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2007/9/1

<15>

 ワンデイトリップのダイビングパックは、二本のボートダイブにランチが標準でセットになっている。
 帰島後、左之助は船と器材を二人のスタッフに任せ、大急ぎで昼食の準備をした。
 その間にゲストは器材を片付け、シャワーを使う。
 手際のよいメンバーが揃ったもので、ボートが桟橋に接岸して約一時間も経った頃には、剣心を除く全員が器材の片付けもシャワーも済ませてログブックを片手に野外テーブルを囲んでいた。
「いたー!だきー!ます!」
 左之助が給食当番の小学生のように手を合わせ、皆がそれに唱和してランチが始まる。
 今日のメインは二種のパスタ。ひとつがツナとオクラのクリームソース、もうひとつが唐辛子とにんにくのオリーブオイルソース。それに人参とキュウリの野菜スティック(という名のぶつ切り)。キャンプから持ち帰ったローフパン。そしてもちろん、お約束のバナナの大房。
 朝からツーダイブをこなした健康優良児たちだ。大きな皿に大盛りにされていたパスタはどんどんなくなっていく。

「左之さん。剣さんの分って、とってある?」
 梓が訊ねた。
「んーにゃ。まあ起きてから何かするさ。どうせしばらく起きそうにねえし。のびるし」
 それを聞いてあやめがくすっと笑った。
「でもほんとよく寝るよね剣さんって。長旅で疲れてるのもあるんだろうけど、なんか隙あらばって感じ」
 キャンプに出かけた朝は熟睡しているところをカゴごとボートに積み込まれ、目を覚ましたのは港を出て相当走ってからだった。島でも例の網焼きの原因となったハンモック昼寝をしていたし、今日も今日で船上ではしょっちゅう居眠りをしていた。水面を跳ねるハードなホッピング航行中もうつらうつらしていたのは皆を驚かせ、「あれはすごい。尋常じゃない」と、昼食の際にも話題に上っていた。
「寝る子は育つ?」
 すずめが言い、左之助が欧米人のような仕草で肩をすくめた。
「“子”っつう歳かよ。しかも全然育ってねえし」

 明日が帰国予定の新井夫妻は、今のダイビングが最後だった。器材も念入りに水洗いして塩抜きをしたり、出発までに完全に乾くようできるだけ広げて天日に干したりと、明日も潜る他のメンバーに比べて手間がかかったのだが、その新井夫婦が着替えを済ませて戻ってくる頃になっても、剣心が部屋に入ったまま出て来なかった。
 器材の片付けなど誰よりも早かったのだ。船から上がるのが最後だった青空がショップに着いた時には、既に洗い終えたウエットスーツをハンガーに干し、部屋に戻ろうとしていたくらいだった。
 それが、いつまで経っても出てこない。はじめのうちこそ、深夜に到着して寝ているところを運び出されたわけだから、荷物を出したりあれこれ整理したりしているのだろうと誰もそう気にしなかったが、食欲をそそる油と香辛料の匂いが広がりテーブルに昼食が並ぶ頃になっても来ない。さすがに気になって左之助が呼びに行った。そしてひとりで戻ってくると、
「めっさ爆睡。びくともしねえ」
 やや間違った日本語で状況を説明したのだった。

「でもほら、やっぱり相当疲れてるんだろうしさ。後でなんかおいしいもの作ってあげなよね、左之さん」
 すずめが真面目な顔で左之助を覗き込んで言った。軽くむせて胸を叩く青空に水を手渡しながら、左之助は肩をすくめた。
「俺が作らねえでもあいつ自分で適当にするって」
「でも左之さん料理うまいし。それにやっぱり作ってもらうのっておいしいし。左之さんが作ってあげたら剣さん喜ぶよきっと」
 左之助がキュウリをボキボキと囓ってふぁははと笑う。
「なんだよそれ。つうかヤツのが断然上手いって料理。俺のは一発芸だから偏ってる。つうかそもそも俺あいつに料理教えてもらうまで全然だったからな」
「へえへえ、そうなんだー」
「なんか意外」
「今でもほんとのワザもの料理とかは駄目だな、俺は。天ぷらとか、蒸しもんとか、中華とか。あと、きれいに飾り付ける系。バーン!ドーン!ガーン!みたいなのはどんとこいだけどよ」
「ははは。ぽいぽい。よくわかんないけどそんな感じ」
「左之さんらしい」
 姉妹が笑った。梓もうなずく。
「でも剣さんのお料理はほんとすごいと思う。昨日のお肉も超おいしかった。プロ級」
「お店とかしたら絶対はやるよね。ていうか行くよね絶対。けど家政夫さんってそんなにすごいんだねえ。あたし知らなかった」
 あやめにそう言われて左之助が「うーん」と首をひねった。
「いーやー……それはちょっとあいつが特別?」
「あ、やっぱりそうなんだ?」
「びっくりするくらい下手な人もいる」
 剣心の前に通っていた男性がそうだったし、その前の二人の女性もそれなりにこなせてはいたが、ずば抜けて上手だったとは言えない。
「でも左之さんてお坊ちゃんだったんだなあ。それも意外」
「へ?なんで? 全然バリバリ庶民だけど」
「うそだー。庶民の家に家政夫さんはいないよー」
「うんうん。友達とかでも聞かない聞かない」
「ねー」
「あー言われてみりゃそうだな、そういえば。でもウチはむしろ家庭崩壊つうか俺が家庭崩壊つうか」

 たっぷり用意されていた昼食はあっという間になくなった。
 左之助がテーブルを片付けながら四人に訊いた。
「ログはどうする? みんなで? 各自?」
 ログとはログブックの略で、文字通り潜水記録のことである。
 日時、ポイント名、潜水時間、最大深度、平均水深、使用タンク、消費エア量、透明度、カレント状況、使用器材などのデータを各ダイビングごとに記録し、バディーまたはガイドの確認サインをもらう。多くのダイバーは見た生物や水中地形なども書き留めている。一緒に潜ったチームのメンバーで集まってログをつけ、サインを交換する習慣も日本人ダイバーには一般的で、一種のコミュニケーションツールにもなっている。だが、あれを見た、これを見た、あの魚は何だ?と、わいわい言いながらログづけをするのが楽しい人もいれば、剣心や左之助のようにどちらかと言えば面倒に感じる人もいる。左之助が日本で働いていた頃は、サークル的な友達づくりニーズの高い都市型ダイビングショップの性質上、「海屋」のスタイルとして毎回ログづけの時間をきちんと取っていたが、海外リゾートにフリーで潜りに来るダイバーの場合、ニーズは半々だ。マオマオビーチリゾートではゲストの希望に応じてしたりしなかったりと不定だった。
「したいかも」
 言ったのはあやめだ。
「でもみんながいいならいい。あとで固有種とかだけ教えてもらえれば、それで」
 だが、梓の「わたしもしたい。みんなでしましょうよ」という言葉で、結局全員ですることになった。
「ういす了解」
 左之助が食器類をまとめて立ち上がる。
「ほんじゃ俺ちょっと片付けしてくっから、各自データつけ始めといて。あ、図鑑これな。それとバナナ」
 日本人ダイバーにポピュラーな図鑑「山渓カラー名鑑 日本の海水魚」、「山渓フィールドブックス 海辺の生きもの」などに加えて、ミクロネシアの固有種に特化した英語の図鑑とムックが数冊、どさどさと積まれた。
「コーヒー、紅茶も、よかったら」
 ダイビングショップの一角に、電気ポットとティーバッグの紅茶やインスタントコーヒーなどがひと通り揃っており、自由に使えるようになっている。
 左之助は素早くバナナサンドをつくって口にくわえると、「フォンフォ、フォオオ」と言い残してテーブルを離れた。
「………なんて?」
 左之助が去った後ですずめがあやめに訊いたが、謎の左之助語に長けた剣心ならいざ知らず、それが「ほんじゃ、後で」などという何もそこまでして言わなくともいいようなどうでもいい科白だったとは、訊かれてもあやめにわかるわけがない。黙って肩をすくめると、
「バナナ食えよ?」
 暴投誤訳で皆を笑わせた。

 左之助が部屋をのぞくと、剣心はまだ眠っていた。
 さっき昼食前に見た時と同じうつ伏せの姿勢で、同じように掛け布団を丸めて抱き枕にしている。ただし位置と向きがちがうのは、背中が焼けているために打てなかった寝返りのかわりに場所を移動したか何かのためだろう。
 洗い髪がベッドに散り広がっていた。
 長い毛先を掌にのせた左之助の口元に甘い苦笑が浮かぶ。
 相変わらずドライヤーは好かないらしい。生乾きの髪がシーツを湿らせている。
 リゾートのコテージは、よく言えばログハウス、ありていに言えば木造の掘っ立て小屋だ。カーテンを引いても、カーテンの隙間はむろん、壁板や建具の隙間からも、強烈な外光が幾筋も射し込んでいる。
 左之助の手が、細い光のひと筋の中に入った。
 赤道至近、常夏の島ポナペの陽光は強い。
 白い陽光を受ける掌の上で、濡れた赤毛がきらきらと光る。
 眩しそうに目を細めた左之助の口から、ぼつんと声が漏れた。
「長えなあ、ただ待つってのは……」
 部屋は仄暗く、太陽の光の筋だけが細く白く、その光の中に、こまかな埃や塵が無数に踊っている。海中の浮遊物に似ている。剣心の細い髪は陽を浴びるとほとんど透けて澄んだ金色になる。
 ザザザ……と風がうなって、光が揺れた。
 揺れた光は左之助の目にも揺れて、ぼんやり漂っていた表情がハッと我に返った。波音さえも遠ざかってしまった沈黙のなか、息をひそめて剣心の寝息をうかがう。
 聞こえたと思った弱々しく掠れた自分の声は、本当に口から出たものが耳に戻ってきたのか、それとも頭の中で聞こえただけなのか。
 自分の息づかいがやけに荒く響いて聞こえる。
 起こしはしなかったか。聞かれはしなかったか。
 剣心は変わらず抱き枕に頬を埋めて、平和な寝息を立てている。
 濡れ髪に半ば隠れた横顔は、ただただ無心に眠っているように見える。
 ほろ苦く笑って首を振った左之助は、毛先を陽にかざしてふうと息を吐いた。
「………枝毛発見」
 ぼそりと呟くと後はもう何も言わず、ひんやりと湿った髪の感触を確かめるように、慈しむように、しばらくの間、掌の上に剣心の髪を揺すっていた。


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わらくる<15> 2007/9/1





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