四
それから十日ほどして、弥彦の初稽古が行われた。
「ま、あれだ。こんなもんは口で言うより、やってみるのが一番早え」
今日の手ほどきは左之助がするから説明も左之助がしている。
「まず、俺がお前に潜る」
「………」
「そんでそのまま、お前を連れて、こっちに戻る」
と、左之助は自分を指した。
「ま、大体はこないだ言った感じだ。いいな」
弥彦はしっかりとうなずいた。
さかのぼること数日前。
得意先への納品に二人して出かけた帰り道のことである。
「なあ、左之助。訊いていいか?」
「んー?」
「前に剣心が言ってたことだけど。教えるのはお前の方が向いてるっていう」
左之助は黙って先を促した。
「あんとき剣心がさ、自分の夢は見ても快くないとかなんとか言ってただろ? あれってどういう意味なんだ? 夢に潜る稽古って、どんなことをするんだ?」
「………」
はたと立ち止まった左之助は、しばらく考えてから、
「ちょっとつきあえ」
長屋とは反対の方向に足を向けた。
「はいー。お兄さんがた、何にしましょ!」
「汁粉二つ。餅入れてくんな」
「あいよ」
つきあえと言って、連れてこられた先は汁粉屋。意外の場所である。
(もしかして、単に甘いもんが食いたかっただけとか?)
無論、そんなはずがない。
「一応はばかる話だからな。こういう所の方が人に聞かれる心配がねえ」
たしかに、近頃流行の汁粉屋なるものとあって、若い女子で混み合った店内は弾んだ笑い声が飛び交って、花園さながらの賑わいだ。内緒話には向いているかもしれない。もし問題があるとしたら――。
(俺らが浮いてるってことだよな)
はたから見れば、一体どういう二人連れなのだろう。
が、そこは考えないことにする。
乙女の花園の中に男二人、熱い汁粉をすすりながら額を寄せて、例の不思議な小声で説明する左之助の言葉に耳を傾けた。
「夢に潜るってのは、言ってみりゃ、魂だけ抜け出して相手の中に入るようなもんだ」
弥彦はうなずく。
「お前は元々それができる」
「………」
「できるんだよ。やり方を知らねえだけで」
餅を口に入れかけた左之助が、あちっ、と慌てて口を離した。
「で、だ。要はとっかかりだ。いっぺん出来りゃ、後はもうどうってことねえ」
弥彦はうなずいた。それは想像に難くない。
「といって、口で言えるもんでもねえ。だから」
と、左之助は初稽古の手筈を説明した。
二人とも覚醒した状態で、まず左之助が弥彦に潜り、それから弥彦を連れて戻る。文字通り手を引いて歩くようなものだから、出るのも潜るのも難しくはない。
「大丈夫だって」
弥彦の顔に不安を見てとって、左之助が太鼓判を押した。
「現に俺もそうやって潜れるようになった」
弥彦がつと顔を上げる。
「お前も?」
「おう」
ただし左之助の時はそう簡単ではなかったが。
今でもよく覚えている。剣心に弾かれたこと。無我夢中でもがいて、気づけば剣心に潜っていたこと。そこで見たもの。してきたこと。夢を忘れない特異体質の左之助は、すべてをはっきりと覚えている。
「あ、そんでな」
「?」
「この最初の稽古は、普通の時と違って、記憶が残る」
「記憶が残る?」
「ああ」
本来さんたくろーすは夢の中のことを覚えていられない。それは弥彦も教えられて知っている。
「お互い覚醒した状態だし、さんた同士だからなあ」
つまり互いの夢の記憶をそれぞれが持ち帰ることになる。
「ま、おめえ、そこは言っても所詮は夢だ。心の中に入ったり、まして記憶をのぞいたりするわけじゃあねえ。知られたくねえことまで見られやしねえから心配すんな」
「別に、俺は知られて困るようなことはないけど。掏摸とかしてたしょうもない過去があるっつっても、実際そうだったんだから今さら隠したってどうなるもんでもないし」
弥彦は口をつぐんだ。
知られたくない過去。絶対に人に見られてはいけない記憶。
弥彦になくとも、伝説と呼ばれる人斬りにはどうだろうか。
「……剣心ってさ」
弥彦は左之助にとも自分にともつかず言った。
「よく俺を弟子にとろうって気になったよな」
左之助が椀の中から目だけで弥彦を見上げて、真面目な顔でうなずいた。
汁粉を食べた帰り道、左之助が軽い爆弾発言をした。
「それと、俺はちょっと特異体質でな。普通のさんたより物忘れが悪い。悪ぃがそこんとこ、よろしく」
「物忘れが悪い?」
トリアタマのくせに?
だが言わなくて大正解だった。左之助はすごいことをさらりと言ってのけた。
「おう。割と覚えてる。夢ん中のことを。普通に潜る時でも」
「えっ。っていうか、それって……いいのか!?」
「いいわけねえだろ」
弥彦の足が止まり、しばらくして慌てて後を追う。
「なあ、左之助。それって、みんな知ってんのか?」
「みんなって?」
「剣心は知ってるんだろうけど、他のさんた屋のみんなは? 浦村のおっさんとか藤田とか、あと恵とか」
「ひげメガネと女狐は知ってる。そんだけだな。評議会にゃ言ってねえ」
重大な秘密ではないか。
弥彦はごくりと唾を呑んだ。
「だから向いてねえっつったろ」
前から不思議に思っていた。「潜れる人材は貴重」と、浦村達もしきりに言う。にもかかわらず、本来自分も潜れるはずの左之助があえて見守り役を担っているのはどうしてなのだろう、と。「向いてない」と冗談まじりに言っていたことはあるが、たったそれだけのことで?と。剣心の相棒は左之助以外では勤まらないからかと思っていたが、それだけではなかったのだ。
「俺が手ほどきするなら、お前に隠しとくわけにゃいくめえよ」
さすがの弥彦も言葉がなかった。
向かい合って額をつけた二人を見守りながら、剣心は、左之助の初稽古の時のことを思い出していた。
まだ子ども子どもした小柄な十四歳だった。いつもは生意気な自信家が、いつになく緊張して、借りてきた猫のようにそわそわしていた。稽古は順調に済んだとは思う。ただ、戻ってきた後、左之助がひどく泣いたことが気がかりだった。
火事で焼け出された孤児を、どうしても放っておけなくて、連れ帰った。立派に育っていくのをうれしく見ていたはずが、いつのまにやら妙なことになってしまっていた。
(どうして俺などに)
と、思う。
自分は過去の人間だが、左之助も弥彦もこれからの人間だ。今はまだ、教えられることもあろう。力になれることもあろう。だがやがて彼らは自分を踏み越えて進んでいく。未来を作っていく。自分達がやり遂げられなかったことを、彼らが受け継いでくれる。踏み石。そう思えるから、自分に生きることを許せるのだ。それなのに。
(ならば拒めばよい。いっそ彼の前から姿を消せばよい)
心の声はそうも言う。
だがそれもできない。
なぜできないのかを考え出すと頭がとっちらかって収拾がつかなくなり、それより先は考えることもできなくなる。
剣心は気づいていない。
自分でかけた呪縛は自分にしか解けないのだ。
二人はほどなく帰ってきた。
どうやら初稽古は滞りなく済んだらしい。
弥彦の様子におかしなところはない。さしたる感応症状もなく、多少寝ぼけているかどうか、といった程度。それとて実際の寝起きの悪い朝よりはよっぽどいいくらいだ。
剣心はホッと息を吐いた。
「首尾よくいったようでござるな」
「おう」
左之助にも異状はない。
「よかった」
まだ十歳。年齢が年齢なので、実際にさんたとして一人立ちするのはまだ先になろうが、ゆっくり時間をかけて練習していけばいい。
ともあれ、第一関門は突破した。
数日後のことである。
その日、剣心は午後から所用で外出していた。帰ってきたのは冬の早い陽がそろそろ傾こうかという頃合い。漏れ聞こえてきた弥彦と左之助の会話に、戸にかけた手がふと止まった。
「夢の中って、みんなあんな感じなのか?」
「いいや、そりゃあ人によるだろう。剣心も前に言ってただろ。霧の中みてえだったり、現実さながらだったり、いろいろだって」
「そっか。そうだったよな」
「ま、俺はそう数を知ってるわけじゃねえからな。そういうことは剣心に訊けよ」
「あ、うん……。そうなんだけど……」
「どうした?」
「………」
しばらく沈黙が続いた。
剣心は戸の脇に身を外して待った。
やがて弥彦の声がした。
「お前の夢のことなんだけど。内容とか、言っていいか?」
「いいぜ? 言ったろ。別に隠すようなことはねえ。自分でもあらかた覚えてるしな」
「じゃあれも覚えてるか? あの時、俺が潜った時、お前の夢に、ポカッと何にもないところがあった」
「………」
「その時は別に何も思わなかった。けど後から、あれ何だったんだろうって、気になって……」
また沈黙があった。
今度は左之助が破る。
「おめえ、ほんに油断のならねえガキだの」
そうか。あれを見分けたか。まあいい。あれはな。
「あれは、貸出中だ」
「貸出中? 夢を!?」
「夢っつうか、まあな」
「っていうか、なんで!?」
弥彦の驚いた声はひときわ高く外にも響いたが、もう剣心の耳には入っていなかった。
あれは貸出中だ。
そう聞いた瞬間、剣心の中に何かが洪水のように押し寄せてきた。渦巻く奔流に目がくらむ。
なんだ、これは。
それは、記憶の断片だったか。感情の破片だったか。あるいは、封じられた夢の記憶だったのか。
――………!!
いけない、決壊する。
覚えているのは、そう思ったところまでだった。
気がつくと、地面に倒れていた。
桶を持った女が慌てて駆け寄ってくる。口がパクパクと動くが声が聞こえない。
無音の中、障子戸が勢いよく開いて、左之助と弥彦が飛び出してきた。二人とも驚いた顔をしている。
大丈夫だ。ちょっと立ちくらみを起こしただけだ。
そう言いたかったが声にならない。
目を閉じたのと同時に、意識も途切れた。
次に気がつくと、部屋に寝かされていた。
心配そうにのぞきこむ左之助の姿が目に入る。
「気がついたか」
弥彦が恵を呼びに走っているという。
「面目ない」
もう一向に平気だったが、ともあれ恵が来るまで寝ていろと言われ、おとなしく従う。
あれは何だったのだろう。
天井を見つめながら、自問した。
あの一瞬、嵐のように去来した雑多な断片。どれも切れ切れで、脈絡がない。
一面の雪原。血のしみ。黒い嵐。光の刃。人もいた。昔の知り合い。手に掛けた人。左之助。まだ出会って間もない幼い姿をしていた。届かない手を必死に伸ばして、見開いた目には奈落に落ちる者の絶望があった。知らないはずの情景。だがいつかどこかで見た気がしてならない。
あれも見えた。逆刃刀。誰かの手が力任せに地面に突き立てていた。ビイィィンと唸って震える刀身。鈍い光を放つ。誰かが泣いている。剣心の名を呼んでいる。
(………)
わかるものもあれば、わからないものもある。
――だから、ある時、私は、自分の心を切り取って、彼に預けたの。
ふいに頭の中で女の声がした。聞いたことがある気がする。だが誰だろう。
――信じられない? でもできるのよ。強く思えば。本当に心から強く思えば、それくらい、誰にだってできるの。
胸が騒ぐ。
動悸が早まるのが自分でもわかる。
「剣心? どうした?」
「どうもせぬ。せぬが……自分でも、少々、驚いた」
左之助が剣心の額に触れた。前髪をかきあげ、そのまま手をおく。そっと当てられる乾いた掌の感触に気持ちが落ち着く。深く息を吐くと、その手が下りてきて目を覆った。
「女狐が来るまで、寝てろ」
少しだけ顎を引いて、掌のぬくもりに意識を預ける。
――なにか私にできることはあるかしら……。
また、あの女の声が聞こえた気がした。
*
剣心は夢を見ていた。
あの夢だ。
また、いつもの。
ここのところ見ていなかったな、と思いながら受け入れる。
こんな夢を見るのは、やはり答えないままの告白が気に掛かっているからだろうか。
この夢の中で、目を開けたことはない。かたく目を瞑ったまま、始まり、終わる。終えて眠りに戻っているのか、あるいは落ちているのかは、自分にもわからない。
目を、開ければ何か変わるだろうか。たとえば会話ができたりするだろうか。だが、怖かった。目の前に見えるだろうものを直視するのが怖かった。
やがて夢の中だというのに頭がぼうっとして、何も考えられなくなっていく。これもいつものことだ。気がつくと現実に目覚めていて、夢のことは覚えていない。
思えば不思議なものだ。夢の中では現実の方をはっきり認知しているのに、現実では夢を知らない。
――むしろそれに救われているのかもしれないが。
そう思ったのを最後に、思考は途絶えた。
おしまい
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初出 『星降る夜も聖なる夜も 明治さんた屋浪漫譚』(3) 2010/08/14