ガンゴンと大きな音の聞こえる方向に歩いていくと、左之助が桟橋を補修していた。工具箱が開かれ、木の板やらロープやらが置かれている。
左之助はこちらに背を向け、黙々と作業をしていた。小さな古い手斧で弱った部分を割り砕いて引きはがし、新しい材をあてがって釘を打ちつけていく。柄で叩いて音を聞く。響きが濁ったらそれがシグナルだ。グリップを持ちかえて、振りかぶり、振り下ろす。一度か二度で板は割れ、木片がとぶ。シーソーのように跳ね上がった板を、釘が残っていれば釘を抜いて引きはがす。地面に散らばったいくつかの木材から適当な大きさのものを選り出して弱った部分にあてがい、釘を打ってロープで縛る。
作業は一定のリズムで繰り返され、半裸の背をときおり汗が流れ落ちる。剣心に気づく様子はない。
午後の強烈な日射しの中わけもなく胸が騒いだのは、斧を振り下ろす動作の力まかせじみた荒々しさのせいだったか、繰り返される不吉な音のせいだったか。斧が風を切る音。木にめり込む音。叩きつけられる木片の音。木の裂ける音。引きはがされ、放り投げられた残骸の転がる音。それは単なる作業であって、そこには暴力も悪意も、まがまがしい要素は何もありはしないというのに。
黙々と薪割りを続ける赤銅色の背中が、汗と陽射しに光っている。油を塗ったように太陽をはね返して片時も止まらずに動く濃い陰影を見るともなしに見て、どれほどそこにそうして佇んでいただろう。気がつくとわけもなく汗をかいていた。
ふいに後ろから肩を叩かれて剣心は小さく飛び上がった。
「ヘイ、ケン。どうした」
「あ、いや、別に……」
ひとかかえの材木を片腕で軽々と小脇に抱えて、リッチーが剣心をのぞき込んでいた。
「どうしたんだ。ぼーっと突っ立って。見とれてたのか?」
「なっ、ななななんだよそれ。変なこと言うなよリッチー」
平静を装って肩をすくめ、「修理?」と桟橋を指して問う。気配に気づいたか左之助が手を挙げ、頷いてリッチーが言った。
「そう。こないだの台風は結構ヤバかったからな。桟橋がやられたら痛い」
「ああ、台風。大変だったんだって?」
「そうさ。器材置き場のフェンスはひん曲がるし、サノの部屋の雨戸は飛んでくし、挙げ句にダイブサイトのでっかい名物キャベッジコーラルまで持ってかれた。なんてこったいまったく。――ヘイ、サノ! 持ってきたぞ。いるか?」
「長いのあったらくれ」
「よっしゃ、これでラスト」と板をひっぺばす。新しく取り付けようとしている長い板の先がぐらつくのを剣心が押さえると、「サンキュ」と言いながら釘を打ち込み、「そっち頼むわ」と金槌が回ってきた。
「ん」
胸に流れ落ちる髪をはね上げ、Tシャツの袖を肩までまくりあげる。
カ、カ、カ、カイーン…! カ、カイーン!
細腕の外見を裏切るパワフルな連打で釘は見る間に沈んだ。
「さすが。瞬殺」
「ワーオ」
パチパチと拍手するギャラリーに力こぶをつくって応え、片付けにかかる。
左之助が突然パシンと自らの脛を打って叫んだ。
「いでっ! あっ、こんなろっ……!」
そしてぴょんぴょんとその場かけ足を始める。サンドフライに咬まれたのだ。
「くっそ、ぬかったー」
「こしゃくな」と、一旦片付けた工具箱からココナツオイルの小瓶を取り出した左之助は、脚と腕と、ついでに首と顔にもざざっと塗り伸ばしながら剣心に訊いた。
「お前は? 塗ってるか?」
「あ、いや。朝軽くしたきり」
その後海に入っているのだから当然もう流れている。
「もっかい塗っとけよ。お前、肌弱えんだから」
ああ、と、放ってよこされた小瓶を受け取り、ふたを開ける。
例のココナツオイルだ。ポナペ産の良質な天然抽出油。珍しいことに虫除けにもなるとあって、地元の人たち、とくに子どもは、ミクロネシアの強烈な紫外線と悪名高いサンドフライへの対策として常用している。
純度の高い白い蝋状のオイルは、日中の外気でなかば溶けかかって半透明になっていた。掌に挟まれてあっというまに溶けたそれを、たっぷりと脛に伸ばす。さらっとした軽い感触とともに、ココナツの甘い香りが立ちのぼった。
思わず手が止まる。
「………」
周囲を見回すと、補強したての桟橋の上でステップを踏む左之助と、地面に座り込んで小さな木片を削っているリッチーの姿が目に入った。
オイルをすくい、もう一方の脛にも伸ばす。
ハーフパンツから出た膝小僧にも。腿にも。それから腕。首。
汗ばむ肌にオイルが溶ける特有の香りは、否応なく数日前の記憶を連れてきた。
Tシャツの下で見えない手が背中を撫(ぶ)している。熱いオイルに覆われる被膜感。羽根のように触れていくもどかしいほどに軽い掌。背中が熱い。下腹が疼く。考えまいとすればするほど、まるで本当のようにココナツオイルの熱感を背中に感じて、煽られる。
ふと顔を上げて、飛び上がるほどびっくりした。
左之助がじっと剣心を見ていたのだ。
見られてた。
一気に脈がはね上がった。顔が火を噴きそうだ。
ダイビングショップにつづく短い小径から何やら声がすると思ったら、すずめがやってくるところだった。
首にレギュレーターをぶら下げている。
「左之さん、ごめんー。後でいいんだけど、オクトみてもらっていいー?」
「あー。エアもれだったっけ。――オッケ。もうこっち終わったから、店戻ってすぐみてやるよ」
「お願いしまーす。ダメっぽかったら、とりあえず外しといたらいいよね。あと一本だし。オクトだし」
オクトパスは予備の吸気装置である。メインレギュレーターが使えなくなったとき、あるいは何らかの事情でバディにエアーを与える必要ができたときに使う。有事に備えるあらゆるものの常として、いざという時にないと困るのに平時には尊重されることのない、そういう種類の存在だった。救急箱や懐中電灯や消火器や防災用品と同じだ。
左之助が真顔になった。
「すずめちゃん。オクトだからいるんじゃねえか。なんかあった時どうする」
「えー。だって“なんか”なんて普通ないじゃん。現に使ったことないしー」
「直んなかったら、あるやつ適当につけといてやるから」
「はーい。ねえねえ、でもなんかあったらそん時は左之さん助けてくれるよね」
「さあ、それはちょっとどうかな」
「あっ、なにそれ、ひどーい! うそー。イントラなのにー。信じらんなーい」
「ふっふっふ」
「ふっふっふじゃないでしょー。ひどーい。ひとでなしー。鬼畜ー。左之さんってばそんな人だったんだー」
「ガオー」
二人が去っていくと、剣心はもう必要もないのにふりで続けていたオイル塗りをやめて身を起こした。
重い荷物を担いででもいるようにうなだれて立ち尽くす剣心の背中に、リッチーがうかがうように声をかけた。
「ケン?」
「………」
もとより冗談半分の会話だ。
他意はない。もちろんだ。
それはわかっている。
だが、だからこそ、こたえた。なにも知らないすずめの一言が、剣心にはおそろしく重かった。
のしかかる重さは、剣心が負っている生命の重さだ。かつて油断と不注意でみすみす死なせた七人の生命。それは年々重くなる。ふとした拍子に甦っては足をすくませ、ひなたの幸せに背を向けさせる。けっして消えることのない深い負い目だった。
「ケン?」
リッチーが巨体の背を丸めてそっとうかがう。
「ケン。これやるよ」
ぬっと目の前に差し出されたぷっくりした掌の海に、小さな木彫りのハンマーヘッドシャークが泳いでいた。
「……?」
そういえばさっき何やらせっせとナイフを使っていた。
これを作っていたのか。
端材で作られたと思しきそれを目の高さにつまみあげて、剣心は素直に感嘆の声を上げた。
「うわ、すごい……」
荒削りだがよく特徴がつかまれている。外洋の大きな潮流にのって悠々と身をしならせるハンマーヘッドシャークの躍動感までが感じられる。
「今そこで作ってたやつ? これ? すごいじゃないか、リッチー。器用だなあ」
「こんなの全然。適当さ。もっと堅い木といいナイフがあったらスゴイのができるぜ。ケンは知ってると思うけど」
昨日、小国姉妹が持っていたマンタのことだろうか。だがあれはココナツの外皮だったが。
「でも気に入った? ならやるよ」
フォーユー。
お盆を捧げるように広げた両手を差し出すジェスチャーがついた。
「な、ケン。気にするな。心配しなくても、サノは浮気なんかしないさ。俺が保証する」
剣心は目をぱちくりさせて、苦笑した。
「だからちがうってば、リッチー。そんなんじゃないって。まいったなあもう」
だがリッチーはにこにこと、まるで知らない外国語で言われたかのように、変わらない様子で笑っている。
「フォーユー」
再び同じジェスチャーですすめられて、剣心は苦笑しながらもリッチーの心遣いを受け取った。
「サンキュ」