月虹 1-2-3


 完全に激昂した左之助と上機嫌な剣心の勝負はさらに幾度も回を重ね、ことごとく剣心が勝ちをおさめた。
 勝負がつく毎に、子どもは騒ぎ、剣心は笑い、左之助は、あるいは悔しがり、あるいは怒った。
 だが何度目かに彼は、負けたくないと思うのと同じくらい強く、剣心が勝つ瞬間を待っている自分に気づいた。
 負けてもいいわけではない。たとえ遊びでも負けるのは我慢ならない。だが、剣心が勝ったときに一瞬だけ見せるあの小癪な顔を、ほんのつかのま閃いて消える無防備な地顔を、もう一度見たいと思ってしまうのだ。
 いい独楽だ。
 そう呟いたときに貝が受けた儚い懐かしみには遠くても。肚に湧き上がる熱の正体が何であるかは判らなくても。
 もっぺん、もっぺん、と、頑是なくねだり続ける左之助に剣心が匙を投げたのは、九戦九敗を喫した左之助が、またも「もっぺん!」と叫んだときだった。
「いい加減にせんか、お前は。まったく、子どもでもあるまいに」
 何度やっても同じ、今のお主では拙者には勝てぬよ、と、まるで先日の勝負の時のようなことを言われて、左之助は文字通り地団駄を踏んで暴れる。
「やれやれ。とんだ大きなお兄ちゃんだ。」
 肩をすくめた剣心が、何かを探す目つきであたりを見回した。
「ああ、いたいた。お主、マサ。マサ……?」
 さっき左之助に酒の配達を言いつけられた坊主頭だ。
「政次郎。みんなはマサジって。」
「ではセイジロウ。すまぬが少々それを貸してくれぬか。」
 それ、と、剣心の指が政次郎の腹を指した。
「え、前掛け? でもこれ店んだから……。」
「ああ、いや、すぐ返そう。今この場でいっとき借りるだけにござる。汚したりはせぬよ。」
 少年からくたびれた藍の前掛けを受け取ると、剣心はそれを腰に巻いてから、また貝に紐を巻き始めた。
 そして、何が始まるのかと見守る子どもと野次馬ににこやかに笑いかけ、
「はっ。」
 と、目の高さで貝を投げた。
 投げたその手で素早く前掛けの両裾を持ち、風呂敷のように広げたそこに、落ちてくる独楽を受け止める。そして受け止めた独楽を前掛けの上で、前後にあるいは左右に走らせ、さらに円を描いたり、端から端へと宙を飛ばしたりと、巧みに楽しそうに独楽を捌いて見せた。
 玄人裸足の手並みに観客から、へえ、わあ、すごい、と、歓声が沸く。
 左之助も呆けた顔で、鮮やかに独楽を操る剣心に見入っている。
 ひとしきり芸を披露したところで、跳ね上げた貝を剣心がパシッと手に収め、一拍置いて、ひときわ高い歓声と脱力したようなどよめきが起こった。
 前掛けを外した剣心は、独楽のバイ貝を持ち主に、前掛けを政次郎に、それぞれ返しながら、左之助を見て、心安く笑った。
「俺に勝とうなど百年早いさ。このくらいできるようになってから出直せ、左之。」
「……て、てめえは大道芸人にでもなりゃあがれ。」
 不貞腐れた目尻をかすかに赤らめ、左之助が口を尖らせた。
 そして不機嫌丸出しの視線を政次郎に向け、ぬっと手を突き出した。
「寄こせ。」
「え?」
「寄こせってんだ。」
「あっ。」
 慌てる政次郎の手から藍染めのなれた前掛けを引っ手繰った。
「てやんでえ。樽で回るもんがなんで回らねえもんかよ。おうおう! てめえら何見てやがる!」
 むくれた顔で呟き、ふと心づいて周囲に当たった。
 浅黒い頬の赤らみは負けた気まずさゆえか。それを怒りに紛らして散らしている様は、むずかる幼児の駄々にも似て、剣心などの目にこそむしろ微笑ましくさえ映ったが、他の人々にはとてもそうは見えない。“元”とはいえ喧嘩屋斬左の逆鱗を懼れて、通りすがりの見物と子ども達はみるみる散った。後に残ったのは、二人の他には、左之助の弟分達と、前掛けを取り返さねば帰るに帰れない政治郎ばかりである。
 あたりは唐突なほど静かになった。
 剣心は、睨みつけてくる左之助の勁い眼光を、不見と同じほどの軽さで流して、路上に置いてあった鯛の桶を取った。左之助の目がつられるように剣心の手先に移って、そしてついと逸らされた。
「やれやれ。とんだ道草をしてしまった。」
 目を逸らしたままの左之助の手から前掛けを取り上げて返してやると、政治郎が見るからにホッとした顔を見せた。そして感謝と尊敬の目で剣心を見上げ、「後でいいの持っていきます」と、頭を下げて駆け去った。
 初々しい後ろ姿をしばらく見守ってから、
「さて。拙者も帰るとしよう。」
 独り言のように呟いた。
 だが左之助はむっつりと黙り込み、不機嫌そうな皺を眉間に刻んで、道行く人を無差別に睨みつけて脅かしている。
 剣心に前掛けを奪取されたときも、奪われるままに手放した。そっぽを向いたまま、手のものを取り上げられて眉も動かさないのがかえって意地づくで、その様子に、さっきまでののびやかさとは異質な、どこか複雑な屈折したものが感じられた。
 からかいすぎたか、と思いつつ、剣心は澄ました顔で指を折った。
「ひい、ふう、みい、よう………はて、今日の飯は五人前ほどで足りようか。」
 女子どもとの三人暮らしの神谷家のまかないで、余分の二人分がだれの口かは言うまでもない。回りくどくも無骨な歩み寄りに、相手の気配が変わる。
 意固地に横を向いたままなのは変わらないが、だが何かが確かに変わって、そして深い闇色のまなざしが剣心を一瞥した。
―――判らん男だ。
 性格の歪み。
 やり合った翌日再会したとき、左之助はそう言った。
 喧嘩屋はやめた。もう“斬左”ではない。だが十九にもなれば性格の歪みは直らない。お前の言ったことが本当かどうか見極めてやる。
 おもむろに歩を運んですぐ目の前に立つと、さすがに左之助の視線が剣心に向けられた。頭上よりも高いところから、なお屈託をためた顔が見下ろしている。
―――だが。
 と、剣心は考える。
 本当に根が歪んでいるとそんな風には考えられぬのだよ。お前には判るまいが。
 単純なようでつかみどころがなく、冷めた眸をする割に、子犬のように人懐こい。大人びているかと見直せば、たかがべいごまで躍起になるし、和んだと思ったら、拗ねている。それが歪んだ根に育つものではないのは知っているが。
―――やれまあ、難儀な。
 と溜め息を吐きつつ、しかし決して不快ではない、むしろ陽射しに水のぬるむような見慣れぬ気配を、自分の中に垣間見た。
「左之。お主、ホヤは食うか。」
「?」
 剣心の指が鯛の尻尾を持ち上げ、その下にある塩辛の入った枡を見せた。
 桶の肴から左之助に戻った視線が、柔らかい風のように左之助を撫でる。
「上物らしい。ゆっくりやろう。」
 言う指先が猪口を傾ける仕草をしていた。
 後でな、と、返事を待たずに見せた背中を、
「おう。」
 すごむような返事が追う。
 軽く指を上げて応えた剣心が、そのまま行きかけて、ふと足を止めた。
「左之。」
「………なんでえ。」
「政次郎に酒代払えよ。」
「………。」
 いたずらっぽい含み笑いの横顔を残して、剣心は飄々と歩き去る。
 その小さな後姿が角を曲がるのを見届けてから、左之助もきびすを返した。
「てやんでえ。」
―――さの。
 耳の残る声を振り払うように身を振るう。
 左之。名前が左之助だから左之。自然な呼び名のはずだ。
 左之助、左之さん、左の字、自分では捨てたつもりの斬左の名前に、何を血迷ったか左之坊とやら呼ぶ輩もいれば、左之と呼ぶ者も、無論、ある。
 好きに呼ばせて、頓着はなかった。
 それがどうしてこうもむずがゆいのか。
 二つの音が彼の舌の上で丸めて転がされ、歯と舌の間をすべり出て来る、その微かな擦過音が、どうしてこうも肺腑をくすぐるのか。
 皆にマサジと親称される少年をあえて政治郎ときっぱり呼び捨てる男が、勝手に名前を呼び縮めたからといって。思いがけず楽しそうな、鮮やかな、そして柔らかな表情を見せたからといって。
「てやんでえ。だからなんだってんだ。」
 袖に両手を突っ込み、肩をそびやかして、自分にうそぶいた。
 背後からおっかなびっくりの弟分二人が遠慮がちに声をかけてくる。
 取り合わず、剣心とは逆の方向に歩き出す。



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 げっこう【月虹】
  夜、月の光によって生じる虹。
  光が弱いため、白色または極めて淡い色に見える。
  ごく稀に現れる。
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了/2005.12.08
参加イベント/エプロン祭/新窓
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