日は暮れようとしていた。
世界を染めていた黄金色の光は輝きを潜め、つつましい夜のとばりが下りつつあった。
カーテンを閉めた部屋は仄暗い。
見上げる左之助の顔は影になって表情は見えない。
剣心は腕を伸ばして首を絡め取り、左之助を抱き寄せた。
目を閉じると互いの肌以外のものが遠ざかる。
無理に目を凝らすより、この方がずっといい。
「左之」
応えるように耳が舐められた。
「左之」
耳の後ろと耳朶のつけ根は剣心の敏感な場所だ。鼻にかかった甘い息が声になって漏れて、顎が上がった。
「んっ、は……」
晒された咽喉を看過する左之助ではない。獲物に牙を立てる吸血鬼さながらに音を立てて吸いつき、細い首をくり返しくり返し、舐めては吸い、吸っては舐めて、快楽の焼き印を捺していく。
「左之……」
鎖骨がじゅっと吸われて、剣心の背がしなった。
「左之……。左之……左之……」
腕のつけ根に、持ち上げた腋下のくぼみに、二の腕の裏側に。名を呼ぶたびに、ひとつずつしるしが増えていく。ひとしずくずつ満ちていく。
「左之」
呼びながら、今度は剣心が左之助の胸に口づけた。
無駄なぜい肉など一切ない硬い胸が心なしか一年前よりも厚みを増した気がするのはもしかしたら歳月のベールのせいかもしれないが、しかし少なくとも黒さを増したことは間違いない。なめし皮のような美しい胸が汗ばみ息づくのを見ているだけで、身体の芯がじいんと痺れてくる。唇を寄せた肌から立ち上る汗の匂いに血が沸騰した。
「左之、もう……」
少しずつ下がっていく頭を両腕に抱きしめて、硬い髪に口づけた。
「もういい。もう、いい……」
へんになるほど熱されて声を震わせる剣心の「もういい」が意味するところは言うも愚かで、ましてとろけきった身体をその腕に抱く左之助には、彼の求めるさまは手に取るようだ。
「もう欲しい?」
切なく潤んだ剣心の目に、ほんの少しだけ訝る色が混じった。
言わでものことをわざとに訊ねるのは、この気位の高い年上の彼氏を知悉する左之助にはいつもの罪のない意地悪ではあったが、そう問う顔が手の中の獲物をなぶる肉食獣のようでないところが、いつもと決定的にちがう。
「ほしい?」
とろけるような目でのぞきこまれて、剣心は思わずかたく瞼を閉ざした。
無理。もうこれ以上熱くなったらきっと火が出る。そう思っていた身体がさらに熱をもつのがわかる。どうなってしまうのだろう。懼れとも期待ともつかない本能が暴走する。
「左之。左之。左之……」
壊れた人形のように首を振り続ける、その身振りの意味など自分でもわからない。ただもう居ても立ってもいられず、声も身体もとどめようがなく、どうにかしてほしい、どうにでもしてほしい、もう一瞬もこのままでは耐えられない。
「俺も。剣心、俺も。もう入れたい。すげえ入れたい。限界」
誇示するように腿に押しつけられた左之助の身体は灼けた鉄のように硬い。
「あ……」
わななく背中をやさしく撫で下ろす掌も、額に落とされた唇も、触れるところどこもかしこもが火傷しそうに熱い。だがやはり熱の中心は身体の中心だった
剣心は混乱した。
知らない感覚ではないはずなのに。何度も経験しているのに。
なのにどうしてこんなに怖いのだろう。
なにがそんなに怖いのだろう。
「あ……あっ……ああああっ」
駄目だ。これは駄目だ。無理。壊れる。壊れる壊れる壊れる。無理だ。怖い―――!
本能が逃げたがっている。
だが何から?
「や……」
無意識に逃れようとした身体はがっちりと抑えこまれた。左之助は剣心の奥深くに分け入ったままびくともしない。ドクドクと激しく脈打つ音が自分のものなのか左之助のものなのかも、耳元で鳴っているのか
「左之、もう……もう……や……たすけ……」
「剣心」
ひと声呼んだ左之助は、あとはただひたすらキスの雨を降らせ続けた。取り乱す剣心を濃厚な口づけがなだめ、抱きしめる腕がつなぎとめ、やさしい愛撫が落ち着かせていく。
そうしてひたすら抱き合っているうちに、ある瞬間を境にすうっと意識がクリアになるのを剣心は感じた。
霧が晴れる。
晴れ渡る。空が開ける。
聞こえる―――。
「? ……左之……?」
聞こえる。
声が聞こえる。
左之助の声だ。
無言で繰り返される口づけの向こうから、抱きしめる腕から、撫でる手指から、ふれ合う肌膚から、たえまなく一心に声は言い続けている。
――好き。大好き。愛してる。愛してる……。
「あ」
たまらないほどひたむきに囁かれる無言の愛は、身体を駆け巡る強烈な快楽以上に深く剣心を打ちのめした。
「左之……」
わかった。
わかった。
怖かったのは突然すぎたからだ。
あんまり突然で、あんまり幸せで、いきなりこんなに幸せになってしまっていいのかと。
ずっといつも、不安と孤独が剣心と共にあった。いや、それらは剣心の一部だったと言っていい。
それが、独りではない世界を知ってしまった。
独りではない。左之助がいる。自分には左之助がいる。そう思うだけで世界が何もかも変わった。何もかもが現実とは思えないほどやさしく、愛おしく、ぬくもりに満ちた。
あんまり美しすぎて、怖かった。
あんまり幸せすぎて、怖かった。
多分生まれて初めて、愛というものを知った気がした。
「左之――」
陽に灼けた顔を手挟んで目を合わせる。
黒曜石の瞳は熱と欲を宿して潤んでいる。だがそこにかつて抱き合うたびに見ていたあの狂おしい炎はない。怒ったような、怯えたような、けれど諦めたような、あの手負いの獣にも似た烈火は、どこにもない。
「左之」
そうだ。
耳を閉ざしていたのは自分だ。
―――剣心。大好き。愛してる。
黙して語らぬ左之助の愛を見ようとしなかったのは自分だ。
今が初めてではない。
ずっとずっと、最初からいつも、左之助はずっと叫び続けていたのに。
声もなくひたすらに訴え続けていたのに。
「左之」
海に潜っているときのようだと思った。
物事はシンプルで、明解で、左之助はわかりやすい。ポチに向けられていたのとよく似たやわらかいまなざしは、言葉よりも雄弁に心を語って憚らない。
「左之」
餓えと渇きが満たされたのは自分だけではなかったのだ。
「左……」
涙があふれた。
次から次へとあふれる涙を左之助が吸い取り、海の味のする左之助の唇に剣心が自分のそれで触れる。
長い長い遠回りをしてやっとお互いに辿りついた二人は、すっかり陽が暮れてあたりが夜に包まれても、無言の愛を交わし続けて倦むことはなかった。
夜中にふと目が覚めた。
左之助はぐっすり眠っている。
軽く口を開ける安らいだ寝顔をじっと見る。
寝ている左之助は普段より幼く見える。意外に顎が細く、通った鼻筋は繊細で、長いまつげが
馬鹿だな。
そんな背伸びなんかしなくていいのに。
それに俺はこの方が好きだし。可愛くて。
それに何よりチクチクしない。それは重要なポイントだ。
眠りを妨げてはいけないと思いつつも、誘惑に耐えかねて頬に唇を当てた。
まぶたが二、三度ぴくぴくと動いたが、目覚める兆しはない。
片肘をついて、少年のような寝顔を再度まじまじと眺めた。
こうしてじっくり見るのは二年ぶりだ。以前にも増して愛おしい。
首から下は逞しい男の肉体だが、顔はまだどこかあどけなさが残る。目覚めると身体の方にふさわしい剽悍な面ざしに一変するのは、きっとあの炯々と射抜くまなざしのせいだろう。
よほど疲れているときを除いて、これほど凝視されて左之助が目覚めないことはかつてなかった。敏感に視線を察知してぱかりと目を開ける左之助を「動物動物」とからかったことが何度もある。明日を知れぬ野生動物の不安と孤独をその身深くに抱えていたと、あの頃は気づけなかった。そばにいたのに。誰より近くにいたはずなのに。
あのとき死ななかったのが生きて為すべきことのあるためだとするなら。生きている以上は生きねばならない理由が何かあるとするなら。ならばそれはきっとこれにちがいない。そう思おう。
「左之」
枕の上に投げ出された手をそっと包む。
大きい。何だってつかめそうな、どんな夢でもつかめそうな、大きい力強い、このあたたかい手で、よりにもよってこんな自分の手を取ってくれた。非力で卑怯な心弱い手だが、それでもできることはあるはずだ。思わず声に出して言っていた。
「大丈夫。もう何も心配しなくていい。これからは俺がお前を守る。もうひとりにしない。寂しい思いはさせない。大丈夫。大丈夫だから。だから左之――」
温かく乾いた掌をごくごくそっと撫で、さらに声を潜めて、祈るように囁いた。
「もうひとりで泣くな。ひとりで我慢するな。な」
そのとき、左之助の小鼻がぴくんと動いた。もぞもぞと身じろいで、左之助は目を開けた。
「……どったの」
寝起きのやさしいまなざしが剣心を包む。
「いや、なに。ちょっと腹がへったと思ってな」
「そんで泣いてんの?」
左之助の指が剣心の目尻をそっとぬぐう。
「……うん」
「あーあ。そりゃ可哀想だ」
「だろ」
抱き寄せられるままに腕にもぐりこんで胸に頬をよせると、閉じたまぶたに小さなキスが降ってきた。