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  御洗濯 (うけたまわ)(そうろう)――。
 そう書かれた木札が、どぶ板長屋の軒に揺れている。
 玄関先では、剣心、左之助、恵の三人が井戸端会議中だ。そこへ、使いに出ていた弥彦が帰ってきた。
 そして、恵の顔を発見すると、「あっ、いいところに」という顔をして、勢い込んだ。
「なあなあ! 牛乳って、飲んだら背が伸びるってほんとか!?」
 どこで聞き込んできたのか知らぬが、まるで秘密の財宝のことを話す口振りである。
 三人は、そろってぽかんとした後、三者三様の反応をした。
 恵は剣心と顔を見合わせ、左之助を一瞥すると、可笑しそうに声を上げた。
 剣心は恵と顔を見合わせ、左之助を見上げて頬をほころばせた。
 左之助は口をへの字に結んで弥彦を見おろし、やれやれ、というように苦笑した。
「なっ、なんだよ」
 少年の当惑に代表して答えたのは恵である。
「何ってことはないんだけどね。昔、誰かさんも同じようなこと言って牛乳牛乳って騒いだなーって思って」
「え?」
「ねえ」
 と、恵が思わせぶりに左之助をすくい見る。
「騒いでねえっつの」
 剣心は何もいわずにニコニコしている。
 左之助は弥彦を見つめ、神妙な面持ちでうなずいた。
「なあ、そうだよなあ。すげえ!って思うよな。俺も昔はでかくなりてえ、でかくなりてえって思ってたから、よっくわかるぜ」
「え? 左之助が?」
「おうよ。十五、六あたりまでは、人より随分と小さかったからな」
 すらりと背の高い今の姿しか知らない弥彦には意外な話である。
「まじかよ。どうやってそんなにでかくなったんだ?」
「なあに、お前だって真面目に二、三年も修行してりゃあ、ぐぐうっとでかくならあな」
 左之助はそう言って、弥彦の頭をがしがしとかき混ぜた。



「なあなあ、剣心。ぎうにう・・・・飲むと背が伸びるんだってよ! お前、知ってた?」
「おろ。牛乳? どうした左之。すごい剣幕でござるな」
 剣心はそしらぬ風に首をかしげた。左之助がこんな風にそわそわした様子で何かを言ってくるときは、きまって何か頼みごとや欲しいものがあるときだ。生来の負けず嫌いに生い立ちが育てた意地っ張りで、それを素直にねだれない性分なのだということを剣心はよく知っている。火事で焼け出された左之助を、うちに来ないか、一緒に暮らそうと誘った時もそうだった。どうしても来てほしいって言うなら、行ってもいい。口でそう言いながら、左之助の小さな手は剣心の手をしっかりと握って離さなかった。
「いや、だってさ、さっきちょっとそこで聞いてさ。すげえと思うだろ? 剣心だって背が高くなりてえだろ?」
「おろ? いや、拙者は別に」
「えっ、なんで!?」
「なぜとは?」
「もっと背が高かったらって思わねえか?」
「思わぬ」
「なんで?」
「小さい方が便利なことも多いのでござるよ」
 男なら誰だって大きくて強い男に憧れると思っていた左之助には意外すぎる反応である。ぽかんとしていると、剣心はふわりと笑って言った。
「左之。いつも言っておろう。お主は手足も大きいし、骨格がしっかりしている。きちんと食べて鍛えるでござる。さすれば、じきに体も育とう」
「あ、ああ……」
「だが、そうだな。牛乳か。よいかもしれぬ」
「え?」
「天然痘も流行っている。精のつく牛乳はよいかもしれぬ」
 この年、東京では、七月頃から天然痘が流行していた。幸い剣心らの住むこのあたりではまだ話を聞かないが、用心に越したことはない。かけそば一杯が八厘の時代に、一合四銭の牛乳は無論高級品である。こんな長屋には量り売りも回ってこないが、
「恵殿に相談してみよう」
 のちに相談した女医には「剣さんがそんなに盲愛体質だったなんて」と少なからず呆れられたのだが、その顛末(てんまつ)を左之助は知らない。

 そう、さんた屋修行は、体の鍛練から始まる。そんな日々の稽古に加えて、剣心の心尽くしの食事の甲斐もあってか、最近の左之助は日に日に体つきがよくなっているのが、剣心の目には明らかだった。元が痩躯だからどうがんばっても太りはしないが、きちんと筋肉がついてきた。十四という育ち盛りの年頃に合ったことも大きかったろう。自分の体のことだけに本人は自覚していないようだが、半年前とは見違えるようなのだ。それに、そうして体躯が育つにつれて、性格も落ち着いてきた。
 喧嘩っ早くて生意気で自信満々なのは変わらないが、前ほど意固地ではなくなった。出会った頃の左之助は、負けを認めたがらず、謝ることを知らなかった。最近はそうでもない。もっともこれは剣心にこてんぱんにやられた感化もきっとある。
 いずれせよ、よい変化だと剣心は思う。
 十四歳。
 まだ子どものうちに出会えてよかった。
 野良犬のような目をしていた。あんな荒んだ生活をもう三年も続けていたら、歪みは決定的なものになってしまっていたかもしれない。
 すべての人に手をさしのべることは不可能でも、せめて目の前の理不尽から目を逸らさず、縁あって出会う人にはできるだけのことをしたいと思って、流浪人(るろうに)になった。さんた屋になったのも同じ思いからだ。
 そして、そうは言っても剣心も人間。共感できる人にも出会えば、どうしてもそう思えない人もあった。
 強く心惹かれる相手に出会うこともある。
 どうしてそうも惹かれるのかわからない。けれど今、どこからともなく湧いてくる狂おしいまでの思いが剣心を衝き動かしている。何かせずにはいられない。

「左之。そろそろ一度、子どもの夢に潜ってみるか」
 左之助が初めて「夢に潜る」修行をしてからひと月が経っていた。このひと月、左之助は剣心のつきそいをしていた。その間、剣心らは、彼の初仕事に適当な対象者を物色していた。
 さんた屋は常に二人一組で仕事をする。潜る剣心のそばには必ず見守り役がついていなければならないのだが、これまでその役目を勤めていた男が一年前に仕事の都合で東京を離れて以来、剣心には決まった相方がいないままになっている。左之助が臨時の見守り役として同行できる程度には成長すると、剣心は夜の仕事に彼を連れて行くようになっていた。
「おう、やるやる!」
 自分の出番を心待ちにしていた左之助が、勇み足になったのは言うまでもない。

 今回の対象者は、高荷診療所の入院患者である。
 伊豆の富豪、塚山家の御曹司で、名は由太郎。剣術の稽古中に怪我をしてしばらく地元医の治療を受けていたが経緯がはかばかしくなく、どうしたものかと言っていたところへ、西洋医学に通じた高荷診療所で欧式の外科治療が受けられると人づてに聞いて、わざわざ伊豆から治療を受けにやってきた。三日前から入院している。昨日手術をして、術後が安定するまで入院させることになっている。
「うちはご家族の付き添いは基本お断りしてるから、途中で邪魔が入る心配もないし、いいんじゃないかしら」
「それは願ってもない」
 さんた屋仲間の一人である恵の病院なら人目を忍んで侵入せずに済むのもありがたい。
「夢が届いて、あの後ろ向きな困ったちゃんがちょっとは変わってくれれば、私たちも助かるわ」
 わがままに育った金持ちの一人息子で、なかなか扱いづらい。しかも、元々ひねくれた性分だったのが、怪我のせいか後ろ向きな物言いが増えたと家族も心配していた。

 畳に上敷、寝台という折衷様式の病室である。
 寝台では由太郎が眠っている。
 そこまで案内して、恵は去った。
 左之助と剣心の二人だけが残される。
 突如、不安が左之助を襲った。
 何への不安か。柄にもない。
 そう思って、寝台で眠る少年を見る。
 左之助が知っているのは、名前と年齢、腕にひどい怪我を負って治療に来ているということだけである。
 家庭の事情等を知らせていないのは、独りで貧しさと戦って生きてきた左之助が由太郎の生い立ちに反発することを危惧しての、剣心の配慮だった。
 ポンと肩に手が置かれて、左之助は横に立つ剣心を見上げた。
 大丈夫でござるよ。
 うなずきかける顔は穏やかだが力強い。
 左之助もうなずき返して、由太郎の顔に目を据えた。

 左之助の初仕事は、一見、初めてとは思えないほどすんなり終わったかに思われた。
 意識を集中した左之助は、すぐに由太郎に潜ることができた。そして時計の長針が四分の一ほど動いたところで戻ってきた。心配された感応症状がなかったことに剣心はとりわけ安堵した。
 子どものさんたくろーす・・・・・・・は感受性が繊細なため対象者の夢に引っ張られやすい。左之助は初稽古の後ずいぶん泣いた。毎回あんな風になるなら可哀想なことだと憂慮していたのだ。



 問題が発覚したのはその後だった。
 無人の診療室に戻り、恵を交えて三人で少し話していたとき、左之助が言った。
「剣心。さんたってよ、潜った夢のことは忘れるって言ってたよな?」
「ああ」
「でも俺、割と覚えてるぜ? これって、おかしいのか?」

 さんたくろーす・・・・・・・が夢の記憶を持ち帰れないのは、当人の心の中にしかないはずのビジョンが他に漏れることで、何らか歴史に作用が生じるようなことが断じてないようにという歴史の自己防衛作用だと、世界サンタクロース評議会は説明している。
 夢に潜る練習をする前、剣心は左之助に教えてくれた。さんたくろーすとは何者か。夢に潜るとはどういうことか。夢を届けるとは何をすることか。子どもにとって、さんたくろーすが何であるか。
「そんな話は聞いたことがない」
 だが左之助は克明に記憶していた。見たもの、聞いたこと、あったこと。会話の一言一句まで。
 夢を忘れないさんたくろーす。そんなことはあってはならない。いてはならない。それは禁忌だ。
 剣心は、左之助がそれまで見たこともないほど深刻な顔をして、左之助の頭をぎゅっと抱きしめた。



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恋はハリケーン<1> 2011/09/07up
初出 『星降る夜も聖なる夜も 明治さんた屋浪漫譚』(2) 2010/03/21


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