覚えているのは、サンダルを脱ぎとばして噂のウォーターベッドに飛び込み、目を瞑ったところまでだ。
次に気がついたら船の上にいた。
あやめが編んだ椰子のカゴの中で、水着一枚だった。
その間の記憶がない。
一切ない。
皆目ない。
日焼け止め云々どころか、サンダルを脱いだ他は時計さえしたままだったはずだ。当然、着替えも何もした記憶はない。それがいつのまにか水着一丁とは。
経緯は想像にも堪えないので、なんとかちがう方向に頭を持っていく努力をする。
そうだ、Tシャツの下には、貴重品をしまえるように細工をした自家製のはらまきをしていた。中にはパスポートとUSドル建てのトラベラーズチェックとドルと円の現金と帰りの航空券とクレジットカードと緊急連絡先リストを入れていた。もしこれがイタリアかスペインあたりの夜行列車なら、身ぐるみ剥がれて駅のホームに転がっていたとしても何の不思議もないではないか。
―――ありえない。とりあえず、ありえない。ありえなさすぎる。
昨夜、空港から到着すると、左之助はまずあやめすずめコンビを部屋に案内した。といっても、深夜なのでチェックインは省略されたし、二人とも二度目だったから部屋の説明もほとんど必要ない。荷物を運んで、鍵を渡すだけだ。左之助は車で待っていた剣心が眠くなる間もなく戻ってきて、二人は数棟先の彼の部屋に向かった。マオマオビーチリゾートは島の北西のビーチ沿いに十数棟の素朴なコテージが並ぶアットホームなリゾートで、そのうちの一室を左之助が使っている。剣心もそこに泊まることになっていたのだ。
部屋は広かった。吹き抜けの高い天井からシーリングファンが下がり、ゆるやかな風を送っている。室内には大きなウォーターベッドが二台。籐の椅子と小さなガラスのテーブル。バスタブつきの広い浴室。ビーチに面したウッドデッキの屋外テラス。いかにも南の島のリゾートらしい開放的でのびやかな部屋のつくりである。
だが、そこにはやはり人が生活をしている匂いがあった。
人が一年半も住んでいるにしては物のない部屋だったが、それでも数日の旅行滞在とは明らかに異質な気配だ。日常的な衣類。外国製の生活用品。いくつかの食器。万年床らしきベッドと、もうひとつの片付けて間もないベッド。壁に留められた写真やメモやカード。机の上の紙類、数冊の本。扇風機、旧型テレビ、ラジオカセットプレイヤー。懐中電灯。工具箱。
ポナペに来てからの一年半を、左之助はこの部屋で暮らしてきたのだ。
「へえー。いい部屋じゃないか。すごいな。こんなとこを貸し切りにしてくれるのか」
「部屋余ってんだよ。客もダイバーがほとんどだしな」
マオマオビーチリゾートには小さなレストランとダイビングショップがあるだけで、プールもスパもエステも、独立したスーベニアショップさえない。アピールポイントは、全棟シービューのコテージルームで目の前の海とプライベートビーチを独占できることと全室完備のウォーターベッド、それに部屋と浴室の広さ、そして併設ダイビングショップから桟橋までが徒歩一分という便利さくらいのものだ。自然の成り行きとしてゲストの多くがダイビング客で、ハードのキャパシティーの前にソフトつまりスタッフのキャパシティーの方が先にいっぱいいっぱいになる。部屋を満室にするのは盆正月と日本のゴールデンウィークくらいのものだという。
「それにこの部屋、デッキがちょっと腐ってるとこあってな。使うの俺だからそのままにしてんだけど、踏んだら床抜けるから気いつけ」
「お! これか、噂のウォーターベッド!」
「……ろよって人の話聞いてねえしオイ」
「うおー!なんだこれ面白いー。揺れるー!」
左之助は以前このリゾートに彼が働く「海屋」のツアー引率助手で来たことがあった。三年前、彼がインストラクター試験に合格した直後だ。初めてブラックマンタに出遭ったそのツアーでよほど気に入ったらしく、その後もときどき「あそこのウォーターベッド最高」と言っていた。
そのウォーターベッドなのである。
「つうかちょっと揺れすぎらしいんだけどよ」
「?」
「いや、俺もお客さんに教えてもらうまで知らなかったんだけどな」
ひとくちにウォーターベッドと言ってもタイプや性能はさまざまで、素材、構造等により寝心地も随分異なる。マオマオビーチリゾート特製のこのウォーターベッドは、丈夫な袋に水を入れただけの非常にシンプルな――つまりは非常に原始的なもののため、先進的なウォーターベッドに比べて揺れが大きいのだという。
「そこらへんが“さすがポナペ”って感じ。でもこないだなんか、この揺れで酔うとかいうオッサンがいてよ。あれはびびった」
「えええ?! ていうか、その人、そんなでボートとか大丈夫なのか?」
「だろ? そうだろ? そう思うだろ? それが船も波も全然平気。このベッドだけ酔うんだと。わけわかんねー」
「ははは」
広いと噂のバスルームも本当に広かった。日本で言えば八畳は優にある。上置きの猫脚バスタブと据え置き洗面台と便器がゆったりと配され、海側の両開きのテラスドアを開けると外のウッドデッキに出られる。
出ると、目の前はビーチと椰子の木と見渡すかぎりの海である。
「砂が茶色いので減点二十」と左之助は言ったが、青黒く光る海と雲母のような星空のパノラマには、見る者を圧倒する迫力があった。
剣心は木製のよろい戸を押し開けた体勢のまま、その眺めに見入った。
波音と夜の海の匂いに全身が包まれ、言葉もない。
剣心は開けた窓のドアハンドルに手をかけ、窓枠から半身を乗り出して、固まったように動かない。その手に左之助の手が重なった。左之助の手は、肌の色こそ爪が白く浮いて見えるほど真っ黒に日焼けしていたが、剣心のそれをすっぽりと手の中に納める大きさと剣心より少し高い体温は昔と変わらない。背中が左之助に覆われて、つむじに顎が乗った。
―――だからそれまでは、前通り、普通に……。
前通り。
それは、どこまでを意味するのだろう?
敢えては言わなかった。左之助も訊かなかった……。
狡いのはどっちだろう。馬鹿なのはどっちだろう。
少し遅れて、頭頂に毛髪ごしのぬくもりがやってきた。伸びたあごひげが地肌にちくちくして、無精ひげの今の顔を思い出させる。
咽喉の奥でくつくつと笑い出した剣心を左之助が背後から覆うようにして揺する。
「ナニよ」
「……ひげが変」
「そうかね?」
「そうでござるよ」
「なに、ゴザルって。忠臣蔵?」
「知らん。なんとなく」
「つうかヘンはそっちじゃん? 殿ご乱心?」
上からのぞき込んで笑う形に細まった目が、同じ細さのまま眩しそうな眼差しに変わる。
「明日はもっとすげえの見せてやる」
「すごい何?」
「内緒」
ゆっくり近づいてくるのを、唇が触れあう寸前までじっと見ていた。
―――トントン……。
小さなノックの音がして、そっと重ねるだけの静かなキスに割り込んだ。
―――トントントン……。
続いて遠慮がちな鈴の音ボイス。
『左之さん? 遅くにごめんなさい。起きてる?』
すずめだった。
「………」
「さの……」
「………」
「左之、呼んでる」
「………」
『………左之さん?』
「……おい!」
「おーう。いるいるー。ちょい待ちー。いま開けるー」
だが左之助は、外にはそう叫んでおきながら、なおも剣心の耳をくすぐるように撫で、こめかみと唇に何度目かのキスをして、また頭を抱きくるむ。その左之助の胸の中で、そんな場合ではないというのに、いや、そんな場合ではないからこそ、笑いの発作が剣心を襲う。
「そんな変か?ヒゲ」
「変。ていうか明らかにおかしい」
「そうかあ?」
「……いいから早く行けって」
ヒソヒソと笑い交わして、それからようやく体が離れた。
バタン、ペタペタと音が遠ざかって、表のドアの開く音。二人の話し声。ドアが閉まり、逆のペタペタ。そして目の前のドアが開く。
「シャワーぶっ壊れて水が止まんねえらしい。ちょっと見てくるわ」
「あーあ。大変だな。なんか手伝うか? 俺そういうのわりと得意だが」
「大丈夫大丈夫。まかしとき。ときどきあるから見当ついてる」
話しながら工具箱を取り出し、中身を確認している。
「っし。ほいじゃちょっくら。あ、冷蔵庫とか風呂とか、適当に」
「ああ、うん、サンキュ」
「………」
一旦ドアに手をかけて何か言いかけた左之助が、何か言う代わりにずんずん戻ってきて、剣心の頭をまたそっと抱えた。そして胸に抱えた小さな頭を名残惜しそうに何度も撫で、それから何を思ったかいきなりその頭頂に噛みついた。
「わっ?」
「……うーわ。おまえ頭くせえ」
何なんだよもうと手で払って、剣心が上を睨む。
「潜ったら一緒」
「くさっくさっ」
「なら触るな。どっか行け」
シッシッと払われた左之助は、わざとのように大袈裟にいやがる剣心の髪を今度は子どもにするようにくしゃりとかき回して大切そうに頭を抱え込むと、臭いとからかったばかりの髪の中に鼻を埋めて口づけた。
「……先に寝てていいし」
「………」
「やっぱくせえけど」
小さく頷いた頭の地肌にそれまでのはしゃいだ口調とはまるで異なる静かな囁きを残して、ドアがまた開いて閉じる。
二人の話し声と足音が聞こえなくなった頃、剣心はサンダルを脱ぎとばしてベッドにダイブした。
勢いのついた体重を受け止めて、ベッドの中で水が動く。
危うくわだかまりそうな緊張を笑いに紛らわせて流してしまう左之助の優しさが沁みる。
―――考えるな。何も考えるな。まだ考えちゃいかん。今はまだ……。
海の中にも似た穏やかな波がゆりかごのように身体を揺する。
―――でもこれはたしかに酔う人いるかも。
自分にとってはこの上なく心地好い揺らぎに意識を預けながら、そんなことも、少し思った。