夜も深まり、焚き火も随分小さくなっていた。
親密な静けさの中、ときおり薪がはぜて懐かしい音を立てている。
こんなに食べ切れるのだろうかとも思われた潤沢なご馳走も、あらかたそれぞれの胃袋に収まって、八人は火を囲んで思い思いにくつろいでいた。
「おいしかったねえ。あたし、すっごい食べちゃった」
「私も。人参一本丸ごとばくばく食べちゃったもの」
「そうそう、お野菜がね。味が濃くておいしかったよね。お芋も」
満足そうな女性陣が、もう何度も繰り返された会話を飽きずに繰り返す。
「あーでもあたしやっぱりお肉! 超おいしかった。剣さんさすがプロ。っていうか天才だよね、あれは」
朱と黄金の息を呑む日没を見送った後にディナーは始まった。
みんなで作り上げたご馳走と火と酒を囲めば、話は弾む。
島までの航路のハードだったこと。上陸してからの皆の働きと珍騒動。力を合わせた問題解決。今日の海の素晴らしさ。それぞれがこれまでに行ったところ。潜った海。見た魚。出会った人。当然ながら日本での生活にも話は及ぶ。新井夫婦とすずめは左之助と同い年だった。剣心の年齢を聞いて皆が驚くという案の定の一幕もあった。呼び名が苗字にさんづけでは他人行儀だからと、当初から「あやめちゃんとすずめちゃん」だった小国姉妹以外の面々も「剣さん」「セイさん」「梓さん」と下の名前で呼ぶことに決まったのは、比較的早い時間帯だった。
剣心が旅に出る前は家政夫をしていたことは、軽い驚きと納得をもって受け入れられた。
驚きは、とはいえ男性のなり手が一般的な職業ではなかったからで、納得は、石焼き料理を用意している時に、剣心の発案で肉にスパイスを仕込むという場面があったからである。
大きな肉塊だった。リッチーの腕よりも太く、剣心の胴よりはまあ細い。というほどもあるブロック肉だった。海水で洗ったそれに、さらに岩塩をすり込み、数本の鉄串を刺す。狙いは火の通りを確実にするためだったが、それを見て剣心が思いついた。
「そうだ。おい左之、なんかスパイスとかないか?」
「スパイス?」
「クローブ、ローリエ、タイム、ナツメグ、バジル、そんなあたり。胡椒とか唐辛子でもいい。肉に詰める」
「あ、なーる。んまそー。そういうことならあるある。超ある」
まず胡椒が出てきた。ポナペ産のブラックペッパーだ。
「粒ままだけど」
「むしろ理想的」
「あとはこっち」
そう言って左之助は、厨房の横にある物置小屋の裏手に剣心を連れて行き、
「アズユーライク。どうぞシェフ、お気に召すまま」
「うわ、すご……! どうしたんだこれ?!」
その石で囲われた一畳分ほどの一画に、雑多な種類のハーブがぎっしり密生していた。ぱっと目につくものだけでも、ローズマリーにバジルにレモングラス、タイム、イタリアンパセリ、チャイブ、コリアンダー。トウガラシの小株も丸々と育ち、他にも名前の判らないものがいくらもある。
「前来たときに適当に蒔いたら、なんかすごいことになってた」
「へえー!」
土と気候があうのだろう、窮屈なほどに押し合いへしあいしながらも、どれも元気に生い茂って、ハーブガーデンどころかハーブの森とよびたいほどだった。
剣心は顔を輝かせてハーブを物色し、タイムとバジルとローズマリーとイタリアンパセリのよさそうなところを選ぶと、それらを器用にまとめて肉塊に押し込んで肉の周りにも粒胡椒を黒々とまぶし、最後にタロイモの葉でぴっちりと包んで紐で縛った。
密閉して蒸し焼きにする石焼き料理は、塩釜焼きや圧力鍋同様、食材の風味や香りが逃げず、旨みが凝縮される。一緒に仕込んだ野菜も、タロイモの葉のほのかな移り香もさわやかで、単に蒸し焼きにしただけの人参や玉葱やじゃが芋がびっくりするほどおいしく仕上がった。しかもこの日はジョンが作った家伝のココナツソースが添えられたこともあり、準備を見ているだけでも間違いなく美味確実と期待されたローストビーフ剣心スペシャルは、実際に食べてみると、想像など到底及ばないおいしさだった。
「ここのコショウもおいしいのね。これも買って帰ろ。ココナツ石鹸……ジャム……ショウライTシャツ……と、これ、と。えーっと」
目を宙に向けて指折り数える梓は、土産物の計画を練っているらしい。
「ショウライTシャツって何?」
すずめが訊ねた。
「ショップのオリジナルTシャツなんだけどね。名前がそういうの。デザインがちょっと変わっててかわいいのよ。左之さんの知り合いのイラストレーターさんが絵を描いてくれたんだって」
「へええ。いいねいいね。見たい見たい。それ前に来たときはなかったよね?」
「ああ、先月あがったばっか」
「そっか、昨夜着いて今朝もバタバタだったから」
「わーい、帰ったら見るー」
「毎度」
「まだ買うとは言ってません」
最初から興味を示していたすずめが笑って言い、皆も笑った。
「ねえねえ左之さん。ジャムとコショウはスーパーとかで買える?」
梓に訊ねられて、左之助が言う。
「ジャムはどこでも。けどコショウは普通に売ってるのは輸入もん。アメリカの。街の土産屋さんでも売ってるけど、作ってるとこ知ってるから、明後日遺跡のついでに寄ればいい。ちょっとだけど安いし、なんせ新鮮だしな」
「そっか、二人は明日でダイビング終わりなんだ……」
二人のやりとりを聞いていたあやめが、木の枝で地面をひっかきながらそう言った。
ダイビング後、飛行機に乗るまでには一定以上の時間を空ける必要がある。ダイビングにより体内に蓄積された残留窒素の排出に充分なインターバルをとり、潜水病とも呼ばれる減圧症の危険を回避するためである。
左之助が所属する潜水指導団体PADI(パディ)のガイドラインでは、この飛行機搭乗前待機時間は十八時間とされているが、彼は、より厳しい二十四時間を店の独自ルールとしていた。二日後の午後の便で帰国予定の新井夫婦がダイビングをできるのは、その丸一日前にあたる明日の午後三時までだ。そこで、最終日の午前中の空き時間を利用して、世界有数の巨石文化遺跡と言われるナン・マドール遺跡を見に行くことにしていた。その日は海はリッチーに任せ、陸の観光ツアーを左之助が引率する。少人数で回しているショップだから、ゲストの到着便や出発便がある日は大変なのである。
「もっといたいなあ。あやめちゃんたちともせっかく仲良くなれたのに。帰りたくないー」
「ほんとだようー」
「でもこのみんなでよかった。そうじゃなかったらこんなに楽しくなかったよ、きっと」
「そうだね、ほんとだね。島もチームも最高だよね。海もよかったし。マンタマンタって思って来たけど、アンツの珊瑚は感動した」
切れ目なく続く女性陣の会話がまた海の話に戻ってきたとき、それまで聞き役に回っていた青空が顔を上げた。
「『負ける気がしない』ってこんな感じかなーとか思っちゃうよね」
「どうしたのいきなり?」
梓が柔らかく笑って夫に言う。
「ん。いや、職場の隣の課に自称天才のちょっと問題児な奴がいてさ」
「ああ、いつも言ってる? 茶髪ピアスの生意気な?」
「そうそう。やりたい放題でいい迷惑なんだけどな。これがまた言うだけのことをするからますます……なんていうか、憎たらしいんだけど、そいつがよく言うんだ。『負ける気がしない』って」
生真面目で穏和な青空の声ににじむ真剣な響きに、皆がしんとする。
「そういうの聞くと『何にだよ』って、俺なんか思っちゃったりする方なんだけど、あーなんかわかるなーって、今ちょっと思ってさ。……ハハ、ごめん、いきなりヘビーで」
「うううん、それ超わかるよー」
すずめがパイナップルのヘタを地面に埋めながら言った。果肉の部分に土をかぶせてぺたぺたと押さえると、ちょうど地面から葉が生えたような形になった。横にいるあやめが「育ったりして」と、長い髪を揺らして葉をつつき、「いいね、収穫に来ないと」と、真顔のすずめがつつく。つついてから顔を上げる。
「ていうかさ、実はあたしもちょっと思ってたんだ。なんか今なら勝てる気がするって」
「はは。あんたは何と戦ってるの?」
「わかんない。なんだろう。人生? 自分? ……うわやだ、やばー。言ってて自分でサムかった。ごめん」
「ははは」
「いやいや。いいね。若いね」
笑いつつ、だが青空だけでなく皆がその気持ちを共有していた。
負ける気がしない。
うまくいかないことなど何ひとつないような気がする。
そんな瞬間が、人生にはたしかにある。
ほとんどの場合、それは気のせいだ。
だが、気のせいも立派な動機付けのひとつである。気のせい。思い込み。ノリ。思いつき。直感。ひらめき。インスピレーション。もののはずみ。運。虫の知らせ。天のお告げ。御神託。
要するに
それが物事を動かし決定的な方向に導いた事例は、人類史上、数知れない。
勢いや運以上のものが必要になるのは、物事が動き出した後である。勢いで始まった動きをどこまでもっていけるか。持続させられるか。おそらくそれが努力とか能力とか才能とか呼ばれる種類のものだ。それは時に気力や根性や忍耐や我慢などと呼ばれたりもする。
「うん。なんか今回はマジでいける気がする」
すずめがやけにきっぱりした口調で言って、すっくと立ち上がった。
「すずめちゃん?」
「すずめ? なに?どうしたの?」
すずめはいぶかる声を聞き流して、火から離してまとめて置かれた荷物の一群にスタスタと歩いていき、自分の荷物から何やら取り出して後ろ手に隠して戻ってきた。
そして戻ってきた彼女が皆の前に高々と掲げたものは一枚の紙片だった。
「じゃじゃーん!」
「なに? ……え? なにそれ、宝くじ? もしかして当たったの?!」
「やだ、あんた何でそんなもの持ってきてんのよ」
「おーすげー。何億?」
真面目に訊ねたのが梓、呆れたのは姉のあやめ、楽しそうに混ぜ返したのが左之助だった。
「まだまだ。これから。発表来週。だいぶ前から毎回一枚ずつ買ってるんだ。なるべく違うとこで。出かけた先とかで。ジャンボだけだけどね」
「へええ、なんか意外だ」
と、これは青空。
「そういうのってどうなの? 当たる? 今まで最高いくら?」
「んー、三百円? しかも一回だけ?」
笑いが起こった。
「買うときね、つい『バラで一枚』って言っちゃうの。一枚だから連番なんてありえないのにね。でもそしたら向こうも普通に『ハイ、バラ一枚』って言って、言った後で『ん?』ってなるの」
「へえへえ。意外だ。そんなタイプに見えないのに」
さっきから青空がしきりに意外がっていたのは、彼の勤め先である府庁の同僚で、毎回何十枚もまとめて購入するマニアや、複数人で共同購入するコアなチームを知っているからである。日本宝くじ協会の調査によると、宝くじ購入層の主力に当たるのが三十代から五十代の男性で、特にサラリーマンの管理職に多いという。青空の実感もほぼそれに近く、年齢もタイプも雰囲気も、すずめは、そういった宝くじファン層には遠かったのだ。
「あはは、よく言われる。でも三十枚とか買ったりはしないよ。どこの売り場がいいとかも興味ないし。一枚なら三百円とかでしょ? 当たったら何買おうとか考えるのとか、けっこう楽しいんだよ」
「へえー」
「でね。今回は絶対ハズレって思ってたんだけど、この旅行、やたらめったらついてるからさ、もしかしたらいけるんじゃないかって」
「ははは、そういうもんなのか宝くじって?」
「それで『負ける気がしない』?」
「けどじゃあ、その絶対ハズレって思ったのはなんでだったわけ?」
「だって見てよこれ!! どう見ても当たりそうにないじゃん、『12組の123456』なんて!!」
大爆笑だった。
「うーわ、そりゃねえ。無理」
「ていうかそれはさすがに割と難しそうなんじゃ」
左之助が一刀両断で、青空が遠回しに、同じことを言った。
たしかに、そんな連続番号の当選番号など聞いたことがない。
「だーかーら! あたしもそう思って諦めてたんだけど、こんだけラッキーが続くってことは、もしかしたらもしかするかも、って思ったわけよ。っていうのがね、これ、このツアーの代金振り込んだ帰りに買ったんだよね。だからさ、なんかご縁もありそうじゃん?」
「………へええー。すごい。驚いた。こんな偶然ってあるもんなんだなあ。へええ…」
ずっと黙っていた剣心が、しみじみ感じ入ったように目をみはって、改めてすずめの手元をじっと覗き込んだ。奇遇な数列に少なからず驚いた様子でひとしきり凝視し、しばらくしておもむろに顔を上げた剣心はすずめに訊ねた。
「それで? すずめちゃんは二億当たったらどうする予定?」
「移住移住。どっか南の島に移住するの」
「二億が最高? よく三億って言ってない?」
「あれは前後賞を合わせてなの。だから一枚ならマックス二億」
「へえ、知らなかった。剣さん物知りだ」
「でね。移住先ね。こないだまでヤップが筆頭候補だったんだけど、ポナペも今回で急上昇中でね。ていうかこのメンバーでダイビングショップとかしちゃう? あたしオーナー、左之さんガイド、剣さんシェフ、セイさんメカニック、梓さん店長」
「店長?! 私?」
「うん。店長っていうか子守りっていうか。みんなはどっちがいい? あ、もちろん他にいいとこあったらそれでもいいんだけど。田舎な感じがいい。ロタってどう? 誰か行ったことある?」
まるでもう夢の大金が手に入ったかのようなすずめの無邪気な様子に、温かい笑いが起こる。
「ていうかさ、だからあんたはどうしてそんなものをこんな所に持ってくるのよってば」
同じように笑いながらもやや呆れ顔のあやめが、すずめの頭をはたいて言った。
「大丈夫、お姉ちゃんもちゃんと入れてあげるから。日本駐在員で」
「誰がそんなこと言ってるのよ。持って来たって超意味ないじゃんって言ってるの。発表だって帰ってからなんだし、失くしたら馬鹿みたいだし。しかもキャンプにまで」
「なによう、あたしの勝手でしょー」
「発表っていつだっけ?」
「えっとね、帰って翌日くらい。火曜日」
「おー、じゃあオレらもネットで番号見ててやるよ。当たってたらたかっちゃる。ウキッ」
「左之さん、ウキッて」
「12組の123456」
「わ、剣さんもう覚えてるし」
「12組の123456?」
「きゃあ、セイさんも?」
「だって覚えるっていうか、むしろ忘れられないよ、その番号は」
「ははは、言えてる」