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2008/6/5

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 ダイバーにとって、ポナペはマンタの島である。
 歴史家と一部のマニアには巨石文明の遺跡の島であり、日本国外務省や国際協力事業団から見れば支援対象地域であり、それ以外の世界の大多数の人にとっては無数にある小さな有人島のひとつにすぎないであろう小さな島。
 だが潜る人間にはちがう。
 通年で安定した高いマンタ遭遇率、水の透明度、そしてブラックマンタ。世界にここしかない貴重な海だ。「マンタのポナペ」は、ダイバーにとって、特にマンタに魅せられたダイバーにとって、永遠の楽園といっていい。

 中でも島の北東にあるダイビングポイント「マンタロード」は、ポナペを代表するマンタスポットのひとつである。マンタに会える確率がきわめて高く、平均遭遇率は八十ないし九十パーセント、条件のいい冬場ではほぼ百%。しかもやってくるマンタの約三割が珍しいブラックマンタだと言われる。複数が縦列編隊でやってきたり、クリーニングの順番待ちをするマンタたちがダイバーの頭上を旋回したりすることも珍しくない。マンタでポナペを代表するなら、それは世界を代表するという意味でもある。

 新井夫婦が帰国してからの三日間、気合い満々の元気な小国姉妹と一緒に、剣心もポナペの海を満喫した。
 六月初旬、ミクロネシアの海は天候も海中のコンディションも良好なシーズンを迎える。だがゴールデンウィークと夏休みの谷間にあたる端境期のこの時期、日本からの観光客は少ない。マオマオビーチリゾートでも、新井夫婦が出発した後、新規の到着客のないのんびりした日が十日近くも続くという、一年でも数度あるかないかの閑期に入ろうとしていた。幸い天候、海況ともに恵まれ、店も船も丸ごと貸し切り、気心の知れたチームで気ままに遊べるという贅沢な状態だったから、ポナペに通う大きな理由がブラックマンタだという小国姉妹の強い希望もあって、マンタロードには毎日行った。
 夏のこの時期、マンタの数はピーク期の冬に比べれば減るとはいうものの、それも「ポナペにしては」の話であり、また、潮の干満、水温、時間帯、月齢、経験則、他のダイバーから得られる情報など、データを積み重ねることで、確率は上がる。そこがガイドの腕とも言える。
「ま、出るときゃ出るし、出ねえときは出ねえ。そんだけのことだ」
 そう言いながらも、経験の裏づけを持っているからだろう、余裕のある言い方がかえって自信を感じさせる鷹揚な口振りの左之助だったが、言うだけあって、しっかり当てた。

 とりわけ大当たりだったのは、一日目の二本目に入った時だった。
 このポイントは海中のチャネル(水路)にあるマンタのクリーニングステーションである。水深二十メートルほどの浅い砂地に岩の根があり、その根に、大きな魚の体につく寄生虫を食べるクリーナーフィッシュのホンソメワケベラなどが住んでいる。マンタは彼らに体をきれいにしてもらうために、その根に集まってくる。さしずめ海のあかすり屋といったところだ。マンタにすれば体のお手入れがしてもらえ、クリーナーフィッシュにすれば安全に充分な食料が確保できるので、利益は一致する。イソギンチャクとクマノミ、あるいはイソギンチャクとヤドカリ、またウツボとアカスジモエビなどと同様、海の生態系に見られる共生関係のひとつである。ダイバーは根のまわりにじっと留まってマンタが来るのを待っているだけでいい。だから繁盛しているクリーニングステーションほどマンタに会える確率は高くなるわけだが、そこは人間の世界の商売と同じで、日により時により、大入りで賑わうこともあれば、閑古鳥のときもある。
 一日目は朝からここを潜る予定だったが、現地についていざ潜ろうという時になって予定を変更した。
「透明度よすぎ。流れもねえし。まだ寝てんじゃねえの?」
 左之助は、半ば冗談もまじえて、そんな風に説明した。
 昼前、ドロップオフのダイブサイトであるパルキル・ランデブーでダイバーに人気の珍しい美しいヘルフリッチ(シコンハタタテハゼ)を見てから戻ってくると、状況は一変していた。
 マンタが豊富なポナペの、しかも有数のマンタスポットとはいえ、三十五分間のダイビングで三十分にもわたってずっとマンタを見ていられるというのは、これはさすがにそうそうあることではない。
 数にして二十四枚。うち七枚がブラックマンタ。手の届くほど近くにホバリングしてじっと留まっていたものもあれば、美しく滑空する雄姿を見せてくれたものもあり、軽やかに旋回してダンスを披露してくれたものもあった。食事時間でもない。求愛シーズンでもない。何よりもそもそもこのポイントはクリーニングステーションなのだ。やってきたマンタがこんな風にはしゃぐのは稀で、左之助とリッチーも思いがけないといった様子で注視していたくらいだから、余程ラッキーだったと言える。
 そんな貴重な状況だったために、大興奮の小国姉妹はいつもの倍近い早さでエアー(潜水タンクの圧縮空気)を消費してしまい、随分早めに切り上げなくてはならなくなったのだったが、だが結果的には、それがさらに思いがけない幸運をもたらしたのである。
 浮上前、潜水中に圧縮空気を吸うことで体内に溜まる窒素を排出するため、水深五メートルの浅場に三分間留まり、コンディションの調整を図る必要がある。これを安全停止という。クリーニングステーションの根から離れ、ひとかたまりになって海の宙空に浮かんでこの安全停止をしているところへ、まだ若い小さなマンタが寄ってきたのだ。
 通常マンタは、他の大多数の野生動物と同じく、ヒトを、どちらかといえば避ける。だが、どこの世界にも変わり者はいるらしい。先の曲がった尻尾と欠けたヒレを持つこの若い個体はヒトに興味を示すかのように周囲をぐるぐると回り、左之助が吐き出すエアーの泡を大きな傷痕の目立つ腹部にわざと当てて遊んだりもした。基本的にマンタは体にエアーが当たることを非常に嫌うもので、これもまた珍しい。目を見開いて固まってしまった小国姉妹はもちろん、剣心も、左之助も、いつもは気安く生物にたわむれるリッチーさえもがじっと手も動かさず、呑まれたように目だけでマンタの動きを追い続けていた。
 誰にとっても忘れられないダイビングになった。
 浮上してからも当然話題はその人なつこいマンタのことで持ちきりだった。ボートに上がった後、左之助とリッチーもその個体について話しているらしいことが、何を話しているのかまでは聞こえなかったものの、手振り身振りから、剣心にもわかった。

 満喫したのは海中だけではない。
 二日目には、ボートで水面を移動する途中、イルカの群れに遭遇した。
 最初に気づいたのはジョンだった。さすが、両眼視力三.〇とも四.〇とも言われる地元の海の男である。
 遅れることほどなく、リッチーと左之助の慣れた目が彼らの姿を捉え、続いて剣心もつやつやと光る丸い背中を視界に認めた。
「あ! ほんとだ、いるいる! きゃあー!」
「すごーい、なんでわかったの?」
 あやめとすずめがようやくそれと見分ける頃には、剣心は早くもフィンとマスク・シュノーケルを手にしていた。
「いけそうかな」
 剣心がイルカに目を据えたままで左之助に言った。
 左之助も視線は逸らさず、「どうかな」と答える。
 リッチーはピューイピューイと口笛を鳴らし、舟べりを叩いてイルカを呼ぼうとしている。
 まだ種類までは判らないが、ボートを避ける気配はない。むしろ向かってきているところを見ると、人なつこいバンドウイルカの可能性も高く、だとすれば一緒に遊べるかもしれない。
 ランデブーが近づき、イルカ達が船と併走するラインに入った。どうやらこの船のエンジン音を気に入ってくれたらしい。
「よーし、きたきたきたー! いけるいける」
 左之助がジョンに、腕をぐるぐると回して見せた。周回軌道をとれという指示だ。
 コースはすぐに変わった。ジョンも慣れたものだから、言われるまでもなく舵を切る用意はできていたのだ。
 剣心は既にフィンもマスクも装着してスタンバイしていたが、ボートのスピードが安定したところで、期待と興奮の表情で身を乗り出している小国姉妹にちらっと視線を向けて、言った。
「二人はスキンは?」
 スキンダイビング、つまりフィンとマスク・スノーケルのみでの素潜りはできるかと訊いているのだ。
「え、あ、一応……」
「でもイルカは無理!」
「そんなことないって。向こうが教えてくれる。いけそうなら後からおいで」
 にっこり言い置いて、剣心は海に飛び込んだ。
 とぷん――……。
 派手な水しぶきも大きな飛び込み音もない。
 すべるように入水して、しなやかに泳ぎ始めた。
 ゆっくりとはいえ、走っているボートから飛び込んだとはとても思えないなめらかな動きに、小国姉妹は目を丸くしている。
 剣心は船を少し離れると、ヘッドファーストで一気に水面下に潜り、イルカ達の群れに並行してドルフィンキックで泳いでいく。ドルフィンキックとは、両脚を揃えて、腰から爪先までの脚全体を鞭打つようにしならせる泳ぎ方である。全身のうねりで推進力を得るこの泳法は、バタフライの基本形でもあり、クロール、平泳ぎ、ばた足などに比べて難度は高いが、スピードと動きの柔軟性に富み、とりわけ水中で早く自由に動き回るのには最も適している。それに何といっても、“ドルフィン”キックと称されるくらいだから、イルカとの相性は文句なしだ。
 そのドルフィンキックで流れるように群れのそばを駆け抜けた剣心に、イルカたちが興味を示した。好奇心旺盛な個体が、なめらかな曲線を描いて泳ぐ剣心に近寄り、やがて幾頭かが剣心の周りを回り出す。剣心は一度浮上して息継ぎをすると、今度は彼らの動きに合わせて、横や縦の回転も入れてさらに動きを加速した。揃えた両脚を人魚のようにしならせ、くるくると弧を描く剣心の動きにつれて、ポニーテールに結わえた長い髪のしっぽも新体操のリボンのように泳ぎ、遊びたがりのイルカがその髪を追いかけてつつく。
 キュルキュルと笑うイルカの声が、ボートの上まで聞こえてきた。
「……左之さん?」
「んー?」
「剣さんって……何者?」
 小国姉妹は、興奮して「ブラボー」「ブラボー」と手を叩き口笛を吹くジョンとリッチーの横で、目と口を真ん丸にして半ば呆然と見ている。
 剣心が昔インストラクターをしていたということは二人も聞いていたし、これまで数日を一緒に潜って、並はずれた技量の持ち主だということも知ってはいたが、だがここまでくるともう単にプロだとか巧いだとかいう次元ではない。それに、同じ「プロ」にもいろいろいることも、それなりに潜ってきた経験から、あやめとすずめは知っている。
「な。思うよなー」
 ひと呼吸の間を置いて答えた左之助の声音はしみじみとしていた。口の端にはなんとも言えない微苦笑が映っている。
「自称“ご隠居”なんだけどな」
 一緒に行ったモルジブのダイブクルーズで初めてこれを見せられた時は、左之助も今の彼女たちのようにあんぐり口を開いて、馬鹿のように見惚れた。その時のことを今もありありと覚えている。湧いた感情が、純粋な感嘆だけでなく、そこに焦りか寂しさにも似たかすかな痛みが混じっていたことも。
「もったいねえよなあ……」
「え? なんて?」
 ぼそりと海に向けられた呟きを聞き返したすずめに、左之助はにぱっと笑って、今度は明るい口調で言い直した。
「もったいねえってさ。オラオラ、俺らも行こうぜ。こんなん滅多ねえぜ、ホラ!」
「う、うん……」
「ほいじゃお先!」
 「ヒャッホーウ」と、舟べりを蹴って大きく飛び上がった左之助が尻から着水すると、剣心の時とは正反対に派手な水しぶきが上がって、海表が波打った。ちょうど水面に顔を出していた剣心が大左之助波をもろに被って「わっ」としょっぱい顔になり、水をかけ返して反撃をする。
「えい!」
「とりゃっ」
 バッシャバッシャと水かけ合戦をする二人に混じろうとでもいうのか、イルカたちまでパシャパシャと水面を跳びはねて回り始めた。そこに、飛び交う水しぶきを避けつつそろそろと寄ってきた小国姉妹とジョンも加わり、海の哺乳類たちによるひとときの懇親会となったのだった。



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わらくる<20> 2008/6/5





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