・第五夜 十四歳の冒険・ 1/2


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 やがて四十分の旅程を終え、列車は横浜駅に到着した。
 駅は大勢の人でにぎわっていたが、駅舎を出るところで向かいの席にいた老夫婦に会った。
「君はどこへ行くんだね?」
「人に会いに」
「迎えはいないのか?」
「そんなもん」
 いるわけがない。
「どこだね。送っていこう」
「や、わかってっから大丈夫だ」
「そうか。ならいいいが」
「あんがとよ。じゃあな、犬」
 わかっているなどと、無論、口から出まかせだ。
 ここからは剣心に渡された地図をたよりに神奈川県警察署とやらを探さねばならない。
 夫婦の申し出を断って雑踏に向かう左之助の後を、剣心も追う。

 左之助は実によく迷った。本当に、正真正銘の方向音痴だった。
 後をつけながら剣心はほとんど感嘆していた。
 精緻な地図ではなかったが、どうしてこうも見当違いな方向に行けるのか。人に訊くときにわかりよい目印も書いてあるし、説明もした。だが左之助は誰かに訊くということをしなかった。
 ほとんど行き当たりばったりに歩いていた左之助が奇跡的に警察署にたどり着けたことに、剣心はホッとするよりも、むしろ大いに驚いたくらいだった。

 しかし着いてからも問題はつきなかった。
 まず、門前払いをくわされた。
 ちゃんと用意された紹介状を見せた。説明をして、浦村の所属と名前も伝えた。なのに入れてもらえない。
「子どもの来るところではない」
 その一点張りだ。
「けっ。けったくそ悪い」
 やっぱり官憲は嫌いだ。権力をかさに着て「しもじも」を威圧しようとしている。彼らからにじみ出るのは、民間人は黙っていろと言わんばかりの特権意識だ。それは左之助の神経をもっとも逆撫でする醜い膿である。あんなものを相手にしている時間はない。
「フン」
 左之助は素知らぬ顔で塀沿いに裏へと回っていった。

 普通に歩いている風を装いながら、左之助はチラチラと様子をうかがっていた。侵入を狙っているのは言うまでもない。
 角を折れてしばらく行ったところで、いい場所を見つけた。一部が出っ張って番小屋になっているのだ。その向こう側に死角が生じている。あそこなら見咎められずに出入りができそうだ。迷ったのは、番小屋の前を通るか、迂回するかだ。二度通ったら怪しまれる。様子見はできない。どうしよう。
 だが左之助には時間が惜しかった。
 思い切って番小屋の前を通り過ぎる。
 しばらく変化がないことを確認して、思い切って塀に手をかけた。

「左之助はん、大丈夫ですやろか」
「大丈夫でしょ。剣さんがいるんだし」
 東京でそんな話をしているのは、無論、恵と妙である。
「そやけど恵さん、さんた屋っておもしろいお人が多いんやねえ」
「そう?」
「だって自立させなあかんいうて、なんでいきなり横浜へおつかいですのん? もっと他に何なとありますやろ?」
「そうなのよねえ。何かちょっとズレてるのよねえ」
「そやし、おもしろいお人が多いんやなー思て」
「まあ言えてるわね。妙さんもだけどね」
「ウチ? ウチは普通どす。どっこもちぃともおもしろおへん」
 そういう人間に限って普通でないのだが、ユニークな人ほど自覚がないのも真理である。
「まだまだいるわよ、変わったのが。根性曲がった不良警官とかね。超根暗なムッツリ男とかね」
 そういう恵も、自分をアウトオブ「変わったの」だと誤解している。

 さて、左之助である。
 彼はまたも困っていた。
 侵入したはいいが、今度はどこへ行けばいいのかわからない。しかも知らない相手である。
 「藤田警部」なる男はどこにいるのだろう。剣心、恵、浦村の助言だけを頼りにそれと見分けることができるだろうか。
「目つきの悪い不良警官よ」
「長身痩躯で眼孔鋭い手練れでござる」
「最近はほぼ常に煙草を喫(の)んでおりますな」
「あと、すだれの前髪ね」
「イヤミを言われても気にすることはござらんよ」
「皮肉屋ですからな。しかし言は的を射とります」
「どうかしらね」
 どんだけヤな奴だよ。
 思案とも言えない思案をしながら建物に侵入する。
 昼間の警察署には思いがけず民間人が多くいた。商人風の男の連れを装ってついて歩いてみると、意外に怪しまれない。が、ひょいと逸れて階段を上がろうとすると、鋭い声で呼び止められた。
「おい。そっちは立ち入り禁止だ」
 ごめんなさい、と謝り、また人についていく。廊下の角を折れると、一気に人が減った。もう危険だ。男を離れ、階段下の物入れに潜み、さてどうしたものかと思案した。
 と、廊下の奥からカツカツと硬質な足音が近づいてきた。ハッと息を殺したが、こっちに向かっている気がする。見られたか。隙間から覗いて、あ、と思った。背が高く、痩身。すだれといえばすだれ。もしやあの男だろうか。
 左之助の潜む物入れの前で男は足を止めた。
 そこへもう一つの足音が追ってきた。
「警部、お待ちください」
「なんだ」
「たった今、横道羅卒(らそつ)から連絡がありました」
 渡された紙片に目を通した男は、「フン」と口を歪めて紙片を握りつぶした。
「政治屋どもめ。いずれ奴らが国を滅ぼす」
 さらに二言、三言、ことばを交わして、追ってきた方の官は小走りに去っていった。左之助は確信を持った。その足音が聞こえなくなるのを待ち、戸の裏から男に声をかける。
「フジタって警部はあんたか」
 沈黙の向こうで、男が左之助を凝視しているのがわかる。戸越しに串刺しにされて、左之助の背筋に粟が走った。フーッと息を吐いて、男は独り言のように呟く。
「口のきき方がなってないな。それがあいつの仕込みか」
 長身痩躯で目つきが悪く、舌鋒鋭い皮肉屋。
 やっぱり。こいつだ。
「ついてこい」
 言い捨ててカツカツと踵を鳴らす男について、二階の一室にすべりこんだ。




「フン、くだらん」
 男は、一読し終えると、左之助が渡したその書簡を灰皿で燃やした。
「何が書いてあったんだ?」
 フーッと煙を吐いてから、そう訊いた左之助をじろりと一瞥し、フンと鼻を鳴らした。
 お前が知ることではない。
 それすら言う必要がないと言いたいのか。どうしてこんな奴がさんた屋をしているのかと思う。本当にいけ好かない。
「おい」
「なんだ」
 と、それくらい口で言えばいいものを、またも勘に障る視線をくれるだけだ。まったくいちいち腹立たしい。
「受け取りをよこせ」
「なに?」
「お前が受け取ったという証明だ。コレこの通りと報告しなきゃならねえからな」
「そう言えと言われたか」
「言われねえが、いると思った」
 お前を見てて、人は信用しちゃいけねえってことを思い出したからな。
「子どもだからって馬鹿にすんなよ。ここへだって入れたし、これでも世間くらい知ってる」
 とくに大人と政治の汚さは。
 左之助は心の中で続けた。
 強いものに従う大人は、子ども相手には、信じられないほど暴君になる。弱い者を虐げるのは奴らの得意技だ。
「フン」
 男はまた鼻で笑ったが、すぐに受け取り書を書いてくれた。断られるかと思っていただけにやや拍子が抜け、やはりさんた屋などをしているだけあって本当は悪い奴ではないのかもしれないと思いかけたが、「用が済んだらとっとと帰れ」とばかりに背を向けた男が、ドアに向かおうとする左之助に目もくれず放った言葉を聞いて、やっぱり嫌いだと思った。
「こんなザル警備をくぐったくらいで調子にのるな。入ってない者を玄関から出すわけにはいかん。勝手に出ていけ。見つかるなよ。俺が迷惑する」
 そして男が顎で示したのは窓だ。
「お前、門衛と一度話しただろう。追い返されたものが中から出てきたらどうなる。それでも守り役のさんたか。危険回避もできん守り役など、いない方がましだ」
 左之助とて正面玄関を通るつもりは毛頭なかった。だからなんでこんな男がさんた屋してんだよ。フン! せめて負けじと睨み返して、窓から外をうかがう。
 庇づたいになんなく行ける構造なのは外から建物を観察していたからわかっているが、敷地をどう抜けるかが問題だと思ったからだ。正面玄関のある南側は広い芝生で身を隠す場所がなく、横切るのは至難だった。こっちが裏ならいいが。
 そう思って様子を見て、「お」と思った。
 北側の防風林が目前だ。
 これなら、また人目に肝を冷やしながら建物内を動くよりは、窓から出てしまった方が危険がない。危険回避か。一理ある。
 左之助は無造作なほど素早く庇に飛び降り、装飾柱をつたって物音ひとつ立てず地表に降り立った。彼の挙動を、藤田はきっとあの鋭い目で見ていることだろう。振り返らず、死角をたどって、塀に向かう。

 左之助がいなくなった後の執務室で、藤田は新しい煙草に火をつけた。藤田五郎。幕末の京を震撼させた新選組三番隊組長だった男である。かつての名は斎藤一。明治政府の機構に身をおく今も、悪即斬の信念は当時と何も変わってはいない。
「腑抜けたものだな。人斬り抜刀斎と呼ばれた男が、自ら弱点を作るとは」
 藤田こと斎藤は大きく煙を吐いて、遠い目をした。
「入れ」
 ドアが開いて入ってきたのは、細身のスーツに身を包み、目深い帽子で目元を隠した剣心だった。
 迷いに迷ってようやく目的の警察署にたどり着いたと思ったら門前払いをくわされ、思案の挙げ句に塀から侵入した左之助を追って、剣心もまた警察署内に入っていた。ただし彼は正面玄関からである。
「話は聞いている。お前達が守ろうとしているのがあんな危なっかしいヒヨッコだとは思わなかったがな」
「斎藤。ひなは育つ。成鳥は老いる。幕末を闘い抜いた世代が今をつくったなら、未来をつくるのは今闘っている若者でござる」
「だから?」
「書簡に書いた通りでござる」
 この者、かねて伝えおりし異能のさんた屋にして、人の未来に資する者なり。よろしく庇護鞭撻されたし云々。
 要するに、ちょっと変わっているがよろしく頼む、というほどの内容である。ついでもないのにわざわざ書簡を届けるほどでもなければ、安くない陸蒸気(おかじょうき)で人二人が往復するだけの用でもない。
「フン。馬鹿馬鹿しい」
 という斎藤の指摘はもっともである。
 だが剣心は気にする風もなくにこりと言った。
「とにかく、よろしく頼むでござるよ」
「さあ、どうだかな」
 斎藤は煙草をもみ消し、窓辺に立った。外を見たまま、剣心が部屋を出ていくのには目もくれなかった。

 堂々と正門を出た剣心は、急いで左之助が出てくるであろう北側に走った。
 左之助はもう脱出しただろうか。斎藤の執務室から見ていた限りではまだ間に合うはずだが、ああ見えて左之助は素早い。
 角を曲がりかけて、剣心はサッと身を潜めた。
 いた。左之助だ。塀の上にいる。剣心が教えた通り、目だけを出して様子をうかがっている。
 姿と気配を隠した剣心には気づかなかったが、反対側の道を通りかかった通行人は逃さず認識した。通り過ぎるのを待つ間、背後に目を配るのも忘れない。
 よし。
 剣心が心の中で言った直後、左之助が塀上に姿を現した。
 気をつけろ。最後まで気を抜くなよ。
 だが、その矢先、それは起こった。
 左之助が何を見たのか、少しハッとしたように見えた。前の地面と路肩の樹上に交互に目を向ける。そして塀を踏み切ろうとした瞬間、風が吹いた。強風だった。
 普通ならそれでも大丈夫だったかもしれない。だが、何に気を取られたのか、左之助は慌てていた。慌てた分、動きが固かった。折からの風にあおられて体勢が崩れ、そのまま、落ちた。
 どさっ!
 驚いた剣心は思わず飛び出した。
 が、左之助がむくりと起き上がり、
「いってぇー」
 と肩に手を当てるのを見て、とりあえず様子を見ることにした。
 左之助は地面に座ったまま、自分の全身を確認している。流血がないこと。動くこと。痛みがないこと。頭のてっぺんから足の先まで終え、ひとまず異状はなかったらしい。
 その左之助が、しばらくして「あれ?」と首をかしげた。
 さっきのあの路肩の木の下あたりを見ている。地面には鳥のひなが一羽。チイチイチイと鳴くひな鳥を、左之助は呆然と見つめている。
「……なんだこりゃ?」
 そして樹上を見る。巣では親鳥と他のひな鳥が鳴いている。さっき左之助は塀の上でこのひなが巣から落ちるのを目撃して気を取られたのだった。
 口々にさえずる鳥たちを見上げて、信じられない出来事に遭遇したかのようにあんぐり口を開けた。
「マジかよ、おい」
 我が耳を疑うと言いたげに頭に手を当てた左之助がそこを動けるようになるには、もう少し時間が必要だった。

 左之助が立ち上がって歩いていくのを剣心は慎重に見守った。ややあって安心したようにホッと息をつく。
 まずは大丈夫だろう。足取りもしっかりしているし、左右に寄っていくこともなくまっすぐ歩いている。よかった。
 後は駅まで無事にたどり着けるかだが……。
「なあ、あんた」
 表通りに出た左之助は行き合った男を呼び止めた。
「すまねえ、駅はこっちか?」
「駅かね。いいや、駅はあっちだよ」
「逆か。助かった。あんがとな」
 ひょいと手を挙げて、左之助は教えられた方向に向かった。
 口のきき方は大いに問題だが、ともあれ大きな進歩と言っていい。
 辻に出るごとに人に訊ね、路傍の犬や猫に声をかけながら、帰路は迷うことなく駅に到着した左之助が、しまっていた汽車賃で切符を買い、東京・新橋行きの列車に乗り込むのを見届け、剣心も後に続いた。

 東京に着くと恵が左之助を迎えに来ていた。
「へましやしなかった?」
「へっ。誰に訊いてんだ」
 ふふふ、と笑った女医は、左之助のきょろきょろと動く目に応えて言う。
「剣さんは来ないわよ」
「べ、別にっ」
「用があるからって出かけてるわ。あんたより遅いかもね」
「………」
 別に誉めてほしいわけではないが、ひとりで横浜まで行って仕事をしてきたのだ。あんまり素っ気ないではないか。
 だが、下降気味だった気持ちは、家に帰ると一瞬で吹き飛んだ。
 剣心が満面の笑みで待っていてくれたのだ。
「おかえり、左之。大事なかったか」
「剣心!」
「腹がへったろう。さ、にぎり飯を作っておいた。みそ汁もある。たんとお食べ」
 いつものたすき掛け姿でにぎり飯を運ぶ剣心の笑顔を見ていると、急激に空腹を覚えた。当初、弁当を持って行けと言われたのを、「遊びに行くんじゃねえ」と左之助が自分で断ったのだ。「あら、剣さん。随分と早かったんですね」と恵はやけに驚いているが、左之助にはそんなことはどうでもいい。
「おう!」
 猛然とにぎり飯を食らいながら、剣心のにこにこ顔を見る。もしかしたらこの準備をするために迎えに来なかったのかも。
「おかわり!」
 長い半日だった。
 話したいことがたくさんある。
 初めて乗った陸蒸気のこと。狆(ちん)という犬を抱かせてもらったこと。あのいけ好かない警部のこと。それより何より、塀から落ちて動物の言っていることがわかるようになったこと。
「おかわり!」
「ははは。誰も取らぬ。ゆっくり食せ。また腹を悪くするぞ」
 もちろんそれは現実となって、
「あんたのそれはきっと一生治らないわ」
 女医にそう予言させる。




 左之助はぐんぐん成長した。
 ある部分では剣心の見立て通りになり、またある部分は恵の言が正しかった。
 年が明けて十五になる頃には剣心の背に追いつき、秋には抜いた。駆けっこでは負けるが、腕相撲では二回に一回は勝てるようになった。屋根瓦を抜く勘所がよく、秋が過ぎる頃、剣心が「もう拙者より左之の方が長けている」と言った。
 剣心にとって誤算だったのは、猪突猛進のおっちょこちょいが一向改まらないことと、育つにつれ自分を離れるだろうと思っていた左之助が、十五になっても十六になっても全くそんな風にならなかったことだった。
 剣心は恵に相談した。
「どうしたものでござろう?」
 恵は即答した。
「無理じゃないです?」
「無理?」
「親離れしないって剣さん、もしかして子育てでもしてるおつもりだったんですか?」
「無論でござる」
 他に何があるのかとびっくりした様子に、恵は大きなため息をついた。
「恵殿」
「……牛乳牛乳言ってた頃が懐かしいですわ」
「恵殿、無理とはまた何故でござる?」
「知りませんよ」


 明治九年、左之助十七歳。
 左之助が家出をして弥彦が入門する、二年前の年のことである。



おしまい

前頁拍手
第五夜 十四歳の冒険<2> 2011/09/18up
初出 『星降る夜も聖なる夜も 明治さんた屋浪漫譚』(2) 2010/03/21


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