砂まみれの二人はテラスから直接バスルームに入った。ウッドテラスで脱いだ服を振ると、ザラザラと音を立てて結構な量の砂が出る。バケツに汲んだ水をかぶって軽く砂を流してから中に入り、バスタブに湯を張った。
「ふいーっ」
「………」
全開の窓から射し込む夕暮れの光が白いタイルに反射して眩しいほどだった。
長身の左之助がゆったりと足をのばせるヨーロピアンタイプの湯船は、ゆるやかな傾斜に背中をもたれさせるとちょうどカウチに寝そべったような格好になり、ぬるま湯に浸かってくつろぐに申し分ない。剣心は、へりに両肘をかけて王侯貴族よろしく羽をのばす左之助の、その脚の間にちょこんと三角座りでおさまって、ジョボボジョボボと水が増えていくのを見守っていた。
日本にいた頃もよくこうして一緒に風呂に入った。無論こんなに広い浴室ではない。賃貸マンションのユニットバスは二人で入るには手狭だったが、その狭苦しい二畳足らずのバスルームで、シャワーを浴びたり、湯に浸かったり、洗いっこをしたり、ときにはちょっとそれ以上のことをしたりもするのは、よくある日常の一幕であり、また日々のささやかな楽しみのひとつでもあった。
なのに今さら、何がそんなに恥ずかしいのか。
さっきのアウトドアスキンシップは多少調子に乗りすぎた感がなきにしもあらずだが、そもそも一昨日に一度いたしている。
今さら何を。
と、自分でも思う。
思うが、頭と心の関係がしばしばそうであるように、頭と身体もまた必ずしも同調するものではなく、ドックンドックンと跳びはねる心臓がどうすれば静まってくれるのか、剣心には皆目見当がつかない。もうどうにもいたたまれない思いに耐えながら、やり場に困った視線を蛇口からほとばしる湯に据えて、しきりにまばたきをくり返していた。
「ん。こんなもんかな」
左之助の声にもの思いから引き戻された。
「え。あ、ああ……」
止めるぞ。
飛び上がるほどドキッとしたのは、左之助がバスタブのヘリをつかんでぐいと身を乗り出してきたからだ。
蛇口は剣心の側にある。のばされた手は剣心をかすめて通りこし、水栓をキュイッと鳴かせた。手首をひねったのにつれてだろう。腕に筋が動くのが目前に見て取れた。
じゃばん……と音を立てて左之助が元の体勢に戻る。水音に乗じて剣心はこっそり細い息を吐き、立てた両膝を抱え直した。剣心の緊張を知ってか知らずか、左之助はざぶざぶと顔を洗って濡れた髪をかき上げ、気持ちよさそうに「ぷはー」と声を上げている。
「ナニちっちゃくなってんだよ。足のばせよ」
きゅっと片端の持ち上がった口元はセクシーだが、よく灼けた精悍な顔に浮かぶ表情は純粋にリラックスして見える。当然
「ああ、うん……」
――ちゃぷーん……。
流水音が絶えて、室内がいきなりしーんと静かになった。
ドックドックと鳴る鼓動が余計に意識される。思いきり響きわたっているのではないか。そう思うとますます心拍が早くなる。静まって欲しいと焦れば焦るほど、嫌がらせのように心臓は跳ね回る。
そのとき、突然外に人の声がして剣心を驚かせた。
ぎょっとして、たぶん少し飛び上がったのだろう。ぱしゃんと音が立って、その音に二度驚いた。
窓の外に聞こえた声が、びっくりするほど近かったように思う。だがまさかテラスに人のいるはずがない。きっとビーチ側の小径を誰かが通ったのだろう。あそこなら泊まり客やスタッフが往来してもおかしくない。それが風向きのせいで実際より近く聞こえただけにちがいない。
そんなことを思いつつ大きく開けられた窓に落ち着かない視線を向けた。座位が低いのでみえるのは空ばかりだ。
―――こらこら。しっかりしろ俺。
何も恥ずかしくない。隠す必要などない。堂々としていればいい。そう期したばかりではないか。
もちろん本来それとこれとは全くもって話がちがう。それでは倫理の混乱も甚だしいのだが、あいにく目下ただいまの剣心はもういっぱいいっぱいに切羽詰まっていて、そんな冷静な思考が働くべくもない。
気がかりを察したのか、左之助が苦笑しながらも様子を見に行った。立ち上がった左之助の鍛えられた身体にどきりとしたが、左之助の方は一向気にする様子はなく、堂々と窓から身を乗り出して外をひととおり見渡し、横顔を見せて笑う。
「大丈夫だって。お前、気にしすぎ」
そう言いながらも、よろい戸を閉ててくれた。
キイイィッ……ガタタン。
細く高いきしみ音を立ててよろい戸が閉まると、一気に光が翳った。板羽根の格子ごしに射し込む細い光が広いバスルームと窓辺に立つ左之助の姿を気怠く照らし、密度の増した空気が肌にしっとりと絡みつく。
湯船に戻った左之助が腰を下ろすと、湯が大きく波立って、ぐんと水位があがった。浮力が増す。増した浮力はただでも軽い剣心の体重を相殺する。ふっと身体が軽くなったのを感じたと思ったら、あ、と思う間もなく腕を引かれて、気がつけば背中から抱きすくめられていた。回されたはずみで持ち上がった足がばしゃんと湯を打つ。
膝の間に入れ子のように抱きくるまれて、剣心はまた所在なく膝をかかえた。
これだけ身体中が密着していれば、心身の動揺はもう完全に筒抜けだろう。背中はボーボーと火の出るように燃えているし、心臓はうるさいほどに暴れているし、もう息まで荒い。
ちゃぱん……。
風鈴の鳴るような音がして水面が揺れ、左之助の腕が動いた。こめかみに指が触れる。びくんと揺れてすくんだ身体はさらに強く閉じこめられ、脚と腹の間でちゃぷちゃぷと水が鳴り、髪がかき上げられて、あらわになった耳に唇が
(ああ……)
湿気のこもる浴室に響く吐息はいつも以上に甘く潤んで後に残る。
ひたひたと満ちてくる官能に息を詰め、顎を撫で上げる指に促されて目を開けた。
よろい戸のすきまから射し込む西陽が、仄暗いバスルームに光の格子を描いていた。細いストライプの光が床を染め分け、バスタブにはりつき、二人の肌に
長く逞しい腕は、膝の間の剣心を自分の脚ごと抱き包んでもなお余る。剣心の前で交叉された両腕のそれぞれは白い
ぴちゃん……ぴちゃぴちゃ………ぴちゃん……。
それにしても、ただの水音がどうしてこうも淫らに聞こえるのか。まるで情事の痴れ言を耳元に聞かされているようで顔が火照る。
うなじに当てられた唇は、時に強く時に淡く肌を吸い上げながら少しずつ移動していく。熱い舌にねっとりと舐め上げられる度に、痺れにも似た快感がぞくぞくするほど緩慢に剣心を侵蝕していく。
「左之……」
水中で脛を撫で回していた手が、今は足の甲を包み、足指を弄っている。小さな足指に長い指が巻きついて、一本いっぽんを丹念に撫していく。食指が指の股にすべりこんで絡め取り、絡め取られた可愛らしい指を拇指が捏ね、桜貝のかけらのような爪を愛おしそうに弄ぶ。
「あ」
慈しむように十の足指を愛撫していた大きな手はやがて再び足の甲を遡ってくるぶしを探り始めた。切なげに濡れる吐息と水のちゃぷちゃぷと鳴る音が入り交じって、薄暮のバスルームにむせかえるほどの濃密な気配が立ちこめた。
小さく膝を抱えた姿勢ですっぽり抱きすくめられては身じろぎもままならない。両肩を締める鋼の二の腕にあずけた頭は、次第にくったりと重くなっていって、もうほとんどぼうっとしてきた。
疼いているのは身体か、欲望か、心か、意識か。
「左之」
無意識の詰る声に求められて、細い顎を左之助の指がとらえる。濃厚なキスは気が遠くなるほど長く続いた。
「剣心。ベッド行こう」
――ああ、やっぱりおかしい。何がどうしたんだろう。
白くかすむ意識のなかで、それでも少しだけそう思った。
ようやく離れた唇で耳元にそう囁かれた、たったそれだけのことでこんなに心臓が跳ね上がるなんて。初めてでもないのに。そう久しぶりというわけでもないのに。どうして今さら。どうしてこんなに。
でもだめだ。
もう何も考えられない。
花のしおれるように瞼を落として、左之助の肩に頭をあずけた。