り返して伸びをしたが、ふと剣心を見て首をかしげた。
「おい? 剣心? どした?」
「えっ。あ、いや、あの、ちょっとその……びっくりしたっていうか……」
呆然を通り越してほとんど放心に近い。
「おい、大丈夫か?」
左之助が肩をつかむと、手の下の肩が弾かれたように跳ねあがって、あまりの驚きように左之助も驚いた。
「おいおい。お前が当たったとか外れたとかでもねえのに、なんでそこまでショック受けるよ」
「えっ。あ、ああ、うん、その、えっと、あの。だっだだだ大丈夫。ただちょっとその、なんていうか……」
まだ目が泳いでいる。
やれやれ、変なやつ。とでもいうように肩をすくめて、左之助は片付けの続きにとりかかった
「……二億? まじで?」
だいぶ経ってから誰に言うでもなくぽつりとそう言った剣心は、なおもしばらくじっと天井を見上げていた。
手をつないで部屋に戻る道すがら、星明かりの下で剣心がひとりにこにこと微笑んでいるのを左之助が目ざとく見出した。
「どした?」
「ん? いや、ほら、あれ。――負ける気がしない」
左之助は剣心の横顔を見て、少し考えた。
「ああ。すずめちゃんな。でもちょっと外れたな」
アンツの無人島でキャンプファイヤーを囲みながら、皆でそんな話をした。あれはこの島についた翌日の夜だった。
――負ける気がしない。
今ならわかる気がする。
長いトンネルだったが、抜け出てみればあっけない。
この二年ほどの間のどうしようもない終末感と焦燥は一体なんだったのかと思う。
同時に、よく抜けられたものだとも、思う。
空はよく晴れて、粉砂糖をまぶしたような星の海が降ってくる。
負ける気がしない。今なら何でもうまくいくような気がする。そういう時期というものは、たしかにある。
「でもよ。なんか充分当たった気がしねえ?」
「えっ」
「いやだからな。組違い十万とかって意味じゃなくてよ。あん時すずめちゃんも言ってたけど、『123456』って普通に考えて、なくね?」
「ああ、うん」
「それが一等だってんだもんよ。なんか充分すごくね? つうかワクワクするじゃん?」
「………」
剣心は、つないだ手を握りなおして、左之助の頬にキスした。
「なに。どったの」
「別に。なんとなく。負ける気がしないってこんな感じかなと思って」
考えるように小首をかしげた剣心が珍しいことをした。左之助の首に腕を回してぎゅっと抱きついたのだ。特異な場合をのぞいて、平常心でいるときの剣心が外でこんな風に密着してくることなど滅多にない。しかも見上げる目がキラキラと光っている。
「な、左之。明日か明後日にでも、一度ヴィレッジに泊まりに行ってみないか?」
ザ・ヴィレッジは言わずと知れたポナペ随一のリゾートホテルである。近代的な利便や快適性のかわりに自然回帰的ナチュラリズムをコンセプトとしているだけあって、一棟一室のコテージにはテレビや冷蔵庫や電話はおろかエアコンディショナーさえなく、そして敢えて海辺ではなく海を望む山の中腹に建てられている。昼は太陽のエネルギーとジャングルの生命力を感じ、夜には宇宙の神秘を感じ、密林を渡る風と自然界の音に涼を取る。当節はやりの似非エコロジーなど足元にも寄せつけない厳しくもおおらかなナチュラリズムに律せられたリゾートである。
「お。いいな。なに、プチハネムーン?」
「えっ」
「あそこハネムーナーには特別サービスがあるもんな。前言ったよな?」
「あ、そういえばそんなことを……。けど別に俺そんなつもりじゃ……。ていうか、ハ、ハネムーンって」
うろたえる剣心を尻目に、左之助はおかまいなしだ。よほど嬉しかったとみえて腕の輪に囲った剣心に愛おしそうに頬ずりなぞして懐いてくるが、そうストレートに喜ばれるとかえって気恥ずかしい。
「いいな。来週までゲストもねえし。なんもしねえでゆっくりしよう?」
元はといえば単なるきまぐれな思いつきで、剣心に他意はなかった。ちょっと気持ちが大きくなったことで、ふと思ったことがそのまま口から出たにすぎない。だがこめかみに囁かれる深い声に自分の提案が意味するところを知らされて頬が熱くなった。弁明しようにも、まさか今さら「そんなつもりではなかった」では、それこそかまぼこはととから作るのかと訊ねるにも等しい。
夜目の利く左之助とはいえほんのり色づいた肌色の変化までは見分けられなかったが、しかし忙しく上下する長いまつげの下で潤んだ大きな瞳がそわそわと泳ぐ様ははっきりと見て取れる。勝ち気な年上の恋人が時として見せるこういった幼い反応は左之助の男心をいたくくすぐるのである。
「ベッドは天蓋つきで、風呂は外にあるんだってよ。まわり森で誰もいなくて。森の中に二人きり」
「で、ででででもほら、やっぱあれだろ。もっと早くに予約しないとほら、人気のリゾートだしきっともう満室とか」
「まあでも今オフシーズンだし?」
長い指先に頬をそっと撫でられてまつげが震えた。
「空いてっといいな、部屋」
左之助が剣心の肩を抱き寄せて歩き出し、幸せな恋人たちの頭上には星たちが静かにさざめき笑っている。
結局、剣心が帰国する日曜以降ならスイートヴィラが空いているがそれまでは満室だという残念な返答にあってこのハネムーン計画は次回送りとなるのだが、それはまた日が変わって以降の話であり、この時の二人の知るところではない。