梅のほころぶ三月。
この日、赤べこでは、開店五周年を祝う内輪の集まりがもたれていた。気の置けない身内が集まるその場に、さんた屋の面々も招かれている。京都出身の経営者の長女で店長の関原妙がさんた屋をしていることは他の従業員の知るところではないが、しかしよく出入りもすれば客にも来る風変わりな洗濯屋の三人組は、この店ではちょっとした顔である。
なんせ見た目が派手だ。しかも賑やかで、よく食べる。三人とも普段は陽気だが、意外や正義漢で、鍋代を踏み倒そうとしてぎゃふんと言わされた自称自由民権運動家は幾人もいるし、酒癖の悪い客に絡まれているところを助けられた女店員はもっといる。自然、従業員にも、あるいは慕われ、あるいは好かれ、あるいはかわいがられてもいた。
今日もあちこちの卓から三人三様に呼ばれて人気者ぶりを示している。
「剣心さん、まあここぃ座んなせえ」
「左之さん、ほら、肉ができたよ」
「弥彦ちゃん、あんたいくつになったんだえ」
そんな和やかな空気の中、左之助が突如時ならぬ悲鳴をあげて注目を集めた。
「あぢい!」
口をぱくぱくさせ、涙目で飛び跳ねている。
「左之助!?」
「どうした左之。大丈夫か」
「うえー、あぢがったー」
水で口を鎮めた左之助がようやく言った。
「ネギめ。そんなでもないと思ったら中がすんげえ熱かった」
「ネギか。左之、ネギはそういうものでござるよ。気をつけねば」
「左之助はん、大丈夫どす? 気ぃつけとくれやっしゃ」
「つーかどんくさっ。……って、なんだよ、叩くなよ。そのままだろ!」
正しい指摘は往々にして嫌われる。頭をはたかれた弥彦は口を尖らせた。
「アンタ、そういうとこほんと進歩ないわね」
「あ?」
「初めてここに来たときとやってること一緒じゃない。ねえ、妙さん?」
「そう言われたらそうどすなあ。そやけどあの時はまだ子どもはんやったし」
「じゃ、今も子どもか」
すかさず突っ込んだ弥彦に拳骨が飛んできたのは言うまでもない。
一
赤べこが目抜き通りに店を構えたのは、左之助が火事で住処(すみか)を失い剣心と一緒に暮らすようになった同じ年の三月のことだった。ただし彼らが赤べこと接点をもつのは同年秋になってからである。
京都出身の妙の父は、東京遷都以来、火が消えたように凋落の一途を辿る落日の京都の寂状を憂い、新たな賑わいの元なれかしと、明治六年正月、京都・三条に牛鍋「白べこ」を開いた。次いで三月に東京で「赤べこ」を開業したのは、二京に二店の牛鍋屋を相次いで開業することで京都の町衆これにありと世間に示そうとしたからであり、また、そこから吸収される新都の勢いと利益を京都復興に注ごうとしてのことでもあった。
そして彼、関原もまた、さんた屋だった。
開店の喧噪が落ち着き店が軌道に乗る頃、関原は妙にそれを打ち明け、それ以来、妙は店の仕事とともにさんた屋の仕事に携わっている。明治六年、秋のかかりのことだった。
左之助は初めて連れてこられた赤べこで、生まれて初めて牛鍋というものを食べた。おいしかった。ぽかんとするほどおいしかった。料理上手な剣心のつくるものも無論どれもがこのうえなく美味ではあったが、それはある種のなつかしさを伴っていた。だが牛鍋は初めて知る妙味だった。
「左之、誰も取らぬ。ゆっくり食せ。腹を悪くするぞ」
言うことを聞かずにもりもり食べ続けた左之助は、やがて剣心の言った通りになった。
「うう……」
「だから言ったろう。あんな無茶な食べ方をするからでござる」
「だってすんげえ旨かったし。食えると思ったんだ」
「剣心はん。上のお座敷が空いてますさかい、どうぞ休ましたげとくれやす」
「ああ、妙殿。面目ござらん」
「ええんですよ。それより、お医者はんお呼びしましょか?」
「それには及ばぬ。もう来るでござろう」
「あ、そうどしたな」
この日は恵も時間を合わせて来ることになっていた。急患が入ったので少し遅れると連絡があったが、それもじき来るだろう。
「う〜〜ん……」
食べ過ぎて腹痛を起こした左之助が毒舌な女医の餌食になったのは言うまでもない。
そのわずか数日後である。
「今度はどうしました? 何の食べ過ぎです? それともまた川に飛び込みました?」
「おろ。恵殿は手厳しいな」
「いいえ、剣さんが甘すぎるんです。だからあの子だって調子に乗るんですよ」
「そんなことはござらぬ。普通でござるよ」
「そんな普通がありますか。現に今日だって」
赤べこでの牛鍋食べ過ぎ事件の翌日、左之助は橋の欄干を走っているところを風に吹かれて川に落ちた。前日の雨で増水した川の流れに運ばれて相当な水を飲み、剣心を心配させ、恵を怒らせた。そしてこの日はみかんを十ほど食べて腹を下した。今度はさすがに剣心も呆れはしたが、カクカクシカジカと不安顔で恵に対処を訊きにきたせいでこんなことを言われている。
「だが恵殿。大人ならなんでもないことも子どもにはそうでないことがあろう」
「十五にもなれば立派な大人です。もう元服なんですから」
「……左之はまだ十四でござるよ」
これが伝説とまで言われた幕末の人斬り、あの緋村抜刀斎とは誰も思うまい。さんた屋仲間で警察署長の浦村がこの偏愛ぶりに「あの緋村さんが」と細い目を丸くしたが、まったくもってその通りだ。人好きではあるが常に人とは一定の距離を保ち、激しはしても溺れることのないのが緋村剣心であったはずだ。
「あんなのはちょっと突き放した方がいいんですよ」
「そうでござろうか」
「そうですよ。妙さんだって言ってましたよ。人見知りだった妹さんが、京都のお店を任せてみたら、一気にしっかりして一人で何でもできるようになったって」
「ほほう。なるほど、そんなものでござるか。ふむ……」
みかんで下った腹など、半日もすれば治る。
だが世の中には治らない病というものがある。
恵は大仰にため息をついて、何事か考えもって帰る背中を見えなくなるまで見送った。
「左之、ちょっといいか」
「んー?」
「つかいを頼まれてくれぬか」
「おう、いいぜ。そんでどっちのだ?」
表の洗濯屋に、裏のさんた屋。彼らには二つの稼業がある。
「さんた屋でござるよ。この書簡を横浜の藤田警部という男に届けてほしい」
「横浜!?」
「ああ。神奈川県警察署まで。少々距離はあるが、陸蒸気(おかじょうき)を使えばすぐでござる」
「陸蒸気ぃ!?」
左之助が驚いたのも無理はない。
新橋横浜間に鉄道が正式開通して近代交通の夜明けを宣言したのは、わずか一年前の九月である。それに先立つ品川横浜間の仮営業とて同年五月に始まったのだから、蒸気機関車はまだまだ庶民には縁遠い新奇なるものであったのだ。無論高価でもある。
「心配無用。用務ゆえ支出される」
そういう問題ではない。
どうしよう。剣心には内緒にしているが、実は方位に強くない。人に言われるほどの方向音痴ではないと自分では思っているが、よく道に迷ってとんでもないことになるのは事実だ。横浜? 陸蒸気? ひとりで? それに、藤田というその男のことは、かねて話に聞いてはいるが、会ったことはない。
だが剣心のすがすがしいほどのニコニコ顔を見ていると、この信頼には応えなければという気持ちが強く湧く。
「へっ! そんぐらい朝飯前に決まってら」
意地と張りは男の気概だ。
横浜? 陸蒸気? それがどうした。
二
剣心は駅(ステンション)には来なかった。
代わりに恵が左之助を新橋駅まで送った。
「剣さんが見送ってくれないから拗(す)ねてるの?」
「は? てめえ、何言ってんだ?」
そう強がってはいても、生意気な口の尖り方はどこか寂しそうに見えて、恵を苦笑させる。
往(ゆ)きの切符を握りしめ、恵に持たされた帰りの切符代は届ける書簡と共に懐にしまい、汽車に乗り込んだ。
乗った後は意地になってホームを見なかったが、列車が動き出した瞬間、思わず振り返った。目で探すと、恵が小さく挙げた手を振っている姿が見えた。
「なんですって? あの子をひとりで横浜へ? 剣さん、本気なんですか?」
剣心が言い出した左之助自立計画に驚いたのは恵だけではない。赤べこの妙も眉をひそめた。
「そやけど、帰りの切符代いうたら結構な大金どす。心配やおへんか?」
「それに、あの子が壮絶な方向音痴なのは剣さんだってご存じでしょうに。本人は知られてないと思ってるみたいですけど」
「無論、本当にひとりでやるわけではござらん」
「?」
「拙者もわからぬようについていく。それなら心配ござるまい」
「……」
恵にすれば、もはや何をか言わんやだ。
妙はまだあまり事情がわかっていない。最初は「えらいめんどくさいこと、おしやすなあ」という程度だったが、
「そこで妙殿に頼みがあるのでござるよ」
と言った剣心の「頼み」なるものを聞いて、恵と同じ表情になる。
「そら、ウチはかましまへんけど、剣心はん、ようやらはりますねえ」
「っていうか、剣さんのそれはもう病気です」
「おろ。何の病気でござる」
「知りませんよ」
そんなわけで、左之助が乗ったのと同じ列車に、実は剣心も乗っている。彼が駅まで見送りに来なかったのはこのためである。
家で左之助を送り出した剣心は、すぐに赤べこに急行し、目ざとい子どもに見つからないよう、念入りに変装を施した。ファッション好きの妙に頼んだのは、この変装の相談である。黒っぽい細身のスーツに帽子を目深に被ると、髪の色もあいまって、どこから見ても異国の紳士だ。小物にステッキと懐中時計。左之助とは別の車両から乗り込んだ剣心は、新橋駅を出た列車が品川駅に着いたところで、新たに乗ってくる人の流れにまぎれて、左之助のいる車両に移動した。
いた。窓際の席に座って外を見ている。外が楽しくて見ているというよりは、意地になっているような頑なさが、こわばった肩ににじんでいた。
乗客はほとんどが大人だ。たまにいる子どもには必ず保護者がいる。左之助のような子どもひとりという者は他にいない。しかも年齢の割に小柄な左之助は、年が明ければ十五になるというのに、外見は十二か、いって十三というところ。チラチラと見る者も少なくなかった。
左之助の向かいに座っている老年の女性もそのひとりだ。膝の上にかご入りのお座敷犬を抱いている。隣席の夫はそうでもないが、彼女は時々左之助に目を向けては狆(ちん)の頭を撫でるというしぐさを繰り返していた。
列車がトンネルに入った。新橋駅を出て初めてのトンネルである。ちょっとした騒動が起こった。石炭を燃やして走る蒸気機関車の排煙は壮絶だ。通常走行中は拡散するからまだしも、トンネルに入ると隧道(ずいどう)内に充満し、牽引される車両の乗客は煙まみれになる。
人も驚いたが、老婦人の膝の上で犬はもっと驚いたろう。それまで置物のようにおとなしかったものが、キャンと吠えてかごを飛び出し、そのまま高い声で吠えながら車中を駆け回りだしてしまった。煙はもうもう、車輪はごうごう、犬は吠える、人は叫ぶ。トンネルを抜ける前に駆け回る犬をつかまえることに成功してその騒動を鎮めたのは、人一倍すばしこく、またさんた屋の訓練で夜目も利くようになっていた左之助だった。
「おお、おお、よしよし、もう大丈夫よ。怖かったねえ、怖かったねえ。坊や、ありがとね。ほんとにありがとね」
「いいってことよ」
年齢不相応の大人びた物言いは好意的な老婦人をいっそう好意的にした。
「あなたおいくつ? ひとりで、えらいわね」
「もう十五だ。子ども扱いすんなよな」
トンネル騒動を経て、車内には不思議な連帯感が生まれている。左之助も張っていた気が和らぎ、言葉はいつも通り乱暴ながらも顔は朗らかに笑っている。そうして笑うと人好きのする魅力ある少年なのだ。夫君も会話に参加してきた。
「君、この犬をよくつかまえられたな。普段はおとなしいのだが、興奮してああなるとすばしこくていつも難儀しているのだよ」
「すばしこさで犬に負ける俺様じゃねえや」
「だがあのひどい煙の中で」
「まあな。でも所詮犬だしな」
アン! 抗議するように犬が吠えた。
「ははは。怒っておるぞ。君の言ったことがわかったようだな」
和やかな笑いが起こる。
左之助が婦人に言った。
「その犬、もっかい抱かせてもらえねえかな」
「まあ、どうぞ」
婦人はそう言って、抱き上げた犬という名の犬を左之助の膝に乗せた。
左之助はそれをまず両手で持ち、それからそうっと胸に抱きしめた。
「ほっそいなあ」
毛足が長いから大きく見えるが、中にある体は、外見からは意外なほど細い。こんなに細いのだ。しかも軽い。あたたかさが体に沁みる。犬はさっきの大暴れが嘘のように左之助の腕に抱かれている。
「犬」
呼ぶと犬は左之助を見上げた。
「おい、犬。お前、あんなに暴れて、誰かにぶたれたらどうすんだよ、おい」
犬は黙っている。
「犬って人間の言うことがわかんのかな」
左之助のつぶやきに婦人が応えた。
「きっとわかっているわ。そう思うことがよくあるもの」
「ふーん」
いいな、と思う。人間にも動物の言ってることがわかったらいいのに。
この時の左之助はまだ動物語を知らない。いずれ自分が動物の言葉を解するようになるなどとは、当然ながら夢にも思っていない。
左之助は礼を言って犬を返した。
「かわいいでしょう?」
「ああ」
「愛おしいでしょう」
その言葉は左之助の語彙になかったが、なんとなくわかる気がした。うなずいて、「愛おしい」と、胸の内に呟いてみた。
この日はどうやら動物騒動の日だったらしい。
トンネル事件の後も、窓から鳥が入ってきて出られず騒ぎになるという一幕があった。この時も左之助が活躍した。追い立てる大人からかばいながら、乗客に窓を開けさせ、うまく外に逃がすことに成功した。
「もう入ってくんなよー」
一目散に飛び去る鳥に手を振る左之助は、車両のドア付近にいる剣心がずっと彼の様子を見守っていることには全く気づいていない。人一倍敏感な左之助である。普通なら人にじっと見られて気づかないはずはないのだが、それを感じさせないのは剣心の技術である。
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十四歳の冒険<1> 2011/09/18up
初出 『星降る夜も聖なる夜も 明治さんた屋浪漫譚』(2) 2010/03/21