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2008/7/25

<24>

 一生だと左之助は言ったのだ。
 一生に決まってる、と。
 二年前、彼がポナペに来ることになった時のことだ。
 剣心も行くことを左之助は望んだ。
 ずっと一緒にいたい。いてほしい。
 だがそんなことを言われても困る。
 ずっと?
 ずっとってなんだ。
 ポナペにいる間か。元気に潜っていられる間か。楽しくやっていられる間か。飽きるまでか。「とりあえずずっと」か。
「ずっとっつったら一生だ。決まってるだろ。死ぬまでだ。つか死んでもだ。当たり前だろ」
 まるで思ったことが聞こえでもしたように、左之助は言った。
 お前は? 剣心、お前は?
 答えられなかった。
 どう答えていいかがわからなかった。
 答えない剣心に、まだ何か言いたそうにしながら何も言わなかった、怒ったような、爆発寸前のような、さまよう表情が、目に残っている。

 あのとき選べなかった答えを見つけるために戻ってきた。
 だが。

―――だからやっぱり最初から無理だったんだ。こんなこと。

 無茶苦茶だ。
 プロポーズの返事を保留にした状態のまま、しかも一年も離れていたのに、まるで何も重大なことなどなかったように、以前と同じように、ほんの数日しか経っていないとでもいうように、普通に当たり前に変わらず自然にふるまうなど。そんなこと、そもそもからして不自然だったのだ。
 思えばひずみは最初からあった。
 昨日の続きのような自然な会話。昔と変わらない他愛ない憎まれ口の応酬。何も不安などない幸せな恋人同士のようなスキンシップ。当たり前のように繰り返されたキス。
 自然なはずがない。変わらないはずがない。当たり前のはずがない。迷いがないはずがない。
―――でもだって、じゃあどうしたらよかったんだ。
 プロポーズなんかしたこともなければされたのも初めてで、返事をするまでの間どうすればいいのかなど分からない。
 正式に別れたわけではないから一応パートナーではある。だが申し込まれてまだ受けていないから保留中でもある。返事がノーのケースを考えれば、破局予備軍と言えなくもない。
 どっちなんだ。どうすればいいのだ。どうふるまえばいいのだ。触れていいのか。いけないのか。キスは。ハグは。セックスは。―――そんなこと分かるわけがない。
 しかもその微妙な状態を一年も引きのばして一人で旅行などしていたのは自分だ。
 何かを選ぶということは、別の何かを捨てるということだ。それはきっと、何においても、誰にとっても、常に必ずそうなのだ。そのはずだ。それなのに。
 考える時間がほしいなどと聞こえのいいことを言って、要するに逃げただけだ。当面の決断から。つまり喪失から。失わなければならないものと事と人から。
 いつまでも逃げてはいられない。逃げることは全部を捨てることにしかならない。せめてそれはしないと決めたつもりだった。
 なのに、もう何をどう考えればいいのか、頭の中は犬の子が走り回った後のようにしっちゃかめっちゃかで、どこからどう手をつければいいのか判らない。
 そのうちに、どこからどう手をつけるべきかと考えることさえ放棄したい気になってきた。

―――やっぱ部屋くらい別にしとくんだったかな……。

 お前はどうしたいのか、と訊かれたからか、最初は自分の気持ちばかり考えていた。
 だが、考えてみれば、そんなことは今さら改めて向き合わなければならないようなことではなかった。そんなものは考えるまでもなく判っていた。好きなのだから当然だ。男同士で四年も付き合ってまだ足りない。それほど大事に思っている。
 判らないのはその先だ。
 好きだからといってそれでいいのか。
 本当に大事だからこそ考えなくてはいけないことがあるのではないのか。
 ある日はこうと思ったことが、別の日には間違いに思え、また別の日にはやっぱりそうだと思う。あるいは全然ちがうようにも思える。
 そんなことを何度も何度も何度も何度も繰り返していたある日、ふと思ったのだ。
 だが左之助の考えは?
 左之助の気持ちを、考えを、本当に知っているだろうか? 判っていると言えるだろうか?
 何をどう思って、なぜ、何を望んでいるか。彼にとって自分は何なのか。どんなつもりで「ずっとは一生」を口にしたのか。どんな気持ちで待っているのか。
 考えて考えて考えて、結局わからなかった。わからなかったから会いに来た。訊きに来た。想像と記憶の中の左之助ではなく生きた生身の現在進行形の左之助に。言いたいことは口に出してハッキリ言えと剣心には言いながら、自分こそ本当に言いたいことだけを最後まで言わないああ見えて損な性分の左之助の、言葉にされることのない本当の声を知るために。
 滞在期間は二週間しかないが、その間、自分の感情を見るのではなく、もちろん感傷でもなく、彼の言動と表情としぐさをただただ見てみようと思った。
 そのために、少しでも長く多く近くで見ていたかった。だから敢えて同室にしてもらった。
 盆暮れ正月以外は空室に困ることのないのんびり経営のリゾートだ。当然の成り行きとして客室を一つ手配しようとしていた左之助に、もしかまわなければ部屋に泊めてくれないかと頼んだのは剣心だ。
 お前がいやじゃなかったら。
 ずるい言い方をした。
 いやだなどと、左之助が言うはずのないものを。
 予想を上回るトラブルで真夜中にヘロヘロで到着して、すぐにキャンプに連れ出された。ノリと勢いで同じハンモックで寄り添ったまま一晩を過ごしたものの、島に帰ってきた日は風邪をひきこんで、それからは二つあるウォーターベッドをひとつずつ使って別々に寝ていた。以前もたまに一緒に旅行した時などはあれば各々にベッドを占有するのがならいだったから、それはそれで違和感も無理もなかった。同じ部屋に暮らして、同じ空気を吸って、手を伸ばせば届くところに寝ていることを、ときどきそうと意識はしたが、切羽詰まって困るほどの支障や苦痛はなかった。それは左之助もそうだったと思う。
 ただし昨日までは、だ。


 おかしくなったのは、町のピザハウスに二人で食事に行った昨日の夜からだ。
 日々の夕食は、アンツから帰ってきた日に島の北東にある上質なエコロジカル・リゾート「ザ・ヴィレッジ」のレストランに行った以外は、左之助がこの一年間基本的にはそうしてきたように、ダイブサービスの厨房を使って自炊していた。
 たまには外食でもと四日ぶりで町に出た。もっとも町といっても最近島で初めて設置された信号が地元民の格好の見物スポットとなっている、そんなのどかな南の島の田舎町である。主にリゾート客向けのレストランがいくらかはあるものの、迷うほどの選択肢はなかった。
 この日行ったカジュアルイタリアンは、ローカルの観光客向けフリーマップによると、店の真ん中にある大きな石窯とそこから取り出した焼き立てのピザを柄の長いパーレ(へら)で直接テーブルにサーブするパフォーマンスが見物、となっていたが、むしろ左之助的には、アメリカ文化圏のミクロネシアには珍しく本格的なイタリアンタイプのクリスピーピザが食べられるのが貴重だということで、そして味に厳しい左之助がそう言うだけあって、なるほどピザは美味だった。マンホールのように巨大なピザの生地は油断していると上顎に刺さるほどバリバリで、たっぷりのった三種類のチーズは薫り高くトロトロで、トッピングのアンチョビとトマトとバジルは新鮮で味が濃く、どっしりした木のテーブルの上ではキャンドルの炎があたたかく揺れていた。

 食事を終えてすぐに帰っていればよかったのかもしれない。
 だが、美味しいディナーの幸せな余韻が名残り惜しく、サービス精神旺盛な石窯パフォーマンスを肴にゆるいペースでしばらく杯を重ねていた。
 二人がそうしてゆっくりしている間に、幾組かの客が入れ替わっていた。
 帰る客もいれば来る客もいる。遅がけにやってきた客の一団に、左之助の知り合いがいた。ヤップ島の小さなリゾートでダイビングサービスを経営している日本人だった。女性ながら左之助にも劣らない身長で、骨格も肉付きも良い立派な体躯に、南の島で働く海の女らしいバイタリティーと勢いがみなぎっている。たおやかさや色気には縁遠いが、むしろそれが潔く、年は左之助と変わらない頃に見えた。
 ヤップも同じミクロネシア連邦内の島ではあるが、東部に位置するポナペ州と西端のヤップ州とでは、習慣はおろかルーツも言語も異なり、それぞれ独立した統治と文化のもとにある。島間の行き来はそう頻繁ではない。しかもその多くは大病院での治療が必要な病気や怪我だとか、行政的な事務手続きの必要があるとかそんなような用事だから、周辺島から首都のあるポナペ島に来ることがほとんどで、逆は滅多にない。
 いずれにせよ、近隣エリアの同業者のリアルタイム現地情報は貴重である。二人は海のことや日本の海外ダイビング旅行事情やローカルのクチコミトピックスなどの情報交換にいそしんだ。
 その様子を見るともなしに視野に捉えながら、剣心は突然に思った。
―――友達とかって、いたっけ。
 左之助のことである。
 根本的に人に好かれる人間だ。
 礼儀知らずで生意気で口が悪いのに気むずかしい目上に不思議と可愛がられ、乱暴で人使いが荒いのに同性に慕われ、冷淡で気まぐれでつれなくても異性はのぼせる。当然、遊び友達には事欠かない。
 だが、それは友達とはちがう。そういう関係を「友達」とは多分呼ばない。
 試しに思いつく限りの顔を順番に繰ってみたが、友達と呼べそうな友達は出てこなかった。
 そんなはずはない。と剣心は自分に言う。自分が知らないだけだ。きっとそうだ。だって自分とはちがう。左之助なら友達くらいいて当然だ。いないはずがない。
 そういえば、剣心が知っているのは、家族以外では「海屋」以降の交友関係だけだった。それ以前、つまり高校時代までのことは全くといっていいほど知らない。きっとだから知らないのだ。だが思えば知らないのは交友関係だけではないことに気づいた。クラブ活動は何をしていただとか、どの教科が得意だったとか。それから、家出をして比古に拾われるまでの間のことだとか。左之助も進んで話さなかったし、剣心が敢えて訊くこともなかったからだが……。

 ピザハウスの情景を網膜に映しながら頭の中の世界に沈んでいた剣心の目の前に、ふいに白いプルメリアの花がにょっきりと咲いた。
『エクスキューズミー?』
 花が咲いたのと同時に降った流暢なクイーンズイングリッシュに驚いて顔を上げると、男が映画俳優のような芝居がかった仕草で腰を折って剣心を間近くのぞき込んでいた。知らない男だ。白っぽい銀髪に黒い目の長身で、国籍不明の不思議な空気をまとっている。純白のプルメリアは男の右手で咲いていた。
『ひどい彼氏だね。君のような美しい人にそんな悲しい顔をさせるとは』
『……は??』
『ケンカ? それとも三角関係? いや、そんなことは問題ではないな。君をないがしろにする男など地獄に落ちるがいい。ああ、そんな目をしないで、美しい人』
 あまりといえばあまりなありえないキザっぷりと、歯が浮き背中を虫が走る珍妙な言い回しに、剣心は呆気にとられて反応ができなかった。ぽかんと口を開けて、ほとんど呆然と男を見る。
『泣きたいときは思い切り泣くに限る。泣いて泣いて、悲しい記憶は涙に流して、次の恋を始めるのさ。さあ、僕の胸でよければいくらでも貸そう。遠慮なんてしなくていい。僕が忘れさせてあげよう、あんな男のことは』
『―――は? っていうか、あの、ちょ……だ、大丈夫ですか?』
 だが、きっと世の女性をそうしてのぼせ上がらせてきたのだろう。男は自信たっぷりの甘ったるい微笑で剣心の凝視を受け止め、みずみずしいプルメリアの花を剣心の髪に挿した。
『思った通りだ。君には憂い顔より白いプルメリアがよく似合う。ああ、けれど君の前では花も己を恥じてしおれてしまいはしないだろうか』
 ひどい。いくらなんでもこれはひどい。ひどすぎる。
 信じがたい不思議生命体を前に、呆れた剣心の大きな目はこぼれそうに見開かれている。
 だが男はそれもフェロモン全開の自分の流し目の成果だと勘違いしたらしい。
『いけない。そんなに熱く見つめてはいけない。君の瞳は魔だ。これ以上その目に見つめられたら……。ああ、僕は自分を抑えていられる自信がない』
 悩ましく首を振る仕草も堂に入ったもので、ここまでくるともはやあっぱれである。
『駄目だ。僕を見ないでくれ。僕は……僕はもう……』
 そんなことを言いながら、男はもう駄目な割には素早く抜かりない動作でどこからか紙片を取り出し、これまたどこからか取り出したペンを走らせ、
『後で電話を』
 止める間も拒む余地もあったればこそ、目細の安もかくやの手業でそれを剣心のカーゴパンツのポケットに滑り込ませると、忍者のように姿を消した。
―――なんだったんだ、今の。
 すでに遠くを行く男の後ろ姿を呆然と見ていたのは、剣心にすれば「通りすがりのイタイ人」だった彼の変さ加減があまりに突き抜けていたからだし、ポケットから取り出した紙片を思わずじっと見たのは、きれいな英語を話していた国籍不明の銀髪の男が書き残した文字が右肩上がりの几帳面そうな漢字の日本名だったのが思いがけなかったからだ。
 だがそんな剣心の挙動をまったくちがうように捉えた人間がいた。
 不穏な様子に遠目に気づいて、挨拶もそこそこに話を切り上げて戻って来ようとしていた左之助である。
「おい。なんだ今の」
 そんなことは剣心の方が訊きたいのに、剣呑な目で男の去った方をひと睨みした左之助は、例の電話番号が書かれた紙片と髪に飾られたプルメリアを乱暴に取り上げると、ぐしゃぐしゃに握りつぶして、紙は卓上キャンドルの炎に、花は脇の植え込みに、それぞれ放り込んでしまった。
「あっ、何する」
「いらねーだろ。こんなもん」
「………」
 いいや、いるいらないの問題ではない。
 あの雪代某とかいう男が甚だしく頓珍漢な勘違い君だからといって、花も名前も電話番号も無理矢理押しつけられたものだからといって、そんな風にしていいということにはならない。どんなものであっても、また誰であっても、人には守らなければならないものがある。ルールやマナーや節度や常識と呼ばれるそういう類のものを軽んじる言動が剣心は好きでない。何より、花に罪はないではないか。
「お前、最っ低」
「何が。どこが。つか、いらねーだろ、んなもん。それともなにか。いるのか。用があんのか。今のヤツに」
 考える前に手が出ていた。
 左之助と一緒に吹っ飛んだのが食器や料理ののったテーブルではなく椅子と観葉植物の鉢だったのは僥倖だったが、といっても別段剣心が意識してよけたわけではなく単にたまたまそうなっただけだ。
 ルール? マナー? 節度に常識?
 平生はともかく、理性のたがの外れた剣心の前にそんなものはあったものではなかった。しかしそんないきがかりでは左之助も黙ってはいない。
 後は推して知るべしである。
 結局、文字通りとんできた店長と店員に体よくつまみ出されてしまい、つんけんしたまま目も合わさずに帰ってきた。仕方がないので同じタクシーに乗りはしたが、後部座席に離れて座り、剣心は窓の外から目を離さず、左之助は前方を睨み続けて、一言も口をきかなかった。罪もないのに後頭部を睨みつけられ続けた運転手にはいい災難だった。


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わらくる<24> 2008/7/25





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