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2008/7/11

<23>

 小国姉妹の帰国が今夜に迫っていた。
 彼女達が剣心とたまたま乗り合わせてやって来たのが、ちょうど一週間前の日曜日。そして今日、週に一度の深夜便であるCS959便で、二人は日本に帰る。
 離陸は真夜中の午前一時二十五分。グアムで一泊することなくスルーで乗り継げることととダイビングこそできないものの丸一日をめいっぱい遊べることがこの深夜便のメリットだから、最終日のこの日は無論朝から島内観光である。アテンドの左之助について、剣心も一緒に行動していた。実は昨夜からのことを思うと気が重かったのだが、「最終日の観光は剣さんも一緒に」という前々からの約束を楽しみにしている姉妹のことを思うと、「昨夜ケンカして気まずいからヤだ」などという私的かつ子どもじみた反故理由こそ緋村剣心の良心とプライドが許さない。いくらなんでも二人に失礼だ。それはそれ、これはこれ。内心の悶々はぎゅうと抑え込み、ここはきちんと楽しむつもりで、総勢四名のポナペ島満喫一日観光ツアーに参加していた。
 まずはダイビングと並ぶこの島の観光の目玉であるナン・マドール遺跡だ。満潮時には半ば海に沈み、海側から舟を漕ぎ寄せるしか道のなくなるこの巨石文明の遺産に、潮の引くタイミングで陸からアプローチした。ビレッジセンターのある密林を抜け、ぬかるみを踏み分けて、最後は膝まで水に浸かる水路を横切って、行路はおよそ三十分。言葉にするとちょっとした探検隊もどきの行程だが、実際には言うほどハードではなく、刺激的なアトラクション感覚で楽しめる、ほどよい冒険路である。
 そうして着いた先は、不可思議な石積みの神殿とされる遺跡だ。背丈を越える壁に挟まれた隘路あり、苔むした地下室あり、朽ちた祭壇あり。気心の知れた楽しい顔ぶれでの遺跡探検は、気分も会話も遊びも大いに盛り上がった。一人でいるのは気が塞ぎ、二人になるのも気の重かった剣心には、二重の意味でありがたかった。

 いいあんばいのまま、近くにある小さなコショウ農園に立ち寄ってから、ケプロイの滝に向かった。そこで持ってきたお弁当を使う予定である。
 その途中、ひとりの日本人青年を訪ねた。
 青年海外協力隊の派遣隊員だ。
 着たおしたTシャツと短パンにビーチサンダルという現地に馴染んだ身なりで、肌はよく焼け、頭は丸刈り、顎には無精ひげと、一見して研究者らしさや国際ボランティアらしさを感じさせるものはない。かといって、ふらりと居ついたバックパッカーの倦怠もない。田舎に里帰り中の気のいい孝行息子を思わせる人なつこい笑顔で、青年は左之助にぴょこんとお辞儀をした。
「こないだは梅干しありがとうございました。貴重なものを分けてもらっちゃって」
「おう、ミッシー。いやすげえ量あったから全然。ほいコレ。言ってたやつ」
 着古して使えなくなったウエットスーツである。これを届けるのが今日の目的だった。
「わ、ありがとうございます。助かります」
「サノー!」
「サノ、コンニチワ。ハワユー。ドナイデッカー」
 みるみる駆け寄ってきた村の子ども達が、わーいわーいとそのボロウエットを胴上げしながら持っていく。
「アリガトー」
「ナイス・インシュレーター」
「オオキニー」
「はいよ、ウェルカム。毎度」
 すっかり顔見知りの子ども達に笑って手を振り、左之助は青年に訊いた。
「インシュレーター? ってなに?」
「ああ、絶縁体のことです。いま電気の回路をね、みんなで勉強してて。実験装置つくるのに扱いやすくて大きいゴムが欲しかったんです。こっちのは硬いか溶けるかだから」
「あ、なーる。そゆこと。それでボロウエット。理解。あ、そうそう、こいつ。梅干しトラフィック便の相棒」
 彼、ミッシーこと三島栄一郎と左之助はそれぞれ休暇から帰島する際にグアムから飛行機で隣り合わせたことがあり、それ以来、顔を見れば世間話をする程度の交流があった。ケプロイの滝とナン・マドール遺跡を結ぶ道路の支線にあたるこのあたりが栄一郎の活動場所だったから、会う機会は少なくなかった。島内観光ツアーで度々そこを訪れる左之助との雑談の中で、「最近さすがに日本の味が恋しくなってきた」というようなことを栄一郎がいつか言ったことがあったのを左之助が思い出して、剣心が運んできたジャン特製梅干しの一部を彼に分けた。それが四日前に新井夫婦と来た時のことだった。
 後ろにいた剣心を紹介されて、「おや」という顔を、一瞬青年はした。
 が、真面目な顔は剣心に向かうとすぐににこやかにほぐれ、社会人らしい適度な親しさを示す。
「いやあ、すみません、梅干し。僕までお相伴にあずかっちゃいました。でもほんと有り難かったです。食べ物とか結構なんでも平気な方なんですけど、さすがにこれだけ長いと日本食が懐かしくって。面目ないですが」
「いいえ。俺は持ってきただけですから。もうどのくらいになるんですか?」
 青年海外協力隊の駐在隊員とその生活には興味があった。
「一年ちょっとですね。でも全然短いですよ、二年なんて。子ども達にももっと教えときたいこともあるんですけどねえ。なかなか」
 のんびりした笑顔が科白とちぐはぐだ。
 青年海外協力隊の任期は原則二年。
 彼は在阪の大手電器メーカーの研究部門に在籍しており、会社のボランティア休暇制度を利用して協力隊に参加し、すでに一年をここで過ごしているという。こういうところでは、電気や機械の技術者は常に求められている。彼は技術大国日本の電気技術分野のスペシャリストとして実地作業と技術指導を行っているのである。
「ああ、それで子ども達が大阪弁しゃべってるんですね。ははは。がんばってください」
 ほいじゃ、と、手をあげた左之助と、ぺこりと会釈をして小国姉妹の待つ車に戻る剣心に、青年は最初と同じ人なつこい笑顔に戻って、
「グッデイ」
 と、手を振った。
 Have a good day ―――よい一日を。じゃあ。
 日だまりのように笑う青年だった。

「若いのにしっかりしてたなあ、今の子。いくつくらいなんだろう?」
「忘れたけどお前くらい」
「え。じゃあなんでタメ口なんだお前。向こうが敬語なのに」
「いんだよ、別に」
「いいわけあるか。年上は敬え。まったく最近の若い者は」
 車に戻り、ついいつもの調子でそんな応酬をしていたせいで、剣心はすっかり忘れていた。
 そういえば左之助とは昨夜から断続的に気まずい状態が続いていたのだったということを思い出したのは、ケプロイの滝に着いてランチも済み、滝での水遊びが原因で苦い状態になってしまってからだった。
 世の恋人同士のほとんどの諍いがそうであるように、そしてこれまで二人の間で繰り広げられてきた星の数ほどの痴話喧嘩のほぼ全てがそうであったように、今回もまた、始まりはささやかな事がきっかけだった。
 世界屈指の降雨を記録するポナペ島である。そのジャングルの中にあるケプロイの滝は、高さ約二十メートル。豊かな水量を有し、滝つぼには大ウナギが多く棲むことでも知られている。
 岩場でランチボックスを開き、用意してきたパパイヤサンド左之助スペシャルをみんなで食べた。思い切りぶ厚く切ったパパイヤと同じく特厚のロースハムをトーストしたパンで挟んだサンドイッチは、見た目の意外性に反して、とてもバランスのよい美味しさだった。パパイヤのビジュアルに引っ張られてデザートメニューと思われがちだが、パパイヤはウリの一種だから、要するに生ハムメロンである。ハムの塩味とパパイヤのみずみずしさが食欲をそそる立派な一品料理で、暑い南国のピクニックランチにはもってこいだった。
「左之さんのこれ大好きー」
「うんうん、やっぱりおいしい。最初聞いたときは“えー”って思ったけど」
 左之助自慢のスペシャリテを、リピーターの小国姉妹は前回も食べている。「あれ、またやって」と、折々にリクエストしていた。
 剣心には懐かしい美味しさである。
 左之助がこのメニューを考案したのは、まだ日本で『海屋』にいた頃だ。最初に聞いたときはきっとどこか南国のリゾート譲りのメニューなのだろうと思ったが、実は大阪のビジネス街にある古い果物喫茶のオリジナルだと後で知って意外に思った。
   今度すっげーの食わしてやるよ。
   すごい、なに?
   左之っちスペシャル、パパイヤサンド。激ウマ。
 海賊騒動の余波もさめやらぬ頃だった。
 比古と斎藤が帰ってくるまでの間、何もかも一人で背負いこんだ左之助は、身重の時尾をかばい、しつこく身勝手なマスコミに神経をすり減らしながら、ふらふらになって走り回っていた。人目をはばかる生活では剣心の家に来ることもほとんどできなかった。
 そんな殺伐とした日々のなか、ひっそりと二人で過ごしたささやかな時間に、左之助がこのパパイヤサンドを初めて作ってくれた。食べてみて、名前や見てくれとのギャップに驚き、感心したのは、剣心もその後それを食べたほとんどの人と変わらない。今から思えば、台風の夜の炊き出しにも似た、穏やかで静かな時間だった。そして、厄災も困難も左之助には意義ある成長のプロセスだったのだと、それもまた今だから言えることだった。
「ねえ、剣さん? どう思う?」
「……え? あ、ああ、ごめん、何だっけ、聞いてなかった」
 轟音を響かせる瀑布の飛沫を見ながら追想にふけっていたところに突然質問を振られ、慌てて顔を上げた。
 すずめが食べかけのサンドイッチを目の高さにかかげていた。
「だからね。前もすごいおいしくて、帰ってから真似してみたんだけど、やっぱりこうはいかなかったの。どこがポイントだと思う?……って話」
 たしかに昨日自分が作ったものも少しちがった、と、剣心も思った。
 見よう見真似で再現できると思っていたが、記憶していた味よりも、よく言えば上品、平たく言えば物足りなかった。これがポナペと日本での話なら、素材、とくにパパイヤの質の違いを考えただろうが、そうではない。そうなると、考えられる可能性は多くない。
「ぶ厚さかな。具の。なかなかここまでダイナミックにぶ厚くするのは勇気がいる」
「あ、そういえばそうだね。なるほど、そうかも?」
「うん。あたし達が作ったやつはこんなに豪快ではなかった気がする」
「とくにハムとかね。ほとんどハムステーキだろ?」
 姉妹は素直に納得した後で、
「でも勇気って」
 と、軽く笑った。

 そのあたりまではよかった。
 よくなかったのはその後だ。
 この滝つぼにいるウナギはとにかく大きい。長くて、しかも太い。中にはこれがウナギかと目を疑うような、ビール缶ほどもある太さの、全長五十センチメートルを越えようかという巨大ウナギもいる。それがうようようよと水が黒く見えるほどにうごめく浅瀬に、剣心の悪戯心が左之助を引き込んだ。
 大型の爬虫類も両生類も虫も抵抗なく遊ぶ野生児の剣心にすれば、大きなウナギがニョロリニョロリと足首をすり抜けてもどうということはなく、それどころか、足でウナギを絡めようと試みることがちょっとした水遊びになりさえする。
 だが、引き込まれた勢いで足をすべらせウナギ風呂に尻餅をついた左之助は、昔からそれ系が大の苦手なのである。
「………!!!」
 一瞬悲鳴も出なかった。
 剣心の方では、左之助もポナペのような野生味あふれる島に一年以上も住んでいたのだからそれなりに慣れて平気になっているだろうと踏んでもいたのだが、生憎実際にはそう適応できてはいなかった。
 包囲するウナギ網から跳び上がって脱出した左之助が本気で立腹していることに剣心が気づいたのは、自分に向かって怒鳴ったりつかみかかったりというようないつもの大袈裟な、しかしあくまで陽性の反応が返ってこなかったからだ。いや。騒ぐことは騒いでいる。ただ、大袈裟に騒ぐ騒ぎ方が、知らない人間にならいつもと変わらなく見えもするかもしれないが、剣心の目にははっきりと違った。
 小国姉妹は気づかず笑ったり同情したり呆れたりしているが、自分と目も合わせようとしない左之助の態度が、剣心には嫌味がすぎて感じられた。
―――そんな怒らなくてもいいじゃないか。
 たしかに、追懐の湿っぽさを払拭したい気持ちもあって、ことさらにはしゃいでしまった部分があったかもしれないとは思う。自分の都合といえば自分の都合だし、やりすぎといえばやりすぎかもしれない。
―――でもその態度はないだろ。
 ゲスト二人はそんな水面下の変化にはどうやら気づいていないらしい。一行は、一見変わった様子もなく、その後のコースを消化していった。
 左之助は、小国姉妹とは普段のトーンで楽しげに会話をする。
 剣心も、小国姉妹とはそれまで通りに元気に話をする。
 だが、剣心と左之助の間には会話も接触もアイコンタクトもない。そんな冷戦状態のまま、四人は観光を終えてマオマオビーチリゾートに帰着した。


「剣さん発見」
 もよもよした気分のまま、すっかり定位置となったお気に入りのハンモックで頭に入らない活字を追っているところに、すずめがスキップでやって来た。
「今晩ね、ヴィレッジのレストランに一緒にごはん行こうかって、左之さんが」
「ああ、へえ、いいね。あそこいいよね。雰囲気いいし、美味しいし。行っておいでよ。最後だもんね」
「え。行っておいでよって、剣さんも行くんだよ?」
「うーん、ごめん、俺パス。ちょっと腹具合も悪いし。折角なのに残念だけど」
「え、うそ、お腹? 大丈夫? 心配」
「ごめんね。でも大丈夫。ちょっとどうかな?っていうくらいだから平気だよ。ただ遠出で食事ってのはちょっとなーって感じなだけで」
「そうなんだ。あ、でもそれならさ。出るの七時くらいだからさ。ちょっと様子見て、そんとき行けそうだったら行くとか、どう?」
「ああ、うん、そうか、そうだね。その手があるね。じゃあそうしよっかな」
「うん。そうしよう、そうしよう。剣さんいないと左之さんも寂しがるよ。じゃあまた後でね。よくなるといいね」
 心もち心配そうにしながら去ったすずめは、剣心の言葉をまったくその通りに信じている。
「……ごめんね」
 彼女の姿が見えなくなってから、軽い自己嫌悪と共に呟いて目を空に向けると、冥いほど深い青とギラつく日射しが目を刺した。
―――あーあ。
 昨日の今頃はあんなに全てがうまくいっていたのに。
 コーラはおいしくて、左之助はやさしかったのに。光は穏やかで、空も海も風も澄んで、もうすぐ答えに辿りつけると思ったのに。
―――なんなんだよ、もう。
 泣きたいような沈降感は、もどかしさよりも怒りよりも、惨めさか情けなさに近かった。


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わらくる<23> 2008/7/11





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