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2008/3/25

<18>

 ひと晩あけると、背中の日焼けはかなり治まっていた。荒くするとヒリヒリするが、もう服を着ているだけで痛いほどではない。
 むしろ今朝の問題は微熱だった。
「頭痛もする?」
「ううう……。悪いが今日はどっちもパスする」
「それは構わねえけど。大丈夫か?」
「ん。薬飲んだし、ちょっと寝てれば治ると思う。バナナも食べたし」
 病気の時こそ食べなければならないというのが剣心の持論である。栄養価の高いバナナは食欲のない時の滋養食に適している。
「やっぱ昨夜ので冷やしたか。でもじゃあ俺行くけど、なんかあったら誰か呼べよ? 電話ここな。受話器上げたらフロントにかかるから」
「すまん」
「おう。じゃ、今日はお前のおごりで」
「……ぐうぅー」
 いつもの覇気はないものの寝たふりができる程度には余裕のある剣心の様子に、左之助は少し笑って、仕事に出た。毛布を鼻まで被って寝たふりをする病人のためにカーテンを引く気配りは見せながらも、行ってらっしゃいのキスについては昨日と違って妥協も遠慮もしなかった。

 前夜の夕食は町に出た。日暮れに合わせて出かけ、陽の沈む燃え立つ海を見ながらポナペ産黒胡椒のペッパーラムステーキを食べた。帰ってきたのはまだ九時にもならない早い時間だったから、部屋のウッドテラスのデッキチェアで、夜の浜辺を眺めながら、東谷家の人々の話を肴にバドワイザーを飲んでいた。
 剣心はポナペに来る前、一度日本に立ち寄ったときに、東谷家にも顔を出している。
 右喜の結婚で一時は上下衛門と央太の父子二人暮らしになった東谷家だったが、その後右喜夫婦が同居することになり、現在は四人暮らしに戻っている。
 マリ人の四十男の新婿がへんこ職人の上下衛門と果たしてうまくやっていけるのかという一部の心配はまったくの杞憂に終わった。ジャンの人柄なのか、マリに滞在した濃厚な十日間で打ち解けたからか、国籍も文化も宗教も世界観も根本的に異なっていることがむしろ互いを寛容にするのか、あるいは単にウマが合っただけなのか、いずれにせよ、舅(しゅうと)と新婿はいたって良好な関係を築いていた。また、さすがにプロの料理人だけあって、多彩なレパートリーをもつジャンの料理は、剣心が通っていたここ数年で舌の肥えた東谷家の面々にも大いに喜ばれ、目下東谷家はなかなかよい状態で安定している。そのことは、彼らの好意に甘えてそこに一泊しただけの剣心にも充分にわかった。
「へええ。すんげえアットホームっぽい。サザエさんみてえ」
「なんでサザエさん。ていうかサザエさんの世界にあんな破天荒な登場人物はいないだろう」
「そういやそうだ。つうかさ、あの家やっぱ俺いない方がいんじゃん? 総括すると」
「かもな。親泣かせの問題児だもんな」
「ひとり家庭崩壊ですから」
 そんなことを言って笑い合い、あれやこれやととりとめもなく話しているうちに、気づけば日付が変わろうとしていた。
 夜が更けて、風もすっかり冷たい。
 そう思った途端、剣心はぞくりと寒気を覚えた。
 焼けた肌に布が擦れると痛いので、ゆったりしたサイズのタンクトップを着ていた。掌を当てると、むき出しの肩や首がじっとりと冷たい。日焼けで表面が火照っているせいで体幹が冷えていくのを感じなかったらしい。
 いやな感じの冷え方だった。
「まずったかなあ」
 部屋に入り、左之助が出してくれた毛布をしっかりと身体に巻いて、暖かくして寝たのだったが、しかしやはりあまりよろしくなかったらしく、朝起きるとしっかり微熱と頭痛があったのだった。

 今日は午後に新井夫婦が帰国するので、午前中の空き時間を使って左之助が二人をナン・マドール遺跡観光に案内している。陸のオプショナルツアーはダイビングサービスにとって重要な収益源のひとつでもある。
 一方、毎日めいっぱい潜りたいバリバリ派の小国姉妹は当然ダイビングで、こちらはリッチーが出ている。八日間の海外旅行といえば勤労日本人には充分長期だが、ダイビングができるのは中六日。うち二日が既に過ぎているから、あと四日しかない。一回のダイビングは四十ないし六十分で、一日に潜れる回数は標準で二本、頑張っても三本。リゾートでまったりするためではなく、比類ないポナペの海を潜り倒すために来ている二人にはまだまだ足りないくらいなのだ。
 さて剣心はといえば、こちらは長期滞在でのんびりできることもあって、もう少しテンションがゆるかった。まだ日数も機会たっぷりあるから、海でもいいし、遺跡でもいい。場合によってはどっちにも行かずに島でゆっくり過ごしてもいい。朝の天候と気分でどうするかを決めよう。というくらいに考えていたら、結局どっちでもない留守番組になってしまった。

「どうしたよ。ちょっと見ねえ間に軟弱んなって。トシか?」
「ムカ。リゾートなんか久しぶりだから調子が狂っただけだ」
 自覚はある。
 明らかに気が緩んでいる。
 外国を一人で旅行していると、場所や環境にもよるものの、多かれ少なかれ相当の緊張を強いられる。一か月、二か月と経つうちにその状態に慣れてはいくが、それはあくまでも緊張状態に慣れるだけであって、緊張が解けるわけではない。
 ほぼ一年振りに日本に帰ったときもホッとしたが、ここに来てそのとき以上にホッとした。というより、ほとんど「気が抜けた」に近い。そんなに張りつめていたのかと自分でも驚くほど休息感が強い。旅先では眠りの浅い方だと思っているが、この数日は夜じゅう一度も目覚めずに朝まで熟睡していた。その理由も薄々ならずわかっているつもりではいるが。
―――これも一種の甘えなんだろうかな……。
 そんなことを思いながら、外国製の強い風邪薬がもたらす強制的な眠りに引きずり込まれ、昼前まで夢も見ずに眠った。


「おかえり。どうだった?」
「あ、剣さん! もういいの? 熱大丈夫?」
「うん、もう全然。ごめん、心配かけて。ありがとう」
 海から帰ってきたダイビングチームを剣心が出迎えた。
 短いが深い睡眠から覚めると、多少の熱っぽさを残して体調はほぼ回復していた。左之助と一緒に新井夫婦を空港まで送り、ゲートを抜けてからも何度も何度も振り返って手を振る二人に手を振り返し、姿が見えなくなるまで見送った。極度の婉曲表現が多かった青空が、最後の最後に「お二人のおかげですごく楽しかったです。頑張ってください」と、妙にきっぱりと剣心の目をまっすぐに見たのが心に残った。
「セイさんと梓さんが二人によろしくって。海は? どこ行った? 何が出た?」
 桟橋から歩いてくる小国姉妹の弾む足取りを見れば、今日のダイビングが「大当たり」だったのは訊くまでもない。あとはどんな種類の当たりだったかだ。
「聞いて聞いてーすごかったのー! マンタ九枚! しかもブラックが四枚も!」
「マンタロードとタワーク。どっちもめちゃめちゃベスト」
「おおーー」
「全然逃げないし、他に人もいなくてすっごい近くで見れて」
「もうもう、おなかいっぱい!って感じ。超満足。やっぱブラックかっこいい」
「しかもね、見て見てこれ! 可愛いでしょう。リッチーが作ってくれたの」
「?」
 掌に収まるほどのマンタの彫り物だった。ココナツの外皮を削ったものらしく、小さいのによくできた造形で頭部のイトマキや尾の様子にもなかなかの説得力があった。
「へええ、すごいね。ココナツ? の皮?」
「そうそう。おやつに食べた後のをね、ナイフでちょちょって。あっという間にできたんだよ」
「リッチーってこういうの得意らしくて、前は木の置物とか細工物とか仕事にもしてたんだって」
 なるほど。堅い木の彫り物が達者なら、ココナツの外皮など手もなかろう。
「へえー、すごいなあ、芸達者だ」
 剣心はココナツマンタをしげしげと眺めて、改めてその精緻さに感心した。
「あ、そういや剣さんにもいいもの作ってあげるんだって言ってたよ」
「えーダメじゃん、すずめちゃん。それ内緒って」
「あ、しまった、そうだった。ごめん剣さん、聞かなかったことにしてー」
「ははは、いいよいいよ。じゃあリッチーには内緒で」
「ありがとう。ねえ、あやめちゃん。これって持って帰れる? まずい? ワシントン条約?」
「どうだろ。わかんないけど乾かしたらいけるんじゃない? ていうかワシントン条約は動物」
「あれ、そっか。じゃあこれ系は?」
「んー、植物検疫?」
 姉妹は元気に口を動かしつつも器財を片付ける手は休めず、素早く片付けを終えた。
 部屋に戻ろうとする二人の背中に剣心が声をかけた。
「あやめちゃん、すずめちゃん。おやつ作ったから、よかったら後でおいで」
「わーい。なになに?」
「見てのお楽しみ」

 大急ぎでシャワーを浴びて身支度を済ませてきた二人をドラえもんが待っていた。
「やだ何コレかっわいい――!」
「っていうか懐かしー。あったあった、あったよね、こういうの」
「でもなんでこんなものがこんな所にあるの?」
 かき氷器だった。
 頭の部分に氷を入れて頭頂のハンドルを回すとお腹のところから削られたかき氷が出てくる。昭和の四、五十年代によく見られた家庭用かき氷器のドラえもん版である。
「こないだ片付けてたら出てきてよ。だいーぶ古いみたいで箱はホッコリまみれだったんだけど、中身は全然きれいだし、ちゃんと使えてて」
 左之助がガリガリと氷を挽く。家庭用器だけに雪のような細やかさは望むべくもないが、こういうものはみんなでワイワイ作って食べるイベント性がよいわけだから、そこのところはこの際たいした問題ではない。
 器の半分ほどが埋まったところで、剣心がどこからともなく片手鍋を取り出した。
「じゃじゃーん」
「なになに? ……あ!」
「あんこだ! ウソ、すごい」
「エイッ」
 やや柔らかめに炊かれた粒あんを剣心が投入し、左之助がガリガリを再開する。
「ん。こんなもんかな」
「っし。じゃあ仕上げ」
 剣心がもうひとつの別の小鍋からレードルで茶褐色の蜜らしき液体をかけ、そこに左之助がひょいと何か白いものをのせた。
「なんちゃって白玉黒蜜金時、完成ー!」
 姉妹が大喜びしたのは言うまでもない。
「ちょっと剣さん、これほんとスゴすぎるんだけど」
「しかも白玉って。ポナペで白玉って。うわー感動」
 南の島で海あがりに食べるスイーツは美味しい。しかも思いがけない時に思いがけないところで思いがけないものに出会うわけだから、美味しさも感動もなおさらである。
「なんちゃってだけどね」
「なんで。どこが。全然完璧だよ」
「いや、つうかソレ何の粉かわかんねんだ、実は」
「………」
「あ、大丈夫、ちがうんだ、そうじゃなくて。馬鹿左之、不穏な言い方するな」
 左之助に「実は」と言われて二人が不安そうな面持ちになったのを見て、剣心が横からフォローした。
「米粉か餅粉か団子粉か、なんかそんなような類のものではあると思うんだけど、とりあえず白玉粉ではなさそうだってこと。だから“なんちゃって”なだけで」
「なんだ、びっくりした」
「よかった。左之さんが言うとなんかすごい変なモノが入ってそう」
「うんうん」
「……オレって一体」
「でもあんこが微妙にあったかいってことは、これもしかして今日作ったの? あんこなんてそんなすぐ出来るものなの?」
「ていうか熱あったのにいつの間に?」
 左之助の抗議はさらりと流され、あやめとすずめが剣心に訊いた。
「簡単簡単。単に煮るだけだし。熱も結構すぐひいてひまだったから。見たら小豆とかあるし、甘いモノあったらみんなもいいかなーって。でも元はぜんざいの予定だったんだけど」
 帰ってきた左之助がそれを見て、先日発掘されたかき氷器を思い出した。「では黒蜜も」ということになり、黒砂糖と一緒に出てきた謎の粉で試しに団子を作ってみたら白玉もどきが出来上がったというわけだった。


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わらくる<18> 2008/3/25





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