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2008/4/27

<19>

「左之さん左之さん、あたしTシャツ欲しいの」
「あ、私もー」
 なんちゃって白玉黒蜜金時を食べ終えてご満悦の二人が、ダイビングサービスの壁を見上げて言った。
 壁には、ポナペ島周辺のダイビングマップ、海底世界地図、ゲストやスタッフが撮った海や陸の写真、帰国したゲストから送られた手紙やポストカードなどと一緒に、ショップのオリジナルTシャツと手ぬぐいがディスプレイされていた。
 一昨日の夜に無人島で梓たちとも話していた、くだんの新作である。
「お、毎度。レディースとメンズがあって、レディースはそこにかかってる水色と、あとオレンジとカーキ。サイズはワンサイズ。メンズは一応S、M、L。そのピンクと黒と、あとレディースとおんなじ水色がある」
「わ、カーキかわいい!」
「あたしこのピンクがいい。これのレディースはないの?」
「すごい、どれも絶妙ね。なにコレ、なんでこんなかわいいの?」
 オリジナルTシャツはどこのダイビングショップでもまず必ず作っている定番のお土産アイテムだが、この店のTシャツは、よくある単にロゴやイラストレーションがプリントされただけのものとはひと味もふた味もちがっていた。
 が、それもそのはず。デザインとパターンは京都のアパレルメーカーで商品開発に携わる左之助の妹・右喜。図案は、右喜の夫ジャンの末の妹で、ニューヨークに工房を構えるマリ人アーティスト・ファティマが、わざわざこのために描き下ろした。しかもメンズとレディースでは絵も配置も違えば生地色の展開も異なり、さらに生地色によって絵の配色も変えてあるという凝りようである。いわゆるお土産Tシャツの域をとっくに超えているのは当然すぎるほど当然のことであった。
「左之さん左之さん、広げていい?」
「もち」
 あやめは即決でカーキ、すずめはひとしきり悩んだ末に水色を選んだ。
「あーでもピンク残念。それのレディース作って欲しいー」
「おう、今度言っとく。たしかにいいもんな、ピンク」
 ニューヨーク在住のマリ人ファティマの描く絵は、西アフリカ美術特有の力強さと都会的な感覚がいい形で作用しあい、ダイナミックでありながら繊細な、不思議な個性をもっていた。絵の主題はマンタで、そのデフォルメは抽象画と言ってもいいほどに大胆だったが、彼女は対象生物をよく理解している描き手だけに可能な的確さで、ポナペの象徴である海の生物を自分のものにしていた。
 鮮やかなショッキングピンクに、生命力のみなぎる個性的な絵は、よく映えた。
「でも水色もいいよ。発色よくて。剣さんも水色似合いそう」
「オレンジもよくない? ほら、髪と合う」
「あ、ほんとだー! レディースだけど剣さんなら全然いけそう」
 女性二人は、自分の分を決めると嬉々として剣心の見立てに入った。
「あ、でも意外と黒いいかも。かっこいい」
「ていうか剣さんて何でも似合うのね」
「ほんとほんと。黒とかだとかっこいいし、オレンジだとかわいいし。ていうかさ、スタイルよくて美人だからとりあえず何着ても映えるのね」
「だよねー! きれいだし、超ほっそいし、お肌すべすべだし、料理もうまいし。いいなあ、果報者だねえ」
 はしゃぐ二人がいい意味で言っているのはわかるが、男としてどうも微妙な誉められ方ではある。大体「果報者」というのはそんな風に使う誉め言葉だったろうか? それに料理? 剣心は「うーん」と笑って頭をかいた。
「ねえ、左之さんが今着てる白は? メンズのフロントプリントもあるの?」
「ああ、いやこれ試作品。イラストもちがってて。初期の、字が入ってねえやつ」
「字?」
「そう、これ」
 左之助の指先が、テーブルに広げられたTシャツの絵の周囲を縁取る曲線をなぞった。
「これ? これ字なの?」
「多分」
「多分? 多分って何」
「うちの妹に言わせると『笑門来福』って書いてあるはずだってんだけど」
 要するに読めないのである。
 ポナペで店を始めるにあたり、リゾートと共有のために変えることのできない店名の代わりに、店のコンセプトフレーズを決めようということになった。紹介主の柏崎翁の助言だった。
 ダイビングショップの店名やキャッチフレーズといえば「マリン」「ダイブ」「シー」「ワールド」「アクア」といったわかりやすい単語を使うことが多いが、左之助は「ありきたり。つうかおもんねえ」と一蹴し、「笑門来福」に決めた。楽しくおめでたい感じの語感は思いがけず周囲にも好評で、本当はそれほど考えがあって決めたわけでもなかった左之助はむしろたじろいだくらいだった。実は上下衛門愛用の扇子に書かれていた筆文字がたまたま目に付いたからだという話もあったりしたが、ともあれそんなこんなで決定したコンセプトワードの「笑門来福」は、オリジナルTシャツやてぬぐいにも必須の要素として図案に組み込まれていくことになった。
 が、描くのはマリ人の、しかも現代美術作家である。
 うねうねとうねる不思議な曲線が、マンタや太陽の図案を縁取るように配されたそれは、イスラム教のコーラン芸術で発達したアラビア書道のカリグラフィー(装飾文字)を思わせる抽象性で、文字だと言われれば文字だと思えなくもないものの、そこに「笑門来福」の四字は見出すことは難しい。
「うーん。このマルが『福』の『口』かなあ?」
「でも、だとしたら『田』がないよ。それになんか全体にまるっこすぎない?」
「だよねえ…? 漢字ってわりと直線だもんねえ?」
 あ、というようにすずめが顔を上げて左之助を見た。
「あれ? そうか、そういえばそれでショウライTシャツなんだ、今更だけど」
「ああ、そうそう、略して『笑来』。うちの妹がタグかなんかに書いてたのが何となく定着した感じ。つっても読めねえからわざわざ書いてる意味あんまねえんだけど」
「うううん、そんなことないない。デザインとしてもある方がしまるし、名前とか意味とかってやっぱ重要だよ。でも白はいいな。あってもいいのに」
「なんか普通だからってさ。黄色とか緑とか、結局作らなかった試作品が結構あんだぜ。いま俺らスタッフが着てるのはそんなんばっか」
「わあ、レアものだー」
「でもほんとは売ってるの着た方がいいんだよな。コーホーセンリャクテキにさ。俺もピンク着よっかなー」
「無理。よせ。絶対無理」
 間髪入れずにばっさり斬り捨てたのは剣心である。さっきから興味深げにじっと絵柄に見入っていたが、左之助の方を見もせず、広げたTシャツから目を離さずにそう言った。
「感じ悪。なんだよ、意外といけるかもしれねえだろ」
「ない。ないない。ありえない。どうしても着たいならとりあえずヒゲ剃れ」
「ヒゲ? 関係ねえだろヒゲとピンクは」
「大ありだ」
 と、やっと剣心が顔を上げた。
「お前な。そのヒゲ面でこのピンクを着る気か? それはちょっと本気でやばいぞ?」
「ええー? そっかあ?」
「そうだとも」
「まあ別に、ヒゲはどうせそのうち剃るっちゃ剃るだけど……。つうか二人はどう思うよ?」
「えー、えーっと……」
「うーん、どうかな……。まあ駄目ってことはないとは思うけど……どうだろ、たしかにヒゲはない方がすっきりするかもって気はしなくもない……かも……」
 青空顔負けの婉曲表現で言葉を選んであやめが言ったが、遠慮しいしいの言葉の選び方自体が言外の意味を語っている。
 ふいに剣心がすっくと立ち上がり、きっぱりした口調で宣言した。
「よし、わかった。剃れ。いま剃れ。すぐ剃れ。お前が剃らないなら俺が剃る。さあ、どうだ、どうする」
「はあっ?」
 仁王立ちになった剣心の手にはなぜかいつのまにか折りたたみ式ナイフ肥後守らしきものが握られて、刃がぎらぎらと光っている。
「ほら、どうせそのうち剃るつもりだったんだろ?」
「いやまあそりゃそうだけど……」
 気圧された左之助が呆然と呟いて一歩さがり、その分剣心が一歩前に出る。
「なら今がその時だ。いいな」
「っていうかおま、そんなもんどっから……」
「愚問」
 左之助が後じさり、剣心が間をつめる。
「うわうわうわ、よせって、あぶねえってオイ。んなもん振り回すな馬鹿」
「俺が剃ると言った以上、絶対だ」
「ムリ! つうかムリだから!」
「あやめちゃん、すずめちゃん、悪いけど押さえててくれる?」
「は、はいっ…!」
 手に持った小刀以上に、抜き身の刃物じみた剣心の迫力にのまれて、思わず素直に従う二人である。
「動くな左之。怪我をさせたくない。おとなしくしてれば悪いようにはしないさ。な?」
「う、ぐ……」


「………てめえ、剣心。くそ、覚えてろよ。調子ん乗りやがって」
「ん?」
「“ん?”じゃねえっつの!」
 左之助がぐったりと突っ伏していた顔を上げた。無精に伸ばされていたヒゲがなくなったことで、本来の青年らしいすっきりとした面差しが戻っている。いるが、今の騒動ですっかり疲れた果てたせいか、いつもの覇気はなく、その姿は“げっそり”に近い。
「大体なんでそんなもんでサクサクヒゲが剃れるよ?」
「当然。刀鍛冶の名工・関孫六の打ち刃物だぞ」
「……ご、ごめんね、左之さん」
 場の勢いで思わず片棒を担いでしまった小国姉妹が、さすがに申し訳なさそうに言った。
「剣さんなんかすごい迫力でつい……」
「……いや二人はいんだけどよ。気持ちはよっくわかるから」
 そもそも緋村剣心という人は、顔も身体も華奢で小づくりで秀麗な容貌をもち、にこにこと柔和な笑みを絶やさない、温厚な人である。気配りも細かい。いわゆる「いい人」である。だが、その「いい人」が時に突然に、しかも並々ならない度合いで暴走するからこそ手がつけられない。それをおそらく誰より身に染みて知っているのは左之助だったから、勢いにつられて図らずも「暴挙」に引っ張り込まれてしまった小国姉妹については、むしろ巻き込まれたことを同情したいくらいに思っている。
「つうか全部お前だろ剣心!」
「でも絶対その方がいいって。さっぱりして男前も上がったし、それならピンクも似合うし、ちくちくもしないし」
「…………」
「な?」
「…………」
 屈託なく笑いかける涼しげな顔を、左之助はじっと見た。“男前”と“ピンク”はともかく、“ちくちくしない”とは、さらりと言ってのけてくれたが、意味がわかっているのだろうか。
「ったく。これだから天然は」
「ん?」
「……なんでもねー」
 剣心は、左之助のため息と微妙な面もちは意に介さない様子で、すこやかな笑顔のままくるんと振り向くと、姉妹に同意を求めた。
「あやめちゃんとすずめちゃんも思うだろ?」
「え、あ、う、うん、それはちょっと……まあ思う……かな、多分……」
「うん、そだね……多分ね……」
「ほら。な?」
 と、剣心は、にっこりと左之助を見上げる。
 左之助は反論を忘れ、ぽかりと口を開いたまま固まってしまった。
「…………」
 剣心は静止して動かない左之助をもう一度「な」とすくいあげるように覗きこむと、相手が黙ったことで話はおさまったと思ったのか、あたりの片付けをしはじめた。振り向く動作に連れて明るい色の髪がふわりとなびいて左之助の腕をかすめたが、剣心は気づかない。
「さ、片付け片付け」
 鼻歌など歌いながら店開きしていたTシャツをたたんでビニール袋に詰め直していく小さな背中を、左之助がじっと見た。
「じゃじゃ馬め。むかつくっつの……」
 呟くと、久々に風通しのよくなった自分の顎を物珍しそうに撫でて、軽く肩をすくめる。
 若返った青年の横顔に、言葉とは裏腹の、ごく淡い、だがとてもやわらかな微笑がにじんでいるのを見て、あやめとすずめは黙って顔を見合わせた。


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わらくる<19> 2008/4/27





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