その年、乾いた梅雨が夏に移りはじめた頃から、何かが変わる気配を見せていた。
入社二年目の右喜が、このご時世の繊維業界には破格のボーナスを貰った。それがきっかけとなって、剣心は、東谷家の左団扇とは言い難い家計事情を知った。春をもっての退職の申し出は前々から考えていたことでもあり、それは剣心の決心を固めるには充分すぎる出来事だった。
このとき、剣心は知らなかったが、彼だけでなく左之助と右喜もまたそれぞれの思惑を持っていた。他の思惑には気づかないまま、三人が三様にいつそれを皆に告げようかと機を見ていた、微妙な時機だったのだ。
その矢先に海賊たてこもり事件が起こった。
日本人ダイバーのグループがアジアのリゾート地で海賊に拘束された後、全員無事に保護されるというセンセーショナルなニュースは、テレビや新聞で大々的に取り上げられ、ワイドショーや週刊誌の標的にもされた。海賊事件の被害者であった彼らは、一次的な被害に加え、メディアと世間の注目という副次的な被害も被り、煩わしい騒ぎは「海屋」と左之助と東谷家を嵐の海のボートのように翻弄した。
深刻な事態に陥ったとき、往々にして渦中の人物こそ気楽なものである。
左之助が口火を切ったのは、当事者の強みだったろう。
「オレ、春あたりから、ちょっとポナペに行こうと思う」
はじめは「こんなときに」と意外に思った面々だったが、それが一週間や二週間の旅行の話ではないと知ってさらに驚いた。
以前ツアーで訪れたことのあるポナペ島のダイビングサービスを店ごと任されるのだという。店長待遇だ。
話は前々から出ていたのだと左之助は言った。
そのダイビングサービスの所有者は柏崎念至。
時尾の産休を機に、「海屋」は本店だった神戸店を閉め、大阪店に一本化することになっていた。当初はそれまで神戸店店長を勤めていた斎藤が大阪店に戻ってくるだけの予定だったのだが、店舗統合計画を聞きつけたサイパンの柏崎翁から、その話が舞い込んだのだ。
「ポナペの店がひとつ空くんじゃが。若いのにやらせてみんか」
十年前に、賭けポーカーで、サイパンにいた比古のダイビングサービスと自分が神戸に持っていたダイビングショップとを交換した経歴を持つ破天荒な老人は、持ち前の経営手腕で引き継いだサイパンのサービスを順調に成長させていた。また、酔狂で始めたドーナッツショップも予想外の評判を取り、最初は店の一角の小さなカウンターだったものが、今ではサイパン島内に二店の支店を持つチェーン店にまでなっている。
そんなこんなで、今やミクロネシアの日本人界で名の通った存在で崎翁の元には、さまざまな情報と相談と依頼が集まる。
誰がどこで何をどうした、誰と誰がどうなった、どこで誰が何を求めている、どこかにこんな人材はいないか、どこかこんなことを頼める先を知らないか――。
早い話が便利屋兼駆け込み寺である。
経営の厳しくなった日本人経営のダイビングサービスが相談にくることも一度や二度ではなかった。そして、それまでは人を紹介したり運営のアドバイスをしたりするだけだった翁が、珍しく自身で買い取るといった、それがそのポナペの物件だった。
「フン。あんな小僧ひとり、居ずともうちは困らん。好きにするだろうよ」
いつものように鼻で笑って、左之助の雇用者である海屋代表取締役社長比古清十郎はそう言った。斜に構えた毒舌の
「面倒だから自分で本人に言え」と言われた老人からの国際電話で、左之助はその提案を聞いた。
「少し考えさせてくれ」と預かりはしたものの、聞いた瞬間から彼の心は決まっていた。
願ってもないチャンスだ。逃すつもりはない。
ただ、ひとつ問題があった。
剣心だ。
言い出したら引っこみどころを知らないへんこな頑固者なのは本人以上に左之助こそ身にしみて知っている。最初を間違うと多分リカバリーはきかない。どう切り出すべきか。また、気にかかるところも、ないではない。
左之助が迷っている間に、季節は梅雨に入り、列島がさほど潤いもしないうちに梅雨が明け、あっという間に夏が始まって、海屋の「さよなら神戸店スペシャル・比古社長と潜り倒そう!怒涛のシパダン&カパライツアー」が海賊騒動に巻き込まれた。そうこうするうちに、左之助が遠征先の白浜でダイビングボート(という名の漁船)「みす丸」の船長にカマをかけられてポロリとこぼし、それが現場にいなかった他の客たちにも伝わり、たまたま海屋を訪れた剣心の知るところとなる――という、これ以上はありえない最悪のかたちで、それは剣心に伝わってしまったのだった。
「ひとの進退を勝手に決めるな!」
「だからそうじゃなくて。オレはオレのつもりを言っただけで、勝手に決めたのは周りの奴ら」
「どっちでも一緒だ!」
「全然ちがうし」
「とにかく俺は知らん! ポナペでもどこでも一人で勝手に行け!」
二人の間でそんなやりとりがあった後、剣心は上下衛門に退職を申し出、今度はその話を聞いた右喜がさらりと告げた。
「実はあたしも結婚したい人がいてね。近々紹介しようと思ってたんだ」
爆弾発言の波状攻撃に大混乱だったのは上下衛門である。
ただし右喜の結婚話は、これは思えば年齢的にも社会的にも別段そうも驚く必要もなかったのだが、いかんせん突然だったし、たたみ掛けるタイミングがタイミングだった。左之助がポナペに行くことと剣心が辞めることと右喜が結婚することとは実はどれも全く次元の違う問題で、だから「あたし“も”」という切り出しも妙な話である。であるのだが、混乱した上下衛門にそんなことに気づく余裕はなかった。
「なんだ?結婚だあ?! なんだそりゃ右喜、俺ぁ聞いてねえぞ!」
「そりゃだって言ってないもん」
「なにい?!」
「ていうか、だから今言ってるんじゃない。お父さん、ひとの話、聞いてる?」
とはまた何ともこの昔気質の父親の神経を逆なでする言いぐさだった。
「………てめぇ…!」
そこから以降は壮絶だった。
あちこちで繰り返し話し合いが持たれた。
場所も顔ぶれも内容も場のムードもさまざまだった。
会話の弾まない家族会議があり、緊張感あふれる初顔合わせがあり、理性的なビジネス交渉があり、激しい父子喧嘩があり、犬も食わないとかいう何やら喧嘩があり、そうかと思えば、右喜の夫となるべき男性を囲んでの和やかな会食もあった。
しっかりものの娘が選んだパートナーは、彼女より十八も年上の、今年四十になるシェフだった。彼は右喜が勤める会社の近くで小さなレストランを営んでおり、右喜は個性的なおいしさのその店のランチを好んで通っていた。その話は剣心も聞いていたし、実際にランチに訪れたこともあったから、相手がそのレストランのオーナーシェフだと聞いたときには驚いた。上下衛門はもっと驚いていたようだったが、そのことで意見はしなかった。
一月の下旬からポナペと日本を行き来していた左之助は、四月に京都で行われた右喜の第一次結婚式の後、本格的にポナペの住人になった。右喜はいったん家を出、東谷家は父子二人暮らしになり、剣心は左之助とのことを言えないまま職を辞して、夏以降左之助との間に何度も繰り返されたすったもんだを両手いっぱいに抱えて旅に出た。
暴走機関車のようだった、と、剣心は思い返す。
誰がでも何がでもなく、状況がだ。
めまぐるしく疾走する事態に全員が呑み込まれて、誰にも何かをコントロールすることなどできなかった。海で強いカレントにつかまったときと同じだ。
それは渦中では実感できない。
自分が凄まじいエネルギーの中にいたのだと実感したのは、予定のない一人旅が始まって数日が経過してからだった。
一日の時間と行動が、おおむね自分の意思で決められる。何をしても、しなくてもいい。
かつてはずっとそうだったはずのその状態が、そのとき剣心には徹底的に新鮮だった。
じわじわと水かさを増した実感は、あるとき何かがきっかけとなって決壊して一気に流入した。言葉では到底言い表せない、ほとんど身体的ななまでの解放感。驚きのあまり、道端に立ち止まり、ぽかんと口を開けて佇んだほどだった。
同時に、剣心にはわからなかった。
夏から春まで、ややこしい話し合いや言い合いが幾度となく繰り返されたややこしい半年強の間、その激しいカレントの中で自分は何をどう感じ、どう考えていただろうか。
わからない。
思い出せない。
来てよかったと思った。しみじみ思った。
こういう時間が、おそらく自分には必要だったのだ。左之助の言った通りだった。
それから約一年。
バスと列車の路線にまかせ、なりゆきという名の思いつきにまかせ、あてのあるようなないような旅をしながら、いろんなことを、考えたり、考えなかったり、考え直したり、した。
移動や宿泊に伴う当面の事態でめいっぱいになって、それどころではなくなることもままあった。
冬のベルリンでは、ユースホステルのヒーターが故障し、室内は氷点下にまで冷え込んだ。「起きたら凍死してるかもしれない」などと、思えば矛盾したことを、その時は真面目に考えた。深夜発の夜行列車を待つホームでナイフを振りまわした乱闘が眼前で始まって流血沙汰に発展したり、上海の集合宿舎では薬物で錯乱状態に陥って暴れだした日本人観光客が連行されていくのも見たりもした。東欧のある国では、何か大きな祝日の休暇にあたったらしく町中が時が止まったように静まりかえっていて、ほとんど飲まず食わずのまま駅のベンチで一夜を明かした。飲食店、商店は言うに及ばず、ツーリストインフォメーションも駅の売店も、さらにはホテルさえもが休業していたのだ。風邪や食あたりで寝込むくらいはもはや重大なトラブルとは感じなかった。
過ぎてしまいさえすれば笑い話にも土産話にもなるが、その時点では到底そんな余裕はない。
それやこれやの緊急事態に直面した時。
なんとか急場を切り抜けてほっとした時。
ふと左之助のことが思い出されることがあった。
心震えるような偉大な景色や人類の遺産に触れた時。ゆきずりの人の優しさに感謝があふれた時。賑やかな街路で孤独に直面した時。なんでもない静かな夜や、美しい朝や、おだやかな午後。
思い出されるのは、顔だったり、声だったり、仕草だったりした。姿形や身体の一部だったり、匂いだったり、感触だったりもして、脈絡なくまぜこぜだった。
そんな風にして、四百に近い朝と昼と夜を過ごした。