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2007/5/6

<3>

「ていうか、だからってほんとにカゴで積むか普通!」
 目が覚めて、そこが本当にダイビングボートの上で、しかも水着姿の自分が本当に椰子の葉で編んだカゴの中にいると知って、剣心は真っ赤になって毒づいた。
「ありえない。やっぱお前ってマジでありえない」
「ありえねえのはてめえだっつの。普通起きるだろ。逆に」
「起こせよだから!」
「起こしたっつの。つかどんだけ起こしたと思うよ。おまえ絶対横で火山が噴火しても寝てるに一票」
「ううぅ……」
 たしかに。
 眠れるときに眠り、食べられるときには食べるのは、剣心の身上である。
 妙に神経質な面があり、ちょっとしたストレスで不眠が続いたりもする反面、逆に自分でもはてと思うほど逞しく眠るときがある。現に、移動の疲れが一気に噴出したのか、まともに眠れなかったチュークでの二晩とは対照的に、昨夜の眠りは泥のようだった。デリケートな睡眠不足と非常識なほど所構わない深い眠りは、一見不整合に見えて実は相関関係にあるのだが、剣心に自覚はない。

 さて、カゴは確かに“ちょうど”だった。
 小柄な剣心が膝を軽く曲げたいわゆる体育座りをすると、手足の先まですっぽりと収まる。内部空間は広すぎず狭すぎず、脚をおにぎりのように小さく折り曲げたりする必要はない。また、昨夜左之助が言った“使いまくり”という言葉の通りによく使い込まれているらしく、椰子の硬い葉は柔らかく馴染み、ささくれやけば立ちもない。しかも底には洗い立てのバスタオルがたたんで敷いてある。カゴはそんな状態で、デッキ中央の器材の山の中程をくぼませたところに巧くはめられているものだから、安定もクッションもいい。さらには、ちょうどうまい具合にテント地が張られた屋根の小さな影に入っていて、強烈な日射にも焼かれず済んでいる。
 つまりは、悔しいことに、なかなか快適だったのだ。

「お、おはようございます……」
 カゴの中から首を縮めてそう言った剣心に、にこやかな六つの顔が口々に同じ挨拶を返してくれる。四人の日本人客の日本語の中に、二人の現地人スタッフの英語が混じっていた。
 “おはようございます”は朝には一般的な挨拶の文言だが、厳密に区分すると、一部の特殊なケースを除いて、二種の場面で使われる。その朝最初に顔を合わせた時と、睡眠から覚醒した時だ。皆が前者の中、一人本当に寝起きの身という状態は、多少ならず気恥ずかしい。しかも四人はすでにウエットスーツを着終えて準備も万端である。当たる相手といえば、すくめた頭をニヤリと笑ってはたいていった小憎たらしい張本人くらいなものだが、今は船底のふたを開けて何やら真面目に仕事をしているらしい。それでは当たるわけにもいかないのが余計に癪に障る。
 ふん。左之助のくせにちょこざいな。
 そんなことを考えているところに、可愛らしい声がした。
「でもそりゃ疲れて当然だよ。コンチひどいよねー」
 テレビアニメに出てくる女の子のような、コロコロと転がる、だが耳障りではないソプラノ。続いてもう少し柔らかいアルト。
「大丈夫ですか? もしあれだったら、寝てた方が……」
 赤らんだ顔を髪で隠すようにしてともあれカゴから脱出する剣心にそんな声をかけてくれたのは、事情に通じた小国のすずめさんとあやめさんだった。
 いくらトラブル常習のコンチネンタル・ミクロネシア航空とはいえ、さすがに異例とも言える大遅延の顛末は、朝から船上の話題になっていたらしい。

「い、いえ、あの、すみません、もう全然元気です」
 そう言って初対面の二人にも頭を下げると、察しのいいあやめさんが紹介をしてくれた。
「新井さんと奥さん。京都ですって」
「新井です」
 夫が名乗り、妻が斜め後ろから小さく会釈をよこした。
 三十前後、剣心と同世代だろうか。控え目で真面目そうな夫婦だった。夫の方は、きっと毎日スーツを着てネクタイを締め、革の鞄に作ったお弁当を入れて電車で仕事に通っているのだろうと思わせる律儀な雰囲気で、妻はいかにも奥さん然としたなで肩の女性。二人ともおよそダイビングなどというマリンスポーツには縁のなさそうな風情だが、華のある人種の多いサーファー連とは対照的に、実はダイビング愛好者にはそういう地味で内向的なタイプが意外に多い。
「緋村です。よろしく。京都、どこですか? 俺も一応京都なんですよ」
「あ、伏見の方です。今は。仕事が府庁の方で。でも一応って? あ、もしよかったらですけど」
「ああ、全然。俺、ちょっとしばらく旅行してたんです。もうこれで帰るんですけど、いったん部屋も引き払って行ったから」
「へえー。じゃあ結構長い旅行だったんですか? どのくらい行ってたんです?」
「一年……ちょっとくらい?」
「え、一年!」
「うわ、すごい」
「いいなあ。どんなところを?」
「ダイビング?」
 日本の一般的な社会人にとって、一年の旅などというものはもう完全に別世界の話である。当然ながら皆が口々に驚きをあらわにした。
「あ、いえ、ダイビングじゃなくて。逆に陸ばっかり。適当に行き当たりばったりで、なんかいきなり山とか登ったり」
「うわあ、深夜特急の世界だー。うらやましい」
 『深夜特急』は、インドのデリーから乗り合いバスでロンドンまで行って電報を打つべく旅に出た著者・沢木耕太郎の実体験を綴った放浪記である。バックパッカーのバイブルとも言われる紀行小説の名を口にして小さく手を叩いたのはあやめだった。一見都会的な印象の彼女だが、いきなりその書名が挙がったところをみると、実はハングリーなバックパック旅行をしたりもするのかもしれない。
「はは。でもあんなにサバイバルじゃないよ。普通に宿とか泊まってたし、カードも使うし」
「でもいいなあ凄いなあ。僕も長い休みとかとれたらそういうのしてみたいとか思ったりもするんですけどね。どことか行ったんです?」
 旅先で旅の話題は話が弾むと決まっている。新井氏も熱心に興味を示してきた。
「世界遺産をいろいろ回ったかな。オーソドックスにアジアとかヨーロッパとかカナダとか。あとアフリカもちょこっと」

 東谷家には三年と三ヶ月の間、家政夫として勤めた。
 初出勤は冬。十二月だった。当初、長男の左之助との折り合いが良かったとは言えない。それどころか、一時は「人間関係」を理由に継続を断ろうかと真剣に考えたほどに悪かった。それが、思いがけず一緒に潜りに行ったりしているうちに、春が近づくのと並行するように急速に接近し、今度は接近しすぎて困るようになった。困った剣心がいったん辞職したのは五月だった。やがて左之助とさらにもっとずっと接近することになるとも、その結果東谷家に復職することになるとも、クライアントとの秘密の恋愛関係(しかも同性愛)などというあってはならない状態をずるずると三年近くも続けてしまうことになろうとも、その時にはもちろん想像もつかなかった。
 それからいろんなことがあった。
 ありすぎるほどにあった。
 そして遂に仕事を辞めたのが、一年と少し前、去年の三月だった。

 すごいすごいと身を乗り出す四人に向かって話しながら、その実、剣心の意識はほとんど背中に集中していた。
 背後に左之助がいる。
 ガタゴトと物音がしているから何か作業を続けてはいるのだろうが、風に散らされる剣心の声を聞き逃すまいときっと全身を耳にして聴いている。その気配が背中に痛いほど感じられる。
 船底のふたを閉める重そうな音がして、左之助の声が続いた。
「ぼちぼち外洋に出るぞー」
 声につられて皆の視線が前方に向かった。
 周囲はミクロネシア特有のコバルトブルーの水面。
 前は一面の群青で、後ろのポナペ島はすでに小さな島影になっていた。

 ボートが目指しているのは、ポナペ島の南西約十キロメートル、ダイビングや漁に使う小型高速艇で約一、二時間に位置するアンツ環礁(かんしょう)である。珊瑚が隆起してできた小さな環礁で、ソフトコーラルとハードコーラルが見事に群生し、豊かな生物層が見られる。ダイナミックで男性的なポナペ島周辺の海と好対照ということもあり、ポナペを訪れるダイバーには魅力的なダイビング海域だった。だが、いかんせんリーフを出て外洋を通るコースのため、小型船では航行条件が難しい。北東の貿易風が強くなる十二月から三月の間はまず行くことができない。四月から十一月の間は海況こそ安定するものの、夏は台風が多発する。いつでも行けるポイントではなかった。以前二月に訪れた小国あやめ・すずめ姉妹が来られなかったのはだからであり、前夜左之助が「絶好の時期」と言ったのもだからである。

「出る時にも言ったように、ここらからマジけっこう揺れるから、へりに座ってる人は船底に下りて、できれば何かにしっかりつかまる! あと船酔いする人はなるべく遠くを見るように」
 左之助が叫んだ矢先、ふいに船が大きく持ち上がって跳ね、悲鳴がいくつか上がった。
 大きな揺れが続き、風がゴオゴオと音を立てて唸り始める。
 新井夫婦と小国姉妹が、それぞれ安定のいいポジションを手際よく見つけて座った。彼、彼女らの、海にもボートにも慣れた様子が、剣心の目に止まった。
「剣心!」
 声と共にウエットスーツが飛んできた。
「寝ぼけてねえで、お前もとっとと着とけ。けっこう波もかぶるぞ」
「ああ」
 今回、唯一持参したマイギアだった。重器材や小物はショップのレンタル器材で充分だし、フィンは左之助に借りれば事足りるが、ずば抜けて小柄な剣心に合うサイズのウエットスーツはレンタル器材にない。大きすぎるウエットスーツは保温効果がほとんど皆無で、ダイビング中の寒さほど耐え難いものはないから、いったん日本に立ち寄った際にウエットスーツだけは引っ張り出して持って来たのだった。
 四年前、ダイビングを再開して半年ほど経った頃に新調したウエットスーツだった。色は褪せ、ゴム生地にも疲れが見られる。これを作る少し前には、比古に会うの会わないので左之助と揉め、ちょっとした諍いをした。時尾に引っかけられて病院に走ったり、二人で見て歩いた祗園祭の宵山でものすごい夕立にあってずぶ濡れになったり、だまし討ちのように医者に連れて行かれて喧嘩をしたりもして、てんやわんやの騒ぎの末に、ほとんど出まかせだった口約束を盾にとって、強奪する強引さで左之助に誂えさせたウエットスーツだ。モルジブもスミランもこれで一緒に潜った。串本も白浜もすさみも越前も香住も。次はサイパンでグロット、という約束は、約束のままになっている。いずれ果たされることはあるのか、ないのか。二年前の夏のシパダン海賊騒動以来、剣心はダイビングを離れていたが、使わない間もゴム製のウエットスーツは着々と時間にさらされてきたらしい。その経年変化が、そのまま自分と左之助との時間にオーバーラップする気がした。
「………」
―――ストーップ! ぐるぐる禁止、センチメント禁止! 頭リセット!
 腰まで履いて手が止まっていたことに気づき、勢いをつけて腕を通す。
 背中のファスナーを一気に引き上げ、風に逆巻く髪を両手で束ねたところで、海の必需品のヘアゴムが手首にないことに気づいた。
「ややっ」
「あ、よかったら使います? 使ってるのんですみませんけど」
 目ざとく声をかけてくれたのは、長髪同志のあやめである。
「え、でも俺が借りたら……」
「大丈夫。まだいくつもあるんです」
「あやめちゃんって物持ちいいんだよ。普段も鞄から何でも出てくるの。バンソコとかハサミとか、なんかホチキスまで持ってたり。ね」
「すずめちゃん、そういうのは物持ちいいのとはちがうと思うー」
「そうなの? っていうかどっちでもいいよ、そんなの」
 ずいぶん仲のよい姉妹らしく、そう言いながら押しくらまんじゅうのように肩どうしを押しつけあっている。あやめが剣心の視線に気づいて照れ臭そうに笑った。
「ごめんなさい。どうぞ、よかったら」
「いや、あの……。えっと、でもじゃあ遠慮なく。ありがとう、助かる」
 いつものように高い位置でポニーテールに結わえ、気合いも充分に髪をぷるんとひと振りする。
―――っし、ファイトー!
 そこへ今度は小さな瓶が飛んできた。投げたのはまたしても左之助である。
「塗っとけよ。またむけるぞ」
「……サンキュ」
 南国の陽射しは半端ではない。ちょっとした油断が大袈裟ではなく大惨事を招くから、朝と海上がりの日焼け止めは欠かせない。ないのだが、なにぶん今朝はしっちゃかめっちゃかなスタートを切っているものだから、日焼け止めなど塗っていようはずがない。
 できるだけ何食わぬ顔で受け止め、急増した心拍数が挙動に出ないことを願いつつ、小瓶の蓋を開けた。
 ココナツの香りがした。
「……あれ? ココナツオイル?」
 剣心はそう言って、瓶の中身を指先ですくった。
「へええ。変わってるな、これ。ここのか?」
 白く半透明に凝固した固形のココナツオイルで、肌に取ると体温でゆるんでなめらかに伸びる。油っぽいべたつきのないさらっとした手触り。香りもココナツオイルにありがちなくどい甘ったるさがなく心地好い。精度の高い良質なココナツオイルだった。
「おう、数少ないメイド・イン・ポンペイ。結構いいだろ」
 南国の良質なココナツオイルは、日焼け防止効果こそ期待できないものの、赤道至近の強烈な紫外線から肌を守るという意味では、生半可な日本製の日焼け止めよりよほど根性を見せてくれる頼もしい存在である。それなりに焼けるが、赤むけや火傷化は防がれる。つまり、焼くためでも焼かないためでもない、ニュートラルな自然の皮膚保護機能を持っているのである。
「しかもここのってなんでかサンドフライ除けにもなってよ。こっちの子どもとか、みんな親にくるっくるに塗られてピカピカしてっぜ」
 悪名高いミクロネシアのサンドフライだ。咬まれると跡が赤く腫れてかゆくなるところは蚊に似ているが、かゆみの激しさは蚊の比ではない。
「ほー」
 虫除けになるココナツオイルとは珍しい。
 剣心はさらさらとしたココナツオイルを丁寧に顔や首に塗り伸ばしていった。白い肌の上に澄んだココナツの香りが甘く広がる。
 日本から持ってきた自分の日焼け止めは多分まだ荷物の中だ。
 ヘアゴムはさすがに思い至らなかったのだろうが、こっちは代用予定で省略したのかもしれない。
―――なんたる不覚。
 考えるとついつい口が尖り眉も寄る。
 自分の思考に沈んでいきつつある剣心は、どこを見るでもなく宙を見ている微妙な横顔に左之助の視線が注がれていることには気づいていない。
 甘く香ばしいオイルを塗り伸ばしながら、昨夜のことを思い返した。


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わらくる<3> 2007/05/06





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