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2008/8/19

<26>

 ポンペイ(ポナペ)国際空港のほど近く、州都コロニアの市街へ向かう幹線道路の枝道にある店だった。
 どこの国でも変わらない田舎町の酒場特有の喧噪である。
 倉庫を改装したコンクリートの壁に、配管むきだしの天井。テーブルと椅子はプールサイドで使われるような安物のプラスチック製。スツールはデザインも高さも区々(まちまち)。どこかからもらってきたらしい壁付けスピーカーは、アメリカンカントリーから高音と低音を奪ってノイズとダミ声を付与しつつも、それなりに張り切っている。
 そんな店でありながら島も寝静まる真夜中を過ぎて席が足りないほどに繁盛しているのは、バドワイザー一缶が一ドルという安さと同種の店がそのあたりにないこと、そして今日が週に一度の深夜便の発着日に当たっているというのが主たる理由である。来た飛行機がとんぼ帰りをする折り返し便で出発と到着の間が一時間と短い。到着と出迎え、出発と見送りとが入り乱れる空港の賑わいを、ただ楽しみにやってくる者もある。
 殺風景で雑然としたその店の奥。
 コイン式のビリヤード台でナインボールに興じる四人組の姿があった。
 まもなく到着する飛行機で日本に帰る小国姉妹と、見送りの左之助・剣心コンビである。
 カツン………カツーン………。
 小気味よい音がして、グリーンの羅紗をボールが走る。
 二台並んだビリヤード台は、どこから引っ張ってきたものなのか、今年で五年になるというこの店以上の年輪を刻んでいる。
「仲直りはできたようですね、剣心サン」
 あやめが少しおどけた口調で言った。
 左之助が突いた球のゆくえを見つめる口の端にほのかな笑みがうかがえる。
 剣心はあやめの横顔をじっと見た。
「あー……惜しい!」
 徐々に速度をゆるめた「4」のボールが穴の少し手前でぴたりと静止した。左之助が舌を打ってテーブルを離れ、あやめがにこりと剣心を見上げる。
「剣さんの番ね。がんばって」
 四人組といってもプレイヤーは左之助と剣心の二人。あやめとすずめはギャラリーである。
 あやめに背中を押し出されて台に向かった剣心だったが、集中力を欠いたミスショットですぐに手を失い、左之助と交代することになった。
「ケンカしてたんでしょ? 左之さんと」
「え」
「二人とも朝からなんか変だしさ。剣さんはモニョってるし、左之さんもさっきだって――あ、晩ごはんのときね――心ここにあらずって感じだし」
「………」
「よかったー。これであたし達も安心して帰れるよー」
「えっと。ていうかさっきから思ってたんだけど、あやめちゃんもしかして何か誤解してない?」
「誤解?」
「あーとさ。俺たち別にそんなんじゃないから」
「…………」
「いやホントに」
 カツン…………コン……ゴ……トーン………。
 慎ましやかな音と共に「4」がポケットに吸い込まれて、左之助が「いよっしやー」と拳を握る。「左之さんナイス」と手を叩き、あやめは言葉を続けた。
「もったいないなあ」
 もったいない? なにが? 今のショットが?
 まさか。
「すごいぴったりなのに。息が合ってるっていうか、ほんとにいいコンビなのに、もったいないよ。セイさんだって言ってたもん。二人は二人でいるのがいいって」
 セイさん?
 なぜここでセイさん?
「セイさん達はさ、あたし達より前からいたじゃない? だから違いがよくわかるわけよ。えっとつまりね、剣さんが来る前と後とじゃ、左之さんホント全然ちがったんだって」
「…………」
「あたし達は一緒に着いたからあれだけど、でもとりあえず見てればわかるし、そんなの。ヒゲ剃ったときとかもだけど、っていうか、最初の朝からしてさ、カゴ入り剣さんを左之さんが運んでるときとか超可愛かったんだよ。ぼろくそ言いながらすっごい大事そうに持っててね。海に放りこんでやるーとか言って、置き方はそうーっとしてるし。日も当たんなかったでしょ。左之さん、ちゃんと日陰をよってたからね」
「…………」
「うわーラブラブーって。ちょっと照れたけど。そしたら向こう着いてもとにかくメチャメチャ楽しいし。あ、そうそう、あの剣さん網焼き事件のときもさ、あんなに大笑いしてネタにしてたけど、でもココナツオイル塗ったのって左之さんだよね。背中は自分で塗れないもんね。あのときも思ったんだ。左之さんてこんなにはしゃぐ人だったんだって。へーって。前来た時ってあんまりそんな感じじゃなかったから」
 カツーン………。
「あ、しまった。クソー」
「あー、残念」
 悔しがる左之助の声と、すずめの声。
「はいはい、行ったんさい!」
「ちょ、あやめちゃん……」
 再びやさしく背中を押し出されたが、案の定はずした。
 お前やる気あんのか真面目にやれ、とブーたれる左之助への応えもそこそこに戻ってきた剣心に、あやめはにっこり笑って、爆弾を落とした。
「あのね剣さん。セイさんがね。夜中の野便所はたしかにホラーだったって」
「え?」
「セイさん。夜。出るものも出なくてトイレ三往復したって」
「…………」
 みんなトイレはちゃんと行っとけよ。夜中の野便所はホラーだからな。
 はーい。
 がんばりまーす。
 って何を。
 アンツの無人島でキャンプをした夜だ。
 夜中に三度もトイレに起きたという青空(せいくう)。バンガローからは海とビーチが見渡せた。翌朝の青空は妙にぎくしゃくとぎごちなく、赤くなったり狼狽えたりと挙動不審だった。
 お二人のおかげですごく楽しかったです。頑張ってください。
 帰国前、空港まで見送った剣心をまっすぐに見て言った毅然とした視線と声が耳に甦る。
「いいじゃない。あたしなら超自慢するよ、あんな彼氏なら」
 でもあやめちゃん。でもそれはあやめちゃんは女の子だから―――。
「あー、でも左之さんは女じゃ無理だろうな。あれとわたりあえる女の子なんてちょっといない」
「は?」
 無理無理、と、あやめは大きく首を振っている。
 剣心はぱちくりと目を丸くした。
 わたりあう? そういう問題か?
「そういう問題だよ」

「つうかお前マジでやる気ねえだろ」
 ドスドスと足を踏みならしながら向かってくる左之助の眉間が寄っているのは、剣心とあやめがさっきから話し込んでいるからというわけではなく、「8」まで地道ながらも着実にポケットしながら後一歩というところでフィニッシュを逃したためである。台には白い手球と「9」だけが残されている。それを見て剣心は笑った。
「また律儀に一個ずついってんなあ。“8”だけに八つ当たりか」
「うーわ、おやじギャグ。さむっ。ダサッ」
「剣さんファイトー」
「がんばってー」
 むくれる左之助、応援するすずめとあやめ。
 剣心はちらりと台を流し見て、自信たっぷりに微笑んで言った。
「じゃ、ま、ちょっと本気でも出すとしますか」
「かっこいいー」
「がんばってー」
「……ケッ」
 難しい残り方だった。台についた剣心はふたつの球を見据えながら少し歩き、やがてウンと頷くと、片足を浮かせてひねるように腰かけ、落ちてくる髪を肩に払い上げて、高く短くキューを構えた。
「剣さんって運動神経がいいんだね。きっとものすごく。だから何でもできちゃう」
「目もじゃない? なんだっけ、動体視力? なんにしても“中学の頃にちょっとやってた”って次元じゃないよ」
「ないね。全然ないね。ていうかカッコよすぎるんですけど」
「ねー! そーだよねー!」
 剣心いわく、サイパンに住んでいた頃、よく出入りしていたコーヒーショップに同じような台があり、そこの店主や常連に手ほどきを受けたのだというのだが、板に付いたキューの持ち方、構え方は言うに及ばず、チョークを塗る手の動きひとつとっても映画のワンシーンのように目を惹き、そこだけスポットライトが当たっているかのような華を放っている。たしかに姉妹の言うとおり“昔ちょっとやってた”で済むたたずまいではとてもない。
「……ねえ? ていうかさ、もしかして結構目立ってる?」
「うん……。あたしもちょっと、さっきから思ってた」
 ガヤガヤどころかワアワアと耳をふさぎたいほど騒々しかったはずの店内で、いつのまにか彼らのビリヤード台の周りだけがしんと静まりつつあった。ちらちらと見ている程度の者もいれば、幾人かは明らかに剣心の挙動を注視している。妙な緊張感が高まるなか、剣心は悠然とキューを振った。
 カキーン―――。
 高く澄んだ音が響いて、長い髪の先端が背中でぴょこんと跳ねた。手球は迷いのないラインを描いて、弾かれた「9」は三度クッションにはね返った後、吸い込まれるようにポケットに消えた。
―――トーン……。
 おおおー。
 まさかそんな風に注目を集めていたとは知らなかった剣心である。思いがけない大きなどよめきに目を丸くして周りを見回すと、少なくないギャラリーが剣心に拍手を送っているではないか。
 なにがどうした?
 きょとんとする剣心の前に、負けず嫌いの相棒がむっすりと立ちはだかった。
 こういう時の左之助はきわめてわかりやすい。剣心の顔がほころんだのはその微笑ましさゆえだったのだが、左之助には余裕の笑みに見えたらしい。渋い顔で剣心を睨みながらコインを追加し、有無を言わさず二回戦開始を無言で宣言した。負けた方が次のゲームをもつのがルールなのだ。
「くそ剣心。てめえ。負けて泣くなよ」
 剣心も再戦にはやぶさかではない。そして受けて立つ以上は対戦モードである。長い髪をポニーテールに結わえると、ぷるんとひと振りして背筋を伸ばした。
「お前がな」
 好戦的に笑んだ双眸に抜き身の刀を思わせる強い光が走る。
「わ、本気だ。剣さん本気だ」
「うん。だって顔が変わった。別人」
 たしかに別人である。普段はぱっちりと大きな愛くるしい目が涼しく切れ上がり、眉は鋭利に締まって、あたりを払う。目にも鮮やかな夕焼け色のポニーテールが跳ねる様さえ挑発的だった。
「抜刀斎モードだ」
「だねだね。抜刀斎だね」
「「………ん?」」

 もちろん剣心の完勝だった。
 しかも、ゲームはもとより始まる前の場の雰囲気からしてすでに剣心の独壇場で、気がつけば店中がゲームに――否、剣心を注視していた。だから「9」が決まったときには盛大な拍手と口笛と歓声が飛びかい、一躍人気者になった剣心のまわりには、一言話そうという者や祝い酒を振る舞おうとする者からどさくさまぎれに触ろうとする者まで見知らぬギャラリーがわらわらと押し寄せて、もうすっかりこの夜の主役の様相を呈していた。それだものだから、調子にのりすぎた巨体のネイティブが人形のようにかわいらしい剣心に抱きついて祝福のキスにかこつけようとし、怒った左之助に「離れろ!俺んだ!」と蹴りとばされ、その左之助に衆人環視のなか思い切り抱きすくめられた剣心が「やめんかド阿呆!」と左之助を一本背負いに沈めたバイオレンスな一幕も、むしろ微笑ましい余興として大いに場を沸かせた。
 剣心はフンと鼻息荒く手を打ち払いながら大はしゃぎする小国姉妹のそばに戻ってくると、片目をつぶって親指を立ててみせるあやめに向かってヒョイと眉を上げ、ほんのり頬を赤らめながらも澄ました顔でこう言った。
「たしかに。そういう問題かもしれない」
「でしょ?」
「なになに? なんの話?」
「内緒」
 剣心の顔いっぱいに夏空を映したような笑みが弾けた。


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わらくる<26> 2008/8/19





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