暮れなずむ浜辺にあしあとが二筋のびていた。
続く足跡は長い。
ところどころで波にかき消されながら、離れては寄り添い、ときどき立ち止まったり寄り道をしたりもしつつ、連れ立って歩いている。先頭にふたつの人影が長い影を伴っていた。剣心と左之助である。
「お。浮き球発見」
嵐の後の浜にはいろんなものが流れ着いている。左之助が身を屈めて取り上げたのは、ハンドボールほどの大きさの白球だった。発泡スチロール様の堅い球で、真ん中に穴が開いている。
「うきだま?」
剣心が訊く。
「ホントの名前は知らねえけどな。これで野球やったらすんげえおもしろくてよ。一時みんなはまってたんだけど、前に拾ったやつ失くしちまって。おー、みんな喜ぶ。ラッキー。グッジョブ俺」
中国や台湾など東アジアの一部地域で漁の網に使用される
「へえー。じゃあ中国とかから来たのか。ここまで。すごいな」
「なー。だよなー」
他愛ない話をしながらビーチをそぞろ歩くうちに、いつしか日が暮れかかっていた。抜けるように青かった空は西の裾から白ずみはじめ、今はもう淡い水色に変わって、茜色のちぎれ雲をたなびかせている。
話しながらふと真顔になって、剣心が言った。
「左之?」
「んー?」
「“ずっと”……でなくては、だめか?」
「……」
左之助の足取りが緩んだ。足元の砂を見つめ、黙って先を促す。
「さっき、ポチを見てて、思ったんだ。俺なにしてるんだろうって。あいつはあんなに必死に生きてるのに、俺はなんなんだろうって。どうしようどうしようって、結局なにもしてない。考えるばっかりでなにもしてない。もうずっと。でも、手を抜いて生きてられるほど人生長くないんじゃないか。考えてるひまがあったら、自分にできることをするしかないんじゃないかって」
為したことは為したこと。罪は罪。それ以下でも、以上でもない。つぐなえるものでも、多分ない。
「俺にできることなどたかが知れてはいるが……」
それでも、堂々と胸を張って、前を見て、諦めずに生きていきたいと思った。もしそれが許されるならば。
水中で物事は驚くほどクリアになる。とはいえ、だからといって潜って感じることがすべて正しいわけではないだろう。単に自分に心地よいだけの易きに流れる結果なのかもしれない。だが、信じられないものだらけの自分のなかに、もし少しでも信じるに値するものがあるとしたら、それはこれであってほしい。信じたい。唯一そう思えるものにやっと出会えたと思う。どうか見失わないように。つまずかないように。
「左之。俺はお前のバディであることを矜りに思うよ」
左之助の足が止まった。
「……どうしたよ。いきなり」
スキューバダイビングは安全確保のため必ず二人が一組になって行う。これをバディシステムといい相方をバディというが、剣心が言っているのがそれだけの意味でないのは明らかだ。
「馬鹿だな、俺は」
自嘲というにはやわらかく、微笑というにはほろ苦い、静かな表情で、剣心も足を止めた。砂をひと蹴りして、海に目を向ける。夕映えの水平線がどこまでも続いている。
「なにも隠す必要などなかったものを。誰にも、なにも、恥じることなどなかったものを。ただ誇ればよかったものを。これが俺のバディだと。全幅の信を置く無二の相棒だと」
左之助が顔を上げて剣心を見た。それから剣心の視線を辿って海へ、再び剣心の横顔へと目を移す。
「救いがたい馬鹿だな。こんな簡単なことに気づくのに四年もかかって。こんなに長い間お前を待たせて。すまなかった――」
「剣心」
「ただ左之、ひとつ約束してほしい」
「約束」
「そうだ。もし……もしもだが、もし俺達がだめになったら……。互いに傷つけ合うだけで、もうどこにも行けない、そんな風になったら、そのときは……」
かつて左之助に言われたことがある。泣くほど好きなものを捨てるな、ダイビングをやめるなと。剣心がいきなり仕事を辞めて左之助の前から姿を消したときのことだ。数回一緒に潜りに行った程度で、まだ特別な関係ではなかった。なるとも思っていなかった。かけずり回るように必死で探していたらしいと、それは後で上下衛門から聞いて知ったことだった。
「そのときは、ちゃんと、別れような」
逃げるのかと。なにもかもなかったことにして、ダイビングもやめるのかと。泣くほど好きなやつが海を捨てるなと。それこそ泣きそうな顔でそう言われたことを今もありありと覚えている。だがすべてを手に入れられるものではない。本当に大事なものを守るために、別の同じくらい大事なものを諦めなければならないことが人間にはいくらもある。
「それでもよければ。もしお前がそれでもいいなら。俺はこんなだからいつまで続くかわからないが……。一緒にいてほしい」
強い風に長い髪が巻き上がり、砂が一斉に流れて軽やかな音を立てた。波打ちぎわで小さなカニが戯れている。波は穏やかに寄せては返し、波の花を咲かせている。
風鳴りを縫って犬の声が切れ切れに運ばれてきた。
左之助は無言で剣心をかき抱いた。項垂れた華奢な身体は腕を強めるとさらに小さくなって、胸にすっぽりおさまってしまう。不器用でまっすぐな魂を宿して必死に生きる剣心が愛おしくてたまらない。腕の中で震えるこの小さな存在が、どうしていいかわからないほど愛おしかった。なにか言いたかったが、言葉が出ない。愛おしすぎて何も言えない。穏やかな海の韻律を聞きながら、ただただ抱く腕に力をこめた。
「すまない。こんな、中途半端で……」
腕の中で剣心が身じろぎ、くぐもった声が左之助の胸をあたたかく湿らせる。思わず苦笑が漏れた。
「つうか
「かたい? 俺?」
「かたいかたい。ガッチガチ」
わからない、という顔をしている。きょとんとした剣心は子どものようで、とても十歳も年上とは思えない。これが破天荒な言動と有無を言わせぬ意志の強さで左之助を悩ませ振り回してやまない世界一手強いバディだなどと一体誰が信じるだろうか。
「だってお前、考えてもみろよ。普通だれもくっつくときに別れることなんか考えねえっつの」
「……そういうものかな」
「たりめーだろが。じゃなきゃお前、だれも結婚なんかできねえっつの」
「え」
「結婚式でもあるじゃん。誓います、っていう、ほら、選手宣誓みたいなやつ。死が二人を別つまで――だっけか」
「……ああ。あるが。まあでもあれはほら、その時はその時でちゃんと本気でそのつもりなんだろう。誰しも離婚するつもりで結婚などすまい」
真面目にそう返球されて、ぷっとふきだして呆れた左之助である。
「だからいま俺がそう言ったじゃん。つうかお前、人のハナシ聞いてる?」
本当にこの緋村剣心という男は、他人のことにはめっぽう鋭敏なくせに、自分のことになると途端に疎い。いや、疎いというよりも厳しいのだろう。だから人のことは許せても、自分には許せない。左之助などからすれば、それはもはや自虐的にさえ見える。
昨夜あんな話をしていなければ心許なかったかもしれない。起きてもいない先の不和など心配するなと説き伏せようとしたかもしれない。だが剣心の不安の在処がわかった今はちがう。不安がっているのは知っていた。いつもどこか心細そうだった。煮え切らない剣心が歯がゆかった。安心させてやれない自分が腹立たしかった。どうして気づけなかったのだろう。気持ちが揺らぐことではなく、揺るがない気持ちが人を傷つけることを懼れていたことに。水のように腕をすり抜ける危うい恋人をどうすればしっかりつなぎ留められるかとばかり考えていた我が身があまりに狭量に思えて、胸が詰まってもう言葉にならない。
「剣心」
強くかき抱いて湿り気の残る洗い髪に顔を埋めると、シャンプーと潮の匂いがした。
「剣心」
もしこのかけがえのない大切なものを失ったら自分はどうするだろう。どうなるだろう。
「剣……」
「……左之?」
抱きすくめられた胸の中でつと顔を上げた剣心の目が丸くなり、やがてふわりと花のほころぶように微笑んだ。
「こら、左之。お前、そこで泣くのは可愛すぎるだろう」
「は? 誰が泣いてるよ」
「そっか。鼻水だったっけ」
「ちげーよ。汗だよ」
「そうかそうか。んー。よしよし」
爪先立った剣心が、泣いてなどいないと言い張る聞かん坊の口の端までつたう涙をぺろりと舐める。
「しょっぱい」
笑って差し出された舌に、今度は左之助が口づけた。
「ちょっとお前、おぶってやろうか。たまには俺が」
ぶらぶらと部屋に戻りかけたところで剣心が突然そんなことを言って背中を向けた。むろん左之助は驚く。
「へ。なんで」
「いや別に。なんとなく」
実際、ふと思いついたことだった。自分にもできることがある。左之助を支えることができる。安直といえば安直だが、それをわかりやすく試してみようとする無意識の発動だったろうか。
左之助は「んー……」と腕を組んだ。
ビスクドールのように華奢で小柄な剣心である。よく絞られた身体が見かけと顔を裏切って人並み以上に強靭だということを余人は知らず左之助は充分知っているが、とはいえやはりウエイトが違いすぎる。そりゃさすがに無理なんじゃないの?とは思いながらも、この際、興に乗じることにした。
「そぉお? んじゃ、ま、せっかくだし?」
よしよしいい子だ、と向け直された背中に、左之助がそろそろと身体を被せる。あんまり乗るところが狭すぎてどうにも心許なかったが、ぺしゃんとへしゃげるかと思った負い手は「ふんっ」と太い気合いを吐くと、ぐうっと左之助を
ゆっくりと足を踏み出すと、小さな足は二人分の体重を担って深々と砂に沈む。
ぎゅむっ。ぎゅむっ。ぎゅむっ。
案外と力強い。
お。結構いけるじゃん。
背中に負われた視界から見る剣心は新鮮だった。
左之助の定位置は剣心の横か後ろだ。真後ろに立つと、ひとまわり小柄な剣心はちょうど左之助の
ふんっ、ふんっ、ふんっ。
「な、左之。どうだ。結構、いけるだろ」
吐く息に合わせて誇らしげな声がそんなことを言っている。
だが左之助の目の前には形の良い耳が無防備な後ろ姿を晒しているのだ。
歩みに合わせて吐かれる息を腕が感じる。
剣心の髪や肌や汗の匂いを鼻が嗅ぎとる。
愛するパートナーの肌の熱さと身体の小ささが、密着した身体のどこもかしこもに、これでもかというくらいに強く感じられる。なかんずくあらわな白い耳に少々の後れ毛が揺れる姿は羞じらう花の風情で、どう控え目に見積もっても、愛撫か口づけを求めている。手折られることを自ら望んでいると言われても花に反論の余地はないと思う。
罪つくりな耳の誘惑に左之助は素直に応じた。甘く息づく裏側のくぼみをちろりと舐めたのだ。
大きな荷物を必死に担いでいるところへそんな悪戯をされてはたまったものではない。当然ながら剣心はぺしゃりと倒れ、そして負っていた剣心が倒れれば、負われていた左之助も無論倒れる。
「うわっ……!」
どさりと落とされて尻餅をつき「いってー」と起きあがった左之助に剣心の拳がとんできたのは当然の結果だったといえる。
「阿呆! なに考えてるんだお前は! 危ないだろうが!」
「わ! て、て、いてっ」
恋のお戯れというには激しすぎるパンチやキックの応報だったが、彼らにとってはそれもスキンシップの一種なら、攻撃したり反撃したりしあいながらきゃいきゃいと砂上を転がるうちにやがてそれが自然に撫でたりくすぐったり抱いたり抱かれたりに変わっていくのもまた数え切れないほどに繰り返してきたスタンダードなざれごとのひとつである。
誰もいないプライベートビーチなのをいいことに、砂にまみれるのもかまわず戯れあう無邪気な恋人たちを、燃え立つ夕映えの海と空が包んでいた。