↑ノンブル表示/クリックヒア
2008/6/30

<22>

 昼下がりの悠揚たる陽光が、砂浜に黒々と椰子の影絵を描いていた。
 風は凪いでいる。
――もうそろそろなんだろうな。
 ダイビングサービスの本棚から借りてきた文庫本を胸に伏せ、浜辺のハンモックに揺られながら、剣心は思っていた。
 帰るまでに返事をすると左之助には言ったが、明日で七日、半分が過ぎることになる。
 そろそろ考えをまとめるべきなのだろうが、考えれば考えるほど混乱していく。
「……さて、と。どうしたものか……」
 地上は凪ぎでも上空には風が吹いているようで、椰子の葉がざわざわと潤んだ音を鳴らして揺れている。
 空が、水で染めたように青い。
 晴れた空の活力ある青さをしばらく目に沁ませてから、網目にかけてあったサングラスを手に取り、本を置く。
 椰子の葉に目を遊ばせながらこの六日間の記憶を再現し始めた剣心の耳に、外界の音はもう届かない。


 どれほどか経った頃だった。
 何か異質な音が遠くから聞こえてきて、剣心を白昼夢のような思考から呼び戻した。
 波、風、植物のざわめき、小動物の声といった豊かな自然の音の中で少なからぬ違和感を剣心に与えたのは、ボートのエンジン音だった。
 沖からボートがこのリゾートの桟橋に一直線に向かっている。
 午前中に二本を潜ってランチを済ませた後、姉妹にはこれが今回の潜りおさめになる今日の三本目に出かけていたダイビングチームが帰ってきたのだ。
 昼食までは剣心も一緒だったが、昨日同様に午後の三本目はパスして浜でのんびり過ごしていた。以前ここに来た旅行者の誰かが置いていったものであろう翻訳ものの推理小説を開いてはみたものの、結局数ページも進んではいない。
 みるみる近づいてくるボート上に、左之助と小国姉妹の姿がすでに見分けられた。
 試しに手を振ってみると、思った通り向こうでも剣心を認めていたらしく、三人が一斉に大きく腕を振り返してきた。遠くに見る知った人の姿には独特の愛おしさがある。知らず口許がほころんでいた。

 さくっさくっと砂を踏む軽い音があと数歩というところまで近づくのを待って、剣心は読むふりをしていた本から左之助に目を移した。
「おつかれ」
「ういーす」
 見れば左之助は右手と左手にペプシ・コーラとコカ・コーラの瓶をそれぞれ持っている。両手を広げそれを交互に掲げて首をかしげる、その意味はおそらく「どっちがいい?」だ。
「………ペプシ?」
 微妙な表情で受け取ってひと口飲み、自分が思いがけず喉が乾いていたことに剣心は気づいた。日陰とはいえ熱い屋外に長くいて、知らぬ間に汗をかき体力も使っていたのだろう。少しぬるい炭酸飲料は、びっくりするほど心地よく喉を通り過ぎた。
「ぷはあ」
 半分ほども一気に飲んでから、剣心はくすくすと笑った。
「サンキュ。しかしこの二つを選ばせる意味がわからんな」
「流行ってんだよ」

「あの子マンタ、よく来るのか?」
 ふっと笑いを納めて、剣心が言った。
 訊ねられた左之助は、コカ・コーラの瓶を口に逆向けたまま、目で先を促した。剣心はゆっくりとした動作でサングラスを外すと、たたんだつるを網目にひっかけてからハンモックの上に身を起こす。
「あの小さいの。こないだ安全停止で回ってくれた、しっぽの曲がった。今朝の一本目でもずっといただろ」
「…………」
「あれは何か特別なのか? お前のことをわかってるみたいだ」
「俺を? どうしてそう思う?」
「さあ、なんだろうな。あそこによくいるっていうより、むしろ俺たちが入ったら来るって感じだからかな。なんだかんだいってお前の周りによくいるし。それにおなかにエアー当てて遊ぶ時に選ってるだろう、何気に。……ああ、いや、ちがうな。逆か。あっちじゃなくて、お前が、かな。とりあえずなんかちがうなーって。思った。なんとなくだけど」
「……さすがっつうか。やっぱっつうか。敵わねえな、お前には」
 共有する者どうしの、何とも言えない微笑が交叉する。
「やっぱりいわくつきか」
「まあな」

 二月、左之助がこの島に来て間もなくのことだったという。
 まだ本当に小さな、マダラトビエイほどの大きさにしかならない一頭のオスのベビーマンタがリゾート前の浜に打ち上げられているのを、左之助が見つけた。
 ミャンマーや中国などと異なり、ミクロネシアではマンタを食べない。普通ならそのまま海に帰すところをそうしなかったのは、腹部に怪我をしていたからだった。傷は大きく結構な出血があり、他にも尻尾が折れて、ヒレ先に裂傷があった。
 どこかで嵐にでもあって流されてきたのだろうと皆は言った。弱い個体が生き残れないのは自然の摂理だが、目の前で苦しんでいるものを放っておけないのも自然な人情である。左之助は桟橋のある入り江の一画を網で囲い、そこにその傷ついた赤ちゃんマンタを放した。傷を、とくに手当てはしなかった。深い理由はない。単にどうしていいかわからなかったからだ。だが、傷つきはぐれた幼生にとって、外敵の脅威のない安全な環境であることの意味は大きい。小さな生命は守られた小さな海でみるみる自らを快復させた。ほどなくして傷の癒えた子マンタを左之助は外海に帰した。
 それ以降、元気に泳ぎ回りすくすくと育っていくそのマンタボーイの姿はいくつかのポイントで毎日のように見られていたが、それが四月半ばのある日を境に突然いなくなった。マンタにとって外敵の少ないミクロネシアの海とはいえ、そこはやはり自然界のことである。何かあったか、あるいは単にどこか他の海域に移動したか、いずれにせよもうこのあたりにはいないのだろうと、やがて左之助もリッチーも彼の姿を無意識に視界に探すことをしなくなっていった、それが、あの一昨日の二本目に安全停止中の彼らの周囲を離れず回って今日の一本目でも姿を見せた、あの若い個体だったのだ。
「なるほどな。それでか」
「機嫌いいときなら手にも乗ってくるぜ?」
 そう言って左之助は海に向けて目を細めた。
―――なるほどそれでか。
 と、剣心は、改めて思った。
 左之助は水の中だと分かりやすい。「水中の方がわかるヤツってたまにいる」とは、初めて一緒に潜った翌朝に剣心が左之助から言われたことだったが、それは左之助にも当てはまる。水中で、話はできずとも、意思は明解だ。
 その左之助が、他を見る時とは明らかに異なる慈しむ目であのマンタを追っていることがあるのに、剣心は気づいていた。それでいて、向こうが子が親を慕うように寄ってくると、今度はさりげなく、だがはっきりと避けるのだ。知っているのに知らないふりをする人間相手のような振る舞いを不可解に思っていたが、ヒトに馴れすぎているのを他の人間に悟らせないためにあえて距離をとっていたと知れば納得がいく。ネイティブの気安さでよく生物にちょっかいをかけるリッチーが、ヒトデ返しはしてもあのマンタには近づかないのも、同じ理由だったにちがいない。
「今度二人んとき行こう」
 そう言う左之助の口調は、秘密というほどの秘密ではないにせよ、それまで口外していなかったちょっとした内緒事を剣心と共有できた穏やかな興奮でサバサバと弾んでいた。
「お前ならポチも触らせてくれんじゃね? 気に入られてるみてえだし」
「ポチって」
「うん、ポチ。いい名前だろ」
 犬でもあるまいに。と言いかけて改めた。
「いまどき犬でもつけんぞ」
「流行ってんだよ」
 口角に影を濃くして、左之助は片笑んだ。

 コンパスを頼りに進路を取るコンパスナビゲーション潜水の練習で、思った地点にたどり着かないのはコンパスが狂っているからだと口を尖らせていたのは四年前、二度目に一緒に潜りに行った骨も凍る真冬の串本ビーチでのことだった。インストラクターになってからでさえ、珍しいハゼを見せるのに夢中になって無減圧限界を超えそうになり、時尾に大目玉をくらったことがあったと聞く。
 責任は人を育てる。だが、誰もがよく育つわけではない。外地で働くことの向き不向きもある。よほど適所だったのだろう。
 わずかとは言うまいが、それでもまだ一年である。左之助の成長ぶりに、剣心は初日から内心では目の瞠りどおしだった。
 ゲストへの対応。ダイビングにおける安全管理。海域と生態系の保全。自然や生物の知識。厳しかるべきところは厳しく、しかし遊ぶときにはこれでもかというほど遊びたおす。ゲスト達は、海と島のエキスの最も濃いところを、これ以上ないほどに満喫して帰っていることだろう。もっとも、遊びの方に関して言えば、別に計算尽くというわけではなく、単に自分が楽しんでいるだけの本能的行動によるところが大きかっただろうが、その無理のなさこそが何よりの武器だということを、本人はおそらく一生知るまい。
 敵わない。ホロリと思うのはこんなときだ。
 眩しい光を見るように手庇(てびさし)をかざして、剣心は左之助を見た。
 左之助はコカ・コーラの透明な瓶を行儀悪く吹き鳴らして、ボボーボボーと気の抜けた音を立てている。
「うおー。潜ったら腹へった。バナナでも食うか。あ、それかパパイヤサンドしたらお前も食う?」
「ああ。なら俺が作っといてやるからシャワー浴びてくるといい」
「お、マジ。ラッキ。サンキュ」
「よいっ…と! と、ととと………ア、アレ?」
 かけ声と同時に颯爽とハンモックを降りたつもりの剣心だったが、勢いをつけすぎたのか、脚が網に絡まってハンモックミノムシになってしまった。
「う……む、むむ?」
「……お前、俺を悩殺してどうして欲しいわけ」
 はた目にそれがどんなに愛くるしく見えるかはともかく、自分では必死にもがいているつもりの被捕獲動物に真顔でそんなことを言って、左之助はご不興をこうむった。
「むかつく。助けろ。パパイヤサンドにタバスコ入れてほしいか」
「ヘイヘイ、かしこまりー」
 笑いながらも腋からヒョイとすくい上げて地上に戻してくれた左之助に、剣心は軽い肘鉄を入れて、肩を並べた。
 さくっ。
 さくっ。
 さくっ。
 茶色い土砂の音を聞くともなしに聞きながら、剣心は記憶をたぐっていた。
――えーと。なんだったっけかな。
 ハンモックの網から持ち上げられたとき、何とも言えない色の目が、自分を見上げていた。あれと同じ目を、つい最近どこかで見た気がするのだが。
「………」
 なにかが判りそうで判らない。見えそうで見えない。
――きっともう少しなんだが。
 まだおぼろではある。だが、おぼろげながらも、強まる予感がすぐそこまで迫っているのを、たしかに感じてもいた。


前頁次頁
わらくる<22> 2008/6/30





全体目次小説目次
Copyright©「屋根裏行李」ようこ All rights reserved.