「あ、そうだ」
左之助が言った。
「どうした?」
「背中。どうする? もっかい塗っとく?」
「ああ……」
剣心の背中はひどい日焼けでほとんど火傷の症状に近い。今朝、朝食前と一本目のダイビング後にそれぞれココナツオイルを塗ってケアしているが、二本目を上がった後は、そのままバタバタと帰島、片付け、食事、ログという流れだったので、何もしないままになっていた。忘れていた。
「ああ、悪いが頼む」
「合点承知ノスケ」
「お前いつの人」
ぷっと吹き出した剣心は、笑いながらベッドにうつ伏せに転がった。
同じことを朝から二度もしていて三度目だから、別段意識はしていなかった。
どきっとしたのは、左之助がベッドに膝をついて、剣心の脇腹のあたりがクンと沈んだときだった。
距離が近い。
それにこの体勢はまるで。
状況的には、医者にけがの手当てをしてもらうのと大差のない行為ではある。
今朝起きたときにも、一本目のダイビングを終えて海から上がった後にも、同じことをされている。
二人きりだからといって、そんな態勢で接近しているからといって、別に変に意識するようなことではないはずだ。
―――島でもまだ誰も起きてなくて二人きりだったし。大体、夜は夜で別にあの頃と同じにほたえてたんだし。そんなの今さら。
そうだ、今さら妙な方に意識して構える方が妙なのだ。
手を握ったこともないホヤホヤの二人ならともかく。
―――でもだけど。
真夜中に着いて、ちょっと話しただけですぐに寝てしまって、気がついたらボートにいた。そのまま無人島キャンプになだれこんで、なんだかんだでずっとみんなが一緒だった。就寝後は別行動もしたものの、それでもやはり全体としてはチームで集団行動をしている状況だった。
来る前、一年振りに会う左之助と、どんな顔をして、どんな話をして、どんな風に過ごせばいいのか、不安がなかったと言えば嘘になる。会話が続かなかったり、一緒にいる時間を持て余したり、息苦しかったりしたらどうしよう。一年前の約束を大事に抱き続けているのは自分だけで、左之助にはもうそれは過去の話で、自分は過去の存在で、そんな現実を突きつけられたらどうしよう。
だから、着いた直後こそ多少戸惑いもしたものの、息つく間もなくキャンプに連れ出されて、どこかホッとしたのも事実だった。そんな状況ではそれぞれが集団の中の一員になる。左之助には皆を取りまとめるリーダーとしての役割も生じる。二人でいることもあったが別行動をしている時間も少なくなかった。グループのパブリック性が二人の間に緩衝地帯となって、そうこうするうちに昔のリズムを取り戻すための時間の猶予をおそらく与えてくれていた。
そして、折々に別行動をしていたことも、あの時はそれなりにセーブしているつもりだったが、今にして思えばむしろ左之助に指摘されたように比較的はじけていた気がすることも、また夜になってからのあれやこれやも、ことさら意識的にということではなかったとしても、そこに一年分の距離を矯正しようとする無意識の意図がなかったともまた言いがたい。大体、そうでもなければ、一年振りの再会で、しかもプロポーズの返事を保留にしたようなこんな状態で、平常時の恋人同士のように当たり前に戯れたりできるはずがなかっただろう。
だが。
だがここはキャンプでない。今は左之助はスタッフではない。
あらためて意識してしまうと、こうして二人になるのはこの島に来て以来初めてなのだということにどうしても気が向いてしまう。
部屋には昼下がりのゆるゆるとした空気が流れている。
午後と夕方の境目の眠たいようなけぶる日射しがベッド近くまで入り込んで、床を白く塗り分けている。
長い髪は邪魔にならないよう手ぐしでまとめて横に流してある。
晒されたうなじを、海から吹き込む微風がぞわりと撫でた。
「………っ」
ぬめる温かい手が背中に触れる。
広げた指と掌全体とでゆっくり大きく円を描いて動いていく左之助の手。
柔らかな蝋状のココナツオイルは、左之助の掌で溶かされ、さらに剣心の火照った背中にとろけて、南国の熟れた果実の香りが立ちこめる。
空気が密度を増した気がした。
左之助の触れ方は朝や昼と同じで羽根のように繊細で軽い。
ときどき離れてはオイルを取り足しながら、赤く焼けて熱をもった過敏な肌を労るように、ほとんど浮かせるようにして、なめらかに背中を油膜で覆っていく。手が撫でているというよりも、ココナツオイル自体が意思をもって動いているような錯覚。手は肌を舐めるオイルに乗っかってただついて来ているだけのような―――。
ふいに昨夜を思い出した。
無人島の砂浜、完全な夜の海。悲しいようなキスだった。やさしいのに熱くて、熱いのに静かな、悲しいほど満ち足りたキスだった。
頭が思い出せば身体も思い出す。
胴の芯がじいんと熱くなり、そっと撫でられる背中の皮膚の内側を甘美なしびれがざわざわと這い上がった。
―――げ。……やばいやばいやばい。どうしよう。
剣心は前に伸ばして組んだ腕に顔を埋めて、息を殺した。
肩のあたりを、ぬめる指がこまやかに動いている。ちゅくっちゅくっと粘液質な音がしている。回り込んだ指が鎖骨のくぼみや頸椎に沿って行き来して、しばらくするとまた掌が背中で大きな円を描き始める。
―――もういい。充分。
そう言えばいいだけなのに、それが言えない。それが引き金になってしまいそうで、言えない。
気づけば、組んだ腕や伏せた顔の、肌のくっついている部分がじっとり汗ばんでいた。伏せたシーツからもこもった体温が戻ってくるのが分かる。まずい、やばい、どうしようと焦る気持ちが、ぬるぬるとうねるココナツオイルの海に呑みこまれて流されていく。甘いオイルと一緒に意識さえ溶けていく。
瞼の裏が昼の陽光で灼かれた―――と思ったちょうどそのとき、ギイッとベッドが軋んで、身体を覆っていた気配が遠のいた。剣心を炙る手も離れる。
左之助が身体を起こしたのだ。
剣心は救われた思いでほっと息をついた。
軽い清涼な空気は剣心にやさしい。
力を抜き、澄んだ風を吸い込んで、そっと目を開けた。
揺れる視界には清潔な光があふれている。
今なら大丈夫だ。
もういい。
と、言おうと身じろぎ、顔を起こそうとした。
ざざざ……と木々がざわめいたのはその直前だった。
ざあっという大きな音に続いて強い風が部屋を吹き抜け、剣心の髪を乱す。横たえてあった髪が気まぐれな風に遊ばれて背中に張りつくと、過敏になった身体にはただそれだけのわずかな刺激で電気が走った。気が緩んだところだっただけに、びくんと肩が跳ねるのを抑えようもない。
「おっ……と」
思わずといった風に呟いた左之助の口調は、白々しいほど普段と変わらない。そして、まるで何も特別なことなどないとでも言うように、遠慮も躊躇いもなくうなじに手をそえると、ひと息に指を走らせて髪をすくい上げた。
折れそうに細いうなじは、さすがに日にも焼けずに済んで、抜けるように白い。見えるか見えないか程度の細かなうぶ毛が陽を浴びて金色に光っている。左之助の指が再度生え際をぞろりとなぞって、取り残した後れ毛を拾い上げていく。なぞる指先から広がる波紋が全身を駆け抜けた。先端まで到着した波は高さを増してはね返り、中心で弾ける。もう限界だ。
「………サンキュ…! も…いい……。……あ……がと」
突っ伏したまま、絞り出すようになんとかそれだけ言った剣心は、ふうと息を吐いて、くるりと顔を背けた。肩が上下するのまではもう構っていられない。
だが、ぎゅっと目を閉じていても、瞼の内側がかげれば、自分が何かの影に入ったのだということは分かる。もちろん、それが何の影かも。汗ばむ拳をきゅっと握り締めたとき、頭がクンと沈んで、ベッドが揺れた。ゆわんとたわむ大きな揺れ。
―――ほんとだ。揺れすぎだ、これ。
揺れに酔ったゲストまでいたという、大雑把なポナペ製のウォーターベッド。着いた日の夜、そんな話をして笑った。
揺れは、人波のウエーブを連想させる緩慢さで、順送りに足先へと移動していく。
うっすら目を開けると、頭上の前方にこんがり灼けた腕が見えた。両手がベッドにつかれて、覆い被さる左之助の上体を支えている。どこも触れていないのに、閉じこめられた圧迫感で胸が絞られて身体がちぢこまるのをどうしようもない。
「剣心?」
頭上で囁く声は熱くて甘い。
耳の中を燃やし、全身の血を沸騰させ、骨髄を痺れさせる。沸騰した血が一点に集まる感覚に目眩がした。
―――どうして。
剣心はうつ伏せたままぶんぶんと勢いよく首を振った。何が言いたいのか自分でも判らないが、とにかく振り続けた。
「剣心」
かかる息も熱い。
息詰まるほど濃厚な左之助の気配に呑まれそうだった。
「剣心」
―――だめだ。ちがう。ここで流させたら一緒だ。甘えるな。
やっぱり。
やっぱり、甘やかしすぎなのだ、左之助は。
自分からなにも言わなくていい。なにも言わなくても、ただ待っていればいい。いや、待つ必要さえない。
待つのは性に合わないだと。お前が待っていろだと。勝手にもほどがある。一度でも本当に待たされたことなどない。待たせ続けているだけだ。
トントン――と、ドアをノックするように、指先で肩をつつかれた。
いやだ。顔を見せたくないし身体も見られたくない。きっと情けない顔をしている。みっともなくて、いやらしくて、恥ずかしい顔をしている。
無視していると、またトントン――。
ぶんぶんとひときわ大きく首を振って、叩かれた反対側に顔を向けた。この状況でできる「ノー」の意思表示としてはこれで精一杯だ。だが、向いた先で左之助とばったり目があった。すぐ鼻先で楽しそうに笑っている。しかも剣心の頬には左之助の指先が軽く刺さっている。剣心の口がぽかんと開いた。
「やーい。ひっかかってやんの」
びっくりして目をぱちつかせる剣心の頬を、左之助がさらにつんつんとつつく。
逆から腕を回して肩を叩き、だれもいない方に顔を向けさせてからかう人の悪い遊びと、名を呼んだり肩を叩いたりして振り向きざまの頬をつつく、これまた人の悪い遊びをドッキングさせた、左之助流の悪戯だったらしい。
「左……おま……子どもか!」
思うつぼの遊戯に引っかかって、さらに思うつぼに怒ったのを嬉しがられて、剣心はむくれた。むくれてくるんと向こうを向いた。
背けた顔を左之助が追いかけ、剣心はまた逃げ、左之助がまた追う。右に左にと何度か繰り返して、結局剣心はべったりと突っ伏して顔を伏せてしまった。馬鹿みたいな鬼ごっこをしている間に、気づけばつい直前まで感じたり考えたりしていたいろんなややこしいことはどこか頭の隅っこに押しやられている。
「剣心?」
声は、今度は純粋にやさしい。面白がるでもなく、煽るでもなく、頭を撫でる大きな手と同じようにあたたかくて、同じように穏やかで、そして同じように少しおずおずしている。昔からそうだが、彼は時々ふいにしおらしくなることがあった。どこにどんなスイッチがあるのか判らないが、突然、内気な中学生のように弱気になる。頻繁ではなかったし、そしてすぐに元通りの生意気でえらそうで小憎たらしい若造に戻るし、第一言うとつけあがるので言ったことはないものの、そんなときの左之助は年相応に初々しくて微笑ましいとかねがね思っていた剣心だったから、そんな風に触れられるとついつい胸の中が優しくなってしまう。
―――結局甘やかされてるし。
だが、だからといってここでほだされてしまうのは、それはそれで悔しくもある。そういうところがつくづく可愛くない性格だと自分で思うこともあれば、そういう性分なのだから仕方がないと開き直って思うこともある、微妙なところではあるが……。
三度、肩先がトントンと叩かれた。
左之助はきっとまたさっきの要領で剣心を引っかけようとしているにちがいない。どうしようか、ちょっと迷った。
―――いいや、初志貫徹。断固俺。二度も引っかかるか馬鹿者め。
先を読んで、あえて呼ばれた方に顔を向けた。
年齢の差はちょうど十歳。左之助が二月生まれだから、剣心が六月に誕生日を迎えるまでの約四ヶ月間だけは九歳に縮まるが、だがそれも剣心が六月にひとつ歳を取れば元に戻り、生きた年月の差は決して変わることはない。しかし、十代ないしは生活被保護者でいるうちはともかく、成人して社会人として歩き始めれば、人間の評価に、あるいは人間同士の関係に、物理的な年齢はさほど大きな意味を持たない。ただの数字というにはやや重要だが、だからどうという因果関係を言えるほどのことは多くない。生まれ育った時代、世相、流行の違いと干支くらいのものだ。体力、身体能力でさえ、個人差と努力と摂生である程度はコントロールできる。要は人間としてどう生きてきたかであり、どういう人間であろうとしているかである。
剣心が初めて出会ったとき、左之助は二十歳だった。すぐに二十一になった。生意気で強気で、片っ端からねじ伏せる勢いで何にでもなく憤っていた。若者特有の根拠のない自信に神経を逆なでされることもあれば、懐かしさにも似た親しみを感じることもあった。だが左之助の変化は早かった。やみくもに浪費されているように見えたエネルギーが、目指すべきところを見出して一気に走り始めたようだった。あっという間だった。
その成長が我が事のように嬉しかったのはしばらくの間だけで、やがていつ頃からか、その気持ちに陰りが生じた。左之助はあっという間に駆け抜ける。だがいつまで見ていられるだろう? いつまで居場所があるだろう。置いていかれるくらいなら、取り残されるくらいなら――。
左之助の方が十も年下なのに、左之助の方が余裕がある。左之助の方が十も年下なのに、左之助の方が先にいる。もう、意味もなく自信過剰で気ばかり逸っていた二十一歳の若造ではない。努力も我慢も現実も知っている。そう、待つことも。
うらをかいたつもりで顔を上げたのに、窓の向こうに外と空が見えるはずの視界いっぱいに左之助の顔があった。
「お前ってなんでそこまで思うツボ子なわけ」
悪戯に成功してにっかり嬉しそうに笑うひげ面の少年がいた。
こんな風になんでもない、こんな風に忘れられないかけらを、剣心はたくさん持っている。
「なんで……」
剣心の顔がくしゃっと歪んだ。
絞り出すように囁いてシーツに顔を埋めてしまった剣心の傍らで、左之助は沈黙する。沈黙して立ちつくす。
ザザザザ……… ザザザザ………。
穏やかな波の音が床を洗っては引いていく。
ザザザザ………。
低い海の旋律が満ちる部屋を、浜風がやさしく通っていく。
左之助の手が剣心の頭を静かに撫でた。
何度か撫でて、そうしてそっと掌をのせたまま、左之助は背中を丸めて後頭部に唇で触れた。
「地肌まで焼けてますが」
「………」
ザザザザ………。
「これに懲りて大暴れは慎むように」
わざとお説教ぶった戯れる口調で左之助が言う。
「………」
「ワカリマシタカ」
「………」
ザザザザ……… ザザザザ………。
「返事は?」
「………」
波音のなか剣心の頭が小さく横に振られて、驚いた左之助が顔を上げた。
「えっ。マジでか。すごいなお前」
すると、突っ伏せたままの頭が今度はウンとうなずく。
左之助は声を立てて笑って、そして網焼きの背中を平手で軽く叩いた。
「………い゙っ……!!」
「おしおき」
「……た―――― ……」
「口で言ってわかんねえ奴には身体でわからせねえとな」
「……ゔぅー………痛いー」
「自業自得」
痛さのショックでつぶれた蛙のようにのびてしまった、あるいはそんなふりをする剣心の髪を、左之助は尚も笑いながらぐしゃぐしゃとかきまわした。
「晩メシなんかうまいもん食いに行こうぜ」
「うううう」
ザザザザ……… ザザザザ………。
「俺ちょっと仕事してくっから、もちょっと寝てろ」
今度は素直にうなずいた朱色の後頭部をもう一度撫で、「行ってきマス」と後頭部に軽く口づけて、左之助は出て行った。
「あ、そうだ。パスポートと貴重品、店の金庫に入れてるから。カネだけちょっと出しとく」
ドアを閉める前に、思い出したようにそんなことを言い置いていった。
かなりの時間が経ってから剣心はようやく起きあがり、ベッドの上に座り込んだ。
「………」
またやってしまった。
自分のことでいっぱいいっぱいになって、左之助のことをちゃんと見れなかった。聞けなかった。
自分の気持ちならもう散々考えた。いや、考えるまでもなかった。それは最初から決まっていたのだ。そんなことは、もういくら考えていてもしょうがない。しょうがないから、この二週間一緒にいる間はただ専らに左之助を見ているつもりだったのに、これでは彼をありのままに観察するどころでは到底ないではないか。
どんな顔をしていたのだろう。なにを考えていたのだろう。なにを思っていたのだろう。ココナツオイルを塗ってくれながら。それからその後。いま部屋を出て行くときも。
「………」
ため息が出た。
「あーあ、もう……。これじゃおんなしだろ。何してんだ俺」
ベッドはゆらゆらといかだのように揺れている。窓から入る日射しはさっきまでに比べると少し低くなっていたが、光はまだ白く、昼の色をしている。
思い返そうとしても、見てもいない表情が記憶の中に見つかるべくもない。思い出されるのは何度も繰り返し頭を撫でていた掌のぬくもりで、残されたのは背中にねっとりと甘く絡むココナツオイルの香りだった。