早朝、激しいスコールがあった。
バケツをひっくり返したような、どころではない。ホースの口をつまんで水を叩きつけられているような、ものすごい勢いと水量だった。
実測時間にすれば五分にも満たなかったのだろうが、野外、半戸外組は、当然一発で目を覚まし、それぞれ最寄りの庇に避難した。
剣心はひっくり返る勢いで飛び起き、ついでに文字通りひっくり返って、ハンモックから落ちた。落ちてみるとテント地の丈夫なハンモックの下は、豪雨の襲撃をしのぐには丁度いいことがわかった。そのまま潜伏するべく位置取りをしていると左之助が例のパレオシーツ(元ふろしき)を持って割り込んできた。
「地面に直はさすがに痛えだろ」
シーツを伸べて二人分の居場所を作ることには剣心も異存はないが、左之助のいかにも落ち着いた様子は気にくわない。軽く膝蹴りを入れて睨みつける。
「根性悪。わかってたなら、なぜ言わん」
「言ったじゃん。目覚まし要らねえって」
「スコールだとは聞いてない」
「訊かれなかったからな」
左之助の挑発的な微笑はいつも簡単に剣心のスイッチを入れる。スイッチの入った剣心は例によって左之助に飛びかかる。しかし今日はハンモックの屋根からはみ出ると痛いほどのスコールに直撃され、おとなしくせざるをえなくなる。
バリバリと轟く壮絶な雨音に閉じこめられるように、暴れるのをやめて、雨に冷える身体をくっつけ合った。
昨夜は結局また肩車で戻ってきて、左之助のハンモックで一緒に寝ていた。
気持ちよく熟睡していたところに、まさに寝耳に水のスコール襲来で、剣心は本当に驚いた。
朝までにこんなに激しいスコールが来ると判っていれば、そもそもこんなところにハンモックを張りはしなかったものを。
「いや、そこは悪かった。実はここまでひどいのは
「え、そうなのか?」
「ああ。いつもはもうちょっと普通にスコールなんだけどなあ? なんだっつの」
剣心も南の島のスコールを知らないわけでは、もちろんない。ないが、それにしてもここのスコールは度外れてひどい……と、思っていたら、左之助にとってもそれは同じだったらしい。
「なんだ、そうなのか。じゃあ最初からそう言ってくれればよかったのに」
「なんで」
「なんでってだって、ただのイケズだと思ったから……」
だからあんなに噛みついたのに。
「えーだってお前プリプリ怒ってんの超可愛かったし」
「……なに?」
「もっとプリプリさせてみてーって思うじゃん。普通に」
「………」
と、いうことは、だ。
と、いうことは、ここで怒ったらまた奴の思うつぼなわけだ。
いや、待てよ。
だが、むしろ逆に。
逆に、そう言えば自分がこらえることを見こして言っているのか? だとしたら我慢する方が思うつぼで……。
考えるほどに、ますます眉間に皺が深くなる。
「怒んなよ。ムラッとくるじゃん」
肘枕で鷹揚に寝そべっていたのが、ゆらりと上体を起こして覗き込んでくる。
途端に匂い立った色濃い陽気が覆いかぶさるように上を占めて、密室の空気はさらに緊密に凝縮される。
心拍数が跳ね上がって、睨みつける頬が熱を持つのが自分でわかった。
瞬間的だったスコールが止むと、あっという間に朝が来た。
七時になる前に左之助は起きだし、朝の準備を始める。
キャンプの片付け。朝食の用意。ダイビング器材の確認と点検。天候と海況のチェック。
ゲストが起きてくるまでに一時間。するべきことは少なくない。
剣心も一緒に起きて手伝った。
八時になって四人のゲストが揃う頃には、朝食は万端整っていた。
「うわあ、すごい! おいしそうー」
「えー、これ全部作ったの?」
皆から歓声が上がったのももっともである。
島に着いてから現地調達したしじみと魚のあらの潮汁。野菜炒め。スパムステーキ。パン。バナナ。バナナは焼いたのもある。
キャンプの朝食とは思えない豪勢なテーブルだった。
が、前夜の仕込みが物を言っているので実は朝の作業量はさほどでもない。潮汁は寝る前に作ってあったので温めるだけでよかったし、野菜炒めもディナーから取り分けておいた蒸し焼き野菜に缶詰のヤングコーンとグリーンピースを加えて軽く炒め直しただけだし、焼きバナナは皮のまま火のそばに埋めて他の調理をしていたら勝手に出来上がっていたという寸法だ。最小限の労力で最大限の効果を。つまり手抜きのスキルである。
「昼飯は二本潜って戻ってからだから、しっかり食っとくように」
ダイビングは運動量の多いスポーツだ。
小国姉妹は左之助に言われるまでもなく食欲旺盛だったが、普段から朝はあまり食べないという新井夫婦はコーヒーだけだった。
「ビスケットとかならどう?」
「え、あ、や、あの、そのっ……」
「?」
剣心がおやつセットからビスケットとクリームサンドクッキーを出してきて二人にすすめると、青空がどことなく気恥ずかしそうにうつむいた。
「セイさん? どったの?」
「え、いや、ちょっとあの、ていうかその……」
「あなた、もしかしておなかの調子でも悪い? 昨夜もトイレに起きてたけど」
朝が小食なのはいつものことなのに、なぜかもじもじする夫の挙動を訝って梓が訊ねると、青空はさらに真っ赤になってぶぶぶんと手を振った。
「えっ! い、いや全然。全然全然! そ、そうだよな、ちょっとは食べといた方がいいよな」
「バナナだバナナ。セイさん、バナナ食え」
「は、はいっ」
左之助にそうすすめられて今度はかしこまってしまった青空は、心なしか肩を縮ませながら焼いていない方の生のバナナに手を伸ばした。通称モンキーバナナと呼ばれる、掌に収まるほどの小ぶりな品種である。皮が薄く、味は濃くて甘い。タイ、インドネシアなどの東南アジア諸国同様、ポナペでもこのタイプが主流だ。
「でも左之さんてほんとバナナ好きだよねえ」
言ったのはあやめだ。すずめも乗り出す。
「そうそう。ショップにも船にも常備してるよね」
「え、でも基本じゃん? ダイビングにはバナナ。PADIの教科書にも載ってるし?」
左之助が真顔で言うが、真顔だけに誰も真に受けない。
「えー、まさかー」
「何言ってんの。書いてるわけないじゃん、そんなの」
「ていうか左之さん面白いー」
「え。マジだって。アドバンスかオープンか、どれだったかは覚えてねえけどマジ載ってるって」
梓、すずめ、あやめは冗談だと思って軽く笑い流している。
だが剣心は知っている。
それが書いてあるのだ。
ただしアドバンスでもオープンウォーターでもない。レスキューだ。
レスキューダイバーマニュアル第五章第三節。「水面下で意識のあるダイバーのレスキュー」の「脚のツリ」の項、「脚がツル原因は…?」と題したコラムに、「脚のツリは、つねに水分を補給し、正しい食事を摂ることで防ぎます。カリウムのレベルを上げる必要を感じたときには、カリウムが多量に含まれたバナナで補うことができます」と書かれてある。少なくとも剣心が習った時には、PADIの上級ライセンスであるレスキューダイバー講習のテキストに、そう明記されていた。
剣心が
「帰ったらテキスト見てごらん。ちゃんと書いてあるから」
「うそーほんとなんだ!」
「うん、要するに水分とカリウムと日頃のトレーニングですよ、みたいな主旨なんだけど、文面がいいよね。『バナナで補うことができます』だからね。さも他は眼中になさげだ」
「えー、全然覚えてない。そうなんだ。びっくり」
目を丸くして言ったのは、数年前にレスキューダイバーのライセンスを取得したあやめだ。
レスキューダイバーはアマチュアで最高ランクのライセンスである。
「レスキュー」の名前が示すとおり、ダイビングに伴うトラブルやアクシデントを予防、回避し、必要な場合には対処ができるよう、知識と理論を学び、訓練を受ける。あわせてメディック・ファーストエイド(応急救護プログラム)講習も履修する。
初級のオープンウォーターのライセンスからスタートして、次のステップがアドバンスドオープンウォーター、その次がレスキュー。さらに次といえばプロダイバーの第一歩であるダイブマスターコースになる。現役インストラクターの左之助と退役インストラクターの剣心は当然ながらプロになる前に前提としてそこをクリアしている。一般的にレジャーダイバーのレスキュー取得率はさほど高くはないのだが、ベテラン揃いのチームだったためか、居合わせた面々のうちレスキュー講習を受けていないのは最若年のすずめだけだった。
とはいえ、教える側と教えられる側で理解と知識の深さがちがうのは当然のことである。あやめも新井夫婦もレスキューライセンスを持っているとはいえ、そんな欄外コラムの中の小さな記述までいちいち覚えてはいない。
「ほらみろ」
左之助が胸を張り、
「ていうか、なんで俺は笑い飛ばされてこいつが言うと信じるかなみんな」
と、抗議もする。
「普通普通」
「だって左之さんいつもがいつもだから」
「素行? あるいは俺が人徳?」
と、すずめ、あやめ、剣心の異口同音。
梓が、左之さんかたなし、と笑って、でも、と続けた。
「でもなんでバナナ限定って感じだよね。カリウムってことならさ、バナナじゃなくててもいいわけじゃない? 他のものでも。剣さん、思わない?」
「一例としてってニュアンスじゃなくて、“バナナ食えお前ら”に近い強制力だもんね」
「でしょ? カリウムって他に何に入ってるのか知らないけど」
「超主観的。もしかしてテキスト作った人が好物だったとか」
「ははは、ありえる」
「あーっと……。でもどっちかっていうと、僕なんかはもしかしてマッチングの問題かな?っていう気がしなくもないんだけど。個人的には」
相変わらずの婉曲表現で青空が遠慮がちに口を挟んだ。皆が聞き返す。
「マッチング?」
「うん。潜りに行くようなところってさ、結構な確率でバナナのよくできるところだったりするような気がしない? 地理的あるいは気候的にさ」
主旨の明瞭さにやや欠く言い回しだが、要するにダイビング好適地もバナナ栽培ゾーンも熱帯・亜熱帯にあるということを言いたいらしい。
「そういえばそうかも」
「ていうかそれだよ、きっと。青空さん鋭い」
「でも
「すずめちゃん、それどういう理屈」
「だってなんかアバウトっぽいもん。大雑把そうだもん。何にでもケチャップかけるし、ピザにコーラだし」
「それ関係ないって」
「それにそんなこと言ったら日本人はなんでもソイソースでソイビーンズじゃんか。豆腐に味噌に揚げに納豆、それにしょうゆ掛けて食うんだぜ? いいかげん豆食いすぎ」
「いいんだよ。お豆は畑のお肉だよ。栄養抜群なんだよ」
「ハナシ変わってるって」
手も口も元気に、賑やかな朝食は進む。
手分けして後片付けをしている時に、梓が気づいた。
「あれえ、剣さん背中真っ赤?! どうしたの。ひどい。大丈夫?」
日焼けは直後よりひと晩明けたぐらいが一番ひどい。
焼けたのは主に背中なのでTシャツでほぼ隠れていてそれまで目につかなかったのだが、後ろから見ると露出したうなじと上腕に痛々しい赤色がのぞいていたのだ。
「いやそれが大丈夫っつうかさー。見ろよこれ」
本人よりも先に反応したのは左之助で、その左之助が剣心のTシャツをめくり上げると、それを見た四人から小さな悲鳴が上がった。
背中一面が赤い。しかも見事に型焼けしている。
「え! ひどいー」
「うわ、痛そう。ていうかそれやっぱりあのハンモック?」
「うそ。そんな長い時間じゃなかったのに」
「冷やす? タオル濡らしてこようか?」
皆に口々に気遣われて剣心がやや気恥ずかしそうに言った。
「だ、大丈夫。ちょっと冷やしたし、あとココナツオイルも塗った」
あまり大丈夫でもないが、そう言うしかない。
「だからポナペの日射しを甘く見るなって最初に言ってんのに。人の話聞けっつの。つうかこれ何べん見ても笑える」
ひとり鬼のようなことを言うのは左之助だ。
むっと睨みつけた剣心の頭を、左之助が小突いた。
「あんなとこで寝てるからだろが。自業自得め」
実はそういう左之助こそ、朝になって明るい日の下で改めてそれを見た時には、あたふたと濡れタオルを作って冷やしたり、掌でぬるませたココナツオイルを塗り込んだり、オイルで柔らんだ手の感触さえ痛がるのに狼狽えたりと、彼ら以上に動じたのだったが、皆の前ではそんな強がりを言って笑うのだ。
青空がなぜか恥ずかしそうに目をそらしながらコホンと咳を切って、バツの悪そうな照れたような顔で少し笑った。
「ま、まあでもあの、ほら、ちょっとホントきれいに焼けちゃったって感じではあるよね、実際の話」
「……うん、まあたしかに」
「ね」
女性陣も困ったような窺うような、どっちつかずの様子で遠慮がちに同意する。
相当痛いであろう剣心には悪いが、ハンモックの網目をくっきりと写した背中は、焼き目が反転になっていることを除けばまさに網焼き状態だ。見ている側には、要するに、早い話が、面白かったのである。
剣心も情けない顔で嘆息した。
「参るよなあ、もう。かっこ悪すぎ」
「うううん、そんなことないよ。可愛いよ!」
「うんうん。それにほら、ちゃんと背中全面だしさ」
果たしてフォローなのか追い打ちなのかは微妙なところだが、小国姉妹にそんなことを言われて、剣心もつい笑う。
「そういう問題?」
「そうだよ」
「そういう問題だよ」
「そうそう。いい焼き加減」
「ええー? 俺、なんかちがう気がする」
「網焼き剣心ウェルダン一丁あがり。レモンバターソースまたはペッパーソースでどうぞー」
左之助が言い、大爆笑になった。
痛い、ひどい、と言いながら、当の剣心が一番大笑いしていた。
「ねえねえ、みんなで写真撮ろう写真。この背中はやっぱ撮っとかないと駄目でしょ」
「えー、それはいやだー」
「いいじゃん可愛いって。記念記念。セルフタイマーあるし、みんなで入ろうよ」
「リッチー! ジョーン! 写真写真。入ってー」
「デジカメここに置くよー。こっち向いて。並んでー」
「ほらほら、剣さん真ん中真ん中」
「えええ? ほんとに撮るの?」
「撮るよ。当たり前じゃん。はい、後ろむきね」
「セルフタイマー十秒だから。じゃあいくよー。ここチカチカするから見ててね。……よいしょ。はい、ナイン……エーイ……」
「すずめちゃん、ここここ。入って入って」
「あ、そーうだっ」
「えっ! 左之さんどこ行くの」
「小道具」
「小道具?!」
「セブン……シクス……」
「左之さーん! 早くー!」
「ファーイブ……フォー……」
「ヘイ、サノ! ハリア!」
「スリー……ツー……」
「っし、間に合ったー!」
「あっ!こら馬鹿左之、やめんかど阿呆!」
「きゃあ、剣さんダメだよもう撮る…」
「いだー!!」
「きゃっ、ごめん!」
「ワン」
「いたー!だきー!ます!」
左之助が言って、冷静な青空のカウント通りにシャッターが切れた。
大騒ぎのなか、誰も見ていないプレビュー画面に静止画が写る。
中央では剣心が両手両脚を開いて「Kの字」になって跳び上がり、その横でうっかり肩を掴んでしまったすずめが目と口を真ん丸にしてのけぞり、その左右に驚いてそれを見ている梓とあやめ、笑うジョンとリッチーがいる。左之助は網焼き剣心の背後で、両手に構えたナイフとフォークをぴかぴかと光らせて満面の笑み。左の端で梓の横に直立する青空だけが、生真面目な顔でカメラを見つめていた。