機外に出ると、南国のなまあたたかい夜気に押し包まれた。
飛行機のタラップを降り、歩き出す。
疲れ切った足には空港施設までの数十メートルがやけくそに遠い。
「さすがコンチ。やってくれる」
嘆息まじりの呟きが、剣心の口を突いて出た。
飛行機は六十時間の遅れで真夜中のポンペイ(ポナペ)国際空港に到着した。
二日前の朝にコンチネンタル・ミクロネシア航空の中型旅客機でグアムを発ち、チューク(トラック)を経由して約五時間で着くはずだった。
それが、まずグアム発の便が機体不具合のため出発遅延。整備に夜までかかってようやくチュークまでは飛んだものの、今度はエンジンに鳥が巻き込まれる突発事故でまたもや足止め。すぐに代替機が用意できるわけもなく、延々深夜まで空港で待たされた末、結局は行き先に応じて翌日以降の便に振り分けられると発表があり、その後でようやく航空会社が手配したホテルに連れて行かれた。こうして五時間足らずのはずだった剣心のフライトは予定の十三倍以上というとんでもなく長い旅になったのだった。
コンチネンタル・ミクロネシア航空。
アメリカのヒューストンに本社を置くコンチネンタル航空の子会社で、グアムをハブ空港にアジアと太平洋に路線を持ち、ミクロネシア、ポリネシア、ハワイ、オーストラリア、日本、東南アジア各地に就航している。日本から南太平洋の島々――ミクロネシア連邦のポナペ、チューク(トラック)、コスラエ、ヤップ各島、パラオ、マーシャル諸島のマジュロなど――を結ぶ唯一の路線であり、また、グアム、サイパンへ飛ぶ便や日本の航空会社との共同運航便も多いため、南洋旅行には縁の深い航空会社である。ただ、タイムテーブルが頻繁に変更されたり、離島便が早朝深夜に設定されていたり、遅延、欠航などのトラブルも少なくなかったりと、体制万全とは言い難い。
しかも、どうも自分とは特に折り合いが悪いらしい。
と、剣心はかねがね思っていた。
彼は中学期から二十歳までをサイパンで育っている。家がダイビングサービスで義父がダイビングインストラクターだったから、英語を覚えるより先にダイビングをマスターし、休暇のたびにミクロネシアやアジアのダイビングスポットに連れられていた。
コンチネンタル・ミクロネシア航空に良い心証がないのはその頃からである。
大体、三回乗れば一度は何かしらのハプニングに遭っていた。もしかすると記憶の誇張か被害妄想なのかもしれないが、遅延、欠航以外にも、ロストバゲージにオーバーブッキング。それからシートの背もたれのリクライニングの故障、スイッチの破損。座席テーブルの不具合やイヤホンジャックの接触不良まで含めれば、かなりの確率でフライトの満足は阻害されている。少なくとも個人的評価が高くなりえないことは間違いない。
だが、それにしても今回はひどかった。
グアムとホノルルを結ぶアイランドホッピング便だったことも災いした。グアムを出た後、チューク、ポナペ、コスラエ、クワジャリン、マジュロに立ち寄って最終目的地ホノルルに至る、いわば各駅停車の便である。乗客たちの乗機地、降機地の組み合わせがさまざまに異なるため、振替や待機ホテルの手配に手間がかかり、相当長い時間を空港で待たされる羽目になった。挙げ句に、ようやくホテルに着いたら着いたで、「出発の用意が整い次第お呼びいたします」という、丁寧と不親切の紙一重のサービス精神のおかげで自由に外出もままならない。気の休まらない状況では眠りも浅くなりがちで、まして思いがけないチューク滞在を楽しむどころではなかった。
これだけ間違いが続くと、自分の荷物が無事にポナペに届いていたことの方が、もはや降ってわいたラッキーか何かに思える。
やれやれ。ともあれひと安心だ。
「ふう」
吐く息が自然とため息になった。
なにかひとつプロセスが進むたびに条件反射的にため息が出る。たった三日ですっかり身に付いた習性のようになってしまった。
だが今度こそ本当に目的地だ。
無骨な旧型のカートをギガギガと鳴らせ、ハンドルに寄りかかるようにして税関を抜けた。
深夜一時という時間だったが、週に四便しかない離島便の到着である。ゲートは空港らしい喧噪と高揚を見せていた。出迎えと客引き。ホテルやダイビングサービスのプレートを目印に掲げた人。名前を大書きした画用紙を手にゲストを捜す現地人スタッフ。家族を迎えに来たらしい地元の親子連れ。宿の決まっていない旅行者をいち早くつかまえたいエージェントに、タクシーの運転手。人を待っているようにも、ただたむろしているようにも見える若者たち。匿名の人の群れ、群れ、群れ。到着客と出迎えが入り乱れたロビーには、多くの人がさまざまな身なりでそれぞれのスピードで行き交っている。
しかし探す必要はない。
税関を通る前から見えていた。
迷彩色の人波の映像の中でも、剣心の目にはその青年の姿がくっきりと独立している。
見知った彼と変わらないところもあれば、変わったところもある。変わらないのは、例えば無駄なく鍛えられた長身。例えば細くもいかつくもないバランスのとれた身体。若い生命力。勢い。しなやかさと攻撃性を併せもつ猫科の猛禽にも似た雰囲気。変わったのは、例えばいっそう強まった濃厚な存在感。それから例えば、皮膚の色。剣心の記憶にあるより数段灼けた。よれよれのTシャツとショートパンツから伸びるむき出しの手足は、赤銅色を軽く通り越し、硬く鈍い光沢さえ帯びて黒光りしている。
「……灼けすぎ」
ぼそりと呟き、軋むカートに体重を預け、重い身体を引きずらせるようにゲートを出た。
同じ便に、剣心以外にも左之助の店のゲストが乗っていたらしい。彼は先にゲートを出ていた二人連れの若い女性客の対応をしている。二人とも剣心に背を向けているため顔は見えないが、仲の良い友達どうしなのだろうか、背の高い方の子がもう一人の肘に手を添えている。
グアムを出て正味六十五時間。
移動時間として物理的にも充分長いが、それ以上に、予定の十三倍に及ぶ不測の事態のてんこもりと、いつ何がどうなるかがはっきりしない先行き不透明感の濃厚さで、精神的にも肉体的にも疲弊感は強烈だった。一度気を抜いてしまえば、見境もなく座り込んで動けなくなっても何の不思議もない。
他にもゲストがいてよかった。
そう思うほどに、疲れていた。
ゲートを出た剣心の足が止まり、だが出口で立ち止まって後続者に障ることをはばかって、すぐにまた動き出す。
二歩目を踏み出す前に、左之助が剣心に向けてピッと親指を立ててきた。
女性客二人が背後を振り向くかたちで剣心を見る。
「うっす、お疲れーい」
そう言って強面風にすごんで見せる顔もまた真っ黒だ。
彼の方でももうずっと早くから剣心に気づいていたのだろう。待つ側の気の逸りや再会の興奮よりも、迎える立場の余裕が勝ってうかがえる。
小さな空港だ。着陸した飛行機から空港施設まで旅客が徒歩で移動しなければならないくらいだから、ターンテーブルのような立派な設備ももちろんない。荷物はリフトと人力で運ばれてくる。迎える側は、荷物運搬や入国審査や税関検査といった各所の空港職員の処理能力に応じて数人ずつ吐き出されてくる到着客を順に観察することができるのだ。
剣心は左之助がしたのと同じように大袈裟に顔を歪め、同じ形で親指を立てて拳を突き出した。そしてその手をすぐにくるりと逆さまに向け、「コンチめ」と憎々しそうに口を尖らせた。
チョコレート色の顔に懐かしい笑顔が弾けた。
速度を上げると、年季物のカートはギャーゴギャーゴと今にも分解しそうな音を立てる。歩き寄った勢いのままに掌を打ち合わせると、パンと小気味のいい音がして、ようやく実感が追いついてきた。
そしてますます黒くなった姿をまじまじと眺めた剣心は、久々に見る左之助が妙に見慣れない印象だった理由にやっと気づいた。単に黒すぎるだけではない。
「ていうかおまえ何その顔?」
「ん?」
鼻先を指差されて、左之助が自分の顎をザリザリと撫でた。
一年前の春、剣心が最後に見たときにはなかった顎ひげと口ひげが、精悍さを増した顔に、砂鉄を散りばめたようにくっついていたのだ。
「むさっ」
「なんだよ、いいだろ、ワイルドで」
「いや、っていうか、単に悪人? 人とか売ってそう」
「うっわ、感じ悪。てめ、いきなりそれかよ」
「だって、どっから見たって」
そう笑う剣心は、変わらず長い髪を襟足で束ね、洗いざらしのTシャツに穴が開く寸前のジーンズとゴムぞうりという、夜中のコンビニエンスストアに牛乳を買いに出る単身赴任者でさえもう少しは身なりに気をつかうだろうというような気のない出で立ちをしている。ダイビングの旅行客らしい装備といえば、いつも海で好んで使っていたキャップとサングラス、それに右の手首をいかつく占拠しているリストタイプの時計つきダイビングコンピュータくらいである。染みだらけのキャップを後ろ向きに被り、サングラスをTシャツの首に引っかけているのは顔相を隠すそれらが入国審査で許されないからだったが、おかげでただでさえ若く見える顎の細い幼な顔が一層あどけなく見える。左之助も二十四には見えないが、剣心の方もじき三十路も半ばの男とは到底思えず、意味こそ違えど人の外見をどうこう言えた義理ではないのだが。
「うるせえコノヤロ」
うりゃ、うりゃ、と、軽いパンチを応酬すれば、気心の知れた再会には充分だった。
「はい、じゃあ全員揃いましたので、それではリゾートの方に向かいましょうー」
仕事顔に戻った左之助がゲストの二人に向かってそう言い、慣れた仕草で剣心のカートに手をかける。
二人の荷物はもう車に運んであるようだ。
カートを押してグレーのライトバンに一行を先導する左之助と身軽な二人の最後尾に、剣心も続いた。
ため息にならないよう音を殺して深呼吸をすると、やっと目的地に辿り着いたことの安堵に、一年振りの感慨が勢いよく流れ込んできた。
息を吐き切るのと一緒に全身の力が抜け落ちそうになり、慌てて肩を揺すり上げる。
―――っとと。へたれてる場合じゃないだろ俺。
脇腹で両拳をぐっと握り、一人こっそりとファイティングポーズをつくる。
ここにいる間はとにかく全力で思い切り楽しむと決めたではないか。
一年間、ひとりであちこち旅をしながらあれこれあれこれあれこれ考え倒した末に、ようやくそう踏ん切りをつけて、来ることができたのだ。
南の島の十六日間のバカンス。
出端のアクシデントでいきなり二日も奪われたが、それでもまだ丸二週間たっぷりある。
前と同じように、普通に。その約束通り、左之助は普通に接してくれている。自分もできるはずだ。
大きく息を吸い込み、熱帯の濃密な夜気で肺を満たす。
ミクロネシアの匂いが手足に行き渡った。
左之助のいるポナペ。
古代遺跡とマンタの島。
白紙の二週間が始まる。
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わらくる<1> 2007/04/23