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2007/7/13

<11>

 ここはポナペだ。
 と、剣心は考える。
 常夏の国の無人島。その海辺。大きな木の下、ハンモック。
 自分は今そこにいる。
 波の音が絶え間なく聞こえていた。
 風が夜の匂いと海の手触りを運んで、ハンモックと剣心を心地好く揺らしている。
 目の前には、粉砂糖をまぶしたような深い星空。目を横に転じると、メタリックな藍の海が見える。
 旅行中、時々は海も見た。
 列車やバスから見る視界に、海は突然現れる。予期しない遭遇でエメラルドやサファイアやコバルトの海を前にすると、「どうして潜っていないのだろう」と、不思議な思いさえした。
 姿勢を少し変え、身体ごと海側を向く。背中に布が擦れるとわずかにぴりっとした痛みが走った。やはり少し焼けたのだろうか。きっとハンモックで昼寝をしていた時だ。波の穂の青黒い光の破片を見るともなく追いながら、息を吐き、息を吸う。また吐く。
 下から声がした。
「寝れねえのか」
 問いかけるというよりも、口の中で呟くような、低くかすれた声だった。
「んー……」
 身体を仰向けに戻して、剣心が呟く。
「静かだなーと思って」
「………」
 声が途絶えるとあたりはより一層静かになる。波と風の音だけが規則的な不規則さで続いている。ずっと聞こえているそれは、すでに静寂と変わらない。頭の中を断片的な映像と思考が通り過ぎていく。耳鳴りがするようだった。
 剣心がまた深い息を吐いたとき、前触れもなくハンモックが大きく傾いた。
「わっ……!」
 剣心の身体が回転してシーツごと落ちた。
 落ちてきた剣心を左之助が受け止める。落下の衝撃で左之助のハンモックも大きく揺れて、ロープがギシギシと音を立てた。
 剣心は怒った顔で左之助を見て、抗議した。
「危ないだろう。何をする」
「ん?」
 勝手に落ちたのではない。左之助が引っ張り落としたのだ。
「“ん?”じゃない! 大体お前はだなあ」
「しーっ。大声出すと誰か起きてくるぞ?」
 ひそひそ声でそう言いながら、すでに両腕と両脚は剣心をすっぽり囲い込んで、回り込んだ掌は頭をくるんでいる。バスケットボールも片手で軽々と掴める大きな手だから、剣心の頭くらいは余裕で納まってしまう。
 大声を出させているのは誰なのだ、とは思ったが、言葉にはしなかった。
 かわりに、頬を左之助の肩に乗せて目をつむる。その前に口を尖らせてひと睨みしておくことは忘れなかったが、かえって相手を愉快そうに笑わせただけだった。
 やはり焼けたのだ。なめし皮のような肌に押し当てた頬にも少し火照りを覚える。口から息を吐き、力を抜いた。
 しばらくの間、二人とも何も言わずにじっとしていた。
 左之助は剣心を抱いてざわざわと鳴る夜空の枝々を見るともなしに目に映している。
 剣心は掌を左之助の胸に当ててゆるやかに上下する咽喉の曲線を見ている。なだらかな稜線のようなそれの律動を追っていると、頭の中がぽっかりと空っぽになっていくような気がした。その稜線を上にたどると、顎の崖がある。伸ばされたひげは剛そうで、中国の水墨画の松林のように黒々としている。
 見上げる視線に気づいて左之助が剣心を見た。
「どした?」
 左之助の目は磨きあげられた黒漆のように濡れて、剣心を落ち着かなくさせるあのなんとも言えない光を宿している。厭わしいわけではないが……。
「………」
 ふと、剣心の頭を何かがよぎった。
 なんだろう、この感じ。知ってる気がする。
 思考になる前の意識の片鱗。追いかけると消える影のような光だ。
 何かが判りそうな気がした。だがそれは見えたと思った瞬間、捉まえる間もなく消えている。剣心はかすかに残る残像を追いかけようとして、やめた。
――待て。駄目だ、考えるな。まだ考えるな。今はちがう。
 左之助がじっと覗き込んでくる。
「………」
 黙って見上げていると、額が額に降ってきた。鼻先が触れそうに近づき、互いの息が顔にかかる。
――考えるな。まだ考える時じゃない。
 剣心は軽く顎を上げて左之助の唇を啄んでみた。
 ちくちくと刺すひげを避けて向きを変えたり、位置を変えたり、逆に顎に甘く噛みついたりもしながら、繰り返し繰り返し口づける。そうして小鳥が餌を啄むように、あるいは子鹿が蝶に戯れるように小刻みに顔を揺らす剣心の伏せたまつげが震えるのを見ながら、左之助は大人しく相手の好きにさせている。
 唇が離れ、濡れたまつげが気怠げに上がって、夜明け色の目が現れた。潤んで熱を帯びている。視線を絡めたまま、今度は左之助の方から唇を重ねた。舌を差しのばして相手の咥内をさぐり、歯列をまさぐる。その奥にある舌を絡め取る。絡め取った舌と絡め取られた舌は、もつれ合い、追いかけ合い、求め合って、次第にどちらが絡め取ったのかどちらが絡め取られたのかも判らなくなっていく。
「お前、海来るとキャラ変わるよな」
 左之助が熱い息をこぼして声を立てずに笑った。
「はじけるっつうか。昼間だっていきなり椰子の木登ってるし」
「……そう…か? べつに、普通だと思うけど………は……む」
 けど、と、異論そうにすぼまった口がまた塞がれた。体勢を入れ替えて剣心に覆い被さった左之助は、濃厚なキスで反論を封じ、一回り以上も小さい剣心の身体を、体重を使ってハンモックに閉じこめる。
「ん……んっ」
「……普通だとは思うけどな。いんじゃん?」
 「いろんな意味で」と言って、それまで笑い混じりに弾んでいた口調が低く潤んだ。熱の塊に近い声が直接注ぎ込まれれば背筋はざわつく。ぎゅっと萎縮したところでまたもや捕まった。
「は、ふ」
 剣心は焦った。
 うっかりしている間に、主旨は“おやすみのキス”を激しく逸脱しているではないか。
 いくら前通り普通にとは言ってもこれはやりすぎだろう。
「あ……ちょ……馬鹿、調子……乗りすぎ……わ………うわあっ!」
 だが左之助は色気のない狼狽え声には反応もしない。いつのまにかめくりあげたTシャツの下の胸まで剥き出しになった素肌に口づけて舌を使い始めた。反り返った胸の肋骨沿いに脇腹に向かって降りていく、そのちょっとした動きのたびに剛いヒゲにデリケートな肌を刺激されて、剣心の身体が震える。
「い……いた、いたたた……痛いって! ていうかお前いい加減に……」
「悪りい、無理。とまんねー」
「は? う、嘘だろおい……わ、や……こ、こら……あっ!」
 ちょっと待てちょっと待てちょっと待て!
 冗談ではない。
 こんな時にこんなところで、しかもどこからでも誰からも丸見えのハンモックの上で何をしているのだ何をしようというのだ。確かにそのどこからでも誰からも丸見えのハンモックの上でさっきからごろごろとじゃれ合ってはいたが、しかしただごろごろするのと激しくごろごろするのとでは話がちがう。まったくちがう。
 普通にしろとは言ったがこんなのそもそも普通じゃないし!
 いい加減にしろ馬鹿もーん!
 思い切り叱りとばそうとしたら、大きく開けた口は準備段階のうちに左之助の手にごっぽり塞がれ、くぐもった呻き声になってしまった。
「んんんーー!」
「シーッ。でかい声なんか出したらみんな起きてくるだろうが」
 まるで剣心の非を咎めでもするような言い方である。
 誰のせいだ誰の!!!
 怒りがバチンと弾けた。
 もう一瞬で見境なく暴れ出すところだったその寸前、たった二つとは到底信じられない器用な手の多角的かつ猥褻な徘徊はぴたりと立ち消え、「え?」と思ったときには力一杯抱きしめられていた。
「? ?」
 覆い被さって密着する精悍な身体はやはり剣心を拘束して身動きもさせてくれないが、しかし煽情的にうねっていた下半身の動きは止まっていて、かわりに上半身が細かく痙攣している。腹筋はリズミカルに震え、咽喉の奥の方では殺しきれない声がくぐもって呻くような音を立てている。
 これはつまりあれだ。
 笑っているのだ。
「バーカ、冗談に決まってんだろ」
「………!」
「しねえよ、んなこと」
 剣心は声がない。あがった息をなだめようと、肩をこわばらせて深呼吸に努めている。
「でもちょっとマジんなりそうだったけどな。誰かさんがエロいから。ちょっとキた?」
 節ばった手が剣心の頬を包んで淡く撫でた。
「こ…こんな冗談は……好かん……」
 左之助の手は日本人離れして指が長く、男らしい。その五指が軽く開いて、うちの一本がわずかに濡れた目尻をなぞる。
「おい、そこで泣くのは可愛すぎるだろ」
「な、泣いてなんか」
「鼻水?」
「そうだよっ」
 夜の中で一層精悍な顔に昼の笑いが弾けて、剣心が黙る。
 左之助が黙った頭をぎゅっと抱きしめた。
「わり。そんなビビると思わなかった」
 何を言っているのだと思う。
 ビビるに決まっているではないか。彼の前科を思い起こせば、冗談で済むと高をくくっていられる安心材料などこれっぽっちもない。大体左之助はとにかく無茶苦茶なのだ。することのことごとくがありえない。振り返ってみれば、よっぽど好きでもとっくに嫌いになっていて当然のエピソードが満載だ。それでも愛想を尽かしていないのだからどうかしていると自分でも不可解に思うが、要するにつまりよっぽどどうかしてしまっているのだ。自分も。左之助も。
「ばかものめ……」
 呟いて腕を回すと、見た目にはスリムでも、無駄なく締まった高密度な背中は硬くて大きかった。以前もそうだったが、また少し逞しくなった気がする。足りない。こんな非力な腕では足りない。足りないのだ。なのにどうして。力まかせに締めつけ、自由を取り戻した脚の踵で大腿部や臀部を攻撃して、募るもどかしさをぶちまける。
「くそう、ばかー。ううー」
「ごめんて」
 とはいえ、そんな風に甘く気持ちよくなだめられるとかえって余計な意地を張りたくなるもので、剣心は尚もポカポカと蹴ったり打ったりしてぐずり続ける。左之助はごめんを繰り返しながら所かまわず撫でて口づけて頬ずりをして甘やかす。
 しばらくの間、なんのことはない、要するに単に仲良くごろごろとじゃれ合う二人がそこにいた。


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わらくる<11> 2007/7/13





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