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2008/8/7

<25>

 喧嘩みたいなキスをした。
 部屋に戻った直後だった。そむけた肩をつかまれ、払った腕を返されて、声を上げる間もなくベッドに組み敷かれて、抵抗を唇で封じられた。
 力づくでのしかかってくる左之助を剣心もまた力任せに押し返し、まるで取っ組み合って喧嘩をしているのと変わらない。全身をびったりと密着させ、息も忘れて唇を合わせてはいても、頭は醒めて、赤黒い渦が巻いていた。
 こんなのは嫌だ。
 二週間しかないのに。たったそれだけしか時間がないのに。喧嘩なんかしてる暇はないのに。こんなどうでもいいようなことでつまらない喧嘩なんかしてる場合じゃないのに。
 こんなのは嫌なのに。
 なのにどうして身体は反応するのだろう。
 左之助の手。左之助の腕。左之助の胸。左之助の脚。左之助の匂い、左之助のキス。手首を押さえられ腰を挟まれ、身体の自由を奪われて、そむけても反撃しても逃れさせまいと力でねじ伏せ、ほしいままに掻き回していく。こんなやり方は嫌いだ。大嫌いだ。そのはずなのに。なのにふれ合った身体のどこもかしこもが、馬鹿みたいに左之助を感じて反応する。ヒートする。
 嫌だ嫌だ嫌だ。こんなの嫌だ。
 思ううちにも頭の中身は断片的になっていって、やがて何が嫌なのかも、どうして争っていたのかも、何に抗っていたのかさえどうでもよくなり、しまいには奪い尽くすようなキスと愛撫と抱擁に侵されて理性も知性も消えていく。
「いや、あ……あっ」
 年若い相棒の与えるこの快感に抗しきれないのは知っている。一年離れていたくらいで身体は忘れていない。むしろ長いブランクで感覚は鋭敏になっている。手もなく溶かされ、他でもない左之助に教え込まれた繊細な性感を呼び覚まされてしまえば、もう彼の思うままに乱されていく自分を抑えるすべはない。
「あっ……あ……あ、ん」
 いつのまにか、着衣もそのままに無理矢理ねじ込まれた手に局部は揉みしだかれ、まくり上げたTシャツの下で乳首が吸われていた。知り尽くした身体を左之助は乱暴に嬲っていく。有無を言わさず押さえつけ、ことさらに羞恥心を煽る行為をしたりさせたりして、剣心を挫(くじ)く。
「や、いや……嫌……」
 獣の姿勢で四つ足をつかされて、剣心は力なく首を振った。顔の見えないこの態勢が剣心は昔から苦手だった。
「あっ」
 左之助の指が久しく人に触れられていなかった孔に触れる。
「あ……。あ、あ、あ……や…っ!」
 慣れないそこをろくに揉みほぐそうともせず、短兵急に指が潜り込んできた。いやがる言葉とは裏腹に剣心の身体は侵入者を拒否しない。それどころか、求められるまでもなく、貫入に応じてゆらゆらと細腰が揺れ始めた。
「う、あ、んうっ……」
 もう腕で上体を支えてもいられなくなっている。
 ベッドに顔を横たえ、そこだけあられもなく剥きだしにされた下半身を突き出して力なくすすり泣く姿は、ひどく淫虐心をそそる眺めだった。
「うっ、うぅ……っ」
 手酷く掻き回された剣心の背が弓のように仰け反った。
「あっあっああーーっ」
 吸う息とも吐く息とも知れない悲鳴が喉を裂いて漏れる。
 もう完全に理性は灼き切れていた。
 だから、今しも自分を征服しようとしていたはずの左之助にいきなり突き放された時には、当然ながら何がどうなってそんなことになったのかなどわかるわけがなく、まして、磁石を引き剥がすように我が身を退かせた左之助の行動の意味に理解の及ぼうはずもなかった。
「くそっ……!」
「………?」
 濡れそぼって焦点も覚束ない蒼い目が、呆然と左之助に当てられた。頬は上気して色づき、ベッドに投げ出されて弾む薄い胸では乱暴に弄ばれていっそう小さく凝った乳首が天を突いて上下している。
「さ、の……」
 彷徨う視線は訝しげで、朱にぬめる唇が呼ぶ声には菓子をねだる子どもの媚びが含まれている。
 そんな剣心を、左之助は苦い顔で睨みつけた。
「………くそっ!」
 吐き捨てるように唸った左之助が乱暴に上シーツを引き上げ、広げたシーツで剣心を頭から覆い隠す。
 そこまでされれば、何やら気が変わって事が中断されたらしいということはさすがに察しがついたが、しかし今度はそんな風に引き剥がされた理由がさっぱりだ。
 突然閉じ込められてもがく剣心を置いて、左之助はベッドを離れた。
 足音はそのままドアへと向かう。
「ちょ、なに……」
 そもそも何がどうしてどういう経緯でこんな事態になっていたかさえすっかりぶっ飛んでいた剣心が、そういえばそうだったと思い出しつつようやくシーツの高波から脱出した時には、左之助はちょうど部屋を出ようとしているところだった。
「店で寝る」
「おい……!」
 呼ぶ声に答えはなく、後ろ手に閉められたドアはただ沈黙するばかりだ。
「なんなんだよそれ」
 滅茶苦茶にもほどがある。
 勝手に怒って、勝手にキスして、人を玩具みたいにしたい放題にしておいて、挙げ句に勝手に消えて。なのにどうして向こうが傷ついたみたいな顔をしている。
「最低」
 最低だ。
 身勝手で、自分本位で、無茶苦茶で、クソミソで、最低だ。
 なのに怒りが左之助に向かっていかないのは、これはいったい何なのだろう。
「くそ」
 そう舌打ちしたいのはこっちだ。
 だが、叩きつけるように剣心を睨みながら、左之助の顔は苦しそうで悲しそうだった。あの目とあの顔は知っている。昔、日本にいた頃、何度も見た。振り返らない背中は手負いの獣のようだった。あの背中も知っている。
「なんなんだよ、もう……」
 左之助の気持ちが見えない。誰よりも何よりも大事に思っているはずなのに、何を考えているのか、何を望んでいるのか判らない。
 やさしくしたいのに。仲違いなんかしたくないのに。こんなの嫌だ。最低だ。
 わかってやれない自分が最低最悪に嫌だった。



「けーんさん」
 柔らかなあやめの声に目を覚ます。
 いつのまにかうとうとまどろんでいたようだ。
 蒼かった海と空は鮮やかな夕映えに染まっていた。
「寝てた? 具合どう? お腹よくないって?」
「ああ、あやめちゃん……。んー、どうかな。いまいちかも。ごめん、外食はちょっと」
「うん。気にしないで。ゆっくりしてて。剣さん、お疲れな顔してる」
 あやめはそう言うと、黙って微苦笑する剣心ににっこり笑い返して、水平線に目を移した。
「きれいな夕焼け」
「うん」
「最後にこんなきれいな夕陽が見れてよかった」
「うん」
 スコールの多い南の島では、気温が変化する朝夕に雲が立つことが少なくなく、美しい夕焼けがいつでも見られるわけではない。
「やっぱりついてたな今回。剣さん、ありがとね」
「ん?」
「すごい楽しい旅行だった。ありがとう。いっぱい遊んでくれて。あと、海も。剣さんと潜れてよかった。あたしももっと頑張るよ。うまくなって、魚のこととかももっと知りたい。って思った。普通に」
 こちらこそ。あやめちゃんとすずめちゃんと一緒でよかった。おかげでとても楽しかったし、何か役に立ったのなら嬉しい。
 口には出さずにそう言って、ニコリと笑った剣心が実際に口にしたのはこんなことだった。
「すずめちゃん、当たってるといいね。12組の123456」
「あはははは。すごい。よく覚えてたね剣さん」
「そりゃもう」
 笑いの後に短い沈黙があった。
「じゃあ行くね。ちょっと左之さんお借りします。さくっと帰ってくるから」
「何だよそれ。いいからゆっくりしておいで」
 くまのある目を三日月に細める剣心に一旦背を向けて行きかけたあやめだったが、何か気になることがあるのか、足取りが逡巡している。案の定、何歩か行ったところで立ち止まり、今度は思い切ったようにくるりと振り向いて言った。
「ねえ! 難しいことはさ、あんまり考えない方がいいかもよ。それより海とか潜ってワハハって笑ってさ。せっかくこんな素敵なとこにいるんだから」
「あやめちゃん……」
「ね!」
 あやめは爽やかに柔らかに笑って長い髪を揺らし、パタパタと走っていった。

 黄金色から紫へと見事なグラデーションを見せる大きな空を見ながら、少し歩いた。
 そうかもしれない。そうなのかもしれない。
 考えてもわからないから実際に会って確かめようと思って来たが、会って話すだけでわかるものなら、そもそもこんなに悩みはしない。
―――明日は海に出てみようか。
 何も変わらないかもしれない。だが変わるかもしれない。
 アンダーウォーターに嘘は通用しないし、水の中の左之助はわかりやすい。
 幸い明日からしばらく到着客はないと聞いている。
―――ポチにも会えるといいな。
 そうだ。明日は海に行こう。もう一度潜ってみよう。左之助と二人で。
 そう決めると少し気持ちが軽くなった。
 燃え立つ夕陽が剣心をやさしく包んでいた。


 ヴィレッジ組が夕食から帰ってきたのは、時計の短針が十を指そうという時刻だった。
 灯りの消えた部屋の前に立った左之助は、静かにドアを開けて中の様子をうかがった。
 部屋は暗く物音はしないが、人の気配はある。耳を澄ますと、静かな呼吸音がかろうじて聞き取れた。
「剣心?」
 …………。
「寝てんのか?」
 もそり……。
「みやげあるけど」
 …………。
「ヴィレッジのペッパーラムサンド」
 …………。
「オリジナルマスタードたっぷりつき」
 …………。
「食うだろ?」
 …………。
「食わねえなら俺食うけど」
 …………。
「じゃあ一緒に食う?」
「…………食べる」
 こんもり盛り上がったシーツの山の中で、くぐもった声がした。
 拗ねたような怒ったようなむっすりした口調だが、それが要するにただの照れかくしであることくらい、このアマノジャクな小動物の性質をよく知る左之助には瞭然である。弾けるように笑うと、シーツの小山に飛びかかり、布の下にある愛おしい生き物をワサワサと揉みくちゃに揺すった。ウリャウリャと飛び跳ねる笑い声に誘われるように剣心も笑いだし、二人して意味もなく笑い転げながら組んずほぐれつ、遊び盛りの虎の子のように戯れ合った。
 三年間一緒にいて嫌というほど喧嘩をした。つまり数え切れないほどの仲直りを経験している。些細ないざこざや気まずさを小さな笑いで手打ちにする呼吸ならお手のものだった。かえって傷口を広げるような湿っぽい謝罪を口にする代わりに、フレンチキスを交わして一言「ゴメン」を言いさえすれば、それで仲直りは完了する。この日は剣心が先に軽く音を立てて左之助の唇を啄んで謝り、左之助も同じようにつつましいゴメンのキスを返して一件落着と相成った。
 いつもと少し違ったのは、落着した途端、左之助が剣心をぎゅっと抱きすくめたことである。剣心は少し驚いて目をしばたたいた。
―――左之。ごめん。
 心の中でだけもう一度そう呟いて、左之助の匂いを胸いっぱいに吸い込み、背中に腕を回す。
 ギスギスと雲行きの危うかったこの一日は嘘みたいに長かった。
「左之。あした二人でどっか潜りに行こうか」
「おう」
「ポチか、お前のシークレットポイントか。それか他んとこでも」
「おう」
「当たるといいな」
「おう。頼むぜ」
「えっ、俺が頼まれるのか。そこは“任せとけ”だろ普通」
「いやだってお前結構かなり強運じゃん?」
「そうか?」
「今回だってお前ハズレなしだろ。お前いない時とか割とはずれたぞ?」
「パーランは」
 新井夫婦のラストダイブとなったドリフト未遂の坊主ダイブである。
「けど剣さん的には大当たりだったろが」
「まあそうだけど」
「つまりそゆこと」
「んー……?」
「いいからほら。冷めねえうちに食おーぜ。あんま時間ねえし。お前も行くだろ見送り」
 もう一時間もしないうちに、あやめとすずめを空港まで送るために出発しなければならないのだ。
「それは行くけど……。“食おうぜ”ってお前も食べるつもりか?」
「ん? おう」
 さも当然と言わんばかりの左之助である。
「けどだって、みんなで食べてきたんだろ?」
「つってももう一時間も前だし」
「だからそれ全然“前”じゃないし」
 呆れて見上げた剣心の頭を、真っ黒に灼けた手が嬉しそうにかきまぜた。


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わらくる<25> 2008/8/7





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