「あ!」
と叫んで、左之助が飛び起きた。
ひとしきりごろごろしてお互い多少は気も済んで、なんとなくそのまま就寝モードに入りかけていたときだった。
「忘れてた。うーわ、やっべー。そうだそうだ、そうだった。やべー。よかったー」
“びっくり”を絵に描いたような顔と声の早口。剣心の方を見てはいるが、半ば以上自分に向かって言っている。左之助は「やばいやばい」と呟きながら本格的に起き出すと、勢いよくハンモックを飛び降りた。
「いよっ……と!」
「? 左之?」
「しまった。寝てる場合じゃなかった。言っただろ? 来い。すげえもん見せてやるから」
そういえばそんなことを言っていた。
明日はもっとすげえの見せてやる。
すごい何?
内緒。
無言で海に見入る剣心に左之助が言い、剣心が訊ね、キスをした。あれは昨夜、コテージに着いてすぐ、バスルームでの会話だった。
しかし剣心がのんびり思い出している間に、待ちきれない左之助はパレオシーツごと剣心をハンモックから取り出してしまった。
「わ、わ、わわわー」
「よい……っしょー!」
「えーっ?!」
剣心が驚いたのも当然だ。
威勢の良い掛け声と共にアワアワする剣心を背負って、えっほえっほと走り出したのである。
「ひゃっほーい!」
背負い掛けに背負われた剣心はまるで風呂敷包みか何かのようだった。
―――こいつやっぱり無茶苦茶。ていうかすることに成長がない成長が!
ちょっとは文句も言ってやりたかったが、勢いよく走る背中は揺れも激しい。荷物のように背負われてしまっているから、しがみつくにも中途半端だ。舌を噛まないように歯を食いしばっているしかない。
夜の森が、乱上下しながら流れ去っていく。走るコンパスのリズムでずんずんと振動が続く。
だがやはり体勢に無理がありすぎた。しばらくも行かないうちに剣心包みは少しずつずり落ちてしまい、そのまま走り続けるわけにはいかなくなった。
走るのをやめた左之助が、今頃になっておっかなびっくりの風情になって、おそるおそる剣心を足から地面に降ろす。
「……痛い」
剣心がむっすり言った。
「えっ」
「裸足」
寝ているところを運び出されたのだから当然である。
「あ、そか。わりい。んーと……、じゃあ」
左之助はくるりと背を向けた。
そうしていったん前のめりにしゃがんだ左之助だったが、剣心が肩に手をかけてよじ登ろうとしたところで、
「あ、いや、そうだ。これはどうよ」
と、背中を立てた。
そして、やや後ろに反るほどに背筋を反らせ、ぐっと腰を落とす。
「?」
「ここ、ここ」
早くも立ち直ったらしく、さっきの遠慮がちな様子はもうない。
無邪気な元気さで自分の両肩を叩き、「またいで座ってみ」と言う。
「? ?」
またぐ?
どこを?
「肩車」
ああ。
言われてやっと理解した。
「新しいだろ?」
左之助が横顔で笑う。
たしかに新しい。
抱かれたり担がれたり背負われたり縛られたりと、大概ほとんどの運ばれ方を経験しているが、そういえば肩車はまだないのだった。
大概ほとんどの運ばれ方を経験しているのがどうなのかという問題や、新しいからどうなのだという問題もあるにはあるのだが、そこは気づかないことにして、指示通り背中をまたぐようにして肩に座ってみた。
堅い。だが骨の硬さではない。見た目より詰まった筋肉の堅さだ。
「つかまっとけよ」
「ん」
剣心が頭上に添えていた手を額に回して力を入れた。
剣心の向こう脛を掴む左之助の手にも力が入る。右手が右足、左手が左足。軽いかけ声とともに立ち上がった。
「ほっ」
「………!」
驚いた。
ぐん、と持ち上げられた肩上の視界は、思いもかけない高さだった。さしたる予想をしていなかったから余計に高く感じた。
持ち上げられた瞬間、思わず左之助の髪を握りしめていた。
彼の身長が百八十前後だから、二メートル少しの高さだろう。
たった一メートル上がるだけで、視野はこんなにも違うのだ。
木が近い。地面が遠い。視界が縦に広がる。ずっと先まで見通せる。
初めて馬に乗った人の多くは馬上の高さに驚くという。なるほどこれは驚く、と思った。人の肩でこれほどにドラスティックなら、馬ともなればどれほどだろう、とも思った。駱駝はもっとかも。ふとそんな連想をしたのは、旅の途中、インドで「
森は突然に途切れた。
海と空が開ける。
浜に出たのだ。
左之助が足を止め、剣心は、左之助の頭上数十センチメートルの視点から、眼前に広がる情景を見渡した。
外洋側だ。
三百六十度の水平線。
陸はおろか船影のひとつもない。
さっきまでいた浜は環礁の内側に向いていたから、他の島も見えれば、遠くに船の光が望めることもあった。だが、外洋に面したこちら側の浜は、環礁の一番外端で、ここより先には海しかない。
星空は宇宙のようで、それを反射する水の球面は水銀のシーツだった。人工の光は一切ない。硬質に輝く完全な夜。完全な夜の海は、それ自体がひとつの生き物のように内側から光を放ちながら存在していた。
「………」
口を開いたが声が出ない。
だがそもそも何を言おうとしたのだったろう? こんな人の及ばない世界を前にして?
剣心は口を閉じ、もう一度ゆっくりと全体を見渡した。
「やっぱすげえや……」
手の下で声がした。自分が左之助の髪を結構な力でわしづかんでいたことに気づき、手を放す。
「あ、悪い」
左之助の頭が、いや、というように小さく動いた。
「これをお前に見せたかった」
「………」
「二回目に来たときかな。夜、散歩してて、ここに出て」
左之助が黙ると、夜の音があたりを占める。
「お前が来たら絶対ここ来ようって」
「……うん」
この惑星の表面は七割が水に覆われている。土の表出は三割にすぎない。人間や陸生の動植物は、そのわずか三割の、川の中州か飛び石ほどの陸地の上で、ひしめきあって生きている。洋上の救命ボートで身を寄せ合う漂流者にも似ている。ひ弱な漂流者の周囲には、膨大の水が、絶対の海があり、そこには水生の生物が悠々と暮らしているのだ。
「ちょっとすごいだろ」
「うん……」
あたりをはばかるようにひっそりと左之助が言い、剣心も言った。
聞こえてくるのは、これは波の音ではない。
海が動く音だ。
全ての海はつながっている。
その海が、地表の七割を占める巨大な海が、ひとつの生き物のようにうごめきのたうっている。昼間はあんなにもやさしく明るかった波と風が、今は孤独な原始の顔を剥きだして活動している。
いま聴いているのは、その海全体から響く原始の音なのだ。
「左之……」
声は掠れた。
「ああ」
「左之」
「おう」
「………」
何か言いたいのだが、言葉がない。
「左之……」
また呼んで、髪を握りしめた。
では左之助もそうだったのだろうか。ひとりでここに立ってこの海を見て、この音を聴いて、そんな風に考えていたのだろうか。自分が旅先でそうだったように、左之助も。
「ちょっと感動するだろ」
「……する。した。すごい。ていうかちょっとどころじゃない」
「そっか。よかった」
会話をし始めると海の魔力は消える。
左之助の声音がいつも通りに戻っていく。
「いやいや、よかった、来れて。こればっかりは海況次第だしな。他の客のタイミングもあるし。つうか、さすが俺」
左之助が調子を取り戻すと、剣心もいつものリズムに戻る。額をはたいて笑う。
「忘れてたくせに?」
「あー!そんなこと言うかー!」
剣心が笑いを含んだ声でからかい、左之助は上体を揺すって抗議し、また剣心が戯れに頭を叩いて反撃する。
しばらくキャッキャキャッキャとはしゃいでいたが、ひときわ強い風がゴオオオオと唸って、二人はまた申し合わせたように押し黙った。
剣心の手は無意識のうちに左之助の頭をしっかりと抱えている。
剣心の両足をつかむ左之助の手にもぐっと力が入っている。
「自然てすげーな」
剣心は、うん、と頷いて同意する。だが、相手から見えない今はそれでは伝わらないことを思い出し、あらためて共感を言葉にした。左之助が続ける。
「人間なんか、すんげー小さい」
ひっそり呟いてから、苦笑した。
「って、そういうふうに言っちまうといきなりありふれるけどよ」
「……そんなこと、ちっともない。ないけど……でも、それもすごく、判る」
細い指が剛い髪に優しく戯れた。
「すごい
痛いほどの思いが、口に出した瞬間、手垢のついた、どこにでも転がっているような、ありきたりでみすぼらしいものになってしまうとしたら、一体どうすれば人の気持ちは伝わるのだろう。
「こんなに……
「うん。……な」
静かに応えて、左之助がゆっくりかがんだ。
視点が下がり、足が地面に着く。夜の砂浜はひんやりと湿っていた。
剣心は横を仰いだ。
左之助は剣心より三十センチ近く背が高い。そうして並んで立っていると、左之助の顔はいつもすこし上にある。肩の位置も高い。剣心はいつも見上げる格好になる。
「………」
「………」
目を逸らしたのは剣心だった。
射抜かれるようで、と言えば左之助には不本意だろう。だが、彼につもりがなくとも、ただ見られるというだけのことが、真っ直ぐに見つめてくる目を同じように見返すというだけのことが、時にとても難しい。
いったん砂浜に落とした視線を海に向けて上げ、絡めたままの指に少しだけ力をこめて、言う。
「すまない。勝手なこと言って」
「何が」
一度きちんと言っておかなければと思いながら、言えないままになっていた。昨夜着いたときから、いや、着く前から、ずっと言おうと考えていたことだった。
さっきまでどうしても言い出せなかったことが、今は不思議と素直に口にできた。
「絶対ちゃんと話すから。こっちにいる間に、話せるようにするから。だからそれまでだけ……もうちょっとだけ……」
―――じゃあ一年だ。一年以内に答えを出す。答えを出して、俺がお前に会いに行く。だからそれまで、お前が待ってろ。
不測の事態のせいとはいえ、約束の一年に遅れた。しかも、大見得を切ったにもかかわらず、実のところまだ結論は得ていない。
「ごめん、左之。俺、最低なことしてる」
「だから何が。なんも最低なんかじゃねえし、勝手でもねえし、謝られるようなことも、されてねえ。謝ったりなんかすんな」
「けど、だって……!」
―――だからそれまで、前通り、普通に……。
すぐには話せないと思う。だが絶対に逃げたりごまかしたりせずにきちんと話す。だから、それまで、俺から言うまで、何も訊かずに、これまで通りに接してくれないか。
来る前に連絡を入れたとき、それこそ勇気を振り絞って、そんなようなことを言った。
虫のいい言いぐさなのは十二分に承知しているつもりだったが、今にして思えばよくもそこまで勝手放題なことを言えたものだと自分でも呆れる。
しかし、またそれをすんなり了承して、いくら約束とはいえ、本当に見事になんの屈託もなさげに接してくれている左之助は一体何を考えているのだろう。
「……ごめん。でもありがとう」
「だから謝んなって。礼を言われることでもねえし、それに別に急ぐ必要もない。別に今回じゃなくてもいい。それも……言っただろ」
「ん。でもこれは俺が決めたことだから。約束は守る」
「……おう」
握り合った手の先が少し汗ばんでいるのは、これはどちらの汗なのだろうか。
しばらくの沈黙の後、左之助が指先を軽く揺すって、からりと軽い語調で言った。
「まあでもよ。じゃあそれはそれとしてもさ。せっかくなんだし、海も島もしっかり楽しんどけよな。ここすんげーいいとこだし、実際」
「あ、うん……。ていうかごめん、実は俺もともとそのつもり。でもって既にけっこう素で楽しい」
それを聞いて、左之助がニヤリと笑う。
「おう。知ってるけどな」
「……え?」
「んなもん見てりゃわかる。つか超バレバレだろ冷静に考えて」
「え、そ、そうか? どっちかっていうと大人しくしてるつもりだったんだが」
「…………お前、それ本気? つか、あれで?」
「な、何が。だって……」
ぐりぐりと頭を押さえる手を払ってぱっと振り仰ぐ。
またあの目にぶつかった。
今度は逃げずに見つめ返す。
指を絡ませ合った手がわずかに引かれて、顔が近づいてきた。唇どうしが触れて、すぐに離れる。お互い目は閉じなかった。
シャボン玉のような淡いキス。
こんなキスする奴だったっけか。
腕を引かれるままに身体を預ける。
いやでもやっぱり最低だろうこれは。どう考えても。
あんなに滅茶滅茶に揉めに揉めて、しかも約束とは名ばかりの、ほとんど捨て台詞に近い啖呵を切ったのに。しかもその約束はまだ保留のままなのに。
「待て剣心! わかった。わかったから今は決めるな。考えるな。頼むから。な?」
「って言ったって!」
「返事とか今すぐでなくていいから。今度俺が帰って来たときでいいから。ていうか今度じゃなくても、次でも、その次でも、いつでもいいから。だからお前、今は考えるな。そんなパツパツん時に無理くり考えるのは絶対よくない」
「………」
「な? 返事なんかいつでもいい。俺の気持ちは変わらねえから。いつまででも待つから。だからそのかわり、ひとつだけ約束しろ」
「約束?」
「勝手にどっか行っちまったりするな」
「………」
「俺はどこに行っても何度でも帰ってくるし、俺の気持ちは変わらない。だからどこにも行くな。ここにいてくれ。いや、っていうか、別にここじゃなくてもいいっていうか。要するにつまりお前がどこにいるか分かってれば。そんで連絡がつけば。とにかくどっかいなくなっちまうとか、姿くらますとか、連絡つかないとか、そういう……」
「断る」
「剣心!」
「断るったら断る! ……ただしそのかわり」
「………」
「そのかわり……そのかわり、考える時間を……くれ」
「剣心」
「お前の言うとおり、もうちょっと落ち着いてから、ゆっくり考えてみる。ちゃんと、逃げずに考えてみるから」
「……ああ」
「そして答えを出して、俺がお前に逢いに行く。だからそれまで、お前が待ってろ。俺は、待つのは性に合わん」
「…………ん。わかった。いい。じゃあ俺が待つ。悪いが俺は執念深いぞ。んなもん、いつまでだって、何年だって待ってやる。ねちねちネバネバどろどろべたべたと、そーりゃもうキモイくらいしつこく忍耐強く粘りに粘って五年でも十年でも待ちまくってやるからな」
「……コワイんだよ馬鹿。キモイの却下。そんな何年もいらん。一年だ。一年以内に答えを出す。答えを出して、俺がお前に会いに行く。だからお前は、それまでキリキリ働いてろ。いいな」
そして来た。
一年を過ぎ、答えを持たず。
一年。
短い時間ではないはずだ。とくに待つ身には。
―――大丈夫。まだ二週間ある。
剣心はそろそろと腕を左之助の背中に回した。
もう少しのところまでは来ていると思う。
だがパズルの最後の一片が見つからない。
それは多分、考えても見つからない。
そして多分、それはここにあるのだ。
「あのな、剣心」
左之助の抱擁はさっきのキスに似て羽根のように柔らかい。
「お前のことだから、またややこしいことばっか考えてんだろうけどな」
「………」
「お前のことだから」は余計だと思った。外れてはいないが、外れていないから癪に障る。
「あんま難しく考えんなよ? 俺はほんとにそんなん抜きにお前がここに来てくれたのが素直に嬉しい。見せたいもんとか、行きたいとことか、いっぱいある。海もな。まだまだ凄いポイントとか、俺が見つけた秘密の穴場とかもある」
「………」
公園の秘密基地のことを話す子どものように嬉しそうで、そして誇らしげな声が耳元で踊る。
「まだ一年だけどよ。旅行で来んのと、ちょっとでもこうして住んで仕事すんのとじゃ、やっぱ全然ちがうのな。って当たり前なんだけどな」
「………」
剣心は無言でこくんと頷いた。
額が素肌の胸をかすめる。
「それはそれとして、とりあえず普通に遊んでってくれって。……俺も、言おうと思ってた」
「………」
「オッケー?」
「………」
「……ん?」
「………」
少し時間はかかったが、左之助が辛抱強く待ってくれたので、自分で頷けた。
ゆっくり大きく頷いて、うつむいて止まった細い顎が、広い掌にすくわれた。
頬をくるむ掌は、今は心地好く乾いてあたたかい。
今度は目を閉じる。
激しくも軽くもない、不思議なキスだった。
さっきまでの抱擁に似て静かで、静かなのに熱くて、熱いのに穏やかで、穏やかなのに、余すところなく雄弁だった。手足の先まで満たされていく。
―――あれ……?
何か思い出しそうな気がした。
じんと痺れた後頭部。甘いさざ波の波間に、何かが見える。
ちかちかと垣間見える不確かな気配は、見定めようとすると輪郭がぼやける。
しかし消えはしない。
合わさっていた唇が離れると、世界の鳴動は止み、夜と海が戻ってきた。
左之助が子どもにするように頭に手をのせ、それからゆっくりとひと撫でした。
「帰ろっか……」
ぬくもりの余韻が声としぐさに滲んでいる。
ごく小さく頷いて同意した剣心にも、それは同様だった。