すでに深夜の二時を回っていた。
この時間になると、さすがに道もリゾートもひっそりと寝静まっている。
「左之、シャワーは?」
「軽く浴びる。お前は?」
「俺も後で」
「おう。んじゃ」
バスルームのドアが閉まり、剣心はふうと息を吐いた。
十一時すぎに宿を出て待ち時間を過ごしていたキャッシュオンスタイルのビリヤードバーを、深夜零時三十分に到着するCS958便の轟音が聞こえてきたのをしおに出た。
国際線の出発時は二時間前までに空港に行くというのが一般的な目安だが、離発着便は数えるほどでターンテーブルもなくカートは台車同然、ほとんどのプロセスが手作業という南の島の小さな空港に、そんな杓子定規は必要ない。ましてこのCS959便はグアムからやってきた958便がそのままとんぼ帰りでグアムに帰る折り返し便である。乗客を降ろし、積み荷を降ろし、機内をカラにして清掃と整備を済ませてからでないと、荷物も人も乗ることはできない。まして空港至近のバーにいたわけだから、飛行機の音を聞いてから動いて充分だったのである。
ゲート前は送る人と待つ人で混雑していた。到着ゲートも出発ゲートもほぼ一緒くただが、一応ルートは分けられている。ゲートをくぐってからも名残惜しげに振り返っては手を振る二人の姿が見えなくなるまで見送り、こんな夜中に万一機体や何かのトラブルで飛行機が出ないと大変なので、念のため離陸まで待機し、ジェット機の爆音が遠ざかるのを聞きながら、ぼちぼち空港を後にした。
彼女達にはどれだけ感謝してもし足りない。本当に楽しい一週間だった。馬鹿みたいに騒いで、めいっぱい遊んで、まあちょっとはアクシデントもあったりしたが、それでもほとんどずっと笑い通しに笑っていた。いろんな発見もあった。
道連れに恵まれた。その思いが強い。
だが明日からはもうみんなはいないのだ。
見たこと、聞いたこと、感じたこと、思ったことを反芻し、確かめる。大丈夫。もう少しだ。いくつものわからないことはやはりわからないままだが、それはもういい。
―――あとは明日潜ってみるのと、それから……。
バスルームからザアザアとシャワーの音が聞こえる。
窓から空を見ると、満天の星が静かにさんざめいていた。
シャワーを済ませ、ベッドに入る。
ウォーターベッドの心地好い揺れが剣心を包んだ。
「電気消すぞ、剣心」
「ああ」
胸がどきどきする。
闇が落ち、だがすぐに目は慣れて、星明かりで部屋の様相が見て取れるようになった。
加速する鼓動が部屋中に鳴り渡っているのではないかと思う。
「左之……」
「んー?」
「そっち行ってもいいか?」
「…………」
左之助の動きが止まる。
こういうのはよくないかもしれない。
とは思う。
後悔するかもしれない。
とも思う。
でももういい。いいとか悪いとかはもういい。後のことは後で考える。
片肘をついたまま、近付いてくる左之助のシルエットを見つめた。
明るい闇のなかに強く光る目。重い眼光に背筋がざわつく。
「左之……」
無言で見つめてくる視線が熱い。熱風に煽られるような、ほとんど物理的な熱に全身が包まれた。
「左之助……」
額に触れた唇も熱い。まるで炎の舌だ。
額。頬。瞼。眉。目尻。こめかみ。耳。耳朶。耳の裏。顎。喉。鎖骨。
触れたところから順番に火がつき、広がっていく。
「ふ」
覆い被さる左之助の重みを感じ、撫でる指と密着する肌に熱と欲望を感じ、雨のように注がれるキスに意識を炙られて、連鎖する火が剣心の体内で次々に弾けた。
「あ」
獣のように四肢を絡め合い、本能に溺れながら、剣心は左之助を見続けた。もう思考も知能も働いていない。ともすれば飛散しそうになる意識をかろうじてつなぎ止め、感覚神経に集中する。剥き出しの眼光。狂おしく叩きつけられる切なそうな眼差し。くり返し与えられる長い長い慈しむ愛撫。堰を切った感情に呑みこまれていく。
「左之……なん、で……」
そうだ。そうだった。いつもそうだった。
どろどろに溶けるほど深く繋がりながら、快楽に呑まれながら、沁み入るような切なさに胸がつまる。哀しいようなもどかしさが溢れて、喘ぎぬかずにいられない。
「左之、左之、左之……」
柔らかな真綿の眠りに包まれてからも剣心の涙は止まらなかった。
話し声が聞こえる。
左之助の声だ。誰かと話している。
「おう。おう………、明日でいいんだろ。え?」
電話だ。そういえばジリジリジリと鳴るコール音を聞いた気がする。
「………いいぜ。いけるいける。………天気? えー大丈夫だろ。普通に熱低だし。ミッシーは? どうする? 一緒に? …………いいや、全然。どっちでも。いやマジで」
ミッシー。三島栄一郎だ。青年海外協力隊の。
「あ、そ。オゲオゲ。………なんだ? …………。……ああ。バッカ、んなこと気にすんなって。お邪魔じゃねえよ。だーいじょうぶ大丈夫。……。……。はいよ、ほんじゃ明日」
受話器が置かれ、チーン…と古典的な音がした。
「わりい。起こした」
「いや……」
重だるい身体を起こし、首をひねる。時計の針は十時を指していた。
「三島さん?」
身体の節々のぎごちなさが、昨夜の出来事を思い出させる。
三年も付き合ってきて今さらといえば今さらの気恥ずかしさに頬が熱くなり、左之助の顔が直視できない。
「……な、なんて?」
「マジュロにいるダチが遊びに来てんだって。そんで体験ダイビングやりてえって」
「マジュロ?」
マーシャル諸島共和国、マジュロ環礁。ミクロネシア連邦の東、キリバス共和国の北に位置する環礁だ。一九五四年、アメリカが同国内ビキニ環礁で行った水爆実験により幾重もの被害をこうむり、近年ようやく観光業が開かれつつある、海洋性熱帯気候の国である。
マジュロにいる友達?
遊びに来て?
「協力隊。研修で一緒だったらしい」
「ああ」
なるほど。
ポナペもマジュロも、共にグアムとホノルルを結ぶアイランドホッピング便の航路上にある。行き来は比較的しやすい。
「ま、それは明日だから。とりあえず今日はふたりでゆっくりしよう」
返事がわりに穏やかな笑みをにじませた剣心に左之助が手を伸ばした。
「大丈夫か?」
「ああ」
頬を撫でる乾いた指が心地好い。目を閉じると鼻の頭がぺろりと舐められた。動物みたいで可笑しかった。
「馬鹿……」
左之助も喉の奥で笑っている。掌が頬を包んだまま、親指が目の下をぬぐうようにそっと撫でた。
「もうちょい寝てろよ。俺もちょっとボートとか見ときてえし」
肩を押されるままベッドに沈み、日の匂いのするシーツと熱い眼差しに包まれる。
何も訊かない。
何も言わない。
水中の陽射しのように脆く淡いぬくもり。
胸が詰まる。
ゆっくり降ってきたキスを唇に受けて、そのまままどろみに身を任せた。
夢うつつの頭の中を映像と思考がぐるぐると回っていた。
昨夜の左之助は、夜の海のように底知れなかった。荒れるカレントのように激しかった。剥き出しの視線が痛いほどだった。そして見放された子どものようだった。もう少し寝ていろと言った今朝の左之助は椰子の木陰のようだった。朝の海を渡る風のようだった。
海に向かって開かれた窓から静かな風が入ってきて、まどろむ剣心をやさしく撫でる。
嵐の去った朝のようだ。
きっと左之助もわからなかったのだ。
どう接すればいいかわからなくて困っていたのだ。
剣心が出口を見失って堂々巡りをしていたように、左之助もまた迷路にいたのだ。
だからだ。
思い当たることがいくつもある。
単細胞に見えて一筋縄ではいかない頑固な男で、その頑固さでもって思い詰める。図太く見えて実は繊細な、損な性分をしていることは、よく知っているはずだったのに。
―――ごめん。ごめん、左之。ごめん。
今夜にでも話をしよう。午後から海に行って、のんびり潜って、それからスーパーに買い出しに行って、何かおいしいものでも作ろう。ふたりでゆっくり食事をして、それから……。
―――ごめん。ごめん。こんな勝手で。最低で。こんなんで……ごめん。
小さな身体をさらに小さく丸めて、剣心は謝り続けた。