1/2/3


 しんしんと冷える一月の夜だった。
 静まりかえったどぶ板長屋の一室で、剣心と左之助は黙って酒を酌み交わしていた。

 弥彦はもう寝ている。
 松の内も明けるか明けないかだというのに、今日は早朝から大忙しだった。十歳の弥彦が夕食を終えると早々に寝入ってしまったのも無理はない。

 うまそうに酒をすする左之助が、ふと思い出したように言った。
「おめえ、最近、あれは持たねえのかよ」
「あれ?」
 左之助は盃ごしに剣心に視線を当てた。
「ああ。あれだ。前はどこ行く時も肌身はなさず持ってたってえのに」
 思い当たる節があるのか、剣心は重ねて問うかわりに、黙ってうつむいた。
「手放したわけじゃねえんだろ?」
 しんみりと投げられた問いに、今度は浅くうなずく。

 あれ――無論、逆刃刀のことである。
 夏に左之助が家出をする前、それは常に剣心の傍らにあった。帰ってきて、そうでなくなっていることに左之助は驚いた。
 だが、あの刀は抜刀斎だった過去ときっと密接にかかわっている。今日まで訊けないままでいた。
「もう、いいのだ」
 同じくほろ酔いの気安さからか、剣心の口調はいつになくぞんざいだった。
「もうそんな時代ではないのだ。きっと」
 剣心がそっと目を伏せ、左之助もつられるように目を閉じる。

 あの頃、左之助は十四歳。発育の遅い子どもだった左之助は、当時よく十一、二に見られて憤慨していた。今から思えば十四も十二も一緒のこと。今年十一歳になる今の弥彦とも大差ない。だが、自分ではもういっぱしの大人のつもりで、いきがっていた。
 そう、あれもちょうどこんなしんしんと冷える冬の夜の出来事だった――。



「火消しはまだ来ねえのか!」
「それがだめなんだ。みんな出払ってるらしい」
「なんだと!?」
「なんでも今日はあっちでもこっちでも火が出て、手が回らねえって」
「くそっ」
 今夜は風が強い。まして長屋の建て込んだ密集地だ。早くなんとかせねば、あっという間に火は広がる。
 大人連中が怒鳴り合う中、十四になったばかりの左之助は、なすすべもなく燃えさかる炎を見上げていた。
 破落戸(ごろつき)長屋が燃えている。火は生き物のように夜空を舐め、次へ次へと触手を伸ばしていく。
「ナツ! ナツ! ナツ!!」
 左之助と同じ破落戸長屋の住人のハルが、四歳になる娘の名を泣き叫んでいた。
「おい、ハルさん。なっちゃんはまだ中にいるのか!」
「左之坊。どうしよう、左之坊、ナツが……ナツが! 奥で寝てたんだよ。逃げようと思ったときにはもう煙がいっぱいで……。ナツ! ナツ!!」
 ナツのはにかんだ笑顔がよぎる。人見知りの無口な子だが、なぜか左之助にはよくなつき、とてとてと後ろをついて回って、将来は夫婦かと周囲に冷やかされたりもしていた。
「奥の部屋だなっ」
「左、左之坊!? ちょいと、あんた、まさか、無理だよ」
 頭から水をかぶった左之助の腕をハルが引く。
「馬鹿はおよし! あんたが行ってどうなるってんだ。あんたまで死んじまうだけだ。もういい、もういいんだよ……」
 腕を引く手が、助けてくれとすがっているように感じた。振り払って、走り出す。
「誰か、誰か! 左之坊を止めとくれ……!!」
「左之助!」
「坊主、やめろ! 無茶だ!」
 背後で大人たちが止めるのもきかず、炎に向かっていく。ものすごい熱だ。まだ距離があるのに、すでに顔は炙られるようだ。風が強い。
「くっ」
 舞い上がる火の粉から腕で顔をかばう。その時、左之助の視界の端を何かがかすめた。一陣の風。そして怒号。
「下がってろ!!」
 肩に強烈な衝撃をくらい、体が吹っ飛ぶ。
「うわっ……!!」
 何が起きたか理解する前に、大人たちに取り押さえられてしまった。
「おい、つかまえろ」
「左之坊!」
(あっ)
 目が吸い寄せられた先に、火中に飛び込む背中がある。
 あいつだ。
 あの男が追い抜きざまに俺を吹っ飛ばしていったのだ。
 あの風。それに鞭打つような厳しい声。下がってろ、と叩きつけた。
 時ならぬ興奮が駆け抜ける。
(間違いねえ。剣心だ)

 左之助が彼を初めて見たのは、町外れの人通りだった。
 小柄な体躯にもかかわらず、制服をかさにきた官憲が町娘に絡んでいるのを小気味良い啖呵とともにいともたやすく叩きのめし、飄々と去っていった。まさに赤子の手をひねる鮮やかな戦いぶりに、一目で惚れた。
 そこにいた事情通をつかまえ、どぶ板長屋に住む洗濯屋だと聞き出した。帯剣しているからてっきりその筋の男か活動家だと思った左之助には、意外な話だった。
「おい、あんた。あんた強えな。俺と喧嘩しろよ」
 その足でどぶ板長屋を訪ねて求愛したが、まるで相手にもされず、笑われた。
 そして日参する左之助を、その男、緋村剣心は、柳に風と受け流し続けた。
「なあなあ、しようぜ、喧嘩」
「せぬよ、そんなもの」
「いいじゃねえか、ちょっとした遊びだぜ?」
「喧嘩など、遊びにならん」
「なるって。俺がしてやるよ」
 手を止めて目を上げたから脈ありと思ったら、まったく逆だった。
「主、その馬鹿馬鹿しいまでの自信はどこからくる?」
 呆れ顔の微苦笑はともかく,左之助を見るその目があきらかに子どもを見るようだったのはおもしろくなかった。
「子ども扱いすんな。こう見えてももう十五だ」
「十五?」
 大きな目が瞬かれると、不思議な群青色の目は海のようにゆらめいて見える。じっと見つめられて、左之助は柄にもなくどぎまぎした。
「……ら、来年でな」
「ははは」
 剣心が破顔する。左之助は黙る。
 剣心の言いたいことはわかっている。
 体が小さいせいで実年齢より下に見られるのはいつものことだ。
 十四? まさか。いって十一、二だろう。とても十四には見えない。
 十五が四になっても意外なことに変わりはないはずだ。
 だが剣心は眩しいように目を細めて言った。
「なに、育ち盛りだ。これからぐんぐん伸びよう。主は手足も大きいゆえ、きっと人より大きくなる」
「………」
「左之助」
「なんだよ」 
「喧嘩は御免だが、食事なら歓迎でござるよ」
「………」
「腹が減ったら、いつでもおいで」
 結構考えてから、左之助は「おう」と顎を上げた。
「おう。来てやらあ」
 十一、二にしか見えない子どもが肩をそびやかし口をへの字に結んで一丁前の男を気取っている姿はなんともこまっしゃくれて見えて剣心の頬を緩ませるのだが、本人はいたって真剣だから、そんなこととは思いもしない。ただ、何やら妙にそわそわする慣れない感情がくすぐったくて持て余している。
「たんとこしらえて待ってるよ」
 当初の予定とは違うが、まあいい。これでいつでも剣心に会いに来れるし、おまけに食べ物にまでありつける。
 早速明日にも押しかけようと思っていた、その矢先の火事だった。

 剣心は見事ナツを救出してのけた。
 安普請の長屋がごうごうと音を立てて崩れ落ち、誰もがああやはり駄目だったかと諦めかけたその時、立ちこめる煙の中から、彼は出てきた。
 全身煤だらけで髪はほどけ、ボロボロになっていた。右手に抜き身の刀を下げ、左肩にナツを担いでいた。
「ナツ!!」
 ハルが駆け寄る。近所の連中も駆け寄る。
 ハルは剣心を拝み倒さんばかりだ。
 それはそうだろう。誰もが手遅れだと思った。誰もが無理だと思った。なのにあの男は燃えさかる炎に飛び込み、無事に生還してきた。
 走りながらちょうど行く手をふさぐ柱や壁を切り崩して道を開いたのだと、後で本人から聞きはしたが、その時は本当に彼は不死身なのかと思った。
 よくよく見れば、ニコニコと笑う煤だらけの顔は無傷でも、髪は焼け焦げ、剥き出しの左腕には火傷を負ってもいたのだが。

 左之助はねぐらを失った。
「左之助。主、行くあてはあるのか」
 あるわけがない。破落戸長屋とて、知り合いの厚意で土間を借りていたにすぎない。その焼け跡を黙って睨む。口を開けば何かがこぼれそうだ。
 剣心が左之助の頭をやさしく叩いた。
「左之助。うちに来ないか」
「………」
「な」
「……どうしてもってんなら、行ってやってもいい」
 剣心の笑う気配がした。
「左之、拙者と一緒に暮らそう。うちに来てほしいでござるよ」
 煤まみれの手が、煤にまみれてもなお白いあたたかい手が、左之助の手を取る。そっと握ってくる手を、ほんの少しだけ握り返した。
「そこまで言うなら、行ってやる」
 そして冬の夜道を二人で帰った。
 ずっと着かなければいいのに、と思いながら、やわらかな手のぬくもりに左手を預けていた。



 しばらくは平穏な日々が続いた。
 事態が変わったのは、それからひと月ほど経ち、春もほど近くなったある日のことだった。
「こんにちは」
 その女医は前にも会ったことがあった。
 あの火事の翌朝、薬箱を手にとんできて、無茶はならぬ身を厭えと恐ろしい剣幕で訴えながら剣心の火傷を手当てし、ついでに左之助の怪我も診てくれた美人の医師だった。いかにも「ついで」というのがまったくあからさまで、いっそおもしろいと思ったのを覚えている。
「剣心は留守だぜ。残念だったな」
「生意気。いいの。今日はあんたに話があるんだから」
「俺に? 剣心の好物でも聞き出そうってのか?……いでっ」
 ぺしっと頭をはたかれた。かなりの力だ。
「おまっ……本気で叩くか!」
「あんたが叩かれるようなこと言うからでしょ」
 黙って立ってりゃ美人なのに、と左之助は口を尖らせた。
「いいからほら、ちょっと座んなさい。折り入って話があるの」
「いいけどよ。で? 何が折れて入るって?」
 つまらぬへらず口に女医のしっぺがとんで来たのは言うまでもない。
 そしてその女医、高荷恵は、奇想天外な「さんたくろーす」なる者どもの話を左之助に聞かせ始めたのだった。

「で? 俺が? そのさんた屋ってのに?」
「そ。資質があるみたいなの。やってみない?」
 と言われても、どうがんばってもそれは左之助の理解の範疇を超えていた。
 世界サンタクロース評議会? 夢に潜る?
 まったくぴんとこない。こないが――。
「いいぜ。やるやる」
「えっ?」
「だからやってもいいって。そのさんた屋ってやつ」
「え、そうなの?」
「んだよ。お前がやれっつったんだろ。誘っといてプイかよ」
「そ、そういうわけじゃないけど……。だっていいの? ちゃんとわかったの?」
「んーにゃ、わかんね」
「はい?」
「わかんねえけど、別にわかる必要もねえだろ。夜中に人んちにもぐり込むってのはおもしろそうだしな」
「………」
 恵は思い切り不安そうな顔をしている。
 こんなのに声をかけたのは失敗だったかと危ぶんでいるに違いない。だが何と思われてもかまうものか。
 剣心と一緒にいられる。一緒に仕事ができる。剣心に必要な存在になれる。
「ただし、ひとつだけ条件がある」
「条件?」
「その前に、剣心と喧嘩させろ」

次頁
左之助と逆刃刀<1> 2011/03/26up
初出 『星降る夜も聖なる夜も 明治さんた屋浪漫譚』(2) 2010/03/21


全体目次小説目次さんた屋目次
Copyright©「屋根裏行李」ようこ All rights reserved.