それから二日後、左之助は剣心に連れられて人力車に乗った。向かった先は警察である。しかもそこらの交番ではない。年明けに竣工なったばかりの警視庁。その威風堂々たる御殿の正面玄関に、剣心は人力車を乗りつけたのだ。
「緋村剣心と申す。浦村署長に面会の用あり、これに参る」
明治九年の廃刀令発布はまだ三年も先の話だが、明治三年に平民の帯刀は既に禁止されている。着物に袴、長髪、帯刀、しかも顔に大きな十字傷とあっては心証がよろしいはずがない。門衛らはぎょっとした様子で剣心を睨みつけたが、書類を手に何やらひそひそと囁きかわすと、うろんげな目を向けながらも通してくれた。
控え室に入ると、待つ間もなく迎えが来た。そうして案内された部屋には、
「相楽左之助くんですな。浦村といいます」
「………」
袖に入った何本もの白い横筋は階級の高さのあかしだ。なのに顔立ちは文官風で、左之助のような民間の子ども相手にも丁寧に「です、ます」と話す。官憲嫌いは筋金入りの左之助だったが、浦村の不思議な印象には当惑した。
浦村もさんた屋の仲間である。この中でもっとも古い。かつては見守り役として夢に潜るさんたの相方をしていたが、警察での役職が上がると、さすがに住居不法侵入の裏稼業はしづらくなって、役職を生かした情報収集へと立場を変えた。やがて年長者として東京のさんた屋たちを取りまとめるようになり、今に至る。
「あらかたの事情は聞いています」
話しかけられて、左之助はうなずいた。
明治政府も国家権力も大嫌いだ。なぜわざわざこんなところで話し合いをするのかと思う。
隠すつもりもない左之助の不満顔に、浦村が困ったように微笑した。剣心が口を切った。
「で、署長殿はいかが考える」
恵は入り口に近い壁際に佇み、さっきから一言も口をきいていない。
「それがですな。実はなかなか迷っておりまして。緋村さんの意見をお聞きしたいと思っとりました。緋村さんは、どう思われますか」
「………」
「彼をずっと見とられたのは緋村さんですから。手ほどきもされたことですし」
「………」
左之助がたまらず割り込んだ。
「俺はさんたくろーすにはなれねえのか?」
「左之」
「俺はさんた失格なのか?」
「左之助くん」
「そうなんだろ? だったらもういい。さんたなんかやめる」
「左之……」
肩に触れようとする剣心の手を左之助は払い落とした。
歯を食いしばり、大人達を睨みつけたのは、そうしないと自分がまるで可哀想な子のようになってしまいそうだったからだ。
「緋村さん」
浦村が剣心を見て、小さな眼鏡を押し上げた。
「夢を忘れないさんたくろーす。実に危険な存在です。ご存じのように、さんたくろーすの存在が秘されているのは、私利私欲のために人の夢を自由に操ろうとたくらむ者どもが後を絶たないからです。世界サンタクロース評議会がもっとも警戒するのもそういった勢力なのは言うまでもありますまい」
「………」
「しかし、そのような
眼鏡の奥の細い目が左之助を見つめた。
「これは由々しき事態です。夢を忘れないさんたくろーす。そんなものの存在は、断じて表沙汰になってはなりません。悪用されればどんな恐ろしいことになるか。順当に考えて、これは評議会に報告して適切に処置すべき案件でしょう。おそらくは厳重な監視と管理が求められることになりましょうか」
左之助の背後で恵が息を呑む気配がした。
剣心は何も言わず、無言で続きを待っている。
浦村は再度眼鏡を押し上げて、コホンと咳払いをした。
「しかし緋村さん、我々はさんたくろーすです」
「………」
「そしてさんたくろーすは、子らに夢を届けるものです」
「ああ」
「子どもに夢を、未来に希望を。それが我々さんたの使命です。そうですな」
「ああ。そうでござる」
「子どもに夢を、未来に希望を」
もう一度そう言いながら、浦村は左之助を正面から見た。
「届けこそすれ、奪うような者は、それこそ
「署長殿」
「緋村さんがいつも言うとられる通りだと思うのです。いま目の前のいるひとりに届かないものが、未来の子孫に届くわけがない。まず救うべきは、いま目の前にいるひとりの子――」
恵がハッと身じろぎ、剣心は浦村を見つめたままニコリと笑った。
浦村も同じようにニコッと笑い、うなずいた。
「大きな組織というのは、往々にして個をないがしろにするものです。評議会には、候補の少年には資質がなかったと連絡しておきましょう」
「いや、署長殿」
剣心はそう言うと、左之助の肩を抱き寄せた。
「候補の少年は、守り役に適任と」
ちらりと自分に向けられた短い笑みが左之助の目に焼きつく。
「左之は拙者の相棒にいたす」
「え、って剣心」
さんたくろーすは常に二人一組だ。潜り役と見守り役は必ず対になって動く。それは知っているし、これまでも何度か剣心のサポートを経験してはいたが――。
「しかし緋村さん、それはさすがに」
「何か不都合が?」
「いやその、不都合と言いますか、臨時ならともかく。その……まだ子どもではないですか」
夢に潜るさんたの介添えをする守り役は、潜り役を支え助けるのが役目だ。本来であれば、力量的にも人間的にも守り役が上回っているのが一般的だ。自然、年長者であることが多い。
「署長殿。この左之助、なりは小さくとも、中身は立派な男にござる」
と、剣心が左之助の肩を叩いた。
「心配無用。しっかり食べて、しっかり稽古をしていれば、すぐに体も大きくなろう。そうして一人前になるまでは拙者が責任をもって育てるでござる。な」
最後の「な」は左之助に言っている。
「そうですか。緋村さんがそこまでおっしゃるなら」
「剣さん、こういうのは生意気っていうんですよ。ほんと、剣さんったら、その子に甘いんですから」
安堵からか、恵の舌も急に滑らかになった。そうして三人は、話は決まったとばかりにほのぼのと話をしだした。が、納得していない者がひとりいた。左之助である。
「おい、ちょっと待てよ」
むっすりと声を上げると、大人たちが話をやめて左之助を振り返った。
「待てよ、お前ら。っていうか剣心!」
「どうした?」
と、口では言わないが、顔に書いてある。その顔が左之助の目にもわかるほど明らかに晴れ晴れしくて何やらキラキラしているのがこそばゆいが、それとこれとは話がちがう。けじめはけじめだ。
「剣心。お前、それは順序がちがうだろ?」
「おろ」
「順序? あんた何言ってんの?」
左之助は恵を完全無視して、剣心だけを、睨む勢いで見つめている。
「ヒゲメガネにあーだこーだ言う前に、まず俺に言うことあんじゃねえか? ん?」
ただでも二十いくつには到底見えない剣心である。ましてそうして大きな目をぱたぱたと瞬くと、二十歳を過ぎた大人に見えないのはもちろん、うっかりすると男かどうかも怪しく見える。
左之助は、肩をいからせ、腕を組み、精一杯悪ぶって剣心の表情の変化を見守った。大きく見開かれていた目が徐々に和らぐ。青みを帯びた不思議な瞳が水面のように揺れるさまは言うに尽くせぬ吸引力で左之助を惹きつける。夢から帰ってきた直後の剣心を思い出す。
「左之」
呼んで、剣心は左之助に微笑みかけた。とけて風になりそうな笑みだった。
「そうだったな。すまぬ、左之。では改めて頼もう。拙者の相棒になってくれぬか」
「イヤだっつったら?」
「……左之は拙者と一緒にいるのが嫌か?」
「もしだよ、もし!」
「嫌でござるよ」
「は?」
「そんなのは嫌でござる」
そしてまるで淑女に求愛する紳士のように左之助の手を取って、剣心は左之助をまっすぐ見つめた。
「拙者は左之に相棒になってほしいのでござる」
「……お前がそこまで言うなら、なってやってもいい」
「そうか。よかった。というわけだから署長殿、そういうことで、評議会への報告はよしなに」
「わかりました。お任せください」
剣心が左之助を連れて去った後の室内では、浦村が恵に訊いていた。
「ところで高荷さん。つかぬことを伺いますが、あれは、えーとそのう、どっちですかな」
「どっち? どっちって、何がです?」
「緋村さんがです」
「剣さんが?」
「はい。つまりあれはなんですか、骨抜きなのですかな。それとも手玉にとっておられるのですかな」
「ご覧の通りだと思いますけど?」
「ふむ」
「ま、いいんじゃないですか? あれはあれで」
「ま、そうでしょうな。いいんでしょうな、あれはあれで」
「ええ、あれはあれで」
浦村がふうと息を吐いて、窓の向こうに空を見上げた。
「あの緋村さんが」
やれやれ、わからぬものだ、とでも言いたげに首を振る。
見ると、ちょうど剣心と左之助が通用門から外に出ようとしているところだった。門をくぐる二人の手はしっかりとつながれていた。
「牛乳ねえ。言ってたわねえ」
恵が懐かしそうに目を細めた。
「あれ? でも考えてみたらさ」
と、弥彦。何やら気づいた顔で首をかしげている。
「さんた屋的には、あんまりでかくなってもよくないのか? もしかして」
「おろ?」
「へえ、よく気づいたな」
と首肯したのは、しっかりでかくなった左之助である。その左之助の上背を弥彦が見上げる。
「お前は潜る方だしな。あんまでかいと相方も大変だろうよ」
言われて思った。大きな体は家屋潜入には不向きかもしれないが、守り役には適していそうだ。初めて出会った夜、剣心を連れて脱出してきた左之助の姿を弥彦はよく覚えている。意識のない剣心を米俵のように担いで軽々と屋根を跳んだ。あれが逆なら大変だったろう。
そんなことを思っているうちに、弥彦の頭にふと浮かんだ考えがあった。弥彦は何気なくそれを口にした。まさかそれが重大な秘密に触れるとは夢にも思っていなかった。
「左之助はそれで見守り役に路線変更したのか?」
大人三人が沈黙する。
その沈黙に何か普段とちがうものを感じて、弥彦は戸惑った。
「だって左之助も潜れるんだろ? ちがうのか?」
「俺が?」
「最初の時、剣心を助けにいった時。次の日、言ってなかったか? その子どもの夢から帰ってこれなくなってた剣心をお前が連れ戻しに行ったって。それって、連れ戻しに夢に潜ったってことだろ? ちがうのか?」
左之助は肩をすくめて、「油断ならねえガキだな、お前は」と呟いた。そして認めた。
「その通りだ。俺も潜れなくはない。ただ、向いてねえ」
「向いてない?」
「おう。向いてない。俺ぁ潜るのは性に合わねえ。だから潜らねえ。よっぽどのことがなけりゃな」
潜り手は不足していると浦村も藤田も言っていた。なのに、「性に合わないから潜らない」? それでいいのか?
だが剣心も恵も当たり前のようにしている。そういうものなのだろうか。
「弥彦。お前は今が育ち盛りだ。じきに体は育つ。もう少ししたら潜る稽古も始められよう。あせらず修行に励むでござるよ」
剣心に言われて、弥彦は条件反射的にうなずいた。
二月。春はまだ遠い。
おしまい
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恋はハリケーン<2> 2011/09/07up
初出 『星降る夜も聖なる夜も 明治さんた屋浪漫譚』(2) 2010/03/21