ゲストはバンガローにマットレスとゴザを敷いて、スタッフと剣心は厨房や物置小屋にハンモックを吊ったりデッキチェアを持ち込んだりして半戸外で、それぞれ寝ることになっていた。
青空は自分も外で構わないと申し出たが、慣れない都会人にいきなりのワイルドライフは無理だ。小国姉妹が快諾したこともあり、蚊帳とパレオの即席カーテンで内部を仕切って(当初姉妹はそれも不要だと言ったのだったが)、そこを使うことになった。
一応はゲストの剣心が野外班なのは、サバイバル能力が充分にあることと、何より本人が、
「俺のハンモックは誰にも譲らん」
と、大人げなく言い張ったからだ。
もちろん、あの高度で夜を過ごすわけにはいかないので、低い位置に張りなおす。場所は風通しのいいビーチ端。今度は椰子の木ではなく大きく枝を張った蔦性の熱帯樹を選んだ。多少のスコールならしのげそうな枝の張り具合と葉の茂り具合も剣心のお眼鏡に適った。
だが大人げなさにかけては左之助も負けてはいない。
「お前のハンモックじゃなくて俺のバレーネットだっつの。貸してやるから半分よこせ」
「人間の尊厳を捨てて『後生ですからネット使わせてくださいギャフン』って言ったら、使わせてやってもいい」
「てめえむかつく。寄こせっつのガオー」
「地べた決定」
「へええー。朝になって地べたで寝てるのはどっちかなあ?」
「あ、やっぱおれ椰子のてっぺんにしよっかなー」
大人げない負けず嫌いたちが意固地に張り合っている間に、面倒見のいいゲストと忍耐強いスタッフたちが、台風で破れた真ん中の部分をうまく補うかたちで折り返し、二人分のハンモックをセッティングしてくれていた。
「はいはい、おサルさんたちー。もういいですかー。できましたよー」
「『ごめんなさい仲良くしますキュウ』って言わないとハンモック没収だからね」
そもそも本来は漁に使う網だった「バレーネット」である。老いたりとはいえ強度も充分なら、まっぷたつに裂けてさえ左右それぞれで一人分のハンモックに足るだけの幅と長さがあったから、半分ずつでも充分立派なものが完成していた。
さすがにバツの悪い顔で大人しくなった二人だったが、剣心はすずめの言ったある言葉が気になった。
「あのさ、すずめちゃんさ。その“たち”って……」
「タチ?」
「うん。いま“お猿さんたち”って言わなかった?」
「ああ、うん、言った言った。だって二人ともそんな感じなんだもん。左之さんは普通におサルだし、バナナだし、剣さんは木登りも上手くて野子ザルみたいだし」
「ノコザル??」
「うん。野生の子ザル。略して野子ザル。カワイイでしょ?」
「の、野小猿……」
「わははは。すずめちゃんウマイ。ナイス。さすが。最高」
日頃から好き勝手に言われ慣れている左之助が、サルだのバナナだのと言われても呑気に笑っているのとは対照的に、剣心は“ガーン”の効果音を背負って絶句している。
「えーなんでどうしてそんな顔するの剣さん! いいじゃない野子ザル。わたし誉めてるのよー。元気で可愛くて見てて楽しいんだもん」
「あ、でもそこは私も賛成だな。元気で可愛くて見てて楽しい。それぴったり。ほんとそんな感じ」
「あやめちゃん?!」
「同感同感。なんていうか、こっちまで楽しくなるもの」
「あ、梓さん……」
「まあ、『野子ザル』が誉め言葉になってるかどうかは微妙かなって気もしないでもないけどね」
「ちょっと、あなた」
「え、あ、や、その……」
「………」
「いよう、人気者。よかったじゃん。つかオレなんか“普通にバナナ”なんだから全然いいだろが」
ご機嫌な左之助はそんなことを言って剣心の背中をつつき、皆にも寝支度を促した。
「そんじゃ明日は八時起床で。時間になったら大声で呼ぶから、みんなは心配ナッシング」
「ていうかお前だろう一番心配なのは」
「ははは」
「じゃあ左之さん、モーニングコールよろしく」
「おう、まかしとけ。あ、みんなトイレはちゃんと行っとけよ。夜中の野便所はホラーだからな」
「はーい」
「がんばりまーす」
「って何を」
笑いまじりに言い合いながら、皆、楽しそうな顔のまま寝支度にかかった。
だが結局ハンモックは張り直すことになった。
申し分なく見えた二つの寝床だったが、いざ実際に寝てみると、長身の左之助には長さが足りなかったのだ。左之助は物置にしまってあったアウトドア用の既製ハンモックを使い、その分、剣心の方を二枚重ねにして間に布を挟んで補強する。左之助と一緒に朝食の仕込みをしていたジョンがセッティングを手伝ってくれた。
「なんだ、ちゃんとしたのがあるなら、最初っからそっち使えばよかったじゃないか」
「普通のなんか面白くない」
「……それも言えてる」
都会に都会の遊びがあるように、島には島の楽しみ方があるのである。
「ありがとうジョン、おやすみー」
「みー」
「グッナイ」
ジョンは手を振って物置の軒下に吊った自分のハンモックに向かう。リッチーは厨房にデッキチェアを持ち込んで寝床を作り、すでに寝る態勢に入っているようだ。
かろうじて手が届く高さに張られたビーチバレーネットの即席ハンモックに、剣心は身軽に飛び乗った。軽いとはいえ、人ひとりの身体を収めてネットがたわみ、大きく揺れる。ネットに巻かれて身体を伸ばすと、セロファンに包まれたキャンディーのような状態である。ごそごそと動いて寝心地を試してみた剣心が上体を起こして言った。
「左之、悪い、なんか布ないか? このアミアミ、ちょっと痛いかも」
「あ、マジ? これは? どうだ? とりあえずでかい。あんまキレイくねえけど」
荷物をまとめるのに使っていた大判のパレオだった。古いが、普通より生地が厚い分、シーツ代わりには適していた。
「かまわんかまわん。お、いい感じ。ばっちり。サンキュ」
「つうか、さっきは? 平気だったのか?」
椰子の高みで昼寝をしていたときのことである。
「ああ、別に。なんだろうな。さすがにちょっと焼けたかな」
「あ、かもなー」
左之助もその斜め下に用意された自分のハンモックに乗り込み、手足を伸ばす。こちらは両端の木の軸にテント生地を張った立派なものだけあって、ピンと張られた生地は、ほどよい弾力と張力を保って、左之助の長身をゆったりと受け止めてくれる。
「うむ。快適であるぞ」
「おい、目覚ましセットしたか?」
「目覚まし? この俺にそんなものが要るとでも?」
「はいはい」
さらっと聞き流した剣心が自分のデジタル式ダイバーズウォッチのアラームをセットしはじめる。ピッピッピッという操作音の発生源である剣心入りネットを左之助が下から軽く蹴り上げ、ひとつ大きく伸びをした。
「てめ、明日んなってギャフンと言え」
「はいはい、ギャフンな。ギャフンギャフン。……よいしょっ…と」
左之助の余裕は決まって明け方にやってくる激しいスコールが目覚まし代わりになることに由来するのだが、剣心がそれを知るのは翌朝その過激な目覚ましに叩き起こされてからのことである。
剣心もパレオシーツを巻きつけて落ち着くポジションに身体を沈ませ、息を吐いた。
「おやすみ」
「おう……おやすみ」
吐く息と一緒に「おやすみ」と言ってみて初めて、剣心はまともな挨拶というものをするのが再会以来初めてだったことに思い至った。しかも、思えばポナペに着いてまだ二十四時間にもなっていないのだ。
などと考え込みかけたとき、下で「あ、そうだ」という声がして、身体がハンモックごと左右に大きくスイングした。
「わっ?」
驚いて顔を上げると、目の前に左之助の顔がぬっと出ている。
見れば、しっかりしているとはいえ安定しているとは言い難いハンモックの上で、器用に膝立ちに身を起こして背筋を伸ばしていた。さっき剣心のネットが大きく揺れたのは、反動をつけて伸び上がった左之助が手を掛けたためだったらしい。
「な、なんだ?」
「忘れもん」
「忘れもの?」
「おやすみのチュウ」
「……」
「してただろ?いつも。普通に」
「……」
剣心は黙って左之助を見た。
たしかにしていた。ほぼ欠かさずいつも常に。驚くべきことにだ。
眠る前にはおやすみのキス。目が覚めたらおはようのキス。朝だろうが夜だろうが昼だろうがおはようのキス。出かける前には見送る方が行ってらっしゃいのキスをして、帰って来たら帰ってきた方からただいまのキス。
それから、ごめんのキスに、ありがとうのキスに、仲直りのキス。このあたりまでの、いつの間にか定着した二人のルールは、オーソドックスといえばオーソドックスな基本メニューだったが、それ以外にも「好きのキス」だとか、「楽しいのキス」だとか、「凹んでるのキス」などというような、わかったようなわからないようなものが山とあった。そうやって次々と妙なキスの種類を増やしては忘れて、その都度また新しく適当なものを作っていったのはもちろん左之助だったのだが、では嫌々調子を合わせていたのかと問われれば、必ずしもそうでもなかった自分がいる。数年前には自分がそんなことをするようになるとは想像もできなかった。どころか、人の話として聞かされれば今でも背中がもぞもぞするであろう御馳走様な日々だった。
一人で旅をしている間は何の不便を感じることもなく一人でいられたものが、こうしてまた一緒の時間に戻ってみると、離れていた一年強の歳月はどこにあったのかと不思議にさえ思える気がする。
昔と変わらずまっすぐに向けられる黒い海の瞳は、剣心から言葉を奪う。
―――前通り、普通に。
そう言ったのは自分だ。
けれどそんな無茶な注文に素直に応じている左之助は自分を甘やかしすぎだとも思う。
剣心は人目を気にしてでもいるような仕草でバンガローや厨房のある陸側に目を逸らせてから、細い首をさらに細く伸ばして、つぼめた口先で左之助の唇に触れ、十数か月ぶりのおやすみのキスをした。久しぶりの照れくささからか、本当に人目が気になるのか、他の理由のためか、羞じらいがちに触れたと思ったらもう離れて引こうとするのを左之助が追った。首を縮めて引きこもっても、腕で支えて押し返そうとしても、しょせん吊られた網の中に閉じこめられているのだから、ハンモックの両サイドを掴まれてしまえば逃がれようはない。
重なっていた唇がようやく離れると、剣心は浅い息の下からクレームをつけた。
「おやすみの……は……こんなんじゃ……ない……」
「そっか?」
「そうだよっ」
唇どうしで軽く触れ合うだけの、静かで穏やかな非言語コミュニケーションだったはずだ。清らかとはさすがに言えないまでも、まちがってもこんな脳みそを愛撫するような濃密な接触では、絶対になかった。
「んじゃ、スペシャルエディション。ディレクターズカット。あるいはアンツ特典。どうよそれで」
「ひ、ひとりで言ってろ。ていうかマジでヒゲ痛いし。さ、寝よ寝よ。明日も早いだろ。はい寝る、もう寝た」
剣心はパレオシーツを頭まで引き上げ、左之助のいる側に向けて背中を丸めた。
布に覆われて視界を閉ざすと、それ以外の感覚器官が活性化する。伝達される音と身体と気配とが、自分の状態と左之助の動きを教えてくる。
「相変わらず素直じゃねえの」
苦笑しながら吐かれる息。頭を撫でる温かい掌。髪をすく指。布ごしに頬骨のあたりに触れた唇。覆い被さる身体の量感と熱量。低く囁かれた自分の名前といくつかの言葉。左右に揺れるハンモック。ネットの軋み音。
そして薄い布の向こうに夜の空と海の気配が戻ってきた。静かだが絶え間ない、風の流れと波の音。ざわつく木々の葉。喉につかえた心臓の、大きくて早い心拍音。
下で布の擦れ合う音がして、ロープがギシギシと鳴り、やがて動きは止まった。
幾呼吸かの後、剣心の瞼がそっと上がった。闇の中でさえ濃い影を落とす睫毛がゆっくり数回上下する。
「……おやすみ、さの」
「おう」
応じる低い声の響きを背中に受けながら、剣心は仰向けに体勢を戻した。
風が強い。
重なり合った葉がざわざわと泳ぎ、灰色の雲の切れ端が夜空を走り、星が忙しく瞬いている。
吹きあおられた髪がばさばさと顔にかかり始めたのを、手ぐしでまとめて頭の下に敷きこんだ。
あらためて考える。
一年――。
少し超えてしまったが。
長かったのか、短かったのか、いずれにせよ、「一年」という月日の実感があるとは言いがたい。
旅行という非日常の生活を続けていたからだろうか。
久しぶりのはずなのに、左之助との間に本来あるべき隔たりをほとんど感じないからだろうか。
いろんなことが、まるで昨夜の今朝のように違和感がない。
日焼けしてますます黒くなったとはいえ、色黒なのは元々だったし、第一、日本にいた頃でも、ちょっと南方に旅行すればすぐに陽射しを吸収して真っ黒になるのが常だった。多少の黒さなら見慣れている。一日経ってまだ気になるものといえば、ばらばら茂ったヒゲと、折にふれて感じる異質な視線と、それから――。
あの目。
あの視線を、知っている。
東谷家で働いていた頃に幾度もあった。
何か重要なことを言いたくて、あるいは言わなければならないと思っていながらそれを抑えているときの左之助が、よくあんな目をして、自分を見ていた。
まだ二人が家政夫と勤め先の長男だった頃。
左之助の勤務先であり、同時に剣心の義父の経営するダイビングショップでもある「海屋」との接触を、剣心がかたくなに拒んでいた頃。
海賊たてこもり事件が起こった、あのしっちゃかめっちゃかの大混乱だった夏もそうだった。
あれから、もうすぐ二年になる。