車は左之助が運転する。
南の島のダイビングサービスの店長は何でもしなければならない。
空港への送り迎えもすれば、ゲストの荷物も運ぶ。何かあれば航空会社や旅行会社との交渉をし、場合によってはフライトや宿の手配も代行する。タクシーを呼んだり、レストランやお土産の相談に乗ったり、海だけでなく陸の観光ツアーを引率したりもする。それに、左之助が住み込みで働くサービスはリゾート内に併設されており、そのマオマオビーチリゾートに日本人スタッフは彼一人だったので、何かにつけ頼られることは多かった。
日本でダイビングショップの社員としてインストラクターをしていた左之助が、ポナペのマオマオビーチリゾートに併設されたダイビングサービスの店長として働くようになって一年強になる。
宿泊客と同じ敷地内に寝起きしていると、夜中にシャワーが出ないだとかトイレが詰まっただとか言ってこられることもある。そんな場合も、基本的には、英語に自信のない客を「フロントに言え」と突き放したりはせず、自分で行って直してやっている。ごく稀に虫が出たと騒ぎ立てる女性客などもいて、そんな時にはさすがに「まあこんなところだから」と釘を刺しつつも、とりあえず追い払うくらいのことはしてやらないでもない。まちがっても「ならこんなとこ来んな馬鹿」などとは言わない。
仕事のコアはもちろん海とダイビングだが、だが、だからといって海とダイビングのことだけをしていられるほど甘くはない。
“海外で働くダイビングインストラクター” といえば華やかにも自由にも聞こえるが、実際のところ、南の島で働くというのは、つまりはそういうことなのだ。
「なあなあ。そんでいきなりだけどさ。アンツの無人島でキャンプとかしてみたくね?」
空港からマオマオビーチリゾートに向かう車中、ハンドルを握りながら、左之助は簡単なオリエンテーションをしていた。
彼女たちは初めての客ではないらしい。自己紹介はなく、説明は手短だった。
生水は飲まないように、節水にご協力を、夜は冷えるので体調管理に気をつけて、日差しが桁外れに強いので日焼け止めはしっかりと、この時期は悪名高いサンドフライが特に多くて噛まれるとものすごくかゆいので虫除けはとにかく念入りに、蚊取り線香を貸し出すのでばんばん焚きまくることをおすすめします……エトセトラ、エトセトラ。
そこまでは「ですます調」で話していた左之助が、ひと通りの一般的な説明が済んだところでいきなり口調が砕けて、無人島云々と言い出した。
「なあなあ。そんでいきなりだけどさ。アンツの無人島でキャンプとかしてみたくね?」
その変調に、一瞬、自分に話しかけたのかと思って目を上げた剣心だったが、左之助の視線は中列で舟を漕ぎかけていた自分と後列の二人を同時に見ている。どうやら一連のオフィシャルなオリエンテーションが済んでこれ以降は普通の会話、ということらしい。ということは後ろの二人はそれなりに慣れたゲストなのだろう。
その証拠に、いきなりもいいところの唐突な発言に充分ついてきている。
「無人島? えーなにそれ。楽しそうー!」
「アンツ? あの珊瑚がすごいっていうとこ? へえ、行けるんだ? 前のときは船が出せないって」
すずめちゃん、あやめちゃんと、名前で呼び合っている二人だが、これまでの話の雰囲気から察するに、どうやら姉妹らしい。若く見えるが、旅慣れた様子からすると下のすずめでも二十代半ばは過ぎているだろう。どちらもそれなりに垢抜けたすっきりとした格好をしていた。
鈴の音のような高く可愛らしい声で無人島に興味を示した方が「すずめちゃん」。背丈は剣心とほぼ変わらず、髪は黒くて短い。脛丈のジーンズにコンパクトなパーカー。白いキャンバスのスニーカー。使い込んだキャップを被っている。ボーイッシュな身なりに相応しく快活で社交的だが騒々しくはなく、集合直後に剣心にかけた「大変でしたね」という労いの言葉も人を和ませる純真なトーンで、むしろ外見よりも穏和な印象だった。
もう一人、アンツという単語に反応してしっかりした口調で問い返したのが姉の「あやめちゃん」。すらりと背の高い方の子だった。百七十センチメートルもあるだろうか。黒々とした切れ長の目と腰に届く栗色の髪の美人である。長い足が際立つブーツカットのジーンズ。素足にゴムぞうりを履き、海用のウインドブレーカーをざっくりとはおっているのが、かえって女性らしさを感じさせていた。
その長身長髪の「行けるの?」という問いを受けて、左之助が言った。
「あー、そうそう。あん時は二月で貿易風バリバリだったんだよな。大丈夫、今はちょうど狙い目。五月くらいから十月……十一月まで? 七月までいくと今度は台風がヤバイんだけど、今なら超バッチリ」
ミクロネシア連邦ポナペ島。
六月に入り、日本ではいよいよ梅雨も本番の時期だが、熱帯性気候のミクロネシアに梅雨はない。
「ポナペ」は旧称で現在は「ポンペイ」と呼ぶのが正式なのだが、日本ではダイビング業界を含め、通りのいい旧称の方が使われることも多い。
赤道のすぐ北側、北緯七度、東経百五十八度に位置する常夏の島だ。年間平均気温摂氏二十七度。年間降水量は海岸部で約五千ミリメートルと日本の三倍近くに相当し、世界で最も雨の多い地域のひとつに数えられるが、ほぼ毎日降る雨は熱帯性のスコールで、雨季、乾季と呼べるほどの明確な区別はない。
より生活に影響するのはむしろ風である。
十二月から三月は貿易風の影響で風の強い日が多く、また七月から十月にかけては周辺で発生する台風がときに天候を荒らす。
首都パリキルを擁する連邦最大の島とはいえ、面積は約三百三十平方キロメートルで、日本の長崎市程度。人口は約三万人。州都コロニアの市街地に島で初めての信号機がひとつ設置された事が、目下のビッグニュースとして島民の関心を集めている。周囲を海に囲まれた、そんな小さな島の暮らしに、まして海をテリトリーとするダイバーの二十四時間に、風と波とは、晴雨以上に大きな意味を持つのである。
「っていうか無人島ってのがいいよね。ちょっと行きたいかも」
と、ショートカットの鈴の音ボイス。
今度はそっちに左之助の視線が流れる。
「だろだろ、いいだろ、無人島。しかも真っ白な砂浜に南十字星つき。こっちはほとんどマングローブでビーチねえし、うちのリゾートはあるっつっても砂茶色いけどさ。あっちは珊瑚礁だからな。もうマジ真っっっ白。まさにホワイトサンドビーチって感じ。人いねえから晴れたら星もすんげえし、ハンモックとかビーチバレーのネットもあるし。釣りもできるし、貝も採れるし、椰子の木にも登れるし。あ、無人島っていっても一応ちゃんとした島でな。漁に行く奴らが拠点にしたりとかする島だから、コテージみたいなのは一応ちゃんとあるし、料理する小屋とカマドと、あと雨水の貯水タンク? サバイバル訓練も兼ねてどうすか、お客サン」
そんなことを言って笑わせ、二人が乗り気そうなのを見てとり、
「行っときますかー」
と、続けた。
横で聞いている剣心などからすれば、ゲストに勧めているというよりも単に新しいこと好き面白いこと好きの左之助自身が行きたがっているだけなのが一目瞭然である。
大体、砂浜、星、ハンモック、せいぜい釣りに貝採りあたりまではともかく、どこの女の子が椰子の木登りをしたがるというのだ?
そんなことを考えながら、あくびをかみ殺し、今にもくっつきそうになる瞼をこじ開けて、後ろを見た。
二人が互いを見て「どう?」「どう?」と訊ね合っている。
どちらも期待いっぱいの目をしていて、行く気になっているのは返事を待つまでもない。
その様子をバックミラーごしに見て、左之助が重ねて言う。
「なあ、じゃあさ、いきなりであれなんだけど……実はいま来てるお客さんで、明後日でダイビング終わりの人がいて、その人たちもできればって話があって。もし元気大丈夫なら、明日とかどう?」
五月の末に異例の早い台風が通り過ぎた後で、次の台風はまだできていない。泊まりの遠出を狙うなら絶好の時期なのだという。
「つうかやっぱしんどい?」
そう訊かれて、身を乗り出していた二人は、異口同音に声を弾ませた。
「あ、うううん、それは全然、あたしは平気」
「うん、私もー。段取りいいならいいですよ、それで」
「了解、ほいじゃ決定! お前もオケー?」
後半は剣心に言ったものだったが、本気で訊ねているわけではなく疑問の形をした確認にすぎない。左之助の新しいもの好きに負けず劣らず、面白いこと好きで冒険好きの剣心である。眠そうな顔はしていても、その実プランにはちゃっかり興味をそそられていた。否やがあろうはずもない。ますます重くなる身体をシートに沈ませたままなおざりに頷くだけで済ませたのは阿吽の相棒への甘えだったのだが、その姿を後ろで目にした初対面の道連れは、剣心の反応を違うように解釈した。
「あ、えっと……。ごめんなさい、あたし達、自分のことばっかり……。そうですよね、すごいお疲れですもんね」
同じ便で着きはしたが、彼女たちにはそれが予定通りのフライトだった。二人は千葉から来ていた。朝に成田を出発して十二時間を超える長い移動に違いはないが、アクシデント山積だった剣心とは比較にならない。
「ねえねえ、左之さん、明後日とかにするっていうのは?」
「ちがうよ、すずめちゃん、帰る人がいるんだよ。だから泊まりなら明日しかないって」
「え、ああ、そっか、そうなんだっけ」
ダイビング後、直ちに飛行機には乗れない。急激な高度変化が、別名潜水病とも呼ばれた減圧症を発症させる危険があるからだ。そのため、航空移動を伴う旅行先でレジャーダイビングをする場合、搭乗予定時間から逆算して最低十八時間、できればそれ以上のインターバルが必要となる。
前にも来たことのある二人は、ここが原則ひとつのチームで動く小さなダイビングサービスだということを理解している。行くにしても行かないにしても、皆が行動を共にすることになるのだ。
剣心は巨大な疲労と眠気に引きずりこまれそうになりながら後ろを振り返った。
気遣わしげな二人と目が合う。
旅行をしていて出会う相手は、大きく二つに分けられる。
気の合う相手と、合わない相手だ。
ひとりで気ままに動いている時ならともかく、一定の団体行動を伴うこういう旅行では、 居合わせる顔ぶれは旅の楽しさを大きく左右する。
――悪くない。
社交辞令ではない微笑を浮かべて、小さく会釈をした。
「俺なら大丈夫。一晩寝れば全然。すみません、ありがとう」
「大丈夫大丈夫。こいつこう見えてばり頑丈だから」
バックミラーの中で左之助もそんな事を言い添えたが、二人はまだ少し心苦しそうにしている。それを見て剣心が重ねた。
「ほんとに大丈夫。それに船とか向こうでもいくらでも寝れるし」
「あー、だよなー、お前どこでも寝るもんなー。しかもマジ爆睡。あ、そうだ、船にマジック積んでこ。みんなで落書きしようぜー」
「しょうもないこと言ってんな馬鹿」
と、前は睨んで、後ろにはにっこり笑う。
「でもほんと、無人島はちょっといいよね。楽しそうだ」
「ちょっと? ウソつけ、かなりなくせに。好きだもんなーお前そういうの」
「お前がな。虫ダメなくせにな。蛇もつかめないくせにな」
絶妙の間合いでつけつけと言い合う様子に誘われてか、後ろの二人も目に見えて打ち解け、結局「それなら」ということで落ち着いた。
「緋村です。よろしく」
「小国あやめです」
「すずめです」
こちらこそよろしく、と二人は会釈した。
長身長髪のあやめさん。
小柄な鈴の音ボイスのすずめさん。
「並べるとヨシモトの漫才コンビみたいだけど本名なんだよ」
と、すずめがくしゃっと笑い、
「祖父がつけてくれたらしくて。なんか時代劇の町娘みたいだよね」
と、あやめも笑い、
「ってことで、あやめちゃんとすずめちゃん」
と、それぞれを掌で示して、左之助が言った。
真っ黒い顔の中で目が楽しそうに細まって剣心を見ている。真っ直ぐ向けられる視線が面映ゆく、くるりと後ろを向いて二人にもう一度会釈した。
背後から左之助の声が追ってくる。
「じゃ、みんな、明日に備えて今日はしっかり寝とくように。あ、そうそう、剣心は水着着用でな」
「水着? なんで」
「決まってるじゃん。起きなかったら荷物と一緒に積み込むから」
「………」
「大丈夫大丈夫。あやめちゃんが前に来た時に編んでくれたでっかいカゴがあんだよ。ちゃんとそれに入れてやるから」
「え? うそー! あれまだあるんだー?」
「あるある。つうか超使いまくり。めっちゃ助かってんぜ?」
「わあ、ほんとー。嬉しいー」
「えー、すごいすごい!」
三人が盛り上がるなか、だが剣心にはわからない。
「……カゴ?」
二人が四ヶ月前に来た時、あやめが椰子の葉でカゴをいくつか編んだのだという。プラスチックのケースよりも柔軟で扱いやすく、通気性に優れ、布の袋よりも形状安定性に富む。こまごました物の運搬や保管に重宝なのだと左之助は話した。
「で、いちばん大きいのがさ。ちょうど “子どもも入るサイズ” って設定で」
――何がどう “ちょうど” なんだ?
本来なら間違いなく突っ込むところをぐっとこらえたのは、もちろん当のあやめ嬢への配慮からだったし、その後に
「そりゃよかった。じゃあまあせいぜい忘れず積んでくれたまえ」
と続けたのは、これはもう、言うまでもなく、左之助に対するいやみあるいは口から出任せ以外の何物でもなかった。
なかったはずだったのに――。