その前代未聞の仕事は、やはり夜に決行された。
例によっての黒筒袖に黒股引、頭巾で頭もすっぽり覆った三つの影が、音もなく街路の影をぬう。
「それでも夜なんだな。木なら昼でもかまわなさそうなのに」
弥彦が言い、剣心にかわって左之助が答えた。
「人目があるだろうが。向こうはよくてもこっちがよくねえ」
「あ、そうか。……ん? おい、左之助、それは?」
「灘の下り物だ。機嫌よく眠ってくれりゃ、仕事もやりやすい」
弥彦は「あ」と口を開けた。
藤は酒を好むらしいと、それを言い出したのは弥彦であった。
今回の仕事がどういうものであるか、概略を聞いた時だ。
「そういえば、藤って酒が好きなんだっけか」
「酒?」
「ああ。昔、母上が言ってた。藤の精はお酒が好きなんだって」
「へええ」
「初耳でござる」
今はなき母が、何かの折りに弥彦に語った。あんな可憐な花が酒好きというのが、幼い弥彦には不思議だった。今もって「なるほど」とは思わないが、なつかしい母との数少ない思い出は、どれも大切な宝物だ。藤の花と聞いて真っ先に思い出した。
「また咲くようになるといいな」
らしからぬしんみりした口調は、母への思いが重なったからだったか。剣心も左之助も「そうだな」というようにうなずいた。
だが弥彦の目には、二人は藤の酒好き説には半信半疑のように見えていた。それだけに、採用されたのがうれしい。
「でも、酒って、それが?」
瓶や徳利や瓢箪ならわかるが、細長い木の箱は、まるで鳶のかつぐ工具箱である。
「ちょっと仕掛けがあっての。ま、後でわからあ」
社長たっての依頼とあって、要求はすべて叶えられた。人払いをすること、敷地のすべての門を閉ざし外に門衛を立てること、仕事が終わりこちらがいいと言うまで近づかないこと。その日は社屋に人を残さず、灯りもすべて落とすこと。当日についてはそのようなところだ。それ以外について剣心が示したいくつかの条件も、先方は承諾した。
夢の内容は不問、結果も不問、ということは、そもそもの段階で浦村から伝えられている。
三人はそれでも塀を越えて侵入した。
門衛に顔を見られないためである。
問題の藤の木は、車寄せの横手にあった。
言うだけあって、大きくはないが佇まいに品があり、なんとも言えず人を惹きつける。これに花がつけば、どれほど美しいだろう。弥彦でさえ、思わずにはいられなかった。
その根方に左之助が酒を注ぐ。最後の一滴を注ぎきると、左之助は空になった工具箱をなにやらいじりだした。不思議に思って注目する弥彦の目の前で、箱はあっという間に平たくたたまれてしまった。
(うわお)
こたつと同じ、折りたたみ式。さてはあの元御家人大工に作ってもらったか。
なるほど、これなら帰りの荷がへる。
「な」
と言わんばかりの左之助のしたり顔には「すごいのはあのおっさんだろ」と言ってやりたくもなるが、しかしいろいろと考えるものだ。弥彦は感心する。
「では、参る」
剣心が、遠くへは届かないあの独特の声音で弥彦に言った。弥彦はうなずき、事前に言われた通りに、五歩ほど下がった。
それから行われた一連の動作は、弥彦の網膜に強く焼きついた。
剣心の所作は完璧な型に基づくものであるかのように無駄がなく、動きは流れるようになめらかだった。幹に掌を当て、枝を一瞥して、目を伏せる。そして一瞬の後、剣心の体は人形の糸が切れるように崩れた。それを左之助が支える。その時になって気づく。だからはじめから剣心の背後に控えていたのだ。それも背中に触れるほど近くに。左之助は、芯が抜けたようになった剣心の抜け殻を地面に横たえると、片手を取って藤の根に添えさせた。それからしばらくのぞき込むようにして剣心の様子をうかがっていたが、やがて身を起こし、弥彦を見てうなずいた。
我知らず深い息を吐く。
息を詰めて見つめる弥彦にはとてつもなく長く思えたが、実際にはほんの一瞬のことだったのだろう。
弥彦は内心、驚いていた。
さんたは常に二人一組。夢に潜るさんたには必ず守り役が付き添う。なぜなら、夢に潜る間は、いわば魂が抜けた状態になるから。そう、知ってはいたが――。
道理で守り役がいるはずだ。
弥彦が弟子入りして、左之助が帰ってくるまでの間、剣心は一人で夢を届けにいっていた。どれだけ無謀だったかが、やっと身にしみた。
横たわる剣心を見る。
文字通り抜け殻だ。きっと今なら弥彦でも息の根を止めることができるだろう。胸をひと刺し。抵抗する間もない。あの人斬り抜刀斎が。
ふいに息苦しさを感じた。見れば左之助が弥彦を睨んでいる。夜の闇に、獲物の喉笛を狙う獣じみた目が光っている。首筋にチリチリとした圧迫感。どっと脂汗をかく。
まるで考えが読まれたようだ。
慌ててぶんぶんと首を振り、雑念を払う。
そして再び驚いた。
「ふん」
と言わんばかりの顔をした左之助が、肘を枕に寝転がってしまったからだ。
(昼寝かよ、おい!)
しかも手真似で「お前も寝ろ」と言ってくる。意味がわからない。剣心を守らないといけないというのに。
「突っ立ってたら目立つだろうが」
(あ、そうか)
言われてみればなるほどだ。だが、とはいえ、
(その寝方はねーだろ)
心の中で突っ込みながら、弥彦自身は腹ばうように地面に伏せた。
二月の夜、地面は冷たい。剣心は大丈夫だろうか。
三
(これが藤の木殿の夢でござるか)
一面の雪原が広がっていた。
雪は止んでいる。
昼とも夜ともつかないほの白さが、ここが現実でないことを示しているかのようだ。
その雪景色は、剣心に否応なく浦村から聞いた話を思い起こさせる。
最後に花をつけたのは、三年前の冬。三日三晩降り積もった雪の中で時ならぬ花を咲かせ、そして一日と経たずに散り急ぎ、それ以来、春を知らない。
凍てついた心を分け入っていくと、ぽつんと一本の裸木があった。
(………)
藤の木だ。自分自身が投影されたものか。
(藤殿)
応えはない。
(藤殿)
呼びかけながらさらに進むと、ぽっかりと「ない」ところがあった。
(これは……)
これは一体なんだろう。
初めて見る心象風景だった。
闇でもない。穴でもない。欠けているというのも正確ではない。ただぽっかりと「何もない」のだ。夢のうつろ。だが、決して空しくもない。
そして、なぜだろう。それがこの魂の「希望」に思えた。何もない、その「ない」部分こそが、凍てついた夢の熱源に思えた。
(なんと、不思議な)
――………。
声なき声が、聞こえた気がした。
気配というべきか。
(藤殿?)
――………。
やはり、いる。こちらに向いている。
人語を解さないのかもしれないが、夢の中での対話は、精神の対話だ。言語は媒介手段にすぎない。
(藤殿。ここに何があったか、訊いてもよかろうか?)
――………。
(今はない。けれど、ないがゆえに、温かい。拙者にはそう思えてならぬ。不在の……なんでござろうな、これは。誇り? ……心?)
――不在の、心……?
水の流れるような、澄んだ女の声だった。
剣心は、そのうつろに手をかざした。
が、いつも接している夢の光とは違って、相手は無だ。働きかけても、手応えはない。どうしたものか。
――そうかもしれない。それは、あの人に、預けたのです。
(預けた? あの人に?)
――そう。私の大切なあの人に。
(藤殿の夢の一部を)
――ええ。私の夢……いえ、心の一部を。
藤は語りだした。
――私がここに連れてこられたとき、あの人はすでに立派な大樹だった。私はまだ小さな小さな苗だった。いきなり知らないところに連れてこられて、私は怖かった。寂しかった。毎日泣いていた。でも、あの人が、いつも歌っていてくれたから……。
(あの人、でござるか)
――ああ、久しぶりに、いい気分。ねえ、あのお酒、あなたがくれたの?
(ああ、そうでござる)
――そう。ありがとう。いいお酒を。ふふふ。おいしかった。
(口に合ってよかった)
――気分もいいし、お礼に、じゃあ、少し話してもいいわね。
(それはかたじけない)
――それで、ええと、何の話だったかしら。
(「あの人」の)
――そう。あの人は立派な柳だった。あなた、ご覧になったことはあって? あの奥の研究棟の横にそびえていた柳の大樹。古老の梅と一緒に、もうずうっと昔からここにいたのよ。
(柳の大樹……。いや、あいにく)
――あの人がいるのは、ここからずっと奥だったけれど、風が歌を運んでくれた。土は気配を運んでくれた。あの人が見守ってくれていなければ、私はきっと根付くことなく枯れていた。
(風が歌を。土が気配を)
――そう。でもあの人は心に深い傷を負っていたの。悲しい過去を持っていたの。風が運ぶ歌はいつもやさしくて温かかったけれど、土も私たちをつないでいたでしょう。土は心をつなぐから、私には彼の心の傷が見えてしまった。それが何かはわからないけれど、とても悲しくて辛い過去。その傷があの人をやさしくしていた。強くしていた。
(………)
――だから、ある時、私は、自分の心を切り取って、彼に預けたの。
(心を、切り取って?)
自分で自分の心を?
そんなことができるのか。
くすくす。
藤の笑う気配がした。
――信じられない? でもできるのよ。強く思えば。本当に心から強く思えば、それくらい、誰にだってできるの。
(心から、強く思えば)
――ええ。あなただって、そうやって、ここに入ってきたでしょう?
たしかにそうだ。他者の夢に入る方法といえば、強く思う以外にない。
(それで、柳殿は?)
――あの人も驚いたわ。でも喜んでくれた。私もうれしかった。私の一部があの人の中にある。それがあの人の悲しみを少しでも和らげることができるのかどうかはわからないけれど。私の自己満足かもしれないけれど。でも、そうせずにはいられなかった。
ひゅううと不吉な音を立てて風が吹き、雪が舞い上がった。この雪原は藤の木の心象風景だ。風もまたしかり。
――死の水に土が汚されて、最初に倒れたのは古老の梅だった。本当に長く長く生きた梅だったから。まだ幼い木や草花もひとたまりもなかった。あの人は、若く雄々しく力強かったけれど、死の水は流され続けた……。
社長は根も葉もない噂だと憤慨したという。錦絵新聞の絵師も、自分の推理を裏付ける証拠はもっていなかった。警察は相手にせず、軍は否定した。いつのまにか絵師が姿を消し、有害物質流出説は立ち消えていた。
――あの人は、死にゆくみんなに声をかけて、命がけで地の毒を浄めてくれた。土はつながっている。いずれここにも毒が広がってくるのは時間の問題だった。命に代えてもあの人を守りたいと私こそが思っていたのに、あの人が私たちのために命をかけて……。
風が吹き荒れ、剣心は雪に巻かれた。
――どうしてあの人が? あんな立派な人がなぜ?
怨んでも憎んでもおかしくない。だが彼女の心の雪原を覆い尽くしているのは、ただただ悲しみばかりだった。
――あの人が最後に歌ったのは、降りしきる雪の晩だった。三日三晩降り続いた雪が朝には止んでいた。私はあの人に元気になってもらおうと急いで花を咲かせたけれど……。あの人もとても喜んでくれたけれど……。でも、もう、二度と歌うことはなかった。
(………)
かける言葉がなかった。
雪原を埋め尽くす悲しみは、剣心の傷にもひびく。癒えることのない傷口に新しい血がにじみ、真っ白い雪にしみを広げる。十五年前のあの日のように。
ああ、だからあの話を聞いたとき、あんなに胸が痛んだのかもしれない。
前代未聞の、それも怪しげな依頼を、それでも受けずにいられなかったのは、雪の中で散り急いだ藤の花の話に、なにかの予兆を感じたからではなかったか。
植物に潜るのは初めてだが、やってみれば簡単だった。人間の時となんら変わらない。それどころか、藤の心も、人間とそうは変わらなかった。ただ、ちがう点といえば。
(藤殿)
――………。
(藤殿、しかしここは今もなお温かい)
大きな悲しみが彼女の心を満たしている。しかし憎悪はない。怨念もない。人間が他者に向ける黒い感情を、この心は知らないのだ。
(この「ない」部分。あなたが柳殿に預けた心があった、この部分。欠けている。にもかかわらず、ここがいちばん温かい)
――………。
(ならばあなたが柳殿に預けた心は、今も柳殿と共にあるのではないのだろうか。土に命を還した柳殿と共に)
――土に、命を……。
(地に根を張って生きるあなた達だ。土から生まれ、土に還る。還った命は、また命を育む。そうではないのか?)
――そうよ。それが私たち植物だから。
(人間は、死ぬと無に帰す。流れた血を、逝った人の命を、生き残った人間は思い出の中にしか持ちえない)
――………。
(だがそんなものは欺瞞だ。記憶など自己満足だ。死んだ者はどこにもいない)
おかしい。どうしてこんな話をしているのだろう。自分の過去など語るべき時でも場でもないというのに。どうしてこんな、まるで酒に酔った者のように、感情に任せて言葉をほとばしらせてしまっているのだろう。
(そうだ。風に感じることも、土から感じることもできない。死と共にすべて消滅する。すべてだ! いったい人間とはなんと寄る辺ない生き物なのか)
――………。
剣心の言葉に、声に、気配に、藤はなにを感じたのだろう。
また風が吹いた。今度は穏やかな、いたわるような風だった。
心優しい藤の気遣いが剣心を包み込む。
(……済まぬ。こんな話をするつもりではなかったのだが)
――なにか私にできることはあるかしら。あなたのために。
剣心は苦笑した。
夢を届けに来たはずのさんたが対象者に慰められるとは。前代未聞の失態だ。
(その気持ちだけで十分でござるよ。妙な話をして済まなかった)
――いいえ。来てくれて、ありがとう。あなたに会えてよかった。
(それなら、よかった)
――あと、おいしいお酒もね。
帰ろうとする剣心に、藤の木がためらいがちに声をかけた。
――でも、あなたも持っているでしょう?
(え?)
――誰かの欠片が、あなたの中にあるでしょう? いつか誰かがあなたに自分の心を預けたでしょう? わたしがあの人にしたように。もうずっと前に。
(藤殿、それは一体……)
――気づいていないの? でも、それがあなたを支えているのではないの? だって……。
藤の木はさらになにごとかを言った。
だが急速に浮上する剣心にはもうその声は届かなかった。
「……おい。おい、弥彦!」
ペチペチと頬を叩かれて、ハッと意識づく。
いつのまにかうつらうつらしてしまっていたらしい。
気づけば左之助が呆れた目をして弥彦を見ていた。
「見張りについてきて居眠りするたあ、使えねえ野郎だ」
(剣心……!)
慌てて見ると、剣心はもう戻っていた。
今日はいつぞやのように酩酊したようにはなっていない。多少ふらつくのか、左之助が腕を支えている程度だ。大した感応症状がなかったのだろう。うまくいったのだろうか。
「帰るぞ」
話は後だ。
夜闇に三つの影を連ねて、長屋に戻る。
翌日の午後。
どぶ板長屋に、浦村が訪れた。
朝に弥彦が連絡に走ったので、仕事が支障なく済まされたことは知っている。
あえて足を運んだのは、無論、首尾が気になるからだ
「いかがだったですかな、緋村さん」
「どうでござろうなあ」
普段なら、記憶は残らないとはいえ、なんとなくの手応えはわかる。だが今回はどうもいつもと勝手が違った。
そう引っ張られたわけでもない。悪酔いもしなかった。だが何かが引っかかる。晴れ晴れとはしていないのだ。
「ほう。珍しいですな。緋村さんがそのような」
浦村は、つと左之助に目をやった。
左之助が「俺に訊くなよ」とでも言うように肩をすくめる。
「すまぬな、署長殿」
「なに、元々結果は保証できないという条件で受けている話です。気にせんでください」
「かたじけない。……ところで署長殿」
「はい」
「この話、どういう流れで署長殿のもとに?」
「はい。評議会メンバーの一人がくだんの社長と昵懇らしく」
「………」
「あ、無論さんたくろーすの存在については知らせておりませんのでご安心を。先方には、一種の霊媒のようなものだと伝えてあるそうです」
「そうか。ならよいが」
「なにか気になることでも?」
「いや、他意はない。ちょっと思っただけでござるよ」
翌春、藤の木は美しい花をつけ、喜んだ社長が宴席でうっかり漏らした一言が引き金となって、製薬会社が官職を追放された汚職軍人と結託して進めていた化学兵器密造計画は明るみに出、一味は逮捕、会社はいったん取り潰しのうえ叩き上げの元副社長によって再生をはかることになるのだが、それはまた後日の話である。
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ただいま貸出中<1> 2013/02/10up
初出 『星降る夜も聖なる夜も 明治さんた屋浪漫譚』(3) 2010/08/14